アンケートの結果を踏まえそこからダイスで決めようかと思いましたが、投票結果をそのまま反映することにいたしました。みなさま投票ありがとうございました。
1097年 ロドス本艦 食堂 p.m. 12:24 天気/曇天
「ルサールカの惨劇って?」
眼帯をしたウルサスの少年は、タブレットに映る単語に首を傾げ、隣に座る少女にたずねる。
「えーっと、たしかルサールカって場所で暴動が起きたって聞いたような…」
黄色いリボンを揺らし、少女はうろ覚えの記憶を思い出そうと首を傾げる。
「具体的には?」
「何だっけぇ…」
「おそらく1093年1月9日、ルサールカという小さな街で起きた労働者及び感染者を含んだデモの最中に起きた事件のことですね」
彼らの座るテーブルの隣のグループの少女が答えた。
「労働環境の改善を求める労働者達によるストライキの慣行。それに便乗した感染者の待遇改善を求めるデモは、始めこそおとなしいものだったようですが、膨れ上がった参加者の熱気に怯えた警官がボウガンを撃ってしまったのが悲劇のきっかけで、攻撃を始めた警官に対して感染者団体のリーダーがアーツを放ったため、街は酷い火災に見舞われてしまったようです。
駐在していた感染者監視隊は壊滅、警官も無力化されてしまい都市は複数の団体によって分割され地図から姿を消してしまいました。このデモの中心的人物であるアガソンという名の人物は国外へ逃亡したものの、この事件を人民の勝利もしくは感染者の勝利、即ちウルサス革命の第一歩と捉える思想家も多く、未だ議論が冷めません」
スラスラと概要を述べる少女に2人は感嘆を漏らす。
「さすがアンナ。ウルサス学生自治団が誇る参謀だね」
「大したことはありません。私もこの件については関心がありましたから。ところであなた達も関心を? 議論の席を設けましょうか?」
「あっ、ヒュパティア先生の授業できになったことがあって検索してただけで、そこまで熱量はないよ」
「wikiに無いから全然わからなかったんだよねー」と笑いながら少年があっさりと断ると、少しばかり残念そうにアンナは眉を下げる。
「むぅ、ヴィカも興味を持ってくれませんし、やっと語り合う機会が来たと思ったのに…」
大人しいが年相応の不機嫌さを見せるアンナに、リボンの少女は引き攣った笑みで返す。
「アンナの頭が良すぎるんだよ…。みんなの中で一番最初にオペレーターの筆記試験に受かったし、図書室どころかドクターの書斎でずっと本を読んでるし、ちょっとついていけないかな…」
ヴィカも同じ事を言ってました…とアンナはしょぼくれた。そんな彼女の隣でヴィカが苦笑いを浮かべて謝っている。それでも機嫌が直らないようで、アンナはむすぅと口をを曲げた。
「語り合いは無理だけど、話は聞きたいかなぁ」
「よっ! ロドスオペレーター、イースチナ! 君の博識を聞かせておくれ!」
慌ててアンナをなだめる二人。そこに、
「ルサールカ、か」と誰かがつぶやいた。
彼らが声がした方へ振り返ると、ロドスの制服を身に纏った白いコータスの女性が意味深に立ち止まっていた。
「えっと、たしかフロストノヴァさんですよね? 何か気になることがあるんですか?」
リボンの少女の質問に、白いコータスはそっと目を伏せる。
「もう、4年もたってしまったのだな」
彼女の悲哀を含んだ声色に、しまった、とリボンの少女は軽率に聞いてしまったことを後悔した。
「オネーサン、もしかして知ってるの??」
少年の疑問に対し、フロストノヴァはゆっくりと首を振って否定する。
「知っているだけだ。私が着いたときは、もう何もかもが手遅れだった」
◇ ◇ ◇
1093年1月9日 ルサールカ p.m. 9:24 天気/晴天
相も変わらず身を切るような冷たい隙間風がサンクタの頬を撫でる。
彼女にとっての三度目の冬。ジェリスタは夫の上着を羽織り、アパートのテラスから尋常ではない熱気を放つ人混みを心配そうに見つめていた。
「労働環境の改善を!」「給与を上げろ!」「共和制に移行せよ!」「軍を解体しろ!!」「感染者に権利を!」「貴族を引きずりおろせ!!」「土地を返還しなさい!」「すべての民を平等に扱え!」「皇帝の首を撥ねろ!!」「戦争はもうこりごりだ!」
怒声と変わらぬ訴えが、平穏であったはずの市内の空気を揺らす。
プラカードや横断幕が掲げられた人の列は、泥水をかき混ぜ瓦礫を押し流す濁流や津波を彷彿とさせた。
胸騒ぎを掻き立てる熱狂に当てられたジェリスタは立ちくらみを起こし、傍らに佇む夫のイーゴリに寄りかかる。
ラテラーノへの旅行から、彼女は体調を崩すことが多くなった。
始めこそ長旅からくる疲労だと誰もが思っていたが、次第に何日も寝込むことが増えた。
毎日のように微熱が出て、「奇跡」を用いれば鼻血が止まらない。モルスのような艶やかな唇に血の気は無く、青白い頬に乗せる笑みはひどく痛々しく見える。
もはや昔のように寒空の下誰かを尾行したり、全裸で駆け抜けることはできないだろう。
「あまり見るな」とイーゴリはすっかり心身の弱ってしまった妻の肩をさする。
「昔はこうじゃなかったんだけどなぁ」
彼女は笑みを浮かべるも、こみ上げる吐き気を抑えるのに必死で、どうしてもぎこちなくなってしまう。
「無理して食うからだろ」
「だってイーゴリがあんなにおいしそうに食べるから、僕もつられちゃったんだよ」
「俺は忠告したんだぞ。せめて早食いだけはやめろって」
はぁ、と呆れてため息を吐くイーゴリ。彼はジェリスタを引き寄せ、混沌に唸る人波を遮るようにカーテンを閉めた。
この騒ぎを焚き付けたのは、アガソン神父。2人の結婚式を取り行ったあの神父だ。
彼は以前よりウルサスの民の生活を少しでも良くしようと活発的な活動を行なっていた。
賃金の向上を求めた労働者、外国の思想に触発された学生貴族、ウルサスの地へ逃れるしかなかった難民、ウルサスに市場を広げようとする国外の企業、痩せ細った大地に齧り付く農民、そして感染者。
彼らの切望を集めるだけの熱意と魅力を持っており、そこに感染者の英雄的存在であるタルラが加わった結果が、この状態だ。
イーゴリが働いている工場でストを行うと聞いて警戒していたのは良いものの、正直ここまでの規模に膨れ上がるとは二人は想像していなかった。
「この様子だと感染者もかなり出張ってそうだな」
そうぼやくとイーゴリはラシャ外套を羽織る。くたびれたほうではなく、去年のクリスマスにジェリスタが彼に送った深緑色のものだ。
「これ以上酷くなる前に
今だ感染者監視隊をやめずズルズルと温い生活を送っているレオニードも、この騒ぎであれば否応なしに駆り出されていることだろう。もし暴動になれば真っ先に狙われるのは想像に難しくない。
生意気な奴だが、見捨てておくのは寝覚めが悪いと、イーゴリはドアノブに手をかける。
「まって!」
イーゴリがドアを開こうとした瞬間、ジェリスタが引き留めた。
胸の中に渦巻く不安、こんな時どうすれば良いのか。
引き留めて一日を共に過ごせばいいのか?
しかしジェリスタもレオニードの身を案じており、いくら考えても何も決めることが出来ず途方に暮れてしまった。
以前のように「先輩達」に助言を求めたくて仕方がない。しかし、体調を崩してからというもの、「見る」ことすらままならなくなってしまったのだ。
「早く戻ってきてね」
ジェリスタは何とか言葉を絞り出し、自分より一回り大きい彼の手を握る。
「すぐに戻ってくる。お前は早く元気になれ」
彼女の愁いを少しでも取り除けるようにと、イーゴリはジェリスタの手を強く握り返した。
そこから伝わる体温は、日に日に弱くなっている。
『ラテラーノはサンクタしか救わない』
あの日、本来人生で指折りの幸福な日となるはずだったあの日から、すべてがゆっくり崩れていっている。彼女も、日常も、少しずつ悪い方向へ向かっているような気がしてならない。
ジェリスタの不安な表情を見て、イーゴリは何も言えなかった。その代わりに、彼女の額にキスをする。
そしてその細い体を引き寄せて、熱を渡すように抱きしめる。
「お前はどこにもいかないでくれ」
そう呟くように言い残し、イーゴリは急ぎ足に出ていった。
悄然に沈んだ瞳は、いまだドアに向けられている。
再会のための離別から10分か、はたまた一時間か、それもまだ3分ほどしかたってないのか、ジェリスタにはわからない。
カーテンで閉ざされた窓の向こうから鳴り響く騒音は、いまだやむ気配はない。街にあふれる強い負の感情が重く彼女にのしかかっていく。
耳と目を覆い口を閉ざして、ただ夫の無事を祈り続ける。それが一番なのだ。それが、一番。そう言い聞かせ、ふらつく体に鞭を入れる。さぁ、彼が返ってくるまでに家事を終わらせよう。台所には積みあがったお皿がそのままあるではないか。イーゴリのズボンに空いた穴も直さなくては。やることがいっぱいだ! 体調を気遣ってくれる彼には悪いが、やることはやらねばならない。
だが、彼女の足は玄関へ向かう。
弱り果てた自分に何ができるというのだろうか? それほど彼の傍らから離れたくなければ、初めからそういえばよかったのに。
反対されると分かっていたから? 昔の自分ならどうしていた?
『どうして? みんな信仰を守っています! みんなは救ってくれないんですか? イベリアはダメなの? 私以外はサンクタではないから?』
神頼みや信仰は直接は救わない。行動こそが、選択こそが未来を決められるんだ。たとえ最善だと思える選択肢が最悪の結果を招こうとも、行動しなかったことよりもマシなのだと信じて。
ジェリスタはドアノブに手をかける。
酷く重く感じるドアを押し開けると、彼女を拒絶するようにぶぁっと冷気が流れ込む。
そして同時に、どこかで大きな音がしたような気がした。
◇ ◇ ◇
大通りは酷い有様だった。
先ほど大きな音がしてからというものの、人の波は狂ったように畝っているではないか。
これはまずい。きっと警官か監視隊かが手を出してしまったのに違いない。横を見ればパン屋の前に不自然な人だかりが出来ており、よく見ると1人の警官が複数の労働者にリンチされている。視界の隅では首から血を流した感染者をその子供らしき幼子が揺さぶっている。ジェリスタの為にリボンを買った店は、窓ガラスが全て破られ火の手が上がっていた。
他国を真似て作られた出来たての労働組合がもたらした、労働の希望がこの結果を産んだのか。
酷いな、これは。
地獄があるとすればきっとここによく似ているのだろうと、イーゴリは直感的に思う。
叫んだところで騒音にかき消されるか、無闇に人目を集めるだけだろう。彼はできるだけ目立たないよう、入り組んだ路地裏を走る。
耳を劈く悲鳴、空気を揺らす爆発音、割れたガラスを踏む音、救いを懇願する声。そして、怒り。
これとよく似た光景を彼は知っている。むしろそれが日常だった。だが、今のイーゴリにはひどく不愉快で耐えがたい非日常だ。
脳裏に別れ際の泣きそうなジェリスタの顔が過り、彼は足を速め崩壊した日常を走り抜けた。
しばらくすると、見慣れた黒い制服を着た男が路地裏にしゃがみ込んでいる姿が目に入る。すぐに震えるその肩をイーゴリは掴む。
「ヒッ! …先輩……? 先輩!?」
レオニードは案外簡単に見つかった。震えるレオニードの姿は酷く汚れているものの、目立った外傷はないようだ。
彼は怯えてのけぞるが、目の前の男がイーゴリと気づくなり大きな声を上げて喜んだ。
安堵のあまり緊張が少し緩んだのか、顔をくしゃくしゃにして涙をこぼす。
「みんなが、ほかの隊員が、どんどん殺されて…俺…俺は…!」
「落ち着け、まずはここを離れるぞ」
「何処へ行くんっすか!? お、表はもっとひどいことになってんすよ!?」
動揺でろれつが回らないレオニードを何とかなだめようとするも、すっかり気が動転してしまった彼はイーゴリの言葉になかなか耳を貸そうとしない。確かに表通りの暴動は拍車がかかっているようだ。それでもいつまでもここにいられるわけがない。
「制服を脱げ!」
イーゴリは強引にレオニードから制服を剥ぎ取った。この黒い制服は格好の的となる。皆が忌み嫌う、黒い毒虫に比喩される監視官の黒い制服。
とりあえず、これさえなければ
「監視官がいたぞ!!」
誰かが叫んだ。
何かが漏れる。滑り気を帯びた液体が服を濡らす。
一歩遅れて、激痛が走る。目を向ける。赤い。深緑色の上着がどんどん違う色に染まっていく。
腹に突き立てられた短剣から、己の血が滴り落ちていた。
妻から贈られたばかりの上着が。
痛みなど二の次に、彼の頭に真っ先に思い浮かんだのは、上着を台無しにされたことへの怒りだっ
尖った鉄片がイーゴリの胴を貫く。
ぼろぼろの斧が足に振り下ろされる。
ボウガンの矢が肩に突き刺さる。
背中に包丁が突き立てられる。
足元に広がる赤い水たまり。滑り気を持ったそれに何人か足を取られるが、誰も気にしない。
口内にあふれた血のせいで息もままならない。
イーゴリは今に叫びだしそうなレオニードを手振りだけで静止させる。
「くるな」「にげろ」
声には出さず、唇だけを動かした。
「俺たちの平和を奪いやがって!」
「あの人を返して!」
「妹の仇だ!!」
「俺たちだって勝てるんだ! 俺たちを散々甚振ってきた監視隊に勝てるんだ!」
「感染者に勝利を! 自由を!」
「俺たちは一人じゃない!!」
熱狂がまた1人、呑み込んでいく。
◇ ◇ ◇
熱気と冷気に翻弄され、胃の内容物が逆流する。
通いなれたアパート前の通りすらまともに歩けず、すぐにジェリスタの足は止まってしまった。
憎い、もろくなってしまった自分の体が憎くて仕方がない。日が経つにつれ、体と精神の歪がどんどん広がって息をすることすらままなくなっている。
ラテラーノ、地上の楽園と呼ばれるサンクタの故郷。あそこに行ってしまったことが間違いだった…、いや、今の自分の存在そのものが異物であったのだと、真実を突き付けられただけなのだ。
「行かなきゃ」
それでも、今は足を止めるわけにはいかない。悲鳴を上げる体に鞭をうって、彼女はよろめきながらも立ち上がる。
「ジェリスタ!!」
傾いた彼女を、駆け付けたアリーナが支えた。
「タルラから計画を聞いて心配でこっそりと来たのだけど…正解だったようね。エレーナ達もこちらに向かっているわ」
スノーデビル部隊、さらに事態を重く見た遊撃兵、「感染者の盾」の異名を持つ重装戦闘員達が来れば暴動を抑え込むことが出来るだろうと息を荒げたアリーナは語る。
しかし、ジェリスタには関心は無く、彼女を置いて先へ進もうとした。
「どこへ行くの?…まって、イーゴリはどこ?」
今にも躓きそうなサンクタを引き留め、ただならぬ違和感を口にする。
「レオニードを探しに」その先はこみ上げる咳に遮られる。
「私も行くわ」
むせる細い背を支え、エラフィアは街を瞠目する。
まるで黄昏のように赤く染まった空。酷い、酷い有様だ。
燃えやすい麦藁のように、街が、人の感情が燃え上がっていく。
「これが、あなたの燃やしたかったものなの? タルラ」
◇ ◇ ◇
「大丈夫っすか先輩? とりあえず先輩の家でいいっすよね?」
青年は軽い口調で傍らのイーゴリに話しかける。その声は必死に平常を装っているが、酷いものだ。動揺で震え、恐怖に裏返り、そして罪悪感に押しつぶされていた。
レオニードがどんなに明るく振舞おうとも、それは欺瞞に過ぎない。
引きずるように連れるイーゴリの後に残された血液を覆い隠すことなどできやしないのだ。
「しかしあいつらも単純っすね。『向こうに感染者を襲ってる監視官がいるぞー!』なんてわかりやすい嘘にみんな引っかかって。おかげでこうして逃げれたんですけどね」
機転を利かし怒りと狂気に呑まれた感染者の気を逸らすことに成功したレオニードは、先程よりも気丈に振舞って見せた。だが、言葉は続かない。
沈黙が喧噪を押しのけ、青年の喉元を締め付ける。
「これが、因果応報ってやつなんすかね」と悪態をつくが、答える者はいない。
込みあがる激しい感情を唾と共に飲み込んで、青年は進む。
気が付けば次第にけたたましい喧噪は、爆ぜる炎の音に塗り替えられていた。ウルサスの冬すら退ける熱がレオニードの肌を撫でるも、彼は歩みを止めない。
烈火の中で邁進を続け、崩れた外壁が見慣れた通りの残骸だと気が付いても立ち止まることはない。
「あーあ、酷いことになってますね、先輩。これもかれも感染者がぜーんぶ悪いんっすよ」
そうは思わない。口に出た言葉とは裏腹に、レオニードはそうではないことに薄々気が付いている。
感染者に対する悪いイメージは、ウルサスが国の腐敗から目を逸らさせるために誇張したもので、アリーナといった普通の人と共存しようと努力する真っ当な人々がいることを知っている。
この騒ぎの当事者の半数は非感染の労働者だし、さらに言ってしまえば金銭目当てに感染者監視隊をやめなかった自分が悪いのだと、頭では理解してしまっていた。
それでも、何かのせいにしなければ、感情に押しつぶされて歩みを止めてしまうのではないのかという恐怖が彼を襲う。
歩いて、歩いて、歩き続けて、果てが無いような道のりを経て、ようやく再会すべき人物の元へとたどり着く。
すでに青年の肩に伝わる鼓動は止まっていた。
◇ ◇ ◇
ジェリスタはその時のことをよく覚えていない。
ただ、こう思ったことだけは、やけに頭にこびりついていた。
『ウルサス人は名前だけではなく顔までそっくりなのか』
そう、思いたかった。
血まみれて、深緑色だった上着もすっかり別の色になってしまったそれが、自分の知っている人間だとは思いたくはなかった。
だが、現実は目の前から動かない。彼女の選択は、別れが待つ邂逅を多少早くしただけに過ぎなかった。
「根が悪い人じゃなかった。ただ、それ以外の選択肢を知らなかっただけで、ちゃんと足を洗ったわ…」
「無知は罰と? 何も知らないから傷つけて許されることなどないと?」
「僕はどうすればいいの? イーゴリ」
「僕は」
「
「
「
すでに冷たくなった男の前に座りこんだサンクタ。その頭上に浮かぶ光輪は不規則に点滅し、今にも消えそうである。
彼女が現実に打ちのめされ錯乱してしまったのかと、慌ててアリーナはその小さな手を掴んだ。
「ジェリスタ! しっかりして!!」
「…?」
焦点が合うが、その目に光は戻らない。まるで呼ばれた名が、誰のものなのか認識できていないようだった。
「あなたの名前はジェリスタ! イヴァンジェリスタ・フョードロヴナよ!」
アリーナに揺さぶられ、ようやく自身が呼ばれていることに気が付いた。
「そう…ね。
彼女はいつものように笑みを作る。自分がどんな表情をしているのかよくわからないまま、強引に。
◇ ◇ ◇
リビングのテーブルにイーゴリの遺体を横たわらせ、棺を待つ。
これは今朝、ブリヌィの早食い競争を行ったテーブルだ。皿はまだ洗っておらず、狭い台所に積んだまま。彼が口をつけたフォークに残っていた蜂蜜はすでに固まっている。洗うのに苦労しそうだ。
冷蔵庫には作り置きしたキャベツのシチーが、イーゴリが作ったシチーが冷えている。じゃんけんで勝った方が作るというルールはあまり周りからは理解されないが、二人とも料理を作るのが好きだったので余裕があるときは取り合いだったのだ。
玄関の隅にはくたびれた彼の上着が、持ち主を待つようにぶら下がっている。ジェリスタはこの上着を着ているイーゴリによく米俵のように担がれたものだ。
時計が無常に時を刻むも、項垂れるジェリスタにはその不快な音すらあまりに虚しく、まるで時が止まってしまったかのように感じられた。これもイーゴリが買ったものだ。
部屋中至る所に彼が今朝までいた痕跡が残っている。
少しごわついたシーツにはまだ彼の温もりが残っているような気がしてしまう。
だが、もうどこにもその体温はないのだと、ウルサスの厳しい冬が1人きりの彼女へ現実を突きつける。
ジェリスタは、縋るように物言わぬイーゴリの手を握った。
冷たいのとは違う、奇妙な感覚。
温もりはない、体温はない、そこにもう何もない。
ただ腐るのを待つだけの肉の塊でしかない。
自分よりもがっしりとしたその手が、握り返すことはもうないのだ。
その指先に残る傷跡をなぞる。仕事で出来たものなのか、家事でできたものなのか、何もわからない。
爪を立ててるが、血は流れない。何も起きない。彼女を置き去りにして行った証なのだ。
少しずつ空が白んでいく。夜明け前のもっとも冷えるこの時に、ジェリスタは1人だった。
彼女を彼女たらしめていた碇は既に無く、膨大な記憶と激情に攫われていくのがわかった。
彼を置き去りに? それとも自身が置き去りにされたのか?
決して目に見えることのない、太古の昔から存在する境界線。そこを越える方法は頭でこそわかっているが、漠然と彼女には行けないような気がして、実行に移すことはできない。
ただ、彼の冥福を祈ればいいのだろうか? そうして何時しか同じ場所に行けるように慎ましく生きればいいのか? 同じ場所? こんな他人の記憶だけで出来た僕には、魂があるのだろうか?
うめき声すら出せないまま、ジェリスタは永遠と思考を繰り返す。
街は未だ混沌の渦中。それでもアンドアインは朝一に彼の葬儀を執り行ってくれるとジェリスタに約束してくれた。
朝日が昇れは、彼の遺体は運び出されてしまう。そうすれば、本当に一人きり。
たくさんの思い出と、彼が生きていた証に押しつぶされて、息もできなくなるだろう。
そんなこと、とても耐えられない。しかし別れを先延ばしにすることはできやしない。血濡れの今日はもう終わってしまったのだから。
「でも、どうすればいいの?」
その問いに答えるものはおらず、ただ針の音だけが一人きりの室内に響いていた。
ハネムーン先によるルート分岐の概要
・ラテラーノ
過去の記憶の断面を思い出したことによって精神に異常をきたし、早い段階で衰弱が始まる。イーゴリの死に目に会えない(現ルート)
・ヴィクトリア/行かない
衰弱が始まるのがラテラーノルートより遅いため、二人でレオニードの無事を確認しに行く。その後暴動に巻き込まれ、イーゴリは鉱石病に感染してしまいレユニオンでの戦いに身を投じることに。
・リターニア/イェラグ
大体ヴィクトリアルートと同じだが、地元の有力者と知り合うため早い段階でレユニオンを離れロドスで余生を送る。
・ボリバル
移動距離および現地でギャングがらみのトラブルのせいで1093年までにウルサスへ帰ることができず、そのままフェードアウト。のちにドッソレスで亡命ウルサス貴族に受けの良いウルサス料理店を夫婦で営むようになる。
『微々たる差だったとしても、未来というものは時の流れと共に過去となり、貴方の選択によって異なる一面を見せてくれるでしょう』
投票ありがとうございました。