ウルサスの冬は非常に辛い。
いくら暖房をつけようとも、冬を前提とした断熱性の住宅でも、その突き刺すような冷気から完全に逃れることは困難だ。
不快な肌触りの重い布をいくらか重ねても、隙間という隙間から入り込む冬の外気が容赦なく四肢を冷やす。
生粋のウルサス人であるイーゴリにとってその寒さには慣れたものだが、別に好きなわけではないし、延々と嵩む暖房費をそっくりそのまま家電に回せるなら引っ越しも考慮できると本気で思い始めていた。
目覚まし時計のアラームが微睡を揺り動かし、安いベッドの軋む音が男の顔を歪ませる。
加減ベッドを買い替えようと思っては、なにかと関心が剃れて後回しを繰り返し、挙げ句の果て妻にはこのベッドに愛着があるのだと勘違いされている始末。
別にこんなものに愛着などないし、単に頭を悩ませることが他に多いだけなのだ。
不快な気分で出鼻をくじかれ、起きることが億劫になるのも彼の生涯の日常ルーティンの一部だが、今は対処策ある。
妻のジェリスタだ。
ベッドの中にいるはずの妻を愛で、今日の元気をもらおうとシーツを捲ると真っ先に光源が目に刺さった。
寝起きの目に至近距離の光輪は非常に相性が悪い。サンクタと共に生活する一番のデメリットと言えるだろう。
瞼でサンクタ特有の光を遮りながら、その寝顔を堪能すべくベッドを鳴かせぬよう慎重にジェリスタの顔を覗き込んだ。
「……ふぇ?」
間の抜けた声を漏らし、布の中で縮こまるサンクタは顔を上げた。
濡れた頬が朝焼けに照らされ、涙の跡をはっきりと映し出す。
「大丈夫か?」
また悪い夢を見たのか。イーゴリは愛らしい妻の震える肩を壊さぬ様そっと包む。
「待つのはやだ待つのはやだ待つのはやだ」
何も知ろうとしないまま、ただ愚直に待ち続ける夢を見たのだと、ジェリスタは顔を彼の胸に押し当てながら吐き出した。
この半年、こんな朝ばかりだ。
半年前、彼女がラテラーノへの新婚旅行をとりやめてからというもの、ジェリスタはよく悪夢にうなされるようになった。
内容自体は目覚めるなりすぐに忘れてしまうのだが、恐怖はしっかりとジェリスタの心に傷跡を残していく。
その結果、彼女は酷く臆病になってしまったのだ。
臆病者の心が痛いほど共感できるイーゴリは、常に彼女を慈しむ。
しかしながらそれは彼の独占欲を満たすと同時に、本来社交的であったジェリスタが恐怖から閉じこもってしまうことへ警鐘を鳴らしていた。
「置いていかないで!」
ジェリスタはベッドから出ようとしたイーゴリの腰に抱きつき、そのまま引き摺られていく。
このようにひどい時は仕事に行くことすら拒まれる有様。
渋々職場に連絡を入れ、妻の体調が悪いから休むと上司に説明をする。
嘘ではない。嘘ではないのだが……。ジェリスタに胃を掌握されている上司は二つ返事で許可してくれたが、こんなこと慢性化しては碌なことにならないだろう。
「仕事変えるか……」
すっかり妻に甘くなったイーゴリに、ジェリスタの状態を変えるという選択肢は無い。いつの日かの雑談で出た、2人で店を出すという妻の提案を真面目に考える必要があるとイーゴリは頭を悩ませた。
しかし、学も無く愛想も無く単純作業で精一杯の自分が接客を? 経営を? 自身が新しい職に着くイメージが全く出来ず、苦行の形相を浮かべたまま膝上で横になる妻を撫で回す。
彼女が自分に依存することは、正直なところ喜びが勝る。しかし同時に、じわりじわりと恐怖が彼の胸を締め付けていた。
今の彼女は、おそらく暴力さえ喜んで受け入れてしまうだろう。
弱さから暴力に走った経験を持つイーゴリにとって、いつでも起こりうる家庭内暴力の可能性は彼の背筋に悪寒を走らせる。
仕事なり近所付き合いなりで気が立ってしまった状態で、悪夢を見て泣き喚く妻を慰めることができるのか? 手を上げない自信はあるか?
少なくとも怒鳴ってしまうのは確実だろうと、過去の行動を思い返しながら下唇を苦々しく噛んだ。
衝動的な暴力を向け、それすら受け入れられてしまったら、自制など出来るはずがない。
ならそうならないように、何が出来るのかと彼なりに思考を巡らせる。
もう彼女や知り合いを守る以外で暴力などに手を出したくはない。かと言って自身を抑えられるだろうか?
臆病なウルサスが不安で目を回していると、膝の上から投げかけられる申し訳なさそうな視線と交わった。
「心配する……」
イーゴリはとっさに出かけた言葉を飲み込んだ。
気休めにしかならない、重みのない言葉をかけてどうする。しかしかといって何を言えばいいのかわからず、二人の間に気まずい沈黙が流れた。
ふと、目の前に双月の片方が落ちてきて、辺りが強い光で照らされたような感覚がイーゴリに走る。
なんだ、簡単な事ではないか。
彼女が暴力を受け入れてしまってもすぐに引き離してくれる他者が居れば。要は彼女が孤独にならないようにすれば良い。難しくはないだろう。
ならばあとは行動するだけだと、彼は再び普及し始めたばかりの電話に手を取ったのだった。
◇◇◇
澄んだ空気が喉を通り、肺を冷やしていく。それがあまりにも冷たくものなので、淡い髪を持つサンクタは思わず咽せてしまった。
真っ白な海原から顔を覗かせる、沈黙した源石岩を目印に彼らは道を行く。反射した弱々しい日差しを遮るべく、目を細めながら雪を踏み締めた。
今日が晴れでよかったと、ジェリスタは内心ほっと胸を撫で下ろす。
灰色の空と白い大地に深々と降り積もる雪は、すべての音を吸い込んでしまうようで、ジェリスタはウルサスの生活を続けていくうちに次第に苦手になってしまったのだ。
ただえさえ不安で胸が弾けそうなのに、これ以上のストレスには耐えられない。ジェリスタは無言のまま隣を歩くイーゴリの手を強く握るも、際限なく湧き出る恐怖を振り払うことができないでいた。
あまり外出を好まないはずの彼が、突然ジェリスタの手を引いて郊外の道を進み始めてから数時間が経過した。
既に日は傾き始め、鋭い冷気が彼女の頬を赤く染める。
一体どこへ向かっているのだろうか? 道中何回かイーゴリに問いただすも彼は言葉を濁し、あいまいな態度でジェリスタの疑問を躱す。
それがひどく臆病になってしまったサンクタの恐怖心を増大させ、隣にいるはずなのに遠くにいるような錯覚で彼女を困らせる。
悪夢を見るようになって半年。その内容はぽっかりと抜け落ちるくせに、まるで耳元で警鐘が鳴り響くような衝撃が身を襲ってくる。
彼女は困り果て、脳内で「先輩達」に対処法を問い片っ端から実践するもの、依然として悪夢の襲来を抑えることは叶わない。
ラテラーノへの強い忌避感を植え付け、彼の手を離すことを恐れさせるこの悪夢は一体何を伝えたいのだろうか?
考えたくもない。感じたくもない。
その手を、その体を震わせるものが冷気なのか恐怖なのかわからずに、彼女は夫を掴む手に力を込めた。
「……12月14日が何の日か覚えてるか?」
「にゃんぴ。わかんないです」
突然イーゴリから投げかけられた質問に、ジェリスタは首を傾げるも思い当たる節はない。
相変わらず意味のわからないスラングを交える彼女に対し、隣を歩くウルサスは苦笑をこぼした。
「俺もアリーナに確認するまで覚えてなかったからな。仕方ない」
一体何のことなんだろうか? 勿体ぶるようなイーゴリの対度に居心地の悪さを感じ、ジェリスタは頬を膨らませ唇を曲げる。
そんな不機嫌を露わにする妻の様子を見て、夫はやれやれと観念したように口を開いた。
「俺たちが出会った日だ」
「……?」
ジェリスタは暫しの間ぽかんと口を開け、情報を飲み込むのに少し時間がかかった。
「記念日だね! ……で、一カ月前だよね12月14日」
すでに年は明け、記念日を祝うにしてはいささか遅すぎるのではないのだろうか? なんでこんなタイミングでその話が出てくるんだと、サンクタは怪訝なジト目を作って夫を刺す。
「ウルサス人はな、集まって飯を食う理由になれば何でもいいんだよ」
雪よりも冷たい妻の視線を背中で受け止めながら、イーゴリは笑みを声色に滲ませた。
雪道を踏み締め、ようやく建物の姿が見えてきた。どうやらウルサスの農村らしい。何処にでもありそうだが、何処か見覚えがあるような気がするとサンクタは目を凝らす。
「もしかして……アリーナ達のお家?」
イーゴリは無言で頷く。
「お前が世話になった人たちなんだし、偶には顔を見せたほうがいいだろ」
「なるほどぉ、流石アリーナ気がきくね!」
そういえばお金が出来たので電話を買ったと、あの怜悧なアリーナからから聞いたことがあることを思い出す。たしかタルラの資金を上手いこと増やしたと言っていたなぁと、ジェリスタは頭が上がらなさそうなタルラの横顔を思い浮かべた。
「…………提案したのは俺だ」
「うっそ」
想定外の返答に思わず目を丸くして絶句した。
「レオニード以外にまともに人付き合いが無いイーゴリが?? 結婚式の参列者集めを私に丸投げしたイーゴリが?? クリスマスパーティーだって二人だけでしたいって駄々こねたイーゴリが、自分から連絡したの??」
「悪いか?」
「キャラ違うくない?」
カチン、とどこかで音が鳴ったような気がした。
イーゴリは無言のまま、手慣れた手つきでジェリスタを肩に担ぎ上げる。
「ちょっ! お米様抱っこはやめて! お腹潰れちゃう!」
「すぐに着く。大人しくしてろ」
肩の上でジタバタと抵抗するサンクタ。それをウルサスは仏頂面のまま運ぶ。
(あれ? なんだろこれ)
担がれる彼女は、ふと不思議な感覚を思い出した。
そうだ、前にもこんなことがあった。「奇跡を起こす聖女」だと大勢に囲まれどうすれば良いのかわからず、他者に判断を仰いで怒られてしまった時のことだ。
ジェリスタだけが認識することのできる「先輩」達は、あくまでも彼女の身を案じて自分で選択しろ他者の指示待ちになるなと叱ってくれた。
「先輩」達の善意は頭で理解できているのに、選ぶことが、分からないことを分からないまま選んでしまうことが、とても怖くそのまま逃げ出してしまった。あの時もこうして雑に担がれたっけ。
懐かしさを感じさせる一連のやり取りが、ジェリスタの心を襲う恐怖を和らげる。
これが意図した行動なのか、そうでないかなどはどうでもいい。ただただ、ありがたいと思うばかりだ。
ジェリスタは、ぽつりと胸の内で声を漏らす。
気がつけば、彼女は一度も信じたことのない神に祈っていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。