一.
呪いの歌を聞いたら、無事には帰れない。
海に出た提督や艦娘たちの間でそんな噂が流れ始めたのは、いくつかの鎮守府や護衛艦が襲撃された頃のこと。まことしやかに語られる言葉は、人づてに多くの鎮守府を渡っていく。
曰く、歌を聴いたと話した通信を最後に艦娘が消えた。護衛艦が沈められる直前、乗務員たちが歌を聴いた。対峙した深海棲艦が歌い出して、直後に艦隊が全滅した。それらの証言は、単なる噂と人々の不安、そして土着の言い伝えなどと混ざり合って物語のようになっていく。
唯一、『歌』という共通項だけがそこにあった。
古来より、海――水と女、そして歌は深い関わりを持っていた。ローレライは船乗りを誘い、人魚は歌い、男たちは生きて港へ帰るために船の上で騒ぎ、そして歌った。
そんな『伝承』のひとつとなった自覚があったのか、それとも関心がなかったのか。
「お前の歌は、いつもそれだな」
彼女は、その日も歌っていた。
「アラ――嫌イ?」
「他の歌を知らないのか」
「知ってイルワ。ケレド、これが好きナノ」
だって、『
空母棲姫――漆黒の歌姫が笑う。
「私タチには似合イでショ? 昔信ジタ全テは何モ救イをくれず、今はこうシテ闇にイル」
「そうか」
「それに……面白イワ。ただ歌ウだけデ、みんな勝手に怯エテ、竦ンデ。お話に尾ヒレが付クだけで、こんなニモやりやすくナルなんテ」
「――勝手にするがいい。次の出撃は明日だ。揚陸部隊の支援、いつも通りの準備を頼む」
きっと、彼は嫉妬しているのだろう。自分のままならない何かに。それもまた可愛いと、空母棲姫は微笑んだ。人ならぬ自分が、まだ人である彼にそういう感情を抱くのも、面白いものだ。
彼女『たち』も、そうだったのだろうか。そこまで考えた空母棲姫は、まさに目の前でもう一度目を覚まそうとしているその一人の様子を見て、目を細めた。
お帰りなさい、
彼女たちの歩んだ道を土足で踏みつける快感を思い描いて、空母棲姫は身を震わせた。
二.
その時の私は――意外とあっけないものなのだな――と思った。
かつてのミッドウェーでの戦闘……鋼鉄の身体を炎に焦がしながら、昏い水底へと沈んで行った時。あの時の『記憶』を思えば、今の自分は幾分静かにその時を迎えている。そう感じた。
――心残りがないと言えば、嘘になる。
よくやれた、とは思う。圧倒的な数の深海棲艦を前に、海を奔り、戦った自分。多くの敵艦を葬り、沈め、陸へと……あの人のところへと迫ろうとする深海棲艦を足止めして見せた。それは少なくとも、立派に誇っていい戦果のはずだった。
だけれど。『
艦娘は、沈んだらどうなるのだろう。鋼鉄の身体の時と同じに、水底で眠るのだろうか。それとも、この肉体に宿った魂は海を巡り、また『なにか』に成るのだろうか。
艦娘の起こりを、そして深海棲艦の起源を考えれば、おおよその見当は付く。
――それは嫌だ、と少しだけ抵抗してみることにする。まだ辛うじて浮力は残っていた。
海に浸かった左手の薬指。ゆるりと持ち上げると、激しく燃え盛る炎を受けて、光っている。これはこんな哀しい光を放っていいものではない。あの人との絆、今まで私がやってきたことが詰まっている……約束の指輪。
――陽の光、月の光、そして――静かな枕元の灯り。
本来、この指輪が照らされているべきなのは、そんな希望の光だったはずだ。それなのに、今日から始まるはずだった私の希望は……今こうして終わりを告げようとしていた。
それを考えた途端、私の胸をじわり、と後悔が満たした。
ああ――私が白く、黒く、染まっていく。
私の何かが、海に溶け出していく。返して。それは……私の記憶。わたしの、たいせつな。
そんなにぶい感覚だけが、私の身体を少しずつ満たし、支配していき、そして……。
そこで、私の記憶は、途切れる――はず、だった。
『まだ沈みたくない。あの昏い水底へ』
――それは嫌悪。
『まだ動ける。まだ飛ばせる。まだ……戦える』
――それは後悔。
『まだ、あの空を見ていたい』
――それは、あの人の見ていた夢。
体の奥底から響く声は、やがてじわりと私の身体を駆け巡る。その中心は、私の胸の奥深く……。
肉へ食い込むように息づくそれは、漆黒の鋼。
『約束したのに』
――それは私と彼の契約。病める時も、健やかなる時も……人間が結婚する時はそう誓う。
どす黒い衝動が私を満たす。どうして。私はどうなる。これは、違う。私では……。
『ずっと一緒にいるはずだったのに』
違う。こうなることは、私が選んだのに。
『何故あなたは日の光の元にいるの』
それは――私が沈んだから。
『そう――これは、約束』
やくそく……私を、守るッテ。命をクレるッテ。アナタハ。
『私とあなたは、ずっと一緒』
一緒に戦ウと言っタ。ソウ……。
『だから――あなたが、欲しい。あなたの全てが――』
――欲しい、あなたの記憶が。そうすれば、あなたのことを、ずっと、忘れないでいられる――。
三.
「これで、先月から数えて三件目でありますな」
漆黒の外套から覗く、透けるような肌。陸軍艦娘『あきつ丸』は、眼下で未だに煙を吐き出している鎮守府
取り出した手帳に何かを記す彼女の隣、軍装の少年が同じく手帳を手繰る。
「あきつ丸。君の言葉は間違ってないけど、正確じゃない」
「と、言いますと」
「
「……例の件に絡んでいそうな事件は、ここ半年で十件をゆうに超える……ということでありますな」
「うん、正解」
そう人懐っこく言った少年の目は、一切笑っていない。
「事情聴取のほうはどうだった?」
「隊員のほうは生き残った数人の調書を拝見しましたが、大した話はなかったのであります。いきなり前触れなく襲撃されただの、エリート級が多数いただの。それと……」
「通信妨害を受けた、でしょ」
無言で首を縦に振るあきつ丸。
「艦娘たちのほうも同じく。ただし……一人だけ興味深い話を聞けたのであります」
勿体ぶったあきつ丸の言葉に、少年の瞳が細められた。
「報告では駆逐艦と重巡が数名生存していたんだったね」
「熊野であります。彼女は格納庫の陰で行動不能になっていたそうなのですが……戦闘中に、彼女らの提督が叫ぶのを聞いたとのことです。通信でなく肉声のため、記録には残っていないのですが」
「提督が……?」
「そうであります」
より正確に言うと、と前置きをしたあきつ丸が苦虫を噛み潰す。
「ただ一言『ながと』……と」
少年はあきつ丸の口にした単語に、目を閉じた。
「熊野が気付いた時には、提督はふらふらと海に向かって歩いていき……」
「いつの間にか姿を消していた、ということか」
頷いたあきつ丸。手帳のページをめくり、提督の叫んだ単語に最後の意味付けをした。
「調査によるとこの鎮守府では襲撃事件の一週間ほど前に、一人の艦娘が轟沈しているのであります。長門型一番艦……長門」
「ふぅん」
興味なさげな声を上げた少年の瞳は、逆に示された一点を射抜き、更に次の一手へと及んでいた。
数枚のページを手繰った手帳が、音もなく閉じられる。
「僕の記憶が正しければ、今までの鎮守府でも襲撃前に艦娘が沈んでいたね」
「しかし、自分たちは日々戦っているのです。当然そういうことと隣合わせの日常なのであります」
「そうだね。でもね、あきつ丸」
言いながら、彼は傍らに立つあきつ丸の手を取った。
手袋越しに伝わる硬い感触は『ケッコンカッコカリ』の指輪。
「提督どの……まさか、彼女たちは」
「――そのまさか、だと言ったら?」
まさしく彼女と横に立つ少年……御影提督との強い絆を示すものだった。どこか愛しくそれを指先で撫でて、御影は薄く笑う。
「練度限界を突破するような艦娘を、そうやすやすと沈めるものかな」
彼の脳裏に並ぶ、沈んだ艦娘たちの名簿。そこに見出した共通項と、全ての始まり。少年は我知らず大きなため息を吐き、あきつ丸だけに聞こえる小さな声で呟いた。
「