浦和ハナコは言付ける   作:浅笠紗々

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Ⅺ/vs『鳴動』

「――――」

 

 なんとなく、分が悪いな。ワカモは思った。

 

 彼女――フィフスとか言ったか。身体能力だけで言えばそれほどの相手ではない。何せワカモは七囚人の一人、災厄の狐――この程度であれば御し切れぬ道理はない。

 

 単純にフィジカルなレベルの話には限らない。射撃の腕や速度、いわゆる技術においてもワカモの方が上を行っている。基本スペックでは一切負けていないだろう。

 

 遮蔽物に隠れながらお互いに牽制を続けてはいる。しかし、彼女はかなり隙が多いようで――少しずつではあるが、弾丸も当てられている。とはいえ、キヴォトスにおいて一発の重要性は限りなく低い。

 

 しかも彼女の持つ『人災』――『鳴動』。これが非常に厄介だ。

 

 ボルトアクションをこなし、排莢。薬莢が地面に落ちる前に、すぐさまワカモは引き金を引いた。

 

 ぱぁん、と音がして発砲。弾丸は瞬く間にフィフスの元へ届く。幾らヘイローがあると言えど――弾丸を躱せるほどの『神秘』はない。フィフスはそのまま体で弾丸を受け、大きくのけぞった。

 

「……ぃ、ったいな……」

 

 しかし、ぐぐ、と体勢を元に戻す。被弾した肩からは軽い裂傷が起こっているのか、ゆっくりと血液が流れ始める。

 

 既にフィフスの体はボロボロだ。何発も弾丸を撃ち込んでいる。体中は真っ赤に染まって、衣服もところどころが破れて素肌が露出している。

 

 ――それでも、彼女は倒れない。

 

「……っ」

 

 ダメージがないわけではないだろう。彼女は硬いわけではない。柔らかい(、、、、)のだ。どれだけの弾丸を受けようとも必ず立ち上がり、射撃を行ってくる。

 

 ワカモの弾丸がほとんど当たっているのに対し、フィフスはそのほとんどを外してしまっていた。僅かに被弾したとしても――サブマシンガンの一発はワカモにとって、大した威力にならない。

 

 だが――マズイのは、そろそろこちらの弾薬が切れる、というところだ。

 

 急いでいたということもあってか、あまり多くの弾薬を持ってこられなかった。そもそも弾薬はかなり重いし、嵩張る。ライフル弾だけあって、一発一発が重いのだ。それでも、アサルトライフルでなかっただけマシとは思えるが――。

 

「――」

 

 何より考えなくてはならないのは、こちらの体力が限界という点か。

 

 何せ、ワカモは――先生がハナコの家に隠れたあの日から、ほとんど睡眠をとっていないのだ。

 

 休息は兵士にとって重要なポイントだ。戦争中、最も重要だったのが食糧問題であったように、それを怠ってはまともに戦うことなど出来やしない。

 

 とはいえ、後悔は微塵もなかった。先生に信用され、身辺警護を頼まれた。近寄るドローンは全て撃ち落とし、近づく市民には常に警戒を払っていた。それからミカと戦って――先生と合流し、ゲヘナに来た。その間ほとんど、ワカモに休息と呼べる時間はなかった。

 

 あの時、ヒナに食事を用意してもらえなければ、もっと前の段階で倒れてしまっていただろう。飲まず食わずだったわけではないが、まるで休憩が足りていない。

 

 マイナスからのスタート。それが現在のワカモだ。

 

「……っ」

 

 弾倉に残った六発を撃ち切れば――それで弾丸は消えてしまう。ただでさえ耐久力のある相手、これで仕留められるとは到底思えない。

 

 しかし、彼女をここに釘付けに出来ればそれで良かった。最も危ないのは、彼女がワカモを御した後、先生を追いかけることにあった。

 

 腐ってもゲマトリア――ベアトリーチェが、向かってくる先生に障害を用意しないはずがないのだ。ならば、それとの交戦中に背後からフィフスが向かい、挟み撃ちになってしまうこと。これが最も恐ろしい。

 

 だからこそ、ワカモは彼女を食い止めなくてはならない。ここでフィフスを釘付けにし、なんとか時間稼ぎを――。

 

「――――ハ、笑えます」

 

 そこまで考えて、今の自分を鼻で笑った。

 

 何が時間稼ぎか。精神的に不安定にもなっている。そんなときだから、つい弱音を吐いてしまったのだろう。

 

 ――彼の信じる狐坂ワカモは、そんなことは言わない。

 

 ここで奴を倒す。それくらい言ってのけなくては嘘だ。

 

 ワカモは再びスコープを覗く。勿論片目は閉じない。一瞬障害物から出て、敵に向かって引き金を引く――!

 

「――――っ!」

 

 直撃。脳天にぶち当たった。これで気絶してくれれば良いが――。

 

「――いてぇな、姉さん。狙撃精度はキヴォトス一かァ?」

 

「お褒めに頂き光栄ですわっ!」

 

 続けて発砲。既に排莢は済んでいる。こんな時では、昔ながらのボルトアクションすらもがうざったい。

 

「いたっ! いたぁっ!」

 

 大きくのけぞる。しかし、当然のように踏ん張って――体勢を戻す。

 

「そろそろアタシの手番、どう!?」

 

「一度も来ませんよ、そんなもの!」

 

 とうとう我慢ならなくなったのか、障害物を乗り越えフィフスが接近を試みる。広くはない通路。障害物になるモノが幾つか落ちていても、それを乗り越えて向かってきている。

 

 塀の角から身を乗り出していたワカモは、一瞬怯んで――しかし、冷静に排莢。そのまま射撃。

 

 引き金にかけた指を躊躇なくかけたその瞬間――何かが視界に入った。黒いまんまる。それが何なのか、一瞬理解できない。しかしそれはすぐに視界から外れて、ワカモの足元に落ちた。

 

(――落ちた!? 本当に!?)

 

 落ちたのであろう推測は出来た。しかし、肝心の落下音がなかった。だからどこに落ちたのか、どのような音がしたのか見当がつかない。

 

 引き金を引き、フィフスに弾丸を命中させる。次いで、塀に隠れるようにして周囲を見渡した。

 

 ――ある。何か落ちている。足元を転がっている。音もなく、まるで黒ずんだ果実のようなそれが。

 

(手榴弾――!?)

 

 ピンを抜く音さえ気付かなかった。いや、聞こえなくされていたのだろう。

 

 ――『鳴動』。おそらくその能力は、音や振動に関わる能力。先生を襲った時、彼女は音を聞こえないようにして周囲に隠したのだ。だから、実際に襲われた先生やハナコしか気付けなかった。

 

 その力を手榴弾にも使ったのだろう。ピンを抜く音も、投げる際の風切り音も、落下音も何一つ気付けなかった。おそらく塀ごとワカモの頭を越えるようにして投げたのだ。スコープを覗く一瞬、視界が狭まる隙を突いて――乗り越えるようにして投げてきた。

 

 音がなければ落下したことにも気付けない。もしかすると、目の錯覚かゴミが飛んでいたのかと思ってしまうだろう。

 

 対応の時間もなく、手榴弾が爆ぜた。ほぼ至近距離での爆発。回避行動はおろか防御行動さえとれない。

 

 爆音も聞こえなかった。ただ熱と圧力だけが、ワカモを襲う。

 

「……おお、見事に上手く行ったねぇ。撃ち落とされるかと思ってたけど、意外と視野狭いのかぁ、姉さん?」

 

 もくもくと土煙が登る。手榴弾の扱いにくいところは、キヴォトスにおいて被弾確認が難しいところだ。ただでさえ弾丸一発では死なない者が多いのだから、手榴弾で死ぬわけがない。当然ダメージはあるものの、それがどの程度かを見極めるのが難しい。

 

 だから、土煙が晴れるまでは遠距離から射撃するか、待つかしかないのだが――。

 

「――ぐ、ぅうっ!?」

 

 その粉塵を切り裂いて、中から弾丸が飛んできた。躱すことも出来ず、油断していた胸部に突き刺さる。覚悟していなかった痛みに、体が大きく揺れた。

 

「……ま、あの程度のトリックで終わってもらっちゃあ困るしねぇ……!」

 

「――トリック?」

 

 腕を横薙ぎに一閃。瞬く間に視界は晴れ――そこに、ワカモの姿が現れる。

 

 髪はぼろぼろで、整っていたはずの衣服も乱れている。爆ぜた破片に擦られたのだろう、端々は破れそこから血が滲んでいる。その美しい顔にも血は滴っており――口元にまで垂れてきている。

 

「今のは小細工というのです。貴方のそれは、私の恋に油を注いだに過ぎない」

 

「恋? ああアンタ、あの先生のことが好きなんだっけ? 残念だったなぁ、今頃死んでるかもしれねぇのに。そしたらマジで笑い話だよ、死人のために命まで賭けて――」

 

 彼女の言葉を断つように、ワカモは口に入った血を吐き捨てた。

 

 ぺしゃりとアスファルトが濡れる。

 

「――私はね、燃えるような人生を歩いています」

 

「……燃えるような、人生?」

 

「命短し恋せよ乙女。この生き方が刹那的で、もし死人に恋するようなモノだったとしても――この滲む血液一滴の後悔もない」

 

「ハ、そりゃあ間違ってるな姉さん。刹那的に生きるってのは同感だが――だからって早死にしてぇわけじゃねぇだろ。だって今、アタシは楽しいぜ。アンタほど硬いヤツは久しぶりだ――今が無限に続けばなって思うぜ」

 

「いえ、違います」

 

「はぁ?」

 

「――いずれ終わるから、いずれ燃え尽きるから――恋というのは高く爆ぜるのです」

 

 ワカモがそう言うと、周囲の熱がどんどんを上がっていく。アスファルトが融解し、空気が歪む。彼女の周囲が燃え、溢れ出していく。

 

燃える恋(Burning Love)を、私は生きているのです」

 

 瞬間、周囲が爆ぜた。音を立てて、空間が歪み始める。

 

 彼女の吐息に呼応するかのように、『地球』が盛って煽り始める。ワカモの体は歪んで見え、本当にそこにいるのかどうかすらわからない。

 

 ワカモは地面を蹴る。どのみち短期決戦以外に有り得ない。銃弾でぺちぺちダメージを与えたとしても、残り数発のそれで何が出来るのか。それよりも土壇場で信じられるのは――やはり自分の体!

 

 一足のうちに距離を詰める。彼女の動体視力では、それを察知できない。体重移動の力をそのまま拳に乗せて――思いっきり放つ!

 

 手前のパンチで人が吹き飛ぶ。人間業を遥かに通り越したワカモの一撃。

 

 声もなく、フィフスは弾き飛ばされた。そのまま一瞬宙を舞って、地面に背中から擦り付けられる。

 

「――はぁ、は――――ぁ」

 

 呼吸が荒い。いきなり強く体を動かしたから、肺がついてきていない。大きく息を吸って、吐く。

 

 地面に倒れたフィフスを見て――ワカモは祈る。頼む、立つな。

 

 今のはワカモにとっての全力の一撃だったのだ。現在の体力を加味して、先生の元へ行くことも考えた上で残せる体力を鑑みた一発。だから、これ以上の戦闘行動は想定外となってしまう。

 

「――――――――ハ」

 

「……っ」

 

 しかし、仰向けで倒れる彼女は――笑った。

 

「ハハハハハッ! いてぇ! 死ぬほどに!」

 

「そのまま……死んでくれても良いのですよ?」

 

「いやぁ――まだやれるもんでなァ」

 

 むくり、と上体を起こす。その場でぺっと唾を吐く。赤く濁った、血痰のように思える。

 

「……何故まだ起き上がるのか? っつー顔してるな、姉さん」

 

「ゴキブリのような生命力ですね、の間違いですわ」

 

「教えてやるよ。アタシの『人災』は『鳴動』――つまり騒音とか振動がチカラだ。だがよぉ、なんで人間は音が聞こえるかわかるか?」

 

「鼓膜が振動するから……」

 

「おっ、流石賢いぜ。だがアタシは音を消せる。聞こえないように出来る。これはアンタの耳を弄ってるんじゃないぜ――つまり」

 

「……振幅数(、、、)に、干渉している――――っ!?」

 

 音というのは、空気中を伝わる。真空状態では何も聞こえない。そして空気中を伝わった際、どれだけ空気を揺らしたかを表すのが振幅数である。これの振れ幅が大きくなるほど強く音が聞こえ、小さくなるほど低く音が聞こえるようになる。

 

 つまり――空気に干渉する能力。それが『鳴動』なのだ。

 

「流石に衝撃全部ってわけにはいかなかったが……ま、普通に喰らってりゃ一撃で気絶か死んでたよ。やるね、姉さん」

 

 ワカモの拳がフィフスに触れた際の衝撃。これ自体はまさしく運動エネルギーである。それが伝わったからこそ、フィフスは吹き飛んだ。だが、彼女のセリフを聞くに――その衝撃さえも、軽減することが出来るのだろう。

 

「いわば空気の盾。この世に存在するすべては、アタシを守ってくれる」

 

「だったら――――!」

 

 フィフスに狙いを定める。『第六天災』――『噴火』。火砕流を模倣した熱と圧力を発生させるチカラ。それを、全身全霊でぶつけた。

 

 ――しかし、彼女は僅かに体を薙いだだけで、まるで熱など感じていないかのような――。

 

「――熱だって、空気が揺れてるだけだろ?」

 

「……っ!?」

 

 熱量というのは、分子がどれだけ激しく運動しているか、だ。仮に空気中の運動そのものに干渉できるのであれば――ワカモの『噴火』であろうとも、軽減させることが出来る。

 

 勿論、ワカモの『噴火』全てを消し去ることは出来ない。幾ら『人災保有者』と言えど、あくまでも『天災保有者』の複製(コピー)。その能力がワカモ(オリジナル)を上回ることはないが――。

 

「ドライヤーみたいで気持ちいいぜ、アンタの『天災』――!」

 

 ――しかし、あれだけ恐れられたワカモの『噴火』であろうとも――『鳴動』にかかればこの程度。一瞬で策を封じられたワカモの硬直を、見逃すはずがない。

 

 そのまま体勢を立て直し、フィフスは飛ぶ。飛び掛かるようにしてワカモの懐に入り込み、その拳を振るう。

 

 ――――音はほとんどなかった。しかし、ワカモの腹部に突き刺さった衝撃は、計り知れないモノだった。

 

 達人の拳は、直撃した際ほとんど音がしない。音が発生するということは、簡単に言えばエネルギーが逃げている状態なのだ。ハリセンで人を叩くと良い音がするが、実は全く痛くない。達人になればなるほど、エネルギーを標的から逃さないようにするのが上手であり、つまりこの状態は――。

 

「――ご、ふ」

 

 ――フィフスの拳から放たれたエネルギーのほとんどが、ワカモの腹部に集中していることになる。

 

「お、らぁあああっ!」

 

 拳をそのまま振り抜く。抵抗も出来ず、今度はワカモが後方へ飛ばされた。

 

 ふわりと浮遊感。しかし直後、背中にアスファルトが触れて衝撃。塀を壊しながら、更にワカモは後方へと吹き飛ぶ。

 

 最早声もない。けれど湧き上がる嘔気がどうしても止められなくて、胃の中にあるモノを吐き出してしまう。

 

「……っ、ぉぇ」

 

 ぺしゃ、と酸っぱい匂いが周囲に散らばる。吐瀉物に赤が混じっているから、消化器に傷があるのだろう。あれだけの衝撃ならば仕方ないか。一度吐き出しただけでは満足しないみたいで、胃の中をひっくり返すかのような勢いで、更に吐き続ける。

 

 上手く息が吸えない。内臓が狂いながら暴れているみたいだった。肺に酸素は残っていないようで、体がまともに動いてくれない。

 

 吐き気で気付かなかったが、頭痛も酷い。脳の血管が収縮し、寒気までもがする。

 

 ……せめて骨が折れていなかったことだけは、救いか。内臓が痙攣しているような気がするし、筋肉が驚いてまるで力は入らないけれど――まだ立ち上がってファイティングポーズを取るくらいのことは出来そうだ。

 

 ぼんやりとした意識。感覚は全身がぴりぴりとした痺れの中、淡い視界で――フィフスを見据える。

 

 ――あの一撃。躱せないはずがなかった。これまでの疲労さえなければ、ワカモならば躱せた。弾丸のような速度ではあったが、実際の弾丸を比べれば大したことはないからだ。

 

 それでも喰らってしまったのは――ただひとえにワカモが彼を愛していたからに尽きる。

 

 自分の全てを投げだしてでも彼のためになりたいと。そう考えて、実際にそうしたからだろう。

 

 その選択に何の後悔もない。せめて思うのは、彼女を倒せなさそうなことか。

 

 この一撃は重い。ただでさえ強力な拳に、彼女の『鳴動』までもが乗せられているのだ。ワカモが彼女を吹っ飛ばした距離よりも、吹っ飛ばされた距離の方が長い。その事実が、フィフスの拳の威力を物語っている。

 

(ああ――呼吸もまともに出来ない)

 

(息を吸おうとすると嘔気(えず)く。息を吐こうとすると胃の中が勘違いする)

 

(全く話にならない)

 

 ワカモは考える。血が回っていないのだろう。ぼうっと、なんとなく、そう考えている。

 

 視界の輪郭が薄れて行っているのもある。少しずつまぶたが落ちていく。意識を奪われていく。

 

 アドレナリンが大量に分泌されてきて、次第に痛みが多幸感に変わる。暴れていた内臓も次第に落ち着いてきた。

 

 ……よし。よし。なら、まだ、立てそうだ。

 

 だってまだ指は動く。

 

 だってまだ手は握れる。

 

 だってまだ足は立てる。

 

 だってまだ――心は燃えている。

 

 地面に手をついて、ワカモはゆっくり体を立たせようとする。

 

「――っ」

 

 それでも、ぐしゃりと腕が崩れる。吐瀉物の池に体が沈む。べちゃ、と厭な音がしても、感覚がない。

 

 でも立たないと。ワカモは腕に力を入れて、地面に突き立てる。

 

 ぐい、と上半身をあげて。支えきれなくなって、またべちゃりと崩れる。

 

(ああ――)

 

(これはいけない)

 

(眠い)

 

(このまま永久に――眠ってしまいそうなほどに)

 

 それは幸せな願いなのかもしれないな、と甘い囁きがあった。

 

 今意識を失えば、きっと凄く気持ち良い。二度寝なんかよりも、もっとずっと気持ち良いのだ。

 

 羽毛の布団よりも、お姫様みたいな天蓋付きのベッドよりも、ずっと気持ち良く眠れるはずだ。

 

 だって起きていても痛いことや苦しいことばかりで、どうしようもないことばかりだから。

 

 そもそも先生だって、ハナコさんばかりに優しくして。私にももっと優しくしてくれてもいいのに。

 

 ――――ああ、でも。

 

 先生に頭を撫でてもらえたとき。凄く気持ち良かった。嬉しかった。これまでの人生で、アレに勝る多幸感はなかっただろう。

 

「――――――――」

 

 ――だったら尚のこと、こんなところで寝てはいられないか。もし今寝てしまったら、もう二度と先生に褒めてもらえないかもしれない。

 

 それは嫌だ。それだけは嫌だ。何があっても絶対に嫌だ。

 

 またあの人に褒めてもらいたい。またあの人に触れたい。

 

 この根源的な願いはきっと間違いなんかじゃなくって――どこの誰にだって間違いだと言わせることなんて出来なくなって、だから。

 

 ぎゅう、と思いっきり手を握る。

 

 今度は足も動かす。ゆっくりと体を支えて、なんとか四つん這いになる。四肢はぷるぷると震えて、産まれたての小鹿みたいに可愛らしいモノだったけれど――立つことさえ出来れば、それで良い。

 

「……アンタ、すげぇタフだな。アレ受けて立ったヤツなんて見たこたねぇよ」

 

「……っ」

 

 上体を起こして、なんとか二本足で立つ。膝が笑っている。こんな時に空気の読めない足だ。

 

 そういえば銃はどこだろう。さっき殴りに行った時に投げ捨ててしまったか。地面に落ちているのを見つけたけれど――そこまでの距離が、有り得ないほどに遠い。

 

 よろよろと、一歩だけ前に出す。たったそれだけで、全身が崩壊してしまいそうなほどに痙攣する。筋肉が怯えて動くのをやめろと言っている。

 

(うるさい)

 

(従え)

 

(私が――私が正しい)

 

(この思いは何も間違ってなんかいない)

 

(彼を願い、立ち上がった私は――――この世界で何よりも、正しい)

 

 二歩目を踏み出す。もう限界。いい加減にしろ、と全身が恐れている。これ以上動いても何もないぞ、と。これ以上戦っても勝ち目もないぞ、と。

 

(――うるさい)

 

(とにかく黙って動いて)

 

 無理矢理、三歩目を出す。体中の細胞が崩れて行っているような感覚。心だけが先行して、体がついてきていない。

 

 ――それでも前に進むのだ。

 

 ――とにかく前へ。

 

 ――尚、前へ。

 

 ――前へ。

 

 

「――――いい加減寝てろ」

 

 

 ごん、と頭に激しい衝撃。フィフスが近づいてきていることに、まるで気付けなかった。

 

 もし彼女が『鳴動』で足音を消していたとしても――どっちにしろ、今は聴覚なんて捨てているのだから、聞こえなかったのだろうけれど。

 

 外部からの衝撃で、驚くくらいあっさりワカモの体は崩れ落ちた。元より風が吹くだけで潰えるほどに弱々しい炎だったのだ。むしろ数歩動けただけでも奇跡。

 

 それでも、真っ暗になってしまった視界の中で――ワカモは、尚前へ進もうとしている。

 

 こんなところで止まっていられない。フィフスを倒して先に進まないと。先生を追いかけないと。

 

 だってあの人は――凄く、心配だから。

 

 自分よりももっと脆くて、でもそれを人には絶対見せてくれないから。

 

 誰かがいないと。出来ればそれは私の役目がいいから。ハナコさんを選ぶのなら無理強いはしないけれど、でも隙あらば自分が潜り込みたいから。

 

 そんな悪女みたいな願いでいいのだ。人の願いなんてモノはそれで。

 

 だから――ああ、でも。

 

(行かないと)

 

(立たないと)

 

(私の心は、まだ燃えているのに――)

 

 

「――――私の――」

 

 

 不意に声がした。どうしてだかはわからないけれど、それはやけに聞き覚えのある声。

 

 鼓膜が揺れてうるさい。何故こんな声ばかり、私の体を揺らしてしまうのだろうか。

 

 どうして。どうして――――今、ここに?

 

 

 

「――――大切なお友達に、何してるの!!!」

 

 

 

 ごん、と激しい音。骨と骨がぶつかり合うような、強烈なパンチだった。

 

 フィフスの頬骨を的確に捉えたそれは――何者だろうと置き去りにするほどの速度で放たれ、彼女をはるか遠くに吹き飛ばした。

 

 桃色の髪をたなびかせ――悠然と残心を決める少女を、ワカモは知っていた。

 

「……っ、ミカ、さん……っ!」

 

「うわっ、凄いことになってるね!? 喋らないでいいよ、もう医療班呼んであるから!」

 

 あたふたと、ミカは言う。それからワカモの体に近づいて、少しだけ動かした。

 

 右向きに倒して、右腕は地面に沿って伸ばす。左腕は軽く曲げて手を耳と右肩の間に差し込んで枕に。右足はそのまま、左足は軽く曲げて倒す。

 

 回復体位と呼ばれる姿勢である。

 

「これが合ってるかはわかんないけど、多分すっごく体に良いと思うよ☆」

 

「……」

 

 合ってるかわからないならやらないでほしい。

 

 けれどそんなことは言わずに、虚ろな目でミカを見る。

 

 ――ああ、貴方はどうしてそんなに輝いているのだろうか。

 

 ワカモにはわからない。どれだけ転んでも、そのたびに立ち上がる。それがワカモの中のミカのイメージだった。

 

「――ごめんね、ワカモちゃん」

 

 けれど、ミカはそんなワカモに頭を下げる。

 

「自分でも分かってはいるの。私って結構不安定だし、すぐ泣いちゃうし……」

 

「……」

 

「でも、頑張るって決めた。ワカモちゃんが背中を押してくれたから」

 

 そんな大したことはしていない。ただ、彼女に付き合って、少しばかり話をしただけだ。

 

 ――いつの間にか、ミカの方が先に大人になっていたのかもしれない。

 

「……なんか今際の際みたいだったね。うん、今の忘れて」

 

「……」

 

 しかし相変わらず締まらない女。

 

 心の中でそっとため息をついて――ワカモは少しだけ、表情を和らげた。

 

「――『第七天災』、聖園ミカ! アンタまで釣れるとは思ってなかったぜぇ!」

 

 瓦礫を投げ捨てながら、フィフスが立ち上がる。

 

「うわ、嘘。思いっきり殴ったのに。死んでてもおかしくなかったよ? 貴方」

 

「はは、あの程度じゃあ死なないねぇ」

 

 ぺ、と唾を吐き出す。先ほどの拳で口内を切ったのだろう――やはり、血が混じっている。

 

「……あ、そういえば。貴方って、先生を撃った人なんだっけ?」

 

「あ~? そういやそうだけど。それが何か?」

 

「ううん、ちょっと確かめたかっただけ。暖めてた台詞があって、本当は今使うつもりじゃなかったんだけど、火が点いちゃったからさ」

 

「へぇ――そりゃあいい。是非、聞かせてほしいなァ」

 

「オッケー、それじゃあ気前よく行くよ☆」

 

 じゃり、と強く大地を踏みしめて。

 

 大切な友を、守るように。

 

 大好きな彼に、届くように。

 

 ミカは言う。

 

 

「――――私の大切な王子様に、何するの!!!」

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