そこまで喋って、ヤコブは息を付いた。
警察官のシカルは、続きはまだかと急いた目で見ているが、リッカの兄のジョシュは、相変わらず表情少なに黙っている。
「えっとね、信じてくれなくてもいいけど…… あっと思った次にはもう、足の下に何も無かったんだ」
「は? ま、まさか屋上から飛び降りたのか!?」
「一瞬そう思ったけど違った。上がってるんだ。屋上の四角い形が、足の下でどんどん小さくなって行って」
シカルは眉間にシワを寄せた。
「おい、真面目に話せ。妹を案じているジョシュの身になってやれ」
「真面目だよ。とにかく自分がどうなってるのか全然分かんなくてさ。そしたら後ろから腕を掴んでるリッカが、『信じて信じて、イグネーを信じて。信じてくれないと落ちちゃう』って」
「…………」
「だからもう、下を見るのをやめて、とにかく頭を空っぽにしようと上だけを見た。街の明かりから離れて真っ暗になったら、星が凄いの。思わず、うわ――すげぇって声に出したら、リッカも後ろで、キレイだねって」
子供はついさっきの現実を語っているのだろうが、聞いている方は寝起きの夢を教えられているような気分だった。シカルは困惑して隣を見るが、ジョシュは変わらず落ち着いている。
「けどその後、『イグネーが、兄はここには居ないって。さっきの人が言ってたケイサツショって所なのかな。ね、どこか分かる?』って聞いて来るから、俺、うっかり下を向いちゃったんだ。見ると凄く高く上がってるのが分かって、家や街灯が豆粒みたいで、急に怖さが来てさ、頭がパニクッた」
「…………」
「その瞬間、ヘソの下がキュウッてなって、身体が投げ出されて、慌ててリッカの方に手を伸ばしたんだけれど……
次に気が付いたら、最初にあいつに会った、サマリア婆さんちの路地裏に、俺一人で突っ立ってた」
ヤコブは手に持っていたツバ広帽を、ジョシュに差し出した。
「全部夢かと思ってしばらくボォッとしてたけど、怪我は痛いし手の中に帽子があるし。とりま、これを届けに来ようと思って。もうビスケットの百倍くらい働いたよ、クタクタ」
***
子供はシカルに駄賃を貰い、「じゃあ」と言って夜の路地裏へ帰って行った。
残された警察官と青年は、しばらくそこに佇んでいた。
「なぁ、シカルさん」
珍しく青年から話し掛けて来て、シカルは、何を教えてくれるのかな? と期待を込めて彼を見た。
「あの孤児に、あんたの姪を紹介したりはしないのか?」
多少拍子抜けしながら、警察官は丁寧に答える。
「多分、姪が与えられる物の中に、あの子の欲しい物は無いんだよ」
あやふやな答えだが、青年は「ああそうか」と素直に納得した。
このままでは何も教えて貰えそうにない。
我慢できなくなったシカルは、自分から切り出した。
「イグネーって何だ?」
「言っても信じてくれないだろ」
予想通りの答え。
「調書をあれだけ拒否された上に、警察官の矜持をボコボコにされて、結末は分からない事だらけ。ちょっと俺が可哀想すぎないか? 墓場まで持って行くから、そっちくらいは教えろ」
「…………」
「途中で遮らない、ちゃんと聞くから」
青年は唾を飲み込んで、前を向いたまま口を開いた。
「イグネーは、妹の友達だ」
「空を飛べる友達…………が、いるの、か……」
目を白黒しながら一所懸命言葉を消化しようとする警察官。
青年は淡々と話を続ける。
「昔、俺も助けられた事がある。三つの妹を背負って逃げた時、草原で追いつめられて、もうダメかと思った。そしたら急に強い風が吹いて、いつの間にか空にいた」
「え、君も、飛んだ、のか?」
「その頃はまだ俺も、イグネーの声を聞く事が出来たな。妹は姿も見えていたみたいで、馬に乗って運ばれたと言っていた。
それで、西の森に連れられたんだ……ああ、あそこは大昔、彼らの聖域だったらしい。
最初の冬はイグネーが助けてくれた。住み処を隠す『まじない』を教えてくれ、森で暮らす知恵を授けてくれた。
もっとも俺はだんだん声が聞けなくなって、すべて妹を通してだった。今のあの子は忘れているみたいだが、俺は妹に助けられて生き延びたんだ。
次の年からの俺のやる事は、妹を『イグネーと切れない存在』に育てる事だった。育てるなんておこがましいか。あいつは勝手に、なるように育って、今回も俺がノロノロしている間に、さっさとイグネーが助けに来た」
青年は言葉を切って、無言で目を泳がせる警察官を、じっと見た。
「なぁ、あんた、三つの妹を抱えた十一の無知な子供が、何の助けも無しに、雪深い森で冬を越せると思うか?」
「……いや……」
「信じなくていいし、忘れてもいいぞ」
言うと青年は背中を向けて、通りとは反対の暗がりに向けてスタスタと歩き出した。
そちらには灌木と古い大きな木が残されている。
シカルは胸が騒いで、慌てて叫んだ。
「いや、君は! ……ジョシュは! 一度も嘘を言わなかった。本当の事以外は喋らない奴だ!」
振り向いて微笑んだ青年の黒い瞳に、ほんの少しの緑色が過る。
「もう一度だけ質問させてくれ。イグネーって何者だ?」
「知らない」
即答だったが、最初みたいな突き放した言い方ではなかった。
青年の背後にザァッと風が立つ。
「大切な妹の友達に、聞かないだろ、ふつう。 あんた何者? なんて」
***
シカルが建物に戻ろうとすると、入れ違いに姪のエバが出て来た。
「彼ならもう行ったぞ。西の森には戻らないと言っていた。水場を清めてから、妹と一緒に別の安全な場所へ移動すると」
「そう、ああ、叔父さん、その件に関しては私も色々言いたいけれど、呼び出しが来て急いでいるから、また今度」
「こんな遅くにか」
「忙しいのよ、頼りにしてくれる人が多いの、こんな私でも。書記の若い子には嫌みを言われたけれどね」
「ジョシュとリッカの件は特殊だった。お前は頑張り屋だ、よくやっているよ」
「…………」
「今日は遅くなるのか?」
「中央病院からの呼び出しよ。例の水溜まりに転ばされた子供の母親が、診断書を取りに医局に行ったんだけれど、待っている間にその子、階段から落ちて怪我をしたらしいの。
それで母親が激昂して病院を訴えるとか騒いでいるから、中立の私が子供のケアをしに行くの」
「…………もしかして母親に、病院へ行って診断書を取っておけとアドバイスしたのは、お前か?」
「そうよ、悪い?」
「いや、一番のMVPだ」
「??」
***
取り調べの部屋に戻ると、書記の若者が調書を仕上げた所だった。
彼を帰してその日の業務を済ませても、シカルは机で、姪が調べて来た北方部族の資料を、何とはなしに眺めていた。
そうして、彼女が学生時代にまとめたであろう、古い遊牧民の民俗学の中に、数行の記載を見付ける。
イグネー: 信仰の対象。/ 風の精霊。流れる水も司る。/ 馬を駆って空を走る者。馬の守り神。/ 守護の森の別称。
~ イグネー・了 ~