「ミカ、ゴミ袋余ってる?」
「あれ、そこない?」
「ないねぇ。切らしちゃったか」
「じゃあ私取って来るよ。疲れたでしょ、先生は少し休憩しててよ☆」
「お、それならお言葉に甘えて」
先生はのそりとアスファルトの上まで動いて、ゆっくり腰かけた。見れば服は少しばかり湿っているようで、結構汗もかいているみたい。先生が水筒を手に取ったのを確認して、私はその場を離れた。
歩き出すと風に触れて、少しだけ心地が良い。そう思えば、陽の差さない日陰も存外悪いモノではないな、と思った。
ぺたりと張り付いた前髪がうざったい。腕で拭うように動かすと、びっしょりと汗が滲んだ。
「……うわ」
ふと気になって、自分の衣服を見てみる。どうということはない、トリニティ指定のジャージ。意識してみれば、下着まで汗で濡れている気がする。なんだか汗臭いような気がして少し嗅いでみるけれど、やっぱり少し汗臭い。
……一度自分の部屋に寄ろうかな。勿論制汗剤も使っているけれど、それも限界みたいだ。どうせ先生は気にしないと口にするだろうけれど、私は気にするのだ。先生が好む香水があると良いけれど、選択肢は以前に比べ少なくなってしまった。
とことこと物置に向かって歩く。専ら非合法サークル、『部屋の隅清掃部』なんて言うなんだかよくわからない部活と、私しか使わないぼろっちい物置だ。箒や塵取りやら、錆びた鎌やシャベルまで置いてあるのは、ここを置いて他にない。少々遠くはなるけれど、今の私はその場所を頼るほかなかった。
あえて問題を言うならば、この雑草が生え散らかった校舎裏からその場所までは、燦々と太陽の照らす影のない道だということか。
「……まさか、お天道様の下を歩くのがここまでイヤになる日があるなんてねぇ」
ぼそりと呟いてみても、汗が引くわけではない。走っていけば少しはマシかと思ったけど、それでは結局汗をかくのでむしろマイナスだ。ああ、でも速く先生のところに戻れるから、一概には言えないか。
そんなことをぼんやり考えながら歩いていると――不意に、それが目に入った。
『聖園ミカに公正な判決を!』
『※(書き損じ)魔女は出てけ!』
『トリニティの裏切り者を叩き出せ!』
『聖国ミカを許すな!』
「……」
書き損じたなら書き直しなよ。
っていうか聖園ね、聖園。国じゃなくて。名前も覚えてないのに、ノリと勢いで人を中傷するもんじゃないよ。
ほんの少し、ぴり、と胸を刺す痛みがあった。やはり何度見ても慣れない。他人に強く糾弾され、尊厳を脅かされるのは。
勿論、自分がそれだけのことをした自覚はある。これが受け入れなくてはならない痛みだとも思っている。けれどもたまにはこうして、痛みに浸る時間が合っても悪くはないはずだ。
「……あ」
放置された立て看板の足元に、サインペンが落ちていた。
ここで書いたのか。道理で書き損じるわけだ。というか、こういうのって予め書いておくものじゃないのかな?
自分を中傷する看板に突っ込みを入れながらも、なんとなく私はそのサインペンを取って、キャップを開けた。
「……聖園だよ、聖園。全く、失礼しちゃうね」
きゅ、きゅっと文字を書きこんでいく。そうすると、なんだか少しだけ胸の痛みが引いた気がした。
……あんまり長居しても仕方ない、か。もし誰かに見られでもしたら、自分で自分を中傷しているおバカに見えてしまうかもしれない。サインペンにキャップをすると、私はそそくさとその場を後にした。
〇
「良かったの? ミカ」
「え、何が?」
「『一日先生のこと好きに出来る券』。雑草むしりに使っちゃって」
「あ~……まあ、うん。むしろ、こんな雑用押し付けちゃってごめんね?」
「いや、それは良いんだけど……」
なんとなく、納得がいっていない様子の先生。それもそうだろう。というか、何より私自身がちょっと後悔しているくらいなのだ。
どうせだったらデートしてもらうんだった。そうでなくともせめてお茶会とか、せめて汗をかかないことにするべきだった。
既に後悔先に立たず。先生にチケットは渡してしまったし、今更返せとも言えない。尤も、先生のことだから「やっぱり返して」なんて口にすれば、どうせ返してしまうのだろうけれど。
――だとすれば、私はどうしてこんなことに、チケットを使ってしまったのだろうか。
「それにしても暑いね。水筒なくなっちゃった」
「最近急に暑くなったよね。夜も眠れないくらい」
「冷房ついてないの?」
「扇風機」
「わぁお」
「しかもハンディーサイズ。信じらんないよね、熱い風が流れてきても意味ないんだって」
「そりゃあ大変だね。でも、寮には冷房あるんでしょ?」
「だから談話室で時間いっぱいまで耐久してるよ☆」
「世知辛っ……」
そう言うと、先生はスマートフォンを取り出して何かを検索し始めた。
「お、これとか良いんじゃない? 冷感シーツ。ベッドに敷けばひんやりだとか。買ってあげようか?」
「え、いいの!?」
「勿論。今日もこうして奉仕活動に励んでいることだし――少しくらいは良い目を見ても、バチは当たらないよ」
「……」
「ミカのベッドサイズって――」
「――ううん、やっぱりお断りするね」
「……どうして?」
「私なんかが、良い思いしちゃダメだと思うから」
きっと私は――まだ苦しまなくちゃいけないのだ。多分、いや、おそらく。
人を殺そうとした。多くの人を危険に晒した。トリニティを裏切って壊してしまいそうになった。
結果としてそれは起こらなかったけれど、私のしでかした罪は大きい。そんな大罪人である私が――良い思いなんか、してはならないのだ。
「そんなことはないと思うよ」
「償えない罪はないって?」
「いや……悪いけれど、そこまでキレイゴトは言えないかな。きっとこの世界に、償えない罪はあると思う」
「……ほらね。だから、私なんかが良い思いしちゃあ――」
「――でも私は、許されない罪はないと思う」
「……」
「大切なのは過程だよ。必死に贖罪のために頭を下げて、謝って……心の底からそうし続ける人を、許せない人ってそんなにいないと思う」
「でもいるよ。トリニティにはいっぱい。さっきも――看板、まだ残ってたし」
「ミカ。中傷は別だよ。だって彼女たちはミカのことを知らない人だっているんでしょう?」
「……それは、そうだけど……」
「良い思いをしないことが贖罪に繋がるとは、私は思わないよ。ミカ」
「……」
「だからこの冷感シーツはもう購入しちゃった。諦めてひんやり感触の中寝心地の良い睡眠を味わうのだ」
「えっ、今の全部そのフリ!?」
あはは、なんてわざとらしく先生は笑う。
……本当にずるい。卑怯だ。そんなの――――好きになっちゃうに決まってる。
なんで先生は私なんかに構ってくれるのだろう。手のかかる子ほど可愛いから? それとも……思いあがるながら、私が可愛いから?
いや、確かに私は可愛いけど。でも、先生ほどの人がこんな子どもに靡くとは――思えない。
先生は軍手を脱いで、その場に置いた。指先が黒ずんで、少し湿っている。指の隙間もしっとりと濡れているようで、相当暑かったのだろう。私も真似をするように、軍手を脱いだ。
「……あ」
「どうかした?」
「ネイル剥げてる。最後だったのになぁ……」
こういう身分になってからというもの、簡単にネイルもリップも買えなくなってしまった。だから騙し騙し使っていた、最後の一塗りだったのだけれど……べりべりと剥げて、普通の爪が見え隠れしている。
見れば、雑草除去のせいで指先が荒れている。皮膚も少しざらついているし、ぼろぼろだ。
どうしても先生に見られたくなくて……私は自然と、指先を丸め込むようにして手を握った。
ちらり、と先生の手を覗いてみる。綺麗な手だった。傷一つない。爪も綺麗に切りそろえられていて――へぇ、長爪。本当に整っている。
「先生の手、綺麗だね」
「えっ、そうかな……」
「うん。白くて、シミもないし。全然汚れてもないし――」
「――ミカの手の方が綺麗だよ」
「……嘘。見てないのに適当言ったでしょ」
「見てちゃんと言ったよ。もし良かったら、私に見せつけて自慢してくれる?」
「やだ。汚いもん」
「汚いのが綺麗なんだろう」
そう言うと、先生は優しく私の手を取った。
キヴォトスの人間に比べて――酷く弱々しくて、脆い。そんな優しい手を、私は拒むことが出来なかった。
例えるならば、衣服を脱がされる感覚にそれは似ているのだろう。まだ誰かにそんなことをされた覚えはないけれど――多分、そうなのだ。
彼が腕を持ち上げて、私の手をまじまじと見る。顔が少しずつ熱くなって、恥ずかしい。
せめてネイルをしているならばまだ良いけれど、今は中途半端に、ぼろぼろになって、しかも汚れているのだ。そんな状態の手を見つめられて恥ずかしくないはずがない。
「……ミカ。私はね、君のこの手が羨ましいんだ」
「まだ水洗いもしてないよ? 汗でべっとりなのに」
「汗だくなのは私の手も一緒。でも、爪が欠けたり、皮膚が擦れたりしてるのはミカだけだ」
「……それが恥ずかしいって話なんじゃん」
「だから羨ましいんだ」
先生は、私に手を見せる。何度見ても綺麗な手。汚れ一つない。傷一つあるはずがない。汚れていない手。
「この手は、私が何も積み重ねられなかった証拠なんだよ」
「……?」
「何も出来ていないんだ。皮膚が擦り切れるまでバットを力いっぱい握りしめたことも、突き指するまでバスケットボールを地面に叩きつけたことも、指がぼろぼろになるまで草をむしったこともね」
「……」
「だからミカのその手は、私には羨ましいんだ。色んなことを経験して、色んなことを知って……今生きている、爽やかな君が」
「うわ……っ、何それ、青っ――――」
どくり、と心臓が跳ねるのがわかった。なんだそれ。ずるい。
そんなの――好きになるに決まってる。
私のことを慮って言ってくれるの? それとも、今のは本心?
どっちにしたって、そんな口説き文句はない。こんなに格好良いこと言われちゃったら――私も目も曇ってしまう。
口が上手く動かせない。心臓がばくばくと脈打って止まらない。
「だからそのままでいればいいよ。変に気遣ったりしなくていい。ミカが優しいのは分かってるから――これ以上、君が不幸になる必要なんてないんだから」
そう言うと、先生は私から目を逸らして、懐からスマートフォンを取り出した。
そんなことをしている先生を――私はただ、見ていることしか出来ない。ただじっと見て、眺めていることしか。
だってこんなにも――彼は格好良い。私のことを認めてくれる。
彼の言葉は、私のこれまでを肯定してくれるみたいで――たまらない。
「――さて、ミカ」
「……えっと、何?」
「用事が出来た。一時間で終わらせるよ」
雑草処理は――やる気さえ出せばものの40分で終わるだろう。既に粗方――ゴミ袋がなくなってしまうくらいまでは終わらせていたのだ。
だからこそ、ゆっくり、ちまちまとやっていたというのに……。
「先生、どっかに行っちゃうの?」
「え? 何で?」
「だって、用事があるんでしょ? ごめんね、そんな忙しい日に、草むしりなんて……」
「――え、あ、ごめん。違う違う、ミカを連れて行こうと思っていて」
「……どこに?」
「いっぱい草をむしって汗もかいたでしょ? 汗を流さないと」
〇
急いで駆けていく。向かう場所は――トリニティ学園合宿所のプール!
「来たか、ミカ」
「セイアちゃん!? なんで!?」
「私もいますよ」
「ナギちゃんかぁ……」
「なんで!?」
ナギちゃんがじたばたと暴れる。うん、いつも通りだ。
「それにしても、なんで?」
「先生から呼び出しがあったのです。ミカをプールに入れてやれないか、と」
「今日は休日だから誰も使っていない。勿論可能だとも」
「で、でも……私……」
「いいから、ミカ。私も一緒に泳ぎたい気分だったんだ」
そう言って、先生は私の背中を押した。それが優しくて、たまらなく嬉しくなって、どうしようもなく胸がはちきれそう。
「それに、ミカの水着を買ってきてしまった。これを先生に見せないのは勿体ないよ、ミカ」
「それ、本当にサイズ合う? セイアちゃん基準だとぴちぴちになっちゃうよ?」
「私がミカの身長体重スリーサイズを把握していないとでも思っているのかい? 身長は157センチで体重は5――――」
「――――うわうわうわっ! ごめんごめんごめんなさい! そこまで!」
にたり、と笑ってセイアちゃんは買い物袋から水着を取り出す。
「夏本番もこれから、私たちも新調したかったところだから丁度良かっただけだ」
「素直じゃないですね、セイアさんは……」
「うるさいぞ、ナギサ」
彼女の手には三つの水着。多分、私たち三人の分だ。
そんな、私なんかにそんなことしなくていいのに。
「……うん、そうだね。私、水泳の授業は苦手だし……補習授業を、お願いしようかな?」
「上手にバタ足は出来るかな? お姫様」
〇
「ミカ、いいのかい?」
「何が?」
衣服を脱ぎながら、私は答える。
「先生には……もうパートナーがいる。それはミカが一番わかっているはずだろう?」
「……」
先生は誰にだって優しい。ということは、私だけでなく、他の子たちにも優しいということ。
彼の中の最愛の人は、もういるのだ。それは私じゃない。そんなことは、もうとっくに知っていた。
「いいの」
「……」
「私、あの人が好き。だからあの人のためになりたい。先生のためならどんなことだってしてあげたい。それがきっと、好きってことなんだと思う。だからどうしてほしいとか、そんなふうに思っているわけじゃないの。ただ、一緒にいることを許してくれれば、それで――」
「――ミカさん」
「……」
「これは受け売りですが――人を好くことと愛することの違いは、なんだと思いますか?」
「何それ。私が先生のこと好きなだけなんじゃないかって言いたいの?」
「いえ――曰く、欲するのが好きで、与えるのが愛だそうなのです」
「……」
「貴方のそれは、最早
「随分高尚な話にしてくれたね」
「全くだ。ナギサはもっと直截にモノを言うべきだ」
「だからなんで私の時だけ批難轟々なんです!?」
今度は服を脱ぎながらじたばたと暴れている。なんというか、エデン条約以降ナギちゃんは結構、アレだ。自分を出すようになった。
――きっと変わったのだ。彼が変えたのだ。私たちも、望んで変わり続けている。
「――だったら、ミカ。そんなミカの愛しの彼が折角作ってくれた格好の場だ。精一杯楽しまなきゃ、損だな?」
「……うん、そうだね!」
でもなんでビキニ?
〇
「うおっ……」
私たちが外に出ると、先生は先に着替えて待ってくれていたみたいだった。きっとセイアちゃんが先生の分も買ってきてくれたのだろう。膝上ほどまでの短パンに、真っ白なラッシュガード。あんまり露出がないようではあるけれど、普段からスーツで肌を隠しているから、ほんの少し開放的になるだけで新鮮だ。
「なんだい先生、麗しい少女の肌は目に毒かい?」
「そりゃあそうだよ……」
「そうでなくては困るとも。ところで、先生は私のような体躯の少女にも興奮出来るかね?」
「……ノーコメント」
セイアちゃんの水着は少々少女チックで、露出こそ高くないが、可愛らしいデザイン。黄色と青が交じり合った水玉めいた模様で、見ていて清涼感が勝る。
ナギちゃんの水着は胸元から膝下まで続く半透明な肌色のパレオ。髪色と合わせた彩色なのだろうけれど、彼女の性格らしくあまり肌を露出しない楚々としたモノだ。
「せんせ☆」
「……」
「せんせっ☆」
「なに」
「私の感想は?」
「……………………似合ってるよ。凄く」
「いぇい!」
ビキニ――といっても、そこまで露出は大きくない。乳房はほとんど隠れているし、お尻もそうだ。それ以外がほとんど露出している点に目をつぶれば、一般的な水着と言って差し支えないだろう。
……本当はこうして先生に見せるのはとっても恥ずかしいのだけれど――それも構わない。
あるとすれば、それはきっと夏のせいなのだ。
「とにかく、泳ごうか。じっとしてたら、溶けてなくなってしまうよ」
〇
「ぐぇ……」
「あはは、なんだ先生の方が体力ないじゃんね?」
「君たちの体力なめてた。何回バタ足見せたと思ってるの……?」
「うふふ――先生、泳ぎお上手なんですね」
「今度はバタフライも見せておくれよ」
「お前らは泳げるだろ!」
元気を振り絞ったように突っ込みを入れて、先生は今度こそぐったりと体を預けた。首元にはタオルをかけて、もう汗かプールの水かもわからない。
「上着脱いだら? 重いんじゃない?」
「ありがと。でもいいよ、このままで」
「……あっ、そっか。ごめんね」
そうだ。先生の体には――傷があるのだ。腹部と脚と手。そこには、銃創がある。
生徒に狙われたときの傷。あるいは、生徒を守ろうとして出来た傷。
なぁんだ、先生の嘘つき。先生にだって、誇らしい汚れがあるんじゃない。
ああ、でも。その傷のことを、私が誇らしいだとか言ってしまうのは、多分間違っているのだ。
その傷を名誉と呼んでいいのはこの世界で先生しかいなくて――その先生が傷のことを誇らしいと思わないのであれば、きっと私がそのように称するのは間違っている。
「ねえ、先生」
「何?」
二人して日陰に入る。セイアちゃんとナギちゃんは未だにプールに浮かんでいて、夏を楽しんでいる。
っていうかナギちゃん、浮き輪の上でも紅茶飲んでる……ああいや、あれアイスティーか……。
「私ね、先生のこと、多分愛してる」
「本当? 嬉しいな」
「……動じないね。一世一代の大告白なのに」
「動じちゃいけないから」
「それもそっか。それじゃあ返事は?」
「私もミカのこと、愛してるよ」
「それって性愛?」
「親愛」
「けちんぼ」
「あははっ、悪いけど……もう決めちゃったからね」
「私以外を選んだってこと?」
「まあそう」
「そ。それじゃあ……仕方ないね」
「……」
「謝ったりとかしないんだ」
「謝る方が失礼だと思う」
「確かに。もし謝られてたら……後悔してたかも。なんで私にしなかったんだ、ってさ」
ぱしゃり、と水が跳ねた。飛沫が弾けて空に舞う。太陽がきらきらと爆ぜて、綺麗だ。
どうしてだろう。こんなにも――気分が、悪くないのは。
だって私は今、フラれたのだ。君のことは好きだけど、付き合えない、みたいな。漫画でよくあるような断られ方をして、私はあっさり恋愛バトルに敗北した。
だというのに、どうしてなのか――不思議と私の心中は凄く穏やかで、爽やかで、柑橘類のような甘くて酸っぱい涼しげな風が吹いて、波風立たない。
変に気持ちが良い。
「ミカ」
「何?」
「ありがとう」
「……どういたしまして」
「こんな私を好きになってくれるミカは、相当変わってると思うよ」
「こんなに可愛い私を振った先生も、相当変わってると思うけど?」
「……あはは、強いね、ミカは」
強くなったんだよ、と。
きっとこの人ならば、言わなくても伝わってくれるだろうな、と思った。
〇
先生と別れて寮に戻る道中、さっき見かけた立て看板がまだ残されていた。
看板には相変わらず、私を責め立てるんだか中傷したいんだか、イマイチ目的がハッキリとしない微妙な文字が並んでいる。
きっとこれが私の罪だ。先生は、許されない罪はないと言った。ならばいつか私も、許されることがあるのだろうか。
先生のことだから、私が言えば彼は許されるその時までは、付き合ってくれるのだと思う。
けれども、そんなことを言って彼の手を煩わせるのも申し訳ない。いつまでもおんぶにだっこでは、先生も大変だ。それに、彼自身が――いかなるときも先生であり続けることを、苦しく思うかもしれない。
看板にはしっかりと『聖園ミカを許すな』と書かれていた。