柱の影に息を潜める後ろ姿。視線の先には中庭――そして、そこで寛ぐ男女。エクラの居る場所からは三人とも丸見えなのだけれど、少なくとも男女に、柱に潜む影に気づいた様子はない。
あれはまずい、とエクラは独りごちた。柱に潜んだ彼は、燃えるような赤い髪の持ち主だ。男女がちらりとでもこちらを向けば、その目立つ赤髪は嫌でも目に入る――バレてしまう。バレれば……その後の混乱を想像して、エクラは天を仰ぎたいような気持ちになった。
助けを求めるように回りを見渡すと、タイミングよく通りかかる二人組。
「ベルカ、ベルカ」
声を潜めて呼ぶと、ベルカは音もなく、一緒にいたルーナは怪訝そうに近寄ってきた。感情が読みにくいベルカとは対称的に、ルーナは不機嫌を隠そうともしない。
「あたしたちに何の用よ」
「いや、用があるのはベルカだけ……」
ぐ、と睨み付けられて、言いかけた言葉はエクラの喉に引っ掛かる。それをなんとか飲み下し、エクラは改めてベルカに向かった。
「べ、ベルカ。ちょっとあれ、捕まえてきてくれない? 気づかれないように」
「わかった」
ベルカは今のやり取りなど無かったかのような態度だ。慣れているのかもしれない……まあとにかく。詳しいことを聞かずに動いてくれる彼女は、この場を収めるにはうってつけの人材である。
すぅ、とターゲットの背後に忍び寄ると、手刀一発。崩れ落ちた彼を、事も無げに抱えあげる。どちらかと言えば小柄な子なのに、いったいどんな腕力してるんだ……とは、まあ聞くだけ野暮か。
少し離れたところまで連れていって、活を入れて起こしてもらう。ううん、と少し唸って薄目を開けた彼を、エクラは覗き込んだ。
「や、おはよ、ロイ」
「……おはようございます?」
名前を呼び、挨拶をすれば、戸惑いながらも律儀に返してくれる。やはりロイは優等生だ。にしては、さっきの行動は解せないが――いや、全く解せない訳でもないけど。
「他人の、しかも自分の両親のデートを覗くなんて、いい趣味してるねー」
そう言ってみると、ロイは顔を赤くして言葉をつまらせた。ちらりと中庭の方に目を向け、かと思うとうつむいてしまう。
中庭では、まだエリウッドとニニアンが、仲睦まじく二人の時間を堪能しているはずだ。
「色々気にしないエリウッドはともかく。ニニアンなんか、君に見られてると気づいたら、恥ずかしすぎて死んじゃうよ」
「そんな殺しかたもあるのね。知らなかったわ、詳しく教えて」
何か変なところに食いついてきたベルカはルーナに任せて。責めすぎないように務めて軽く言えば、ロイは眉間に皺を寄せた。
「すみま……せん。どうしても、気持ちが抑えられなくて」
そんなに思い詰めるようなことじゃないとエクラは思うのだが、ロイはやっぱり優等生だった。真面目に、懺悔するように、述懐の言葉を口にする。
「僕は、母上をほとんど覚えていないんです……でも、母上の葬儀のときの、父上の空虚な表情だけは、よく覚えていて……」
だから、今の幸せそうに笑う両親を見るのが、好きなのだという。なんの憂いもなく幸せを噛み締めている二人は、ロイにとっても幸せなのだという。
「……だからといって、覗きはいけませんね。ごめんなさい」
素直にぺこりと下げられた頭、それをエクラは無言でわしゃわしゃと掻き回した。あーもう、と独りごちる。エクラは、こういう素直に弱いのである。
「そーいうときはね、堂々と甘えてくればいいんだよ」
でも、とロイがこぼす。エリウッドとは比較的早く馴染んだというのに、やはり母親は特別なのだろうか。ましてやそれが、物心ついたときには既にいなかったとなれば。あいにく、エクラには想像するしかない想いだ。
ふと思い立ってルーナの方を見れば、案の定彼女は複雑そうに顔を歪めていた。
「ばっかじゃないの」
呟いた言葉は誰に向けてのものだろう。ロイか、エクラか、はたまたこの状況にか。
「ニニアンがあんたを拒否ったわけじゃないんでしょ。なら、いっぺん思いっきり抱きついてみればいいじゃない」
「だ、抱きつく?」
ロイが目を丸くした。エクラも丸くした。ベルカは少し眉を上げただけだったが。いきなりなかなか大胆な意見である。
「そうよ。で、相手の反応を見るの。満更でも無さそうだったら、問題なし。戸惑ってるみたいなら、友達から始めればよし。まあ、ないとは思うけど、拒否られたら……その時はご愁傷さまね」
はあ、と納得したようなしてないようなロイ。確かに大胆な意見ではあるが、方向性は悪くない。何より、真面目すぎるきらいのあるロイなのだから、身内にはこれくらい大胆になってもいいと思う。
「大丈夫よ」
不意に呟いたのはベルカだ。見れば、珍しくもうっすらとした微笑みを浮かべている。
「母親ってものは、意外と大きいものだから」
はてな、とエクラがロイと揃って首をかしげていると、ルーナが相方の肩を抱いた。
「そうよね。たとえ会うのが始めてでも、自分より年上でも、あっさり受け入れちゃうくらいにはね」
二人ともきっと、もとの世界での経験がそう言わせたのだろう。少し寂しげな笑顔に、エクラはそう思った。
「いってらー」
ルーナの能天気な声援に見送られて、ロイは中庭へ向かう。緊張の面持ちで、ぎくしゃくとぎこちなく。
結局、抱きつくのは勘弁と、手を握る作戦に切り替えたのだが。それだって、ロイにはハードルの高い試練なのだろう。
「は……母上!」
ニニアンの戸惑い顔に、怯んだように足を止めるロイ。だけどそのすぐ後、エリウッドと目を見交わして、そしておずおずと手を差し伸べるニニアン。
ルーナたちの言うとおり、母親ってのは意外と大きいものなのかもしれない。ハードルなんて、あっさり飛び越えてきてしまうのだから。
ぎこちなくもしっかりと握手を交わす母子と、それを見守る父親と。そこには壁もハードルも、およそ彼らの仲を阻むものは何一つ。存在しないように見えたのだった。