一.
暦の上では春を迎えようとしている、ある朝だった。
龍田の吐く息は白く濁り、外気が肌を刺す。艦娘も暑さ寒さの感覚は人間と変わらない。何度目かの冬を過ごした龍田も、人の身でのそれには未だ慣れないでいる。
「――あら?」
買い出しに出かける龍田の足を止めたのは、通用門をくぐった先にいた女性の人影だった。
(この気配……艦娘ね)
そこにいたのは、龍田も見たことのない艦娘だった。いでたちが私服ということもあり、艦種などは判別できない。そう思ったのもつかの問。
「こちらの艦娘さんですか」
冬空によく通る声が、龍田へと投げかけられた。
「ええ。そうですよぉ」
ごく自然に肯定した龍田だったが、ほんの僅かな違和感を抱く。艦娘がここへ何をしに来たのかと。他の鎮守府から来客があるという話も聞いておらず、また艦娘が私服でやってくるあてもない。
「何かご用事?」
自然と、龍田の姿勢は半身を前にした。昨今、鎮守府を対象としたテロが噂されていることもあり、艤装なしとは言っても相手はおそらく艦娘、龍田が警戒するのも無理はない。
女性は、数秒の沈黙を経て、口を開いた。
「こちらの提督さんは、ヒメジマさんでよかったかしら」
龍田もよく知るその名は、前任の姫島提督を示している。
「ごめんなさいね、お答えできないわ」
当然、龍田は答えなかった。この場合部外者に対して情報を与えること自体が常識外であり、龍田はますます相手を警戒した。艦娘であれば、それを知らないはずはない。
笑顔の龍田に、女性はころころと笑ってみせた。
「冗談です。少し前に転任なさったのは伺っていましたから」
「………」
食えない相手だ、と龍田が目を細めた時。
「どうした龍田。忘れ物か」
龍田にとってはある意味で最悪とも思えるタイミングで、当の『提督』が現れた。
空気を読め。何を考えている。ただの人間にもほどがある。まったく世話の焼ける男。
胸に巡った一切を表に出さず、龍田は辛うじて、名前も役職も階級も呼ばなかった。
「ううん、何でもないの。ここの提督さんにご用事だって。アポはないみたい」
「そうか。じゃあ仕方ないな」
もし、目の前の艦娘が提督目当てに何かを企んでやってきたのであれば、彼を守る方法は他にない。真田もそれぐらいのことが分からない男ではない。龍田の
女は顔を出した真田を不思議そうに眺めてから、やはりころころと笑う。
「そうね。また改めさせていただくわ。お約束も無しに押しかけては失礼だもの」
御機嫌よう、と身を返す女の背中に、龍田と真田は敬礼だけして見せた。
「――それで、何の用事?」
「や、買い物に付き合ってもらおうかと思ってな」
「あらぁ。死にたいのかしらぁ」
先ほどまでの緊張感を台無しにする真田の言葉に、龍田は脱力した。
「そう言うなよ。男ひとりじゃ買いにくいものだってあるんだ」
「だ・か・ら言ってるの」
しかし一方で、こうも思う。
(もし、何かしらの動きが泉浜へ及ぼうとしてるのなら……真田クンもそれぐらいの提督には、なれているってことね。良くも悪くもだけど)
すでに彼の着任からは二年が過ぎている。前任の規模にはほど遠いが、それなりの艦娘を擁した泉浜鎮守府は、内海の平和さを差し引いても、けっして悪くはない艦隊に仕上がっていた。
もっとも、提督のほうは、色んな意味でまだまだ修行が必要なようだった。
「頼む。お前ぐらいしか頼れるやつがいないんだ。榛名に頼むわけにもいかないし」
「あなたは一回、死んでみたほうがいい気がするわぁ」
そして主力の加賀や龍田を筆頭に、まだまだ伸びようとする仲間たちもいる。今後も続く状況の中で流れに乗り遅れないようにするために、泉浜鎮守府はこれからが本番とも言える。
(まぁ、この人なら何かあっても何とかしてくれるわ……きっと、ね)
龍田はため息と一緒にその言葉を胸に仕舞い込み、真田の尻を叩いてみせた。
二.
泉浜鎮守府はざわついていた。
別に悪いことがあったわけではない。海域攻略作戦での戦果も順調、艦娘の建造は一段落し、装備の開発や改修に手を回せるような状況。艦隊の運営は順風満帆と言えた。
では何が起こっているか。
「――ねえ時雨ちゃん、私凄いところを見ちゃったっぽいんだけど」
「加賀のことかな」
「何で知ってるのぉ? ひょっとして有名な話っぽい?」
「そんなことはないけど、去年の海域攻略作戦ぐらいから少しずつ様子がおかしくなったのは、みんな気付いていたんじゃないかな」
それで、と時雨は夕立に続きを促した。
「ええっとね。昨日の演習が終わったあと、凄い勢いで入渠ドックを出て行った加賀さんが、また凄い勢いでお部屋から出てきたんだけど」
「急いでたんだね」
一段声を低くした夕立は、時雨に囁いた。
「――加賀さん、うすーくリップしてたっぽい」
「へぇ」
「どこへ出かけたのかは分からないけど…‥驚かないってことは、時雨ちゃんも知ってたっぽい?」
首を振る時雨だったが、彼女もそれぐらいのことは予想済みだったらしい。
「僕が見たのは、二人連れ立って初詣に出かけてたのぐらいかな。去年はお花見に出掛けていたけど、今年はまだ時期じゃないしね」
「そっかぁ。まぁ、結構みんな見てるっぽいよねぇ」
「距離が近付いたきっかけ……あの攻略作戦は大変だったからね、余計印象深いのかも知れないよ」
彼女たちの話題に上がるのは、泉浜鎮守府の筆頭秘書艦である加賀の様子だった。艦娘たちの目から見ても提督とは一線を引いて接していた加賀が、海域攻略作戦中に派手に判断ミスをしでかして以来、すっかり『デレた』と言われている。
「あの時は提督さんも一緒に謹慎してたぐらいだし、加賀さんだけの責任じゃないっぽいのにね」
「失敗の責任を二人でしっかり分け合って、それがきっかけで仲良くなったのかも知れない」
「なるほどぉ」
加賀、陥落す。
きっかけとなる出来事から一年経ち、職員や隊員、艦娘たちの間ではほぼ事実として語られるようになってしまっている。そして、この手の話題ではありがちな尾ひれの付いた話も、まことしやかに流通していた。それらの中に事実も混ざっていることが、信憑性を補強しつつ、また怪しくもしている。
深夜の執務室から加賀が出てくるのを見た。
よく手料理を提督の私室に運んでいる。
既にふたりはデキており、後は加賀の練度限界到達を待ってケッコン秒読み。
実は建造時から二人は運命の糸で結ばれており、最初から加賀はベタ惚れだった。などなど。
「あと僕が聞いたのは、深夜の入渠ドックでもの凄く念入りに――」
そして、人の恋路へ首を突っ込む者に天罰が下るのも、またお約束。
「? 何のこと?」
戸惑う夕立に、笑顔のままの時雨。
「何でもないよ、夕立」
「え、なんでもないって?」
「ああ、僕、少し用事を思い出したから行くね」
「あ、時雨ちゃん! ……もぉ、まるで逃げたみたいに」
逃げ遅れた夕立、その背後に立った、噂の本人の一言で彼女が腰を抜かすのは、数秒後だった。
三.
プロペラ音が屋外鍛錬場に響き、続く破裂音が練習用標的を撃ち崩す。
標的を見事に撃ち抜いた零戦が、的の上をフライパスして行った。
「っ、ふう」
ひとり立つ加賀は、射法の残心を解いて大きく息を吐きだした。
疲れているわけではない。艦娘たちにからかわれて落ち込んでいるわけでもない。
「あと、最後の項目……これさえクリアすれば」
加賀は今、練度限界の到達に必要とされる空母道のテストにおいて、唯一突破できない項目を抱えていた。雷撃、爆撃、機銃掃射……攻撃命中などについては難なくクリアできている彼女が、零戦を操る空中機動のひとつ……宙返りの項目で引っ掛かってしまっていた。
空母艦娘が発艦させた戦闘機は、結びついた艦載機妖精の操縦によって空中の機動を行う。しかし、その動きの元となるのは空母艦娘のイメージ。
加賀は、並の空母艦娘には真似のできない精密さで艦載機妖精へとイメージを伝えていたが、何故か宙返りについては七十点程度。
実戦で困るようなことはなかったものの、艦娘の評価となる練度の指標から言えば、悪くないという程度に留まっていた。
(集中。……速度、回転数、角度……大丈夫、回れる)
加賀の放った零戦は、鋭い角度で上昇していった。しかし宙返りに差し掛かると、彼女のイメージはぐにゃりと歪み、それを受け取った艦載機妖精の操縦も引きずられる。
危なげなく一回転する零戦だったが、加賀から見ても六十五点。既定の九十点には程遠い。
過去の『
矢が放たれ、その度に零戦は
「調子はどうだ、加賀」
何度目かのため息を吐いた時、彼女の背中に投げかけられた声があった。声の主は、彼女の提督。
加賀の様子をずっと見ていたらしい真田は、少し落ち込んだ様子の加賀に笑い掛けた。
「――思わしくありません」
ほんの少し目を伏せた加賀。正直にそう言う姿は、気を張って見えた以前の加賀とは違った。
「加賀にしちゃ弱気だな」
「さすがに、ここで何か月も足踏みしていては自信も無くします」
苦笑いをして見せた加賀は、弓掛けを外して軽く手を握った。集中力を必要とする空母道は、危険のある洋上ほどでは無いにしろ、短時間であっても気力と体力を使う。
思い出したように噴き出した汗を手ぬぐいで拭く加賀。
「どう飛ばせばいいのか、頭でわかったつもりになっているのか……それとも、元より私のイメージが間違っているのか、分からないでいます」
艦載機妖精が悪いのではない。自分の問題である。加賀の結論はそう出ていたが、と言って解決策があるでもない。ただ闇雲に弦を引いても意味がないように思えたが、なにもしないではいられない。
明らかに煮詰まっている加賀を見て、真田は一度大きく息を吐いた。
「――空、か」
そして彼は、ふと自分の過去を思い出す。
「どう飛べばいいか……イメージか」
何かが結び付いたと見える真田は、顔を伏せたままの加賀、その肩に軽く触れた。
「提督、私、汗を……」
鍛錬中は気にもしなかったが、一気に噴き出してきた汗で湿る弓道衣を気にした加賀。しかし真田はしっとりした弓道衣にも、加賀の焦りにも一切気付いていない。
「加賀、空飛んでみようか」
「え」
いきなり提督の口から飛び出した提案に、加賀は口を開けるしかない。何も言えないでいる加賀に、真田は畳み掛けた。いつもと違う真田の様子に戸惑う加賀。
「空からパラシュート降下してみないか。加賀は、空に浮かんだことはないだろ」
「それは――ですが、艦載機の『目』で
「
空母艦娘や巡洋艦の艦娘は、自分の発艦させた水上機や偵察機などと視界を共有することができる。それなりに体力を消耗するため、常時使えるわけではないが。機上の艦載機妖精が見た景色がそのまま見えるもので、それ故に彼女たちは、いつも空からの視界を持っている。
「それは、確かにそうかもしれませんが……一体なにを」
しかしどうやら、真田の意図することは視界の話とは別のようだった。加賀にお構いなく取り出した携帯電話で、どこかに連絡をつけ始める。
「じゃあ決まりだ。昔のツテが使えるかも知れないから、午後からの執務を調整しておいてくれ。善は急げってな。……あ、もしもし。私、特殊海棲生物防衛隊の真田と申しますが。ええ……そうです」
加賀が止める暇もなく、真田はさっさと電話しながら出て行ってしまった。
「――まるで、子供みたいね」
真田のかつての夢が空挺降下部隊だったことはよく知っている加賀。久々に空を飛べるとあってか、張り切っている彼を止めることはできそうもない。
呆れ半分に息を吐いた加賀は、提督にお付き合いするべく片付けを始めた。
四.
空の路は、何にも縛られない。
気象の影響を受けやすいのは海路と変わらないが、その移動速度ゆえにある程度の回避はしやすく、そして降りる場所の自由度は海と大差ない。
しかし当然、海が奪われていれば話は別だった。
深海棲艦による制海権の奪取後、当然ながら海の上にある空路も閉鎖を余儀なくされた。
やはり『深海雲』の影響で計器は効かなくなり、空母の艦載機にいつ襲われるとも分からない状態は海と同じだった。むしろ空の場合は計器に頼る部分も多く、受ける影響はより深刻と言える。
よって、人類がまず目指したのは大陸間を繋ぐ海路および空路の奪取。陸路で補える部分はともかく人や物資が海を渡れなくては話にならない。少しずつ、着実に人類は海と空を取り戻していった。
加賀と真田は今、そうして
『提督……』
『どうした、苦しいか』
『いえ……そういうわけでは』
『飛行機は初めてじゃないだろ』
『この装備は、さすがに緊張します』
ふたりはすでに、全身を空挺降下用の装備で固めている。民間のタンデム用パラシュートを流用したものだったが、海の艦娘が陸の装備に包まれている不思議さ、弓道衣や私服とはまったく異なる思想の元に作られた兵装、それを纏うという違和感に戸惑う加賀。
一方の真田はさすがに着慣れたもので、鼻歌でも歌いそうな様子だった。そんな提督を見て、加賀は少しだけ、胸の奥にしくりと痛みを覚える。
二人の乗った輸送機は、同じく降下用の装備に身を包んだ陸自の隊員たちと共に高度を上げていく。真田の知人のはからいでスケジュールの合う訓練降下に紛れ込んだふたりは、これから隊員たちと共に空を舞うことになっている。
『心配するな。こうしてふたり一緒の降下だし、もし降下中に事故っても、艦娘なら耐えられるだろ』
『……ええ、そうね』
わずかに不機嫌さが滲んでしまった声で、加賀は肯定した。
『冗談だよ。心配ないとは思うけど、空中であまり暴れないでくれよ』
『そんなことはしません。あなたこそ、久しぶりの降下で腕は鈍っていないの』
『オフの日にはたまに飛んでるからな。大丈夫だ』
そんな訓練に紛れ込んできた珍客の会話は、周囲の自衛官たちにも筒抜けとなっている。能天気にも聞こえるふたりの距離が近しい話ぶりに、彼らが少々苛つき始めたころだった。
格納庫のブザーが鳴り、周囲が慌ただしくなる。
『降下高度到達。加賀、オレたちが一番乗りだ。準備はいいか』
『はい。いつでも』
加賀の目の前、まるで怪物が口を開くかのように後部格納庫の扉が開いていく。地上の景色が小さく広がっているのを見て、加賀は何故だか高揚を覚えた。
『どうも、少し気流が荒いらしい。慎重に行くぞ』
自分は今、はいと答えただろうか。加賀はそんなことを考えながら、不思議と眼下に広がる景色から目を離せないでいる。
艦載機妖精の目線から見たものと、さほど変わらないはずだというのに、自らの目で見たその景色は加賀の目線を捉えて離さない。
『加賀、スリーカウントで行く』
『っ、はい』
『スリー』
真田の指が差し出され、風の音にかき消されがちな声と共にカウントを数える。
『ツー』
加賀は目の前で折り曲げられる指に急き立てられるように、前へ出ようとした。ハーネスで結ばれた真田に止められて我に返る。
最後の指が曲げられるのを、まるでスローモーションのように感じた加賀。
『ワン……』
カウントは終わり、加賀の身体はまるで吸い込まれるように機外へと踏み出す。
『降下ッ!』
そして、加賀は空を飛んだ。
五.
そこには、音がなかった。
正確に捉えれば、耳元で風が切れる音が鋭く響いていたのかも知れない。しかし――その時の加賀にとって、空は音のない世界だった。
目の前には地面が、街が、海が、山が広がっている。
(そら)
そう単語を胸に意識した途端、加賀の体は一回転した。真田が器用に姿勢を調節し、空中で前転してみせたのだ。全身を巡る体液が、内臓が、筋肉が、普段と違う方向への力に悲鳴を上げている。
(そうだ。わたしは、今……そらに)
その時初めて、加賀は自分を抱くようにして真田が背にいることを思い出す。
ゆっくりと、地面が視界から消えた。
(うみ、くも、たいよう……雲、海……街、あれは、この前行った……)
単語でしか結べない加賀の思考は、少しずつ形を成す。言葉の解像度が上がると共に、思考もすこしずつ明瞭になっていく。
(これが、空。提督の夢見た世界。艦載機たちが、妖精たちを通して私が視ている世界)
鳥のように羽ばたいているわけではない。飛行機のように舞っているわけでも、ヘリのように浮いているわけでもない。ただ高い場所から落ちているだけ。
(風が……景色が……全てが通り過ぎていく)
しかし加賀は、確かに空を翔んでいた。
(ああ……私に足りなかったのは、きっとこの感覚)
ただ飛行機に乗るだけでは味わえない、包まれるとはほど遠い感覚――激しく打ち付ける風の抵抗。
空へ向かう者を静かに引き付ける力――等しくのしかかる重力。
地面と空が反転した時の高揚感。そしてまた元に戻る時の、地を目にした時の安心感。
艦載機を操ることにある意味で慣れてしまい、当然のようにやっていたこと。加賀を長く縛り付けていたスランプは『当たり前』のその手前にあった。
(空を飛ぶということは)
風を切り、重力と戦い、世界をひっくり返す。
(また、元の世界に戻るために)
地面に居るものが、非日常に身を投じ、そして日常を取り戻すために必要な感覚。
(そう……そうね、この体験は……いい判断ね)
真田にとってはただの思いつき、あるいは気晴らしだったのかも知れない。それでも、いまの加賀を包む風、雲の合間から差し込む太陽、そして眼下に広がる海と地面は、彼女へ初心と共に新たな感覚をもたらしてくれていた。
風に流される自分たちの体をどこか遠くに感じて、加賀はマスクの奥で微笑む。
(彼が空に憧れる気持ち……少しだけ、分かった気がします)
瞬間、加賀の身体は空に引っ張り上げられた。そう思った途端、質の違う感覚が真田と加賀の二人を包む。パラシュートが開いたのだ。地面へと引かれていた自分が別の力によって押し留められる感覚。
真田は見事にパラシュートを操り、目標地点へと降りていく。
『加賀。大丈夫か』
ようやく提督からの言葉を耳が認識し、加賀は我に返った。
『問題ありません』
『そういうことじゃないんだけどな』
恐らくは、加賀の抱えていた問題すべてを思い遣ったのであろう真田の言葉。
加賀は、背後の真田へと首を振って見せる。
『そういうこと、全てです。もう……問題ありません』
『……そうか』
『はい』
加賀の心は晴れやかだった。
今の自分なら、零戦だろうが紫電改だろうが自由自在に操ってみせる。そんな自信が、加賀の全身に満ちていた。慢心ではなく、全てが実力と理論、そして意欲に裏打ちされた。
ふたりはゆっくりと、自分の居場所へと戻っていく。
真田は明らかに何かを掴んだ加賀を微笑ましく嬉しく思い、加賀は前へ進むための希望を手に入れた喜びを思い。
提督と艦娘はそれぞれの思いで、同じ笑みを浮かべていた。
六.
加賀と真田は、街灯の下を二人歩く。
通用口の警備員に声を掛けて、まっすぐ宿舎への道を進んでいくふたり。半歩の後ろを歩く加賀は、明日からの鍛錬メニューに頭に巡らせていた。道がひらけた今、目指す練度限界への到達までは一気に課題をクリアしていきたい。その為に必要なことを考えるのに一杯だった。
(まずは捻り込みからの機銃掃射。空中機動のクセが抜けたら、インメルマンターンも……)
真田もそんな加賀に気付き、声は掛けない。静けさの中に、足音だけがアスファルトに響く。
「っ、加賀」
その時、加賀が小石を踏んだ。真田の一声は、一瞬間に合わない。
「っ、あ」
姿勢を崩した加賀は、すぐに自ら立て直す。大してよろめきもしなかったが、あまりに集中していたことで加賀の意識は、瞬間、弛緩した。
だから、目の前に差し出された手を自然に握っていた。
「危ないぞ」
真田の言葉に頷こうとした加賀は、そこでようやく自分が何をしたのか気付いた。夜道で少し冷えた手に、他者のぬくもりがじわりと伝わる。
加賀は混乱した。
今この手を振り解いたら、それはあまりにも失礼だ。しかし今、自分は上官である提督の手を握っている。差し出されたのだから問題はないだろう。とは言え、仮にも彼は男性で自分は女だ。相手がどう思ってくれているかは別として、自分がこの半年、いや、一年近く抱いてきた
自分の顔が街灯に照らされたら、赤面してはいないだろうか。いや、多分している。
ぐるりと回る思考。加賀にとっては気まずい沈黙。
「あの」
そして、加賀の口は勝手に動いていた。
「今日は……ありがとうございました」
「どうしたんだ、急に」
ただの感謝にしては、加賀の声は上擦っていた。ただ単に自分の抱えていた問題が解決しただけではない。新たな
「おかげで私は壁を越えられる気がします。行き詰っていた私を助けてくれたのは、あなたです」
「オレはただ、久しぶりに空を飛びたくなっただけだ。オレこそ、加賀と一緒に飛べて良かった」
そして――真田のかつて抱いていた夢の欠片。
加賀は真田と、それを共有できたことが嬉しかった。泉浜鎮守府の筆頭秘書艦として、真田の右腕として、共に並び立つ者として同じ価値観を知ることができたこと。今日起きた出来事の全てに、加賀は感謝していた。だから、きっと今言わなくてはいけない。今を逃したら、もう二度と言う機会は巡ってこない。そんな気がして、加賀は決意のもと、繋いだ手にそっと反対の手を重ねる。
「――幸一、さん」
「っ」
今度は逆に、真田が驚く番だった。名前を呼ばれるというのは、明らかに特別な意味を持っている。少なくとも、ただ役職や苗字で呼ばれるのとは、明らかに距離が違う。
真田もいつかの海域攻略作戦以来、加賀の態度が少し変わったことは感じていた。直接言われるでもなく、しかし普通の仲間としては少し近い距離。ぬるま湯のようなそれが心地よかったのも確か。
だからこそ、ここで踏み込んで来た加賀に、真田は驚いた。まして、いきなり名前を呼ぶというのはかなりのハードルだ。そこに加賀の覚悟を見てとった真田は、思わず息を呑む。
「私はいつか、榛名に言いました。人間と艦娘という、違う存在として生まれ、そして戦う二人が……
加賀は顔を伏せる。
「私にはきっと、覚悟がありませんでした。もちろん、恋もしていませんでした」
過去形で語る加賀の言葉は、逆に今の彼女を表している。
覚悟もある。恋も、している。
「今、私は信じています。あなたとなら、もっと高みを目指せると」
そう言ってから、とてもこれが『告白』の言葉とは取れないと気付いた加賀は、唇を結んだ。
やはり自分はこうだ。きっと誰よりも衝動的なのに、誰よりもそれを表に出せない。素直になれないとはまた違う不器用さ。きっとこれが原因で、この一年近くを無駄に過ごしてしまったのだろうと。
そんな絶望に、目の前の青年が手を添えた。
「あ」
器用に頬へ添えた片手で顔を上向かされた加賀は、いつか見た映画を思い出す。
悩むヒロインに手を伸ばした主役が、優しく微笑み、唇を奪う。そんな光景が、今ここにあった。
「ん、……」
自分が今まで生きた数年間、それまで出したことのない吐息が漏れて、加賀は自分で自分に驚いた。胸が海上公試運転の時と比べられないほどに高鳴り、目の前が歪む。
それが涙であることに、加賀は頬の冷たさで気が付いた。
「言葉も、理解も、自己分析も要らないよ、加賀」
艦娘という不思議で哀しい存在だったはずの加賀は、今目の前に立つ普通の青年にただ振り回されていた。生み出され、戦い、笑い、そして泣き……。
加賀は最初に出会った時に、真田から言われた言葉を思い出していた。たとえ、自分がどんな存在であろうと全力で守る、だから一緒に戦ってくれ、と。
彼はまさに、最初の約束をずっと守ってくれていた。いつかの海で自分を助けに来てくれた時から、加賀の気持ちを見守ってくれていた。
「ただ、自分の気持ちに素直になればいい」
そして、ようやく今、出来損ないだった自分の一歩を受け入れてくれた。
「あれからずっと――お慕いしていました」
「気付いてたよ」
「いけず……」
関西地方の方言で『意地悪な人』を表す短い言葉。目を逸らして言う加賀に、真田は笑い掛けた。
「オレだって悩んだ。オレはお前たちに『戦って死ね』と言わなくてはいけない立場の人間だ。そんなオレが、加賀のことを――特別に考えていいのかって」
言いながら加賀は、真田にぐいと引き寄せられ、その身を預けた。見上げた加賀を抱く真田の瞳は、ただ優しい。悩みを口にしたようでいて、しかし既に腹は決まっている。加賀の好きな顔だった。
「でも」
伝わる温もりに身を任せ、加賀は目を瞑る。ただ一つの言葉を待つために。
「好きだ」
そっと背中に回された腕に抱き締められて、加賀はただ頷く。
「私……練度限界に到達して見せます。必ず」
その先にあるものを自らの手で勝ち取るため。加賀は決意と共に、今はただ、目の前の温もりを抱き締めた。
不意に顔を上げると、月に照らされた相手の顔が目に入る。
「――ん」
軽く触れるだけの口付け。合図にしたように、ふたりは身を離した。
「すっかり遅くなっちゃったな」
「夕食……一緒に食べませんか。私が作ります」
そっと差し出された手を、加賀は微笑んで自分の手と繋ぐ。先ほどよりわずかに近い距離で、提督と秘書艦は歩き出した。
「いつもの野菜スープで頼む」
思えば、この野菜スープが始まりだったのかも知れない。加賀は繋いだ手の温もりを味わいながら、いつかの日に真田へ差し出したマグカップのことを思い出した。
「はい。喜んで」
月に照らされるふたつの背中は、並び立って宿舎へと消えていく。