お調べします、鎮守府七不思議!? 抜錨!呉鎮守府広報課! 作:沖野潤一
一.
「にゃーん」
なんとなく鳴いてみた。鳴き声に似たなにかが、薄暗い格納庫裏にこだまする。他は、なにもない。強いて言えば、ねこじゃらしが風に揺れてそれっぽいぐらいだ。
私の鳴き声もどきを聞いたのか、葛城さんがひょこっと顔を出した。
「どうしました、青葉さん。猫ちゃんいました?」
「いやぁ、鳴いたら出てくるかなとか思いまして」
「発想は悪くないと思いますけど」
葛城さんからのお褒めを頂いたところで、低くしていた姿勢を戻す。
「うーん、これは今日も外れですかね」
「そのようですね。試しに置いてみた餌も、全然手をつけてないみたいですし」
「なかなか用心深いですねぇ」
「置いておいた定点カメラにも姿はなし、かぁ。確かに用心深いみたい」
鎮守府、第一格納庫。その裏に、謎の黒猫が出没する。
黒猫に謎もなにもないと思うのだが、一応こうして呼ばれている『謎』なのだ、これは。
鎮守府七不思議。
はっきり言ってしまえばよくある噂話というやつで、何故かそれは七つある。何故なら六不思議や八不思議では語呂が悪いからだ。きっといくつかは数合わせのでっち上げで、しかも怪奇現象でもなんでもない。
それでも私、青葉が何故これを追っているかと言うと。
「青葉さん、どうして猫企画にしたんです?」
「なぜなら青葉は先日、とってもかわいい、ねこ動画を見たからです」
「なるほど……そういう方向性なら、鎮守府突撃艦娘ばんごはん、でも良かったのかも」
「あ、それもいいですね」
「晩ごはんだと、広報誌の紙面よりは動画向きですけどね。いっそ、なんとかチューバー目指しますか。呉鎮守府の機密撮ってみたみたいな」
「炎上どころか、消し炭になっちゃいますよぅソレ」
そう。広報課の中のさらに下、なんらかの事情で前線に出なくなった艦娘が配属される、通称コラム担当。毒にも薬にもならない与太話や、当たり障りないインタビュー、食堂のメニューなど、ちょっとした賑やかしになるような話を記事にする係だ。
今回の題材は猫。鎮守府や地元の街で見られる猫を紹介しようという企画。
まぁ思うところはあるが、求められるものがあるなら素直に乗っておくのも悪くはない。
「青葉さん。定点カメラはバッテリー交換しときました。チャンスはまた明日ですね」
「そうですねぇ。鎮守府ねこ特集の掲載には、なんとか間に合わせたいところです」
「取材は抜きにしても会ってみたいなぁ、黒猫ちゃん」
「あ、それは青葉も同感です」
予定されている記事の締め切りが近い。大して期待されていないとは言っても、せめて黒猫の写真のひとつ、あわよくば触れ合って毛並みのふわふわ具合をレポート出来れば。
先に歩き出した葛城さんの背を追おうと、一歩踏み出した時。
「ん」
かすかに鳴き声を耳が捉えた気がして――
「――いないか」
振り向いた暗闇には、何の姿も見えなかった。
二.
「ゆーさん、ただいまです」
「ただいまゆーちゃん」
「あ、えと……おかえりなさい。ねこちゃん、いましたか」
「やー、残念ながら空振りでした」
「そうですか――残念、です」
本当に残念そうなU-511、ゆーさん。
「次こそは、ですよ。がっかりしないでくださいね」
ここは呉鎮守府広報課、艦娘コラム係。
もともと広報課の隣にあった倉庫の一部を改装した部屋は、四人分のデスクとホワイトボード、背丈ほどの資料棚と冷蔵庫でいっぱいいっぱい。
このご時世だからか個人割り当ての端末があるのはありがたいけど、ローカル端末にはデータも置かせない造りだし、繋がっているネットワークは当然のようにフィルタリングされた専用回線を使っている。ウェブブラウザでちょこっとブログでも見ようものなら、アクセス制限のメッセージがでかでかと。まぁ、ないよりはあったほうがいい。
そんな小部屋で、私たち――重巡、空母、潜水艦という異色の組み合わせが働いている。
その一人の正規空母・葛城さんが私を呼んでいた。
「青葉さぁん、次の号の締め切りっていつでしたっけ。メール来てました?」
「あー。ええと、明後日のヒトマルマルマル。確か青葉にだけメール来てました。事前に記事の下書きだけ送っておけば、お昼頃までは待ってくれるそうです」
あとで転送します、と言いながら、広報課から来ていたメールを探す。
テーブルからよい香りがした。
「おっ、今日は紅茶ですね。恐縮です、ゆーさん」
「Bitte schon……どういたしまして」
「アップルかな? 甘い香りでとっても素敵です」
ティーカップから漂うお茶の香りにうっとりしていると、葛城さんが手を叩く。
「あ! そう言えば昨日、前の鎮守府でお世話になってた隊員さんから、おまんじゅうが送られて来たんです。せっかくだからお茶と一緒にいただきましょうよ、青葉さん」
「紅茶に和菓子ってのも面白いですねぇ……夜に甘いものはちょっと心配ですけども」
「平気です、平気。おまんじゅうのカロリーはお茶の渋みが弱点だから、お茶に倒されて実質ゼロカロリーです」
「Bohnenpaste……ユー、甘くて好きです」
「いいのかなぁそのガバガバ理論。まぁ、葛城さんはもともと細身だからいいですけども」
「もう少し食べろってよく言われてたなぁ。でも、鍛錬とかしてたら普通にこんな感じの体形になりません?」
「青葉だって歩き回りますけど、空母の方々とはライフスタイルが違うんです!」
こうして楽しい仲間たちと他愛のない会話をしながら、日常は過ぎていく。
私たちの仕事は、広報担当。
と言っても、さほど重要なことをしているわけではない。もともと、鎮守府が発行している内外向け広報誌の一ページ、艦娘が担当するコラムというコンセプトのページを担当しているだけだ。今のところ落としてはいないけど、記事がなくて困るほどでもない。
ちなみに記事の内容自体は割と好評らしい。伝手を頼って近くの鎮守府へ行って提督にインタビューすることもあれば、足を使って取材して、地元グルメの情報を載せることもある。そう言えば『横須賀』にも一度だけ行った。
何故艦娘がわざわざ広報を、という声もあるにはあるが、そこはそれ。引退した艦娘の居場所を作る意味でも、こういったポジションの開拓は無駄ではない、とだけ。
ともあれ、海で戦うことと比べれば特異だけれど、ある意味では平凡な仕事をしている。
「そういえば」
ひとしきり頬張ったおまんじゅうをお腹に納めたのか、葛城さん。
「青葉さん、今回狙ってる猫って、『鎮守府七不思議』なんでしょ?」
鎮守府七不思議。
人間の学校などでよく言われる『七不思議』の類いらしい。それがなぜか、この鎮守府では語られている。
そもそも、ここ『呉鎮守府』は、元々大戦期にあった帝国海軍のそれとは違う。艦娘の運用組織として深海棲艦と戦争が起こってから設立された、対特殊海棲生物防衛隊の地方組織の名だ。中国地方の瀬戸内海側、そして四国近辺の組織を統括している。
施設としては海上自衛隊が引き継いだ港湾施設、初期に深海棲艦の襲撃で壊滅した民間施設の跡地を間借りしているものの、戦前から使われているような建物はごく一部だけ。『鎮守府』という名前はともかく、基本的には歴史のれの字もないと言っていい。
疑問なのが、七不思議はふつう、年月を経た学校とかそういう場所にあるのがお決まりではないのだろうか。この『鎮守府』ではせいぜい10年がいいところだ。そんなところに何故、七不思議なるものがあるのだろう。
考えても結論は出ない。なぜなら、
「たまたま猫特集のコラムだから面白いかと思って『七不思議』からチョイスしたんです。そもそも鎮守府の施設内に猫ってあんまりいないですからね、ふつう」
「提督が猫っていう鎮守府もありますよね」
「それは例外と言いますか、なんというか」
「七不思議っていうからには七つあるんですよね? 私、いくつか聞いたことはあるけど全部は知らないんです。青葉さんが知ってるやつを教えて下さいよ」
『七不思議』の概念自体は昔々からあるものだ。説明のつかない現象や怪異をまとめたもので、七つとされているのは単に語呂の問題と聞く。実際は、八つも九つもあるのかも知れないし、逆にもっと少ないこともある。七つ目が無いこと自体が不思議とされているなんていうケースもあるとか。
「一応、この鎮守府にまつわる不思議は、数字のごろ合わせがされてるみたいですね」
「例えば?」
「一つ目が『第一格納庫裏に現れる謎の黒猫』ですよね」
「ただのねこちゃんなのに」
「そうですよねぇ。まぁ鎮守府の中に猫が、というのが珍しくはありますけども……で、ふたつ目が『第二埠頭に現れる謎の船』ですね」
「なるほど、ふたつ目が『第二』なわけですね。それにしても謎の船って。護衛艦や海上保安庁さんの警備艇じゃないんですか」
「ううん、青葉も詳しくはないです。広報の隊員さんに聞いただけなので」
聞いた話では、というやつだ。
この手のお話は普通、何かに記されているわけではない。よほど体系立ててフィールドワークした民俗学の調査でもなければ、人づてに渡ってくる噂のようなものがせいぜい。何かがぽっかりと抜けていたり、尾ひれがついていたりすることなんて茶飯事だろう。
この手の話が現代でも根強く生き残っているのは、ひとえに人と文化の連続性に帰するのではないか。繋がりが残っていれば、薄れたり変わったりしても少しずつ継承されて、そして時に新たな物語が生まれる。
そう。忘れられなければ、お話は継承されていく。
もし、平和になったら。――艦娘の存在もいつか、そういったお話のひとつになる日が来るのかも知れない。むかしむかし、海に立つ人がいた、みたいに。
「あれ……」
ふと、葛城さんが変な声を出した。こめかみに指を当てて考え込んでいる。
「どうかしましたか」
「ええと」
眉根を寄せたままの葛城さん。思わずなにがあったのか聞いてしまったが、上目遣いな彼女の答えは。
「あの、青葉さん。私……定点カメラのスイッチ入れましたっけ。覚えてないんです」
「おやぁ」
先ほど立ち寄った第一格納庫での話だろう。黒猫の映像を押さえるためにカメラを設置しようと言い出したのは葛城さんだった。屋外とは言っても、さすがに鎮守府の敷地内、それも一般人立ち入り禁止エリアなら、カメラを置きっぱなしにしても大丈夫だろうと。
「確かに葛城さん、バッテリーを交換したってことは言ってたと思いますけど、録画開始したかどうかまでは確認してませんでしたねぇ」
「ううん、ですよねぇ……あの、青葉さん」
「はい?」
「良かったら、一緒に見に行ってもらえませんか……?」
もともと写真が無理なら、いることだけでも証明できれば、という発想で置いたのだ。明日見てみて、録画されていなかったら残念でした、でもいい。時間ももう遅いし。わざわざ行って、やっぱり録画開始されていたら徒労になるかも、と思わなくもない。
しかし、葛城さんが自らやりたいと言い出したことを無碍にすることも出来なかった。
「じゃあ、宿舎に戻る前に、ちょっと寄っていきましょうか」
「ホントですか!」
「はい。夜の散歩がてらということでどうでしょう」
まぁ、広いとは言っても鎮守府の敷地内だ。夜風に吹かれながら、星を眺めて歩くのもいいかも知れない。本当にそう思ったので、私はどちらかというと喜んで言った。
そんな私をヨソに申し訳なさそうな葛城さんだったが――
「すみません、私ひとりでも行けなくもないんですけど……その」
どうやら、理由は別にあったらしい。
「ちょーっと、ちょっとだけ、怖いかなって」
朗らかな葛城さんが、照れくさそうに苦笑い。なるほど、ころころ変わる表情もいいが、元気な普段の彼女とのギャップもまた魅力なのだな……となんとなく思った。隊員たちに彼女のファンが多い理由も分かる気がする。
それはそうと、怖いと思うのも無理はない。
「あはは。怖いの、分かります」
「――ほんと? ですか?」
私は本心からそう言った。第一格納庫は主に艤装が置いてあり、艦娘が出撃する岸壁のそばにある。つまり、海が近いということ。
真っ暗な海は怖い。艦娘にとっては当然だが――とりわけ、私たちにとっては。
「それじゃあ、日報が終わったら一緒に行きましょうか。ふたりならまぁ、なんとかなるでしょう」
ぐ、と拳を握って強がってみた。それを見て、ようやく不安より安心が勝ったらしい。葛城さんが笑った。
「えへへ……それじゃあ、よろしくお願いします。あ! ゆーちゃん、片付け私もやるよ!」
「Dankeです」
たとえ不安でも、誰かと一緒ならば前に踏み出す勇気が湧いてくる。私が艦娘になって学んだことのひとつだ。
そうではなくて。
つまり、勇気をもってなにかをする、ということ自体が、私たちにとって意義のある、やりがいのあることなのだ。
まぁ、黒猫の捜索なんてのは、それほど大したことではないのかも知れないけれど。
三.
「あ、良かったぁ。録画はちゃんと始まってました」
「おお。まぁ、これで安心ですね」
「はい。付き合わせちゃってごめんなさい」
「いえいえ。それにしても、星が綺麗ですねぇ」
空を埋める星たちが、私と葛城さんを見ていた。
こう言うとロマンチックだが、やっていることは動物カメラの確認作業だ。
「そうですねぇ。夜の航海で計器が使えない状況なんかだと、ロマンチックさより方角が分かることのほうがありがたいんですけどね」
「長距離の航海だと、少し星の見え方が違ったりして面白いんですけど、出撃してる間はあんまり意識してる暇がないですからねぇ」
黒猫向けの定点カメラは問題なし。少々風に吹かれても問題ないように、転がっていたレンガで三脚も固定。これで、運が良ければ黒猫がうろついているのを捉えられるだろう。
しかし、よく考えればこの暗闇で黒猫がちゃんと映るだろうか。一応薄明かりがなくはないのだけど。葛城さんも同じことを考えたらしい。
「青葉さん。今日はともかく、この先、暗視カメラとか借りられないですかねぇ」
「考えたことがなかったですね……そもそも、
「なるほど――いや、さすがにこの暗さだと、撮れるか心配になるというか」
「今度、機材の担当のひとに聞いてみましょうね」
借りたカメラが海水をかぶる心配はあっても、真っ暗闇で使う心配をしたことはない。機材があるかどうか聞いてみるだけでもやってみることにしよう。ひとつ仕事ができた。
さて、用事は済んだ。
「青葉さん、ありがとうございました。次は気をつけますね」
「いえいえ。お安いご用ですよぅ」
実際、潮騒を耳にしながら星の下を歩くのは落ち着く。海に浮かぶのではなく地に足をついていられるのは、艦娘になったからこそ出来ることのひとつだ。昔から慣れ親しんだ海と、安心できる陸。いいとこ取りができて、とてもお得な気分になる。
かしゃり、と手にしたカメラで星を撮ってみた。
「さぁて、帰ってお休みしましょうか」
そう言って私は歩き出す。
「明日は午後、沖縄のほうに赴任する提督さんのインタビューがあるはずです。楽しみだなぁ……葛城さんも質問内容とか考えといて下さいね」
新任の提督と話をするのは面白い。出自も経験も千差万別、意気込みも夢もなにもかも様々な彼らを見ているのはワクワクする。願わくば、彼と彼の元で働く艦娘たちの笑顔が絶えないことを、という感じだ。
――と。私の軽口に、葛城さんの反応がない。
「葛城さん?」
呼びかけに応えず、葛城さんが無言で私のセーラーの裾を掴んだ。
「あれ、インタビュー苦手でしたっけ? 別に青葉が全部やってもいいですけども」
そして気付く。裾を掴んだ葛城さんの手が震えている。様子がおかしい。
「――葛城さん?」
思わず、再び彼女の名前を呼んだ。伏せ気味の葛城さんの瞳が潤んでいるように見える。なんだ。いったいどうしたというのだろう。
「あ、あ、あ、あれ」
あれ?
葛城さんの唇が紡いだ言葉はそれだけで、ただ虚空を――格納庫のほうを指さしている。
「どうかしたんですか、葛城さん」
「あ、あああああぁあぁ青葉さんっ、青葉さん」
葛城さんの呼びかけはもはや悲鳴のような奇声に近かった。辛うじて呼んだ私の名前は掠れてよく聞こえない。
そして、私はようやく、彼女の異変を招いた原因に気付く。
「な、なななな……!」
葛城さんが指さす先、格納庫の影になっている暗闇から――
「ひ、光ってる……!」
――紅く光る瞳がひとつ、こちらを覗いていた。
「で、ででででっででで……!」
「かっかかか葛城さん! ちょっと!?」
いつの間にか私を盾にするように背中のほうへ回った葛城さん。
「ぐぅえ」
「は、はぁぁあ」
私のセーラーの襟を掴んで左右に振り出した。漏れるうめきのような声はもはや言語の体を成していない。
「あわわあわわわああわわあわわぁあ」
「ぐぐぇぇ、えぐ、うぐ、かつ、らぎっ、さんぐぅ」
その膂力、十万馬力。正規空母パワーでぐいんぐいんと左右に揺られて、首がガンガン絞まる。めちゃくちゃ苦しい。というか、くらくらして思考が定まらない。
私は無我夢中でカメラをなんとか構えた。
「うぎぇ」
いつもの手癖、感覚だけでシャッターを切る。一枚、二枚、三枚……。
その音に気付いたのか。
「ひっ」
暗闇の赤い瞳がゆらりとうごめき、私たちを見つめている。
「か、かつ、かつら、ぎ」
「ででで、でた、でたっでででたぁ悪霊退散あくりょおたいはん」
「おね、おねがい……くび、くびを、はなし……」
涙声でろれつも怪しい葛城さんと、首が絞まって別な意味で涙目、呻くだけの私。
しまった、鎮守府内で武器なんか持ってない――そして、そもそも
助けを呼ぶのにスマホを取り出そうにも、首がどんどん絞まって視界が白黒する。
ここで、
まだ死ねない。
気力を振り絞る。私の今の戦いは、広報だ。なにが起きているのか、これからどうなるのか。それを世間に、叶わないならば仲間たちに、知らしめることが使命なのだ。
青葉、前を向け。
青葉、カメラを向けろ。
青葉! 私の、目標は……!
「にゃーん、と鳴けばいいのかしら、こういう時は」
そして、精神が死にかけの私にかけられた声は、あまりにも間が抜けていた。
「はへ」
息と共に漏れたのはそんな声。
「ふぇ」
同時に、葛城さんの腕から力が抜ける。重力に従って地面へ崩れ落ちる私。
そんな私を見下ろして、影は穏やかに語った。
「あまり大声を出さないで頂戴。この子が怖がってしまうもの」
鳶色の瞳で私に首を傾げていたのは、弓道衣の艦娘だった。
「あれ、ええと――あなた、一航戦のお方ですよね」
「航空母艦、加賀です」
その腕には黒猫が抱かれていて、ひとつ大きなあくびをした。首には青い首輪。これが七不思議のひとつ、第一格納庫裏の黒猫か。
さほど大きくもない猫は、不思議なものでも見るように私と葛城さんを見つめていた。
先ほどまでの緊迫した空気などとっくに霧散してしまった。そんなことなどまるで気にした様子もなく、一航戦・加賀さんは僅かに首を傾げて言う。
「ハッピーちゃんです」
「はっぴー」
「ハッピーちゃん」
「ちゃん」
「まんぞくさんではないわ」
「いえ、誰も言ってません」
「そう。彼の方の鎮守府のこと、もっと色んな方に知ってもらわないといけないわね」
言いながらも、その手は愛おしそうに黒猫を撫でている。
ようやく落ち着きと普段の呼吸を取り戻した私は、首をさすった。葛城さんはわずかに怯えているが、それでも取り乱した様子はない。
根本的な疑問を解決しようと、私は加賀さんを見つめた。
「ええと、それで、その、加賀さんはいったい、ここでなにを」
「ハッピーちゃんと遊んでいたの」
「こんな薄暗いところで」
なにしろ七不思議のひとつ。しかも夜遅く、格納庫の裏なんて人通りもない場所で。
不審者として叫び声でも上げていたら、果たしてどうなったことやら。
しかし加賀さんはまるで危機感を持っていないらしい。にゃお、と目を細める黒猫――ハッピーちゃんの背を撫でている。
「ハッピーちゃんは人見知りするのよ。日が暮れて格納庫が静かになってからでないと、出てこないわ」
「な、なるほどぉ」
つまり――暗闇で黒猫と戯れる加賀さんを、我々が幽霊かなにかと勘違いしたらしい。まぁ、艦娘だって見方によっては幽霊のようなものだけど。
「とにかく、幽霊でなくて良かったです。深海棲艦なら青葉でも相手できますが、幽霊に弾は当たりませんから。ね、葛城さん」
苦笑いの葛城さんと目が合う。
そんな私たちの苦労(?)など知ったことではない加賀さん。
「写真」
表情は変えず、唐突に加賀さんはそう言った。
「は、はい」
「載るのかしら。広報誌に」
「は?」
「あなたたち、取材をしているのでしょう」
加賀さんの言葉の意味が、後から遅れてついてくる。
つまり、さっき首を絞められながら撮った写真は、私たちが書いているコラムの記事として――誌面に載るのかと。
私は何故だか咳払いをしてから、ようやく取り戻した広報記者としての立場を行使することにした。
「ば、場合に寄っては載りますが」
「が?」
「せっかくなので、ちゃんと撮らせて頂いたほうが、こちらとしてもありがたいです」
真夏のホラー特集ならまだしも――まぁ、鎮守府七不思議自体がオカルト特集の側面があるとは言え――鎮守府ねこ企画で、ぼうっと暗闇に浮かんだ怪奇ねこ写真は、ちょっといただけない。
「そう」
ハッピーちゃんを撫でながら、加賀さんは。
「撮ってくれて構いません。できれば、この子の毛並みの素晴らしさが伝わるように」
「めっちゃ絶妙に自分が写るアングルに調整しますね!? 撮られ慣れてますよね!?」
あれこれと目線をくれる加賀さんと、明るい場所でシャッターを切る私。
撮影が終わるまで、ハッピーちゃんは、我関せずと目を細めていた。
四.
結局、『第一格納庫の黒猫』は「艦娘のお友達ねこ」というオチがついた。
加賀さんが黒猫……ハッピーちゃんを抱いた一枚は無事に広報誌の一面を……予定より大きなスペースを使って飾り、どこか堅物なイメージのある加賀型とのギャップによほどインパクトがあったのか、記事の中でも相当に好評だったらしい。
私・青葉は、広報担当の課長から頂いた封筒――恐らく何らかの金券だろう――それを胸に抱いて複雑なため息を吐いた。
「こんなことでいいのかなぁ」
思わず漏れた本音だった。
洋上で戦う艦娘たちをよそに、陸上でねこの写真を撮り、戦いに明け暮れる仲間たちにつかの間の癒やしを届ける――それ自体に意味がないとは言わない。
でも。
かつてこの海で、空を仰いで終わりを迎えた自分自身に、恥じない自分で居られているだろうか。それは答えの出ない問いかも知れないが、まだ自分の中で消化できていない。
「はぁ……」
もやもやを晴らすように、そっとコラム課のドアを開けた。
「青葉、おかえりなさい。遅かったわね」
そう言う加賀さんに、私は苦笑いをした。
「ただいまです。ちょっと呼び出しされてまして。悪い話では無かったんですけど」
そっと封筒をデスクの引き出しに滑り込ませて一息吐き出して、私は顔を上げた。
「いやいやいやいやいや!? なんで加賀さんがここに座ってるんですか!?」
平然と空きデスクに座っていたのは、
「黒猫の加賀、いい響きね」
「人の思考読まないで下さいよ!? いい響きじゃないですよ、なにを和んでるんですか! 葛城さんもお茶菓子まで出して!」
「だって、さっき課長さんが来て、ひとり仲間が増えるからって連れてきたんです。はい、加賀さんどうぞ」
「ありがとう、葛城。私の記事で広報誌の読者……ファンが増えたからだそうよ。いっそ記者として働いては、と言われたから――」
ふぅ、と一息吐いた加賀さん。
「――二つ返事で了解したわ。ゆーちゃん、お茶のお代わりを頂けるかしら」
「りょ……了解、です」
茶菓子を頬張り、湯飲みで茶を飲む。
「いやいやいや馴染み過ぎですよね!? って、ああっ! ハッピーちゃんまでいる!」
にゃあ、という声に足元を見ると、優雅な黒毛がするりと机の脚を抜けていく。
そのまま加賀さんのひざに収まったハッピーちゃんは、まるで『私も着任』、と言わんばかりだ。
「これからよろしくお願いします、青葉」
「えぇえぅ……青葉、この急展開にまったくついて行けてません……ずっと静かで平凡な窓際係だったのに」
いったいぜんたい、この勢いはなんだ。この変わりようはなんだ。
たかが艦娘とねこ一匹増えただけで。
「これから忙しくなります。きっと」
「そうみたいですねぇ……」
やけ気味に呟いた私に、加賀さんは鳶色の瞳で微笑んだ。
「楽しい広報誌にしましょう」
「ええいこうなったらどうにでもなれ! これからよろしくお願いします、加賀さん!」
「こちらこそ、です」
良くも悪くも、私の止まっていた時間は動き出したのだ。
「にゃーん」
加賀さんとハッピーの、にゃあ、という鳴き声と共に。
(続)