青空と雪原と神託   作:テキサス仮面

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全ての夢は湖の底に沈み 時さえもここで凍える


青空と雪原と神託

 ついにやりやがった。

 

 この頃やけに上の連中がピりついてると思っていたら、あの情緒不安定なエリクがタルラを殺そうとしやがった。

 すぐに盾兵の連中に取っ捕まって、タルラには傷一つついてない。

 だからと言って「昔からの戦友だ。私は彼をよく知っている」とか言って無罪放免にしようとしたのが不味かった。

 タルラの奴、自分の立ち位置がわかってない。周りの連中がそれを許すはずないだろ。

 それにエリクは昔から非感染の学生貴族に手を貸してたこともあって、過激派連中からの印象はめちゃくちゃ悪い。

 タルラの認識以上に膨れ上がったレユニオンという組織を、これ以上ばらばらにするわけにもいかず、揉めに揉めた結果タルラの手を以てエリクを処刑する羽目になった。

 

 エリクは地面にその首が落ちるまで、タルラを殺そうとした動機を言わなかった。

 

「何もない」

 

 とは口にしていたが、そんなわけあるか。何もないのにクロスボウを突き付けるような真似をするはずないだろう。

 あの男の不可解な言動もあり、

「タルラは何かしら皆に言えないような悪行に手を染めているのでは?」 などとレユニオンの末端を中心に疑心暗鬼になり始めたのは必然だろう。

 

 問題はその後だった。

 

 エリクと昔からつるんでたソフィアがエリクの遺品を整理していたところ、奴が残したメモが見つかった。

 

タルラはコシチェイの娘

 

 アタシらには何のことだかさっぱりだが、これに残っていた学生貴族連中がみんな真っ青になりやがった。

 どうやらコシチェイってのは貴族共の中でも悪名高い奴らしく、あのお人よしのソフィアまで出て行っちまった。

 最近ピりついてたのはこれが原因だろう。何かあってタルラの正体が露見しちまって、上はそれが下に漏れないよう警戒しまくってたってわけか。

 おかげで穏健派連中には悪いうわさが蔓延。過激派はそれをもみ消すため抑圧するわと、まるでウルサス政府みたいな暴挙をするようになりやがった。

 

 これのどこが「感染者は自らの立場に誇りを持ち、積極的に力をつけ、そしてそれを行使すべきだ」だ? 

 もう付き合ってられない。

 

 アタシは「イーゴリ」を連れて、崩壊した街から逃げ出した。

 

 行くあてなんかない。とっくの昔にウルサスを離れたアンドアインとかいうサンクタを頼ることも考えたが、連絡を取ってる時間は無い。

「イーゴリ」は「レユニオンの聖女」と勝手に祭り上げられてるが、彼女は非感染者とも友好的で、団結力を高めたい過激派からすりゃあ目障りな存在。うだうだしてたら監禁されて、「奇跡」で使い潰されかねない。

 タルラが誰の娘であろうと、どんなに本人が潔白だったとしても、今のアイツは「レユニオンの英雄」だ。疑われること自体を周りの人間は良しとしない。

 

 そんな過激思想=タルラ派って構図がより一層はっきりしてしまったせいで、自然とアリーナの周りに集まった穏健派=アリーナ派とタルラ派は衝突。当人達の望まない形で溝が出来ちまった。両陣営が「レユニオンの聖女」の人気を取り合い始めるのは時間の問題だろ。

 

 ただえさえアイツの体調はどんどん悪くなってるんだ。今なんて水すらまともに飲めなくなってるんだぞ。やってられるか。

 持てるだけ食糧を詰め込んで、アイツを布で包みまくる。

 誰にも見つからないように、前もって荷物を作っておいて正解だったよ。アイツをずっと気にかけていたアリーナには悪いけど、きっとわかってくれるだろう。落ち着けたら彼女にだけは連絡をして……いや、それは後でいい。ここから離れてから考えることだ。

「イーゴリ」を抱えてる間、彼女は不安そうな素振りを見せず、ただ憐れむような笑みを浮かべていた。……嫌じゃないならいいけど。

 

 後ろ髪引かれるような違和感を振り払う。考えるのは後、後でいい。

 荷物をまとめ都市が移動するタイミングを見計らってスノーモービルで逆方向に走り出す。

 気付かれるのは時間の問題だろうが、逃げてるのはレユニオンも同じ。監視隊に軍にウルサス中から追いかけ回されてる以上、そう易々と追いかけてはこないだろう。

 そう祈って雪原を走り抜けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最悪だ最悪だ最悪だ。

 

 最悪なタイミングでスノーモービルがエンストしやがった。

 すぐそばの雑木林に無理やり運んで修理を試みるが、原因不明。機械素人のアタシにはサッパリお手上げ。

 動かなくなった機体を怒りのまま蹴り飛ばすが、良いことなんて起こりやしない。

 街を離れたのはいいが、目を凝らせばいまだに視界に映る距離。つまり、追手と最も遭遇しやすい状況ということだ。

 

 とりあえず、「イーゴリ」を木に凭れ掛かけさせた。

 意識が朦朧としているのか、彼女はうわ言を漏らしている。……耳を澄ませると、自分の名前を呟いているようだった。

 血の気を失ったその頬に伝う涙を袖で拭ってやる。

 ……ますます弱っていっている。一刻も早くここから──────

 

 

「おっと、動くんじゃねえぞ」

 

 背後から刺さる敵意に気がつき、反射的に振り向いたが手遅れだった。

 視界に入れるだけで吐き気がする黒い制服。

 糞ったれの感染者監視隊の野郎が、アタシにクロスボウを向けていた。

 声からして女だから野郎じゃないけど、嬉しくもなんともない。

 マスク越しだろうが、その下に嫌らしい獣の笑みを浮かべていることがまるわかりだ。

 

「あーあ、運が無いなお前ら。こんな何にもない場所で足が無くなるなんてよ」

 

 監視隊の女の着けた防護マスクから耳障りな呼吸音が響く。

 

「あの移動都市から来たのか?」

 

「あの? 一体どこのことかね?」

 

 軽い口調で返しながら、隙を窺う。焦るな、見極めるんだ。

 

「とぼけんじゃねぇ」

 

 監視官は武器を向けたまま、じりじりと距離を詰めてくる。

 

「お前どっからどう見てもサルカズじゃねえか。ってことは感染者だろ」

 

「酷い偏見だね。もっとこっち来なよ、アタシが感染者かどうかはあんたの目で確かめな」

 

 手招きしながら喉を乗らして笑ってやる。

 

「バカいえ」

 

 矢や空気を割き、真っすぐにアタシの体に衝撃を与える。

 女は躊躇いもなく引き金を引いていた。

 アタシが肩を貫かれた痛みに悶えている間に、次の矢を装填。そして再び間抜けなアタシに突きつける。

 

 見え透いた挑発に乗るほど馬鹿じゃない、か。

 

 弓のように張り詰めた空気。弾かれれば、気が緩めば、ケリが付く。どちらかが死ぬ。

 

 肩から滴り落ちる血が、雪にシミを作っていく。

 アイツの髪みたいな色が視界の隅で汚れていく。

 

 ……そういえば、アイツは、「イーゴリ」はどこに行った? ついさっきまで居たはずなのに、アタシの背後には何の気配もない。

 意識が朦朧として、動けなかったはず。まさかこんな時までアイツの姿を探す羽目になるだなんて、ついてない。

 そう諦め交じりの思考が脳裏をよぎった時、監視官とアタシの間で微かに何かが動いた。

 

 

「イーゴリ……? イーゴリなの?」

 

 静寂を破ったのは、サンクタの力のない声だった。

 

「んぁ? なんだこいつ、一体いつから……」

 

 すぐそばに座り込むサンクタの存在に気が付いた監視官は、わずかに視線を動かした。

 その隙を逃すわけにはいかない。アタシは足に力を入れ、女に向かって思いっきり跳躍する。

 

 

「なっ!?」

 

 相手の不意を突き、全身を使ったタックルを食らわせた。ただ相手は想像以上に重く、押し倒すことは叶わない。だが、アタシはついていた。衝撃で握られたクロスボウが女の手から離れたのだ。

 その一瞬を見逃さず、ぶんどって引き金を引く。

 

 勝負は一瞬だった。

 

 空を切ってクロスボウの矢は打ち出され、勢いが死ぬことなく女の喉物に突き刺さる。

 分厚い上着を貫いた証拠に、黒い制服の隙間から真っ赤な鮮血が飛び散った。

 

 どさり、と監視官が雪の上へと倒れ込む。

 

 ははは、我ながらよくやったよ。「イーゴリ」にも感謝しなくちゃね。

 緊張の糸が解け、肩が急激に熱を持つ。

 

「いっ……*ウルサススラング*」

 

 背中側が濡れてるってことは、貫通してるってことか。出血量によっちゃあ、抜くのは後の方がいいな。

 傷は後回しにして、「イーゴリ」のもとに駆け寄った。また意識が混濁したのか、アタシが目の前にいるのに何の反応も示さない。

 よくこんな状態で動けたな、と内心驚いていると、遅れて体を引き裂かんばかりの激痛が()()襲いかかってきた。

 

 

 

 

 ……は? 

 

 

 

 

 なんだ!? なにが起きた!? 

 

 意識が飛びかけ、一瞬視界が暗くなる。あまりの痛みに膝から崩れ落ちそうになるが、強引にその場から飛び退いた。直感が警鐘をこれでもかって暗いうるさく鳴り散らしている。こんな時は距離を取るのが一番いい。

 案の定、さっきまでアタシのいた場所に斧が振り下ろされた。

 長年の経験は結構当てになるもので、今回も命拾いしたようだ。

 

 先程首に風穴を開けたはず監視官が、斧を携えこちらを睨む。

 鋭い刃先は血に濡れ、それがアタシのものだと気付かされる。

 

 こいつどこにそんな力が残ってたんだ!? 

 

 監視隊の黒い制服は真っ赤に濡れ、致命傷を負っているのは明らか。だが、眼前の女は斧を握り締め、なにがなんでもアタシを道連れにしてやると殺意を放つ。

 

 ご丁寧に撃ったところと同じ場所を狙いやがって。

 熱と痛みは感じるが、腕には力が入らない。腱とか神経とかなんか大事なやつが切られちまったのか? 

 だが、武器はこちらにもある。

 無事な方の腕は、まだ奪い取ったクロスボウを握っていた。

 弦を引くのは無理だが、素手よりずっといい。

 

 死にかけの監視官が、重さに任せアタシめがけて斧を振り下ろす。

 よくもまあ、誰もかれも動けるもんだ。関心するよ、全く。

 アタシは少しだけ体重を横にずらした。死に至る衝撃が真横に落ちていくのを感じる。おー、怖わ。

 雪を真っ二つにする音を耳にした直後、アタシは下を向いた監視官の頭蓋を思いっきりクロスボウで殴りつけた。

 

 鈍く、何かが砕けた音が雑木林に響く。

 黒い甲虫のような塊は、再び地面に落ちた。

 

 

 何とかなった。よし、今回も何とかなった。さすがにこれで死んでなかったら、おとなしく死んでやるさ。

 シャレにならない冗談に半笑いが浮かぶ。マジで、やめてくれよ? 

 

 肩の痛みに歯を噛み締めて耐え、散らばった荷物から布切れを見つけて傷口をきつく縛る。矢が邪魔だったのうまく巻けない。

 出血は止まらないが、そのうち何とかなるだろう。

 行く当てなんかない。けど、新しい生活は見つけられるはずだ。

 ここより温かい土地に行って、小さな家でも建てよう。

 

 とにかく一刻も早く離れないと。あの街から、「イーゴリ」を引き離さないと。

 

 そのためには、偶然「イーゴリ」の膝上に倒れやがった監視官を退かす必要がある。

 しかしやたら重い熊を力の入らない腕で動かすのは困難だ。

 死んでからも邪魔しやがって。

 二度と見たくない憎らしい制服を掴んで、

 

「イーゴリ」はポツリと口を開いた。

 

「……なつかしいなぁ」

 

「──────え?」

 

 彼女は虫の息の監視員の頭をその膝に乗せる。

 あの感染者監視隊の糞野郎だぞ? 恐ろしいまでに穏やかな彼女のその顔には、微塵も恐怖の色は見えない。状況が理解できないくらい朦朧としているのだろう。そうに違いない。

 だが、なつかしい? 何が? 

 

 サンクタの親しげなその眼差しは、黒い制服に注がれている。

 

「なに、が?」

 

 分かりたくない

 知りたくない

 聞きたくない

 

 でも、アタシ気持ちを無視して疑問は口からこぼれ落ちてしまっていた。

 

「僕のね、大切な人が、着てたんだ」

 

 雪に吸い込まれそうな弱々しい声を絞り出すように、彼女はアタシの問いに答えた。

 今まで見たこともない穏やかな表情で、監視隊の黒い制服を懐かしむ。

 

「感染者監視隊だぞ?」

 

 きっと色で勘違いしてるだけだ。

 そうであるはずだ。

 

「うん」

 

 縋るような気持ちは真正面から打ち砕かれる。

 

 監視隊の服、それが意味する言葉は一つしかない。

 アタシは散々、殺してきたはずだ。

 

「……その人は、今どこにいるんだい?」

 

「ルサールカが、壊れた時に、置いて行かれちゃった」

 

 とくに、ルサールカで。

 あの街で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あっ──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────あああああああ

 

 彼女の大切な人を殺したのは、私じゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◇◇

 

 アリーナが「イーゴリ」とアンヌシカの不在に気がつき、捜索を始めて数時間後。

 スノーモービルによる移動の痕跡を追い、レオニードと共に彼女を発見したときにはすでに手遅れだと一目でわかった。

 木に凭れ掛かるサンクタの膝上には、血まみれの感染者監視官の死体。その手に握られた斧は、サンクタの細い腕に突き刺さっていた。

 純白の大地で嫌なまでに目を引く鮮血はすでに雪に埋もれ始めており、それが残酷に時間の経過を叩きつける。

 

「……だぁれ?」

 

 雪を降らせるこの重い空のように、光を失った瞳がゆっくりと足音のする方へ向けられる。

 眼を開いているのに、目の前にいるアリーナの姿をとらえることが出来ていない。

 

「ジェリ……スタ……?」

 

 アリーナは眼前の惨劇に喉を震わせる。

 

「……アンヌシカ? じゃなさそう。彼女、見てない? 大きな角と、緑髪の片メカクレの美人さんでぇ」

 

「アリーナよ! ジェリスタ!! しっかりして!」

 

 力なくスノーモービルにもたれかかるサンクタに駆け寄るエラフィア。彼女が眼前に来てようやく

「あぁ、アリーナかぁ」と声の主を理解したようだ。

 彼女らの背後で眼前の状況を飲み込み切れないレオニードのうめき声だけがやけによく響く。

 

「彼女を責めないで。あの人は僕の為にしてくれただけなんだから」

 

「もう、しゃべらないで!」

 

「でも、何処へ行ったんだろう? 怪我してないといいなぁ」

 

 ぼんやりと、友人らとお茶を楽しむかのような口調。その表情はとても穏やかだ。

 

「ねぇアリーナ。アンヌシカ見てない?」

 

 彼女の顔から色が消えるが、サンクタのかすんだ視界ではわからない。

 

「えぇ見たわ」

 

 アンヌンシカ、このサンクタを連れ出したサルカズの女は、ここから少し離れた水辺で死体が発見されている。肩の傷による出血死なのか、凍死か溺死なのか、アリーナたちには判断が付かなかった。

 

「大丈夫だった?」

 

「ええ」

 

 穏便に済ませるために、日に日に嘘を吐くことを選んでしまっている罪悪感にアリーナは吐き気が止まらなかった。

 

「そっかぁ……よかった」

 

 ほっとしたようにやさしく微笑むと、サンクタは小さく体を震わせる。

 

「ねぇアリーナ」

 

 浅い呼吸と小さな声は、しっかりと耳を傾けないとしんしんと降り積もる雪に吸い込まれていきそうだ。

 

「無理して話さなくていいわ。すぐにお医者様の所へ」

 

「神託」

 

 弱弱しくもその一言は、はっきりとアリーナを遮った。

 

「もうあげられるものはこんなものしかないけど、聞いて、ね?」

 

 口元から血が零れ息を吸うこともままならないというのに、サンクタは言葉を紡ぐことをやめない。

 彼女の手を握るアリーナも、泣きはらしたレオニードも彼女を止めることが出来なかった。

 

 

 チェルノボーグの惨劇を止めること。

 そのためにロドスと協力すること。

 そしてタルラをコシチェイの呪いから救い出す事。

 あとできたら、彷徨える修道院を救ってほしいと付け加える。

 

 

 伝えたいことを言い終わると、雪片がジェリスタの肩から滑り落ちた。

 

「やっと死ねる」

 

「いいえ、いいえ。やっと、終われる」

 

 彼女は微笑む。

 

「イヴァンジェリスタ・フョードロヴナはあの時に死んで、ここにいるのはただの亡霊。もう行ってしまったあの人の名前に縋り付いていただけの亡霊なの」

 

「イーゴリ」は偽ることを、騙ることをやめた。

 自分の最後、最愛の人物と傍にいることが出来ないのならば、せめて目覚めた時と同じ光景の中で死にたい。

 名前と共に覆い隠していた、彼女のひそやかな願い。それが漸く叶うのだ。

 あまりにも身勝手すぎて、正直に話しても誰も叶えてくれないのは明らか。

 

 だからアンヌシカの善意を利用した。

 

 スノーモービルを軽く素手で触れ、燃料不足で雪原で立ち往生するように仕組んだのは彼女自身。

 優秀なハンターであるアンヌシカなら、凍土でそう簡単に死ぬはずがないという信頼がもたらした最低最悪な「奇跡」の使い方。

「イーゴリ」、いや、ジェリスタは彼女が自身を助けるために、人を探すなり燃料になる源石を探すなりしているに違いないと信じ切っている。その間に何らかの方法で自害しようと思っていたが、手間が省けたと心から喜んでいた。

 

「僕にはね、イーゴリしかいないんだ。ごめんね、()の選択はいつも自分勝手で。誰も救うことなんでできない。聖女なんて、どこにもいないの」

 

 サンクタは空を見る。

 霞み、澱み、色彩の失われた視界に映るのは、見慣れた灰色の空。

 何処までもいけそうで、何処へも行けない遠い遠い空。そこへ向け彼女は弱弱しく手を伸ばす。

 

 きっとそこにはあの日のように、そう、彼と出会った時のような、海のような晴天が広がっているのだと、迷うことなく彼女はつぶやいた。

 

 透き通るほど白い世界に、ひらりとリボンが落ちる。

 彼女の髪を縛っていた赤い赤いサンクタのリボン。それが解け、彼女の血のように雪に沈んでいく。

 

 大切な思い出を抱いて飛び降りる様に、そっと瞼が落ちる。

 青い青い空に溺れることを夢見ながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『だったら、これも未来のお前が見てる記憶ってやつなんじゃないかい?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢、ね。考えたことなかった。

 

 もし、これが夢なら。

 

 よく見る「予知夢」なら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジェリスタは目を開いた。

 彼女の涙はまだ乾いていない。だが、すでに彼女は全てを見た。

 

 

 夢からの覚醒を経た瞠目の先に、朝日が、

 見慣れた窓から差し込む日差しが、

 愛してやまない、イーゴリが寝息を立てていた。

 

「夢……?」

 

 宇宙が泡のように弾け、ひとつの世界が消えてしまったような感覚。

 たった今見ていた光景があまりにも鮮明すぎて、見ている光景と夢の区別がつかずキョロキョロと辺りを見渡した。

 見慣れた我が家。狭い部屋にこれでもかと詰め込まれたクルビア製家電。

 そんな当たり前の風景に押し流されるように、「夢」の記憶は急激に薄れていき、瞬きする間にほとんどこぼれ落ちてしまった。

 涙が止まらない彼女の元に残ったのは、ごくごくわずかな断片と強い悲しみの感情だけ。

 

 しかしそれは、彼女の選択を変えるには十分過ぎるほどだった。

 

「神託ぅ! 神託ぅ!」

 

 濡れる頬をシーツで無理やり拭い、一糸纏わぬままありったけの声で叫んだ。

 

「ラテラーノ行き、無し!」

 

「朝っぱらからなんだよ……」

 

 妻の騒々しい声に叩き起こされたイーゴリは、不機嫌そうに大欠伸をした。

 

「ラテラーノは駄目! ラ駄死!」

 

 酷く取り乱すジェリスタ。相変わらず訳が分からないなぁ、とすっかり慣れてしまった感覚にイーゴリは溜息を吐く。

 

「なんで駄目なんだ?」

 

「思い出せないけど思い出したらまずいから!!」

 

「意味がわからん……」

 

 寝ぐせのついた髪を搔きむしりながらイーゴリは、朝の陽ざしに目を細める。

 涙で頬を濡らし、白いシーツの上に座り込む様子が、かつて雪の上に座り込んでいた彼女の姿と重なって見えた。

 寒さに肩を震わせ、嗚咽を漏らす姿はあの時とよく似ているが、今は夏。加えて窓から見える空は曇りのない青空。

 そしてイーゴリの行動は全く違う。

 

 荷物を担ぐように、雑に肩に乗せるのではない。

 大切な人として、優しく胸元に抱き寄せた。

 

「まぁ、お前が良ければどこでもいいんだが」

 

 ジェリスタの体はまるで雪の中に何時間も座り込んでいたかのように冷え切っていた。そんな彼女のひんやりとした肌が、体格の良いウルサスに心地よさを感じさせた。

 雪を思い出させる白い髪を撫で、彼女の軋んだ蓬髪が太い指に絡まる。徐々に後頭部をなぞるように手のひらを上に滑らせ、彼女の頭上に浮かぶ光輪の真下に触れた。

 

「ん」

 

 説明しがたい何とも言えぬ不快感に、おもわずジェリスタは声を漏らす。

 夢を思い出そうとすると、何とも形容しがたい悲しみがひたすらジェリスタの胸の底がら込み上げてくる。

 イーゴリの体温が、ジェリスタには久しぶりに思えて仕方がない。二度と手放してなるものかと、サンクタは無意識に彼を抱きしめた。

 

 彼女の震えが治まってきたことを感じ、イーゴリはその腕を緩め、ジェリスタの顔を覗き込む。

 サンクタの泣き腫らした黄色い瞳と、ウルサスの混じりっ気のない黒い瞳。

 二人の視線が交わった。

 

 

「よし! レオニードがサボテンケーキ食べてみたいって言ってたし、ボリバルで研究しましょう!」

 

「サボテ……なんて?」

 

 




次回、種明かしの最終回
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