街の郊外にある小さな村、フェヴローニャ。
双月を称えた星空を映す湖の畔にあるそこは村というよりも集落というべき規模であり、住居の数は多くはないどこにでもあるウルサスの田舎町のように見える。
しかしその中に、少々趣の異なる建造物が存在していた。
白くはあるがひどく古ぼけた異国の形式の鐘楼。それはウルサスでは非常に珍しい、ラテラーノ風の建築物だった。
「ちょっと『胸当たってるぞ』って注意してよ。当ててるんだから」
「お前のは当てない方が難しいだろ……」
ジェリスタはその豊満な胸をイーゴリの腕に押し付けるが、彼女は男を困らせていることに気づいていないようだ。
「なによ、平たいほうがいいっていうの? ジェリスタちゃん差別?」
恰幅の良いウルサスの男の周りを小動物のようにちょこまかと動くサンクタの女の姿は、単なる仲むつまじい恋人同士にしか見えない。
ここに来るまでずっとこんな調子なもので、しばらく甘いものはいらないかなぁと、案内人の赤髪のサンクタはにやけた笑みを浮かべていた。
そして彼らの目の前にいるやつれた淡い色彩のサンクタも、その身の深い傷と罪を忘れ久々に顔を綻ばせた。
「この場所との巡り合わせも偶然だったが、どうしても導かれたものだと思ってしまうよ。初めまして、イヴァンジェリスタ──犠牲と結束の美徳を持つ聖徒と同じ名を持つ君よ」
まるで王冠のような複雑な形状をした光輪光らせるサンクタ、アンドアインと名乗った男は、この出会いを心から喜んでいるようだった。
「君の活躍はよく耳にしたよ。そうでなくともこの国ではサンクタは珍しいからね。無理を言って会いに来てもらってすまない」
「いいんです。あなたたちのおかげでラテラーノへの移住手続きとかサポートしてもらえるんですから。
今はちょっと安全が確保できなくていけないのは残念ですけれども」
頭上に光の輪を浮かべた同族から流れてくる感情という初めての感覚に少し混乱するものの、彼女は傍らのイーゴリの裾をつかんで流されないよう自身に言い聞かせる。
ジェリスタが住み慣れ始めた街を離れ、隠れ里のような場所に足を運んだのは、
「啓示」(名称は安定しない)の指示によりラテラーノへの移住を検討するため。もちろん彼女を一人で遠出させるわけにもいかないので、イーゴリも渋々同行した次第である。
(一見無害そうだが……わからんぞ)
現在のウルサスの現状を変えようとする、反国家勢力に身を置くソフィアの紹介ということもあり、このおとなしいサンクタも突けば埃が出るのではないのかと、イーゴリは警戒を緩めない。
いくらあのクランタが純粋無垢なジェリスタの友人とはいえ、(イーゴリにとっては、押しかけ料理人の印象の方が強いが)その思考は今の停滞するウルサスにとってはまぎれもなく劇薬だ。人間というものは自然と似たような人間性の人物が集まるものだと聞いたことがある。
そうでなかったとしても、ジェリスタは何かと怪しい人物を引き寄せがちではないのか? 最近会う機会はなくなったが、あの貧しい村で貴族のような服を身に纏ったヴイーヴルも間違いなく厄介ごとを抱えているに違いない。
そう決めつけるとイーゴリは眉間の皺をより一層深くし、無意識にジェリスタを引き寄せる。
アンドアインは顔を赤く染めたジェリスタから流れ込む怒涛の感情に微笑むと、背面にある鐘楼へと目を向けた。
「この広大なウルサスの大地にラテラーノの教えは根付かなかったようだが、思いは蘇ったのかもしれないね」
経典に記された過去の遺産、そう思われていたが、事実は小説より奇なり。
僅かな文以外は口頭伝承が残るだけの忘れられた鐘楼が人々を見守るようにそそり立つ。
この村の名はウルサスの地に伝わるおとぎ話に登場する楽園と同じ名前を持つ理由がその鐘楼だった。
──ーはるか昔、ラテラーノの最も古い鐘楼が建てられたころの出来事だ。戦火を避けたある聖徒に導かれた民は、遠い雪に覆われた凍土まで逃げ延び、信仰の象徴として湖のそばに鐘楼を建てた。その地で圧政を受けていた民を受け入れ街を作り上げ、一時だがラテラーノのような楽園を築ぎあげた。その後伝承では圧政者による戦禍が迫った際、奇跡によって街は隠されたとされる──ー
が、現実は天災によって地面が割れ、湖に沈んだだけである。
それから長い時がたった現在、ウルサスを変えようとする若者たちが凍土に逃げ延びた民から泉に沈んだ街の存在を知り、歴史に埋もれた古き鐘楼を再びこの大地に建て直したのだ。天災の影響により再び水面から姿を現した鐘楼は新たな人々のシンボルとして村の中心で鐘の音を響かせる。
蘇った信仰の鐘楼とその近辺に現れた奇跡を施すサンクタの存在は、信仰が凝縮してできた海を見たアンドアインに、同胞によって刻まれた銃創がもたらす痛みを打ち消すほどの関心を与えていた。
事情を感情による共感ではなく、思考による理解をしてくれた友人の助けを借りて逃げ込んだ異国の地。信仰の届かぬと思い込んでいた凍土での思わぬ出会いこそ、信仰による導きと勘違いしてしまいそうだ。
「私たちにできることは少ないかもしれないけれど、君たちが安全にラテラーノへ行けるようできる限りのことはしよう」
アンドアインはそう告げるとイーゴリへ柔らかい笑みを向けた。それが話の中心と思われたジェリスタではなく、自身に向けられたことにイーゴリは怪訝に思うが、すぐにその動作に含まれた意味を察した。
「ジェリスタ、すこしこいつと2人で話をさせてくれ」
ジェリスタは不満を表情に見せるものの、何も言わずに頷くと案内人の赤髪のサンクタに連れられ近くの建物の中に消えた。
彼女の姿が見えなくなったことに一抹の不安を感じながらも、イーゴリはアンドアインへと向き直る。
「あいつの、ジェリスタのよく口にする啓示ってのは何だ? お前たちサンクタにはよくあることなのか?」
「あるともいえるし、無いともいえるね」
眼前のサンクタから想像していたよりも曖昧な返答が返ってきたことに、イーゴリはムっと眉を顰める。
「たとえ、我々がその中に一切超常的なものが含まれないことを知っていても、それを感情を持たざる原理、もしくは単なる自然現象と理解していても、なんとも嘆かわしいことに、世の人々は依然として「啓示」を聖霊の光で覆ってしまうものだ」
アンドアインのラテラーノの教えから引用されたと思わしき言葉は、ウルサス語ではうまく意味が伝わらないのか、はたまた皇帝と力以外を信仰する宗教というものに疎いからか。はたまたその両方か。険しい顔つきのウルサスは首を傾げるばかり。腑に落ちる堕ちない以前に、何も受け取ることが叶わない。
淡い色のサンクタはそうなることを口を開く前から解っていたようだ。態度を変えることなく、つかみどころのない微笑を湛えたままだ。
「私からも質問を一ついいかな?」
イーゴリは苛立ちを隠さず辟易とした。
「何だ」
「どうして君は彼女の愛を拒むのかな?」
見透かされているようで心底気分が悪い。それは好奇心による軽率な疑問ではない。
この問いに対し、イーゴリがどう答えるのか知っていながら、あえて彼の口から言わせたいという意図を隠そうとしていなかった。そんなこと会ったばかりの怪しい男に明かす理由などはない。
しかし、だ。イーゴリは自身が躊躇っていることを自覚していた。
これは目の前のサンクタからの問いではなく、己自身の胸の内と向き合えということなのか?気は進まない。
だが、知人ら顔見知りや、ましてやジェリスタに言えるとは思えないのも事実。このくらい感情を引きずったまま、彼女と暮らしていくことはできるのだろうか。彼女を知れば知るほど悩みも深まり、共通の記憶が増えるたび痛みも増すような状態で?
その痛みから、苦痛から逃れるべく、いつの日か彼女を手放すのではないのだろうか。
出会ったばかりのころとは変わり、自身に対してだけ甘える姿を見せるようになったジェリスタ。
贈ったリボンを大切にいつも身につけ、過度な愛情を向けたと思えば、無防備にすべてをさらけ出す彼女を、手放すのは、嫌だ。
自分自身の弱さで手放したくないものを手放すなど──―
「……恐いんだ」
ふいに、言葉が漏れた。
眼前のアンドアインは表情こそは変わらないものの、イーゴリの言葉を待っていたというように相槌を打つ。
しまった、と後悔は遅れてやってくる。しかし、覆水盆に返らず。口から離れた言葉を飲み込みなおすことなどできやしない。
まるで神への告解のような状態に、まんまと乗せられてしまったなとわずかながら敗北感を感じつつ、この際仕方がないとイーゴリは押し出すように思いを吐き出した。
「あいつが感染者に請われて他者に時間を割く事が無性に腹立たしい。神託とやらに指図されて動く様が許せない。そう思ってる俺がいる。この前なんかあいつに怒鳴り散らしちまった。次は手を挙げてしまうかもしれん。
……あいつは拒絶するのが苦手なタチだ。それに俺と違って怒らない。俺が暴力を振るっても、あいつはそれを笑って許すどころか、そもそも酷いことをされたとも思わないかもしれない。それが恐い」
「俺は……あまり人に誇れるようなことをしてこなかった。楽な方に妥協して暴力に甘んじてたんだ。そんなろくでなしが変われると思うか? 一度あいつに受け入れられてしまったら、そのまま暴力から抜け出せなくなる。そんな確信がある以上、俺はあいつを受け入れるわけにはいかない」
イーゴリの吐露に耳を傾けたアンドアインは暫し目を伏せる。
そしてゆっくりと眼前の男に視線を合わせると、真実を告げる様に口を開いた。
「君たちは出会うべくして出会ったのだろう」
「あれだけの愛を受けて、安易に受け入れず、君は自身の過ちを理解していて、恐れ踏みとどまることができている。それだけで十分素晴らしい」
思いがけない肯定の言葉に、イーゴリは息を詰まらせ戸惑う。
てっきり、臆病な自身を咎めるとばかり思っていたので、もはや警戒心もまともに機能しないまま、すがるように解を求めてしまった。
「俺はどうすればいいんだ……」
「心配してばかりだと、何もできなくなってしまうよ。それは君自身が決めることだ」
当たり障りのない言葉ばかりではないかと憤りを感じ、視線を細めた。わからないから聞いたのに、自分で決めろとは。
文句の一つ二つ投げつけてやろうかと思ったが、胸の内は少しばかり軽くなったような気がしたので不機嫌に鼻を鳴らすだけにとどめるイーゴリだった。
「お楽しみでしたか? もういいよね??」
イーゴリの背後から棘を含んだが声色が投げかけられる。いつの間にかイーゴリの元に戻ってきたジェリスタは、待ちくたびれたと不機嫌に鼻を鳴らす。
「僕相手の時より口数多いじゃない! 寝取られね! これが寝取られってやつなのね!」
「寝てから言え」
ムキになって口をとがらせるジェリスタに苦笑しつつ、イーゴリはそれを軽くあしらう。
(寝てないのかよ)
赤髪のサンクタの驚きの感情はそのままジェリスタへと流れ、思わず彼女は声を上げた。
「抱けー! 空が白むまで抱き潰せー!」
ジェリスタは顔を羞恥で真っ赤に染め、受け入れられない思いを拳に乗せて訴える。ぽかぽかという擬音がふさわしい挙動にまじめに付き合うのが鬱陶しいと言わんばかりに、イーゴリは大きなため息をついた。
「こいつ引き取ってもらえないか?」
「それはちょっと」
やつれた男は即座に首を横に振った。残念ながら当然である。責任を取りなさい。
「なんでこんなに必死なんだ? お前何したんだ?」
初々しさを超え、もはや痛々しい過剰すぎるアプローチに赤髪のサンクタは憐憫を向け、この男に問題があるのではと声色を尖らせた。
なぜ俺が責められるのかとイーゴリは理不尽を嘆く。
「いや、いきなり新婚旅行の計画を立て始めたから、まずは結婚式が先だろ(気が早いどころじゃない、過程を飛ばしすぎだし俺にその気は無い)と言っただけなんだがな。ずっとこの調子なんだ」
共感を使うまでもなくアンドアインと赤髪のサンクタの思考は一致し、声をハモらせた。
『いつ式を挙げる?』
「なんでさ」
ジェリスタは顔を伏せたままわなわなと肩を震わせると、突然髪を結っていたリボンをほどき、困惑を浮かべるイーゴリの首を絞めと飛び掛かるが、身長差故に失敗に終わった。
「責任取れぇー!」
と叫びながら女が必死に迫り始めたので、彼女の過剰な愛情を処理できずに戸惑う男は思わず逃げだすしかなかったのだった。
「しかしまあ、よくわからないけどすごいなあれ」
赤髪のサンクタは物珍しそうに二人を見つめるが、実のところ流れ込んでくる大きすぎる感情の波を思考で抑え込むのに必死だ。
「そうだね。まるで何十人、いや、数百人のサンクタと狭い部屋に閉じ込められたようだったね」
アンドアインの表情は涼しいものの、この膨大な感情の波がたった一人の女性から流れ出ていることに疑問を隠せない。
その二人の困惑に元凶であるジェリスタが気づく様子はないようだ。
「なんで一人のサンクタから複数の人間の感情が流れ出してる? 強弱も内容もめちゃくちゃで、ジェリスタの感情がとてつもなく強いとかそういった話ではなさそうだ。となると、なんだ? 人工的に手を加えられたサンクタ? 皮がサンクタなだけの化け物か? あんなものをラテラーノに入れられるはずがない。しかし光輪と羽、そして共感能力を持っている以上、彼女はサンクタとしか呼びようがなく……」
悶々と思考を深める友人を諫める様に、やつれた男は声をかけた。
「いまはあの二人の行く末を祈ろうじゃないか、アルケー」
アンドアインは再び鐘楼へと目を向ける。ラテラーノの地で何度か上った鐘楼に非常に似ているが、ひどく古ぼけているそれが彼にとっては何よりも輝いて見えたのだった。
登場人物一覧
〇イヴァンジェリスタ
主人公の謎のサンクタ。リボンのプレゼントの件からマジ恋にランクアップしたが、アプローチが下手すぎる。
〇イーゴリ
元監視官。まじめだからこそ簡単にジェリスタに手を出さない紳士。煩わしい?それはそう。
〇アンドアイン
重傷を負ったサンクタ。まだ「迷い人」先導者でもないし、安魂教会にも身を顰めていない。そろそろ吾れ先導者たらん復刻だよね?
〇アルケー
赤髪のサンクタ。まだ頭頂部は薄くない。
サンクタの共感描写難しいっす…