一.
かつん、と鳴った音は、加賀の指輪が花瓶に触れた音だった。
テーブルの上には、贈り物の
「これで、準備は……大丈夫そうね」
祝いの席を彩る料理は、すべて加賀の手によるもの。慌ただしく鎮守府外に出掛けるよりは、勝手の知れた場所で静かに祝いたいという二人の希望に沿っている。部屋の窓に覗く空には星が瞬き、岸壁に打ち寄せる波の音が遠くに聞こえている。
ケッコン祝いの席に、まだ相手の姿はない。
少し、準備が早かっただろうか。加賀は思ったより自分の気持ちが逸っていることに気付く。流石に今日はそれも無理はないと、あまり自分を抑えないことにした。それぐらいは、許されてもいいと。
時計を見れば、約束にはわずかに時間がある。多忙なスケジュールを縫うように確保した二人きりの時間は、仲間たちというありがたい邪魔者が入らないよう慎重に組まれている。公認だからこそ互いに気を遣わずやれることもあるが、流石に今日は遠慮願いたいのが正直なところだった。
ふと、加賀は薬指に収まっている指輪を眺めた。
ケッコンカッコカリ……艦娘が練度の限界を突破するため特別に使用される指輪型の艤装は、揺れるロウソクによって普通のアクセサリと変わらず、光り輝いている。
ここに至るまでには多くの出来事があった。
(……この姿に生まれ変わって、戦い、笑って、そして泣いて……また笑って)
まるで指輪から溢れ出るように、加賀の胸中をいくつもの思い出が過ぎていく。その全てが、宝石のように輝いていた。少なくとも、加賀にとっては。
今日、艦娘である加賀と、人間である相手は仮初めの契約を結んだ。ケッコンカッコカリは対外的、形式的にはただの戦力強化に過ぎない手続き、儀式の一環。
それでも、ひとのかたちで生まれ変わった加賀にとっては、特別な契約だった。
そして二人に共通の認識さえあれば、関係の裏付けが公かどうかの区切りなど何の意味も成さない。二人が『夫婦』だと思えば、それで良かった。
そう思えるようになったのは、無論、相手の影響でもある。
加賀の相手は、彼女自身の提督だ。特段戦果に優れるわけでも、特殊な技能を持ち合わせているわけでもない。ごく普通の青年だったが、欠陥を抱えた彼女と常に共に在った仲間であり、そしてお互いに切磋琢磨し合った戦友でもある。元より違う存在である二人の仲は、時間と環境が育てた。
プロポーズの言葉は、『いつだって欲しい時に、加賀のスープが飲みたい』。
提督としての指示や命令ではなく、望んだ時に作って欲しい。それは加賀にとっては珍しく思える、彼の我がままだった。それもまた可愛いなどと思えるぐらいには、彼女も丸くなっている。結局、得意料理となってしまった野菜スープが、最初から最後まで決め手になったわけだ。
(……来た)
廊下に響く足音を、加賀の耳が捉えた。歩みのペースは急いでいるようにも聞こえ、彼が自分と同じ気持ちでいてくれるなら嬉しい、と加賀は薄く笑った。
そして、加賀は慌てて懐の手鏡を確かめる。今さら彼がそんなことを気にするわけもないが、それはそれ。戦いは先手必勝、遠距離攻撃が得意な彼女でも、わざわざ相手に優位な状況を作る必要はない。
ドアを眺め、思わず咳払いをした加賀。
ほとんど同時に、がちゃりとテーブルの食器が物音を立てた。ドアが開くのを待たず、加賀は背後の窓を振り返る。
そして……赤く染まる街と空が、加賀の視界を埋めていた。