ウルサスの元ネタの国の結婚式では、参加者は「苦いぞ!」と叫んで新婚カップルにキスをするよう迫る古い習慣があるそうです。
「苦い」飲み物を、カップルのキスで「甘く」する、二人の人生の幸福を願う儀式だとかなんとか。
面白いですね。
初夏らしい、少しばかり冷えた乾いた風が肌を撫でる。
折り畳みベットが軋み、嫌な音がイーゴリから微睡を剥ぎ取った。
安さだけが売りの異鉄製のベッドが、重量オーバーだと文句を吐いているのだろうか? 男はぼやけた思考のまま、半身に寄りかかる慣れない重みに目を向ける。
くすんだマットレスよりも白い裸体が、ごわついたシーツよりもくしゃくしゃな蓬髪を絡ませ、イーゴリの隣で静かに寝息を立てていた。
その頭部で煌々と輝く光輪はカーテンの隙間から漏れる太陽の光よりも輝いており、フロアランプの買い替えはしばらく必要なさそうだと、眠る天使の頬を指先で突きながら男はぼんやりと考える。
実体があるのか無いのかよくわからない輪と、癖の強い細い髪の毛の間に手を入れると、穏やかな寝顔が少しばかり歪む様子が見て取れた。
頭上の光輪といい、背中の羽といい、わけのわからない神託といい、同族間だけの精神共感だったり、触れるだけで感染者の痛みを取り除く上に家電の大半を駄目にする不思議な生き物。サンクタとは、このイヴァンジェリスタと名乗った女とは、本当に同じ人間なのだろうか?
そんな疑問を何度抱いたか覚えてはいないが、今となってはさして関心が無い。
今の彼女は、イヴァンジェリスタ・フョードロヴナ。イーゴリ・フョードロヴィチの妻。それ以外は然したる問題ではないのだから。
あの騒がしい結婚式から10日。無理にベールを被り式に出たジェリスタに、皆がこごぞとばかりウォッカを呑ませたイーゴリ。新郎新婦2人揃って短時間でダウンしたため、宴会は翌日に延長。さらにズルズルと長続きし、2人が解放されたのは3日後となった。未だあの時の疲労が抜けきっていないように感じるのも仕方がないだろう。
一線を越えたのもつい先日。ようやく夫婦としてのスタートラインに立ったばかりだ。
「うごごご…」
気が付くと愛らしい天使がうめき声を漏らし始めたので、サンクタの頭を軽くなで、光輪の下から手を抜いた。
彼女の安眠を邪魔してしまったことに負い目を感じながら、イーゴリは独占欲が満たされた感覚に苦笑いを浮かべる。
すやすやと眠る妻を起こさぬよう、夫は機嫌の悪いベッドをできるだけ刺激しないよう、ゆっくりと起き上がった。
ジェリスタの料理の腕はまさに「神がかり」だが、それはイーゴリが料理を作らないという理由にはならない。もとより一人暮らしの生活が長い彼にとって、食事は数少ない楽しみであった。
ジェリスタが料理を学び始めたばかりのころ、イーゴリも少しばかり料理の手ほどきをしたが、ここまで才能を爆発させられると困る。内心焦るイーゴリは密かに対抗心を燃やし、こうして休日は妻より早く起床して朝食を作るのが習慣になっていた。
イーゴリは慣れた手つきでウルサスパンケーキことブリヌィを雑に積み上げていく。発酵させた生地はふんわりと焼き上がり、その香ばしい匂いはベットでまどろむ天使に届いたようだ。
「うわぁ、おいしそう。食べちゃう」
イーゴリは横から伸びる細い手を、これまた慣れた手つきで優しく捕まえる。
「やめろ。先に顔洗え」
「いいじゃんーケチー」
起きて早々、つまみ食いしようとしたジェリスタは、不満そうに頬を膨らませた。
寝ぼけ眼を擦りベットから這い出るよう起きた彼女は、近くにあったイーゴリのシャツを無造作に羽織っただけのあられもない姿だが、初対面の時のように全裸ではない分、理性的に見えるのはもはや認識のバグだろう。
一口ぐらい食べさせて! とイーゴリの大きな背中にその豊満な胸を押し付け、しつこく強請る。非常に狭いキッチンでそんなことをすれば、ぎゅうぎゅう詰めになってしまう。地味ながらかなり効果のある天使の抵抗に、苛立ちを通り越してあきれ返った熊は、息を吸うように自然とため息を漏らした。
「そのまえに言うことがあるだろ?」
背中に張り付く天使に視線を合わせるイーゴリの言葉に、ジェリスタはキョトンと目を丸くするが、すぐに意味を理解した。
『おはよう』
2人は声を重ね、互いに同じ表情を向けたのだった。
◇ ◇ ◇
折り畳みベッドを隅に退け、夫婦の寝室からリビングへと役割を変えた部屋の中心にこじんまりとしたテーブルが置かれ、その上にはウルサスケトルと山のように積みあがった朝食が、夫婦を遮る壁のように鎮座していた。なおその壁がもたらすものは、分断による悲痛ではなく、刺激された食欲である。
パンケーキというよりクレープに近しいそれに、バターや鱗獣の卵、ウルサスサワークリームなどをたっぷり塗って、高く積まれたブリヌィをぺろりと平らげる。実にウルサス的だ。
ジェリスタはみずみずしい表情を浮かべ、せっせと切り分けたブリヌィを口に運ぶ。
「2人とも料理作るの好きなんだから、お店だそうよ?」
ブリヌィの食感と口内で溶け行くバターの味に舌鼓を打ちながら、ジェリスタは街の大通りに店を構える様子を夢想する。
知り合いだけではなく噂を聞いた外国人も多く訪れ、忙しなく料理を運ぶ。料理の腕が良いだけで店の運営など微塵も知らず、素人に毛が生えた2人では軌道に乗せることすら難しいのは想像に難しくない。しかしながら、さぞかし楽しい日々だろう。
だがそんな彼女の夢想を、男は新聞を広げる音と共にバッサリと切り捨てた。
「俺は嫌だ」
浮き足立つジェリスタに対し、イーゴリは関心を示さない。
「なんでさ? 僕の料理独り占めしたいの?」
「そりゃそうだ」
「ミッ」
冷やかすように軽く口にした冗談を真顔で返され、間抜けな奇声がこぼれ落ちる。不意打ちのクリーンヒットにより一瞬気が遠のくが、すぐに正気を取り戻したジェリスタは、あわててザリガニのように赤い頬を誤魔化すように、冷たいスープを流し込む。
優しくあたたかな沈黙が二人の間に流れ、時計の針の音や食器の当たる音、新聞を広げる音、ウルサス語の放送を流さないラジオの音が、互いの存在を主張していた。
イーゴリとしてはジェリスタの望みは叶えてやりたいのだが、それはそうとして譲れないこともある。なんなら怪しい活動家の友人やらからも強引に引き離したいぐらいだが、あまり妻の自由を縛るのは良くないのでは?と葛藤に揺れ、あまり強く言えないでいた。
ソフィアとかいう貴族の振る舞いを隠しきれていない女は、ジェリスタがあまり『聖女』と感染者たちに祭り上げられないように目を光らせてくれている。
(そもそもジェリスタが感染者と関わりを持たなければ早い話なのだが)
アンドアインは数少ない同族だし、あの特殊なサンクタの体質を相談できる相手はいた方がいいだろう。
(イーゴリとしてはあの雲に巻くような答え方をする男は好きになれないと思っているが、実際はジェリスタに近づく男全般を警戒し始めているだけである)
(タルラ……思い出すだけで気が重くなるので、無意識に避けている)
そうやって気遣いという名のためらいが、もともと口数の少ない男から言葉を奪い、新婚夫婦とは思えないほどの静寂を生み出してしまっていた。
沈黙に耐えかねたジェリスタはテーブルに置いた小型のラジオのダイヤルをつまみ、気まぐれにチャンネルを探す。
ウルサスのラジオ局が聴けないラジオなど、異国の言語に疎いイーゴリには手の余る代物。ただのインテリア未満の箱として埃をかぶっていたそれが、本来の役割を果たすようになったのはつい最近のことである。
「やたらCMに出てくるクルビアコーラって一体どんな味なのかしら」
軽快な音楽と共に流れる異国の飲料の宣伝を珍妙な表情を浮かべて聞き入るジェリスタに対し、「触りすぎるとまた壊れるぞ」と口を尖らせるがその声色は非常に柔らかい。
イーゴリはこの女が誰にでも笑みを振り撒くことは知っているが、それ以外の表情を見せることがかなり限定的であることに気が付いたのはつい最近のことだ。笑みで固定された陶器の人形のような娘が、自身にだけ血の通った顔を見せる……これに密かな愉悦感を抱かない人間はいないのでは無いのだろうか?
以前まではただただ不快に感じていた彼女の曇り顔にすら、今となっては欲情を湧き立たせる背徳感を見出せるようになっていたのだった。
「クルビアクルビア……」
異国の名を反芻する彼女は、ふと自身の指へ視線を移す。そこに光る銀色の輝きは、彼女にとってかけがえのないもの。
ジェリスタはニマニマと薬指の指輪を眺め、蕩けた笑みを浮かべた。時折視線をイーゴリに向け、彼の指にも同じものがあることを確認すると、より一層笑顔を輝かせる。
それに比例するように頭上の光輪が強烈な光を発し、うおっ眩しいとイーゴリは新聞で輝きを遮った。
「その頭の灯りなんとかしろ」
喜びに浸りすぎたあまり、ジェリスタは無自覚に光量を強くしてしまったようだ。
式をあげてから10日程経過したものの、彼女にとっては昨日も同然。新鮮な幸せを何度も噛み締め、ゆっくりと堪能する。
「ハネムーンどこに行こうね? 早くラテラーノに行けるといいんだけど」
「そんな金、直ぐには貯まらない。気長に待て」
ウルサスとラテラーノは、距離以上に遠く離れている。友好関係とはいいがたいリターリアが山脈と共に二国の間に横たわり、ほとんど分断されているようなものだ。移動ルートも、ラテラーノの文化影響があるマフィア蔓延るシラクーザ経由か、回りくどいヴィクトリア経由ぐらいしかなく、カズデル付近となる東ルートは論外だ。膨大な資金を払ってトランスポーターを雇えたとしても、結局どのルートも情勢と治安は予断を許さない。
「アンドアインが連れて行く気満々だから、スイーツ代いっぱい貯めなきゃね」
あまり聞きたくない男の名の登場に、ピクリとイーゴリの眉が反応する。
「……どうせ何か思惑があるんだろ。あんな傷を負ったサンクタがまともな理由があってウルサスに来たはずがない」
「ん〜? 悪意はないっぽいけど。いつ会っても好奇心マシマシ! って感じだったよ?」
「そんなもの表面だけでわかるわけないだろ」
「わかるぞ? サンクタの共感便利だぞ?」
「……」
イーゴリは口を閉ざしたまま雑に新聞を音を立ててめくる。読み耽るように見せかけてはいるが、目が滑って内容は殆ど汲み取れない。
「ヨハン君いわく、リターニアも危ないって話だし……あっ、この話したっけ? 最近ヨハンって子にに外国語教えてるんだよね。先生って呼ばれるのって気分いいねぇ。教員目指しちゃおっかな? その方がお金貯めれるもんね? ね?」
「……洗剤を念入りに濯ぐの辞めたらいいぞ」
甘えた声で了解を得ようとするジェリスタに対し、イーゴリは新聞越しに答えた。目を合わせてしまえば、否応なしに押し負けてしまうのを彼はよく理解している。
「は? 無理! 不衛生じゃん! というかイーゴリもシャワー浴びたらちゃんと洗いなさいよ! この泡まみれ熊さん!」
洗剤を水で洗い流すなど、いったいこの天使はどんなぜいたくな暮らしをしてきたんだろうか?
もう半年になろうとする二人の同棲生活は、互いの価値観の殴り合い。特にジェリスタは水を使いすぎる為、いくら彼女の料理の腕がうまかろうともイーゴリにも目がつぶれないことはある。
壁には絨毯も斜めにかけられた額縁も無い、利便さだけを追求された外国製の家電ぐらいしかない。前職の蓄えはあるものの、ウルサスでの一般的な暮らしである以上、決して豊かとはいえない状態だ。
それを知っているはずなのに我儘同然な主張を譲らないジェリスタに対し、イーゴリはだんだん腹が立ってきた。
が、
「もう!今日は一緒にお風呂入って一から体の洗い方教えるから覚悟してよね!あ、今から入ろっか?」
「早すぎだし、そもそも2人も入るスペースないだろ」
あいもかわらずジェリスタのトンチンカンな発言に毒を抜かれ、気が付けばイーゴリは笑みをこぼしていた。
僕は本気だぁ!と唸るその仕草すら愛らしく思えてしまい、来客を知らせる玄関のチャイムにも気づかないまま熊はその広い膝に天使を座らせ、ひたすら彼女の機嫌を取り続けたのであった。
登場人物一覧
〇ジェリスタ
イヴァンジェリスタ・フョードロヴナ
なぜ男女で姓の呼び方が変わるのか理解していない。作者もよくわからない。
〇イーゴリ
イーゴリ・フョードロヴィチ
最近腕を痛めました。ハネムーン症候群だそうです。
ウルサスの元ネタの国は男女で姓の読み方が変わるらしいので、それっぽくしてみました。合っている自信は無いです。
もうちょっとだけ続くんじゃ
ハネムーン編見たい?
-
本編を進めろ
-
見たい