移動する都市が低い唸り声をあげている。
静寂とはいいがたい春の夜道、一人のウルサスが不機嫌に眉を顰めながら帰路についていた。
何処にでもあるしがない源石製品の工場に勤めるイーゴリだが、ここまで遅くなったのは転職して初めてのことだった。
感染者監視隊にいたころに比べ収入も随分落ち、朝は早く拘束時間もそれなりに長い。それでも、彼女との出会いによって心変わりした彼にとっては、ずっとマシな仕事だ。
それはそうとして、予期せぬトラブルによる長時間残業は肉体と精神に悪い。
空に浮かぶ双月が照らす明かりの少ない街並みは、通いなれた道のりだというのに違和感が付いて回る。
一刻も早く温いベッドに滑り込みたい! 疲労を抱えたイーゴリには、あの安い異鉄スプリングの軋む音すら愛おしいく思えてきた。
せめて何か小腹を満たしておきたいが、夜間に空いてる店などこんな小さな街にあるはずもない。こんな時間だ。普段ならすでにジェリスタは寝ている時間だし、物音で起こしてしまったら、気分が悪いなぁとため息をつく。
そんな不機嫌を抱えたまま冷たい帰路を経て、ゆっくり自宅のドアを開けた。
ほの赤い光が、すっかり見慣れた光がリビングを照らしている。
狭い室内の中央にはテーブルがあり、(テーブルだって?)その上に光の輪が浮いていた。
「ジェリスタ?」
イーゴリの予想とは異なり、テーブルには寝落ちしたジェリスタの姿があった。どうやら彼の帰りを待ち続けていたようで、着替えも済ませずすやすやと寝息を立てていた。長い淡い色の蓬髪がテーブルの上に広がる様子は、そこだけ雪が積もったようではないか。
先に寝ておけばいいのにと思いつつ、申し訳なさと帰りを待つ者がいる喜びに少しばかり疲労が和らいだイーゴリであった。
彼女を起こさないよう静かに着替えようとすると彼の努力も虚しく、すぐにジェリスタは目を覚ました。
「おかえり……ご飯にする? お風呂にする? それとも私?」
大きく伸びをすると彼女は目をこすりながら、ふやけた笑みを浮かべた。
「寝ろ」
「ムッ! 先に言うことがあるよね?」
イーゴリが率直な意見を投げるとジェリスタは唇を曲げ、ウルサスに向かって指を刺す。
くたびれた男は暫し当惑するが、すぐに彼女の言わんとすることを理解し、少し気まずそうに頬を掻いた。
「……ただいま」
「よろしい!」
満足のいく回答に、頭上に浮かぶ光輪よりも明るい笑みを輝かせた。
ぐぅ~
鳴り響く間抜けな音。音のでどころは……どうやらジェリスタの腹のようだ。
「もしかして食ってないのか?」
「そうなのです。腹ペコあおむしなのです」
相変わらず意味の分からないことを言いながらドヤァと胸を張る。いや、なんでだよ。
「先に食えばよかったのに」
「イーゴリと一緒に食べたかったんですよーだ」
ジェリスタは乱れた髪をまとめながら台所へ向かうと、コンロの火をつける。使用者のアーツ操作を必要としない、ウルサスでは珍しい近代家電だ。
「まってて、今晩御飯用意するから! 持つべきものはクルビア家電~」
変な歌を口ずさみながら遅めの夕食を用意するその後ろ姿はとても楽しそうで、気がつけばイーゴリもつられて口元が緩んでいた。
「その匂いは鱗獣のシチーか?」
「せいかーい」
ささっと温めなおしたシチーを取り分け、小さなウルサスフリエーブを添えて遅めの夕食の出来上がりだ。
「(元気な極東語)いただきまーす!」
席に着くと待ってましたと言わんばかりに奇妙な外国を叫び、あ イーゴリよりも先にシチーを口に運ぶ。
このジェリスタの奇妙な習慣を、イーゴリは勝手にサンクタ特有の食膳の祈りだと解釈していた。
キャベツと鱗獣をブイヨンで煮込んだだけのシンプルなレシピだが、不思議と飽きは来ない。
親に飽きてもシチーには飽きないという諺があるのも納得の味だ。
レシピも人によって異なり、ジェリスタは酢キャベツを好んで使い、イーゴリは塩キャベツをマシマシにする。つまり今回は、酸っぱ目だ。
鱗獣のみは淡白で味の主張は無いものの、ほろほろとばらけていく肉の食感はあるか無いかで大違いだ。
ウルサスフリエーブのパサつきも、このスープがあればちょうど良いぐらい。時間も遅いので少なめにしてあるが、もう少し多めにいただいてもいいかと食欲旺盛なウルサスはスープを飲みながら思うも、一日寝かしたシチーの方が体感美味なので朝食の楽しみにしておこうと留まった。
なら、紅茶でも頂こうかとウルサスケトルに手を伸ばそうとすると、ジェリスタが突然席を立つ。
「寝る前のカフェインよりこちらをどうぞ」
すかさず赤い液体をグラスに注ぎ、イーゴリに差し出した。その見慣れた色と香りに、思わず彼は身を乗り出す。
「もしかしてモルスか?」
ウルサスの夏に定番のベリーを使った飲み物のはずだが、今はまだ春。この天使はどうやって季節外れのベリーを入手したんだ?と目を丸くしてグラスを持ち上げる。ジェリスタの光輪や羽根とよく似た色の透き通った液体、それをまじまじと見つめ、再び彼女へと疑問の視線を投げかけた。
「フェヴローニャのみんながね、寒いウルサスの北の方でも畑を作ることはできないかってアーツを使ったハウス栽培とか研究してるんだって。その成果第一号を貰ったのでモルスにしてみました!」
フェヴローニャ…あぁ、あの危なっかしい奴らの集まりか。イーゴリはいい印象を持たない村の名前に眉を顰める。まじめにウルサスを変えようと考えているんだなぁと少し感心するも、出来たら関わらないでくれと心中でぼやきながらグラスに口をつけた。
甘ずっはい夏の味が口内に広がり、一瞬季節を勘違いしそうになる。温かい紅茶はいつでもおいしいが、これはこれでとイーゴリは満足そうに最後の一滴まで飲み干した。
「(元気な極東語)ごちそうさまでした!」
ペロリと平らげたジェリスタは外国語で食材への感謝を口にする。普段よりも機嫌が良いのでは? と思ってしまうほどの清々しい声につられ、
「(片言の極東語)ごちそ
慣れない外国語を真似してみるイーゴリ。ウルサス語しか見聞きしたことのない彼にはなかなかハードルが高いようで、聞き取ること自体困難のようだ。
「うーん! 微妙!」
「そもそも何語だよ」
「日本語だけど極東語でいいっぽい!」
いったいどこの国だよ日本、と飽きれたイーゴリは肩をすくめる。彼が食べ終わった食器を手際よく片付け始めると、何故かジェリスタが道を阻む。
「(極東語)おはよう! こんにちは!」
唐突な外国語をイーゴリに向ける。さてはさっきのをもう一度やって欲しいのかと彼女の望みを察したイーゴリは、渋々聞こえたままに単語を返した。
「
「うーむ!」
舌足らずな熊男もかわいらしいが、そうじゃないとジェリスタは首を傾げる。どうやらウルサス語の発音の問題で、正確に聞き取ること自体困難なようだ。
その後もジェリスタによる極東語講座は続いたが、ジェリスタが大きな欠伸をしたのでお開きとなったのだった。
部屋が狭いので彼らは初めから同衾しています。よく結婚するまで何も起きなかったな。