戴天   作:灰汁

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十一話

 両親が亡くなった日のことは、はっきりとは覚えていない。

 

 当時の自分が二人の死をどう捉えていたのか、一年も経っていないはずなのにそれすら上手く思い出せなかった。

 納得なんて、今でもできていない。

 けれど、一方でどこか両親の死を受け入れている自分もいるような気がする――。

 

 忍びを知って、少しだけ得心がいった。

 ことさらに、過ぎる考えが増えた。

 

 両親の流派である鞍馬神流と隠忍の血統は、本来相容れぬ不倶戴天の敵であるという。

 二つの流派は両親のことをどう思っていたのだろう。

 属する忍びは両親をどう捉えていたのだろう。

 半ば人、半ば妖の天理には、生まれによって互いを憎む感覚は腑に落ちない。

 共感する日は訪れないのだと思うが、とはいえ理屈の理解自体はできる。

 だから考えを巡らせれば巡らせるほど、彼らが二人を疎む理由ばかりが浮かぶ。

 両親が間違っていたとは少しも思わない。

 だが天理が両親を愛するように、彼らの中にも二人を信じていた忍びはいるはずだ。

 両親は互いに天敵と共に歩むことを選んだ。周囲が抱いていた二人への信頼は、きっと負の方向へひっくり返っただろう。いわんや天理を授かったとあればなおさらの話だ。

 そんなことを考えれば考えるほどに、また、思う。

 二人の死は、巡り巡って自分に原因があったのではないかと。

 

 両親の死は単なる事故などではありえない。

 だが二人のような異能者を死へ至らしめ得るのは、それこそ同じ尋常ならざる力を持つものだけではないのか。

 二人は亡くなったのではなく、『殺された』のではないか。

 ならばその遠因は、自分にこそあるのではないか――。

 ふと浮かんだそんな考えが、ずっと胸の奥に張り付き続けている。

 いつまでも拭えない疑念が背中から囁き続けている。

 

 結局、名無に真相を尋ねることはなかった。

 できなかった。

 もしかしたら名無はすべてを知っていたのかもしれない。

 聞けば答えてくれたかもしれない。

 あるいは頑として話そうとはしなかったかもしれない。

 ただ名無が二人の死への言及を意識的に避けていたことと、聞けば必ず彼女を困らせてしまうことだけは確かだった。

 

 ――それでも、聞くべきだったのだろうか。

 

 怖かったのだと、思う。

 天理から両親を奪った『誰か』が、本当に存在するのだとしたら。

 二人を殺した『誰か』が、今でもなおこの天の下に生きているのだとしたら。

 自分がその『誰か』を作り出す原因だったとしたら。

 

 それが何よりも怖かった。

 何よりも嫌だった。

『誰か』と自分を、天理はどうしようもなく憎んでしまうと思ったから。

 

 きっと、殺したいほどに。

 

 

 左手だけが髪と皮膚を浅く抉った。

 先のない右手首の断面から、雨に紛れて糸のような血が垂れる。

 ぐしゃりと掴んだ髪がちぎれ、にわかに裂けた頭の皮から金臭い雫が伝う。

 ほおづき色の瞳が丸く縮み、風前のろうそくめいて揺れた。

 

 何を呟いたのか、自分でもよくわからない。

 

 ぁ、とも。ぅ、とも。言葉の断片にも満たない何かを、(はらわた)を撒き散らすように何度もこぼす。くずおれた膝の先にある地面がぬかるむ。ぐらりと視界が揺れる。

 なんでもない記憶が、ふと脳裏を過ぎった。

 

 ――父が珍しくお酒を飲んでいて、なぜかと理由を聞けば、「今日はお前の入学式だったからだよ」と機嫌良く返された。

 

 おとうさん。

 

 ――母が慣れない手つきで編み物をして、「ぎゃーっ指に刺さっ……てはないけど針が折れたーっ!?」とあたふたしていた。

 

 おかあさん。

 

 ――天理。

 ――天理ちゃん。

 

 脳の奥底に逆光と焼き付いた二人の影が、応えるように微笑む。

 

「嘘」

 

 (まじろ)ぐ間に、それは肉塊へと変わっていた。

 

「ぃ、」

 

 (たなごころ)の根から、ぞわりと生温かな微熱が鎌首をもたげる。

 覚えのない記憶を、体がなぞった。肌の薄い粟立ちが全身を伝う。

 

 脊髄を断つ手応え。

 臓腑を別つ感触。

 脳漿を刻む肌触り。

 

 あたしが。

 二人を。

 殺して、

 

 

 

「――――嫌ああああああ゛あ゛あ゛っ゛!!」

 

 

 叫んだ。

 

「因果よな」

 

 老爺の皮肉るような呟きと、鞘から刀を抜く澄んだ音が、悲鳴に紛れていやにハッキリと聞こえた。

 

(たましい)のみが人と魔を隔つ。貴様の(うち)にある無明を儂らは『そう』呼ばぬ」

 

 喉元から熱が噎ぶる。背を曲げる。咳ともえずきとも言えない、音のない声が漏れた。

 血肉の芯を絞り出す。赤と黒の混じった血が地に瞬き、雨に濡れてすぐに滲んだ。

 震えを押さえ込むように、首の裏に冷たい感触が走った。背に赤赤と筋が垂れる。うなじに刃が食い込んだ。

 

「絆されたか、目を違えたか。貴様を生かすがゆえに、彼奴らはその命を失った」

 

 浅く乱れた息が空回った。

 

「あるいは記憶を封じてまで、貴様に人を見出そうとしたのやもしれぬ。だが獣に人皮を被せたとて、人とは成らぬ」

 

 痛みが神経を駆け巡り、脳髄へと辿り着く。

 

「貴様は人を真似ておるだけだ。虫と理屈は変わらぬ。……その『反射』すら、貴様の本質とは反したもの。あるいは虫にも劣るやもしれぬな」

 

 天理は、おおよそ言葉と呼べる反応を返さなかった。

 

「この空間は、貴様の記憶を呼び起こすためだけのもの。結界もある以上、貴様をここで殺すことはできん。あの夜の貴様ほどの力があれば話も変わろうが」

 

 彼の言葉は、もうほとんど聞こえていなかった。

 力なく項垂れる。刃から逃れるつもりなど、とうに失せている。

 指先から感覚がなくなって、ふっと目の奥が揺らぐ。

 感覚と名付けられるものすべてが、曖昧になっていく。

 全部が、遠くなっていく。

 

「だが儂の【魔界転生】と彼奴らの結界が禁ずるのは、あくまで『他者(・・)の殺害』だ」

 

 どうでも良かった。

 

「貴様を人とは思わん。だが彼奴らの信じたものが、わずかでもその(うち)にあるのならば」

 

 なにもかも。

 

「ここで死ね」

 

 なにもかも――。

 

「貴様が殺した彼奴らのために」

 

 暗く、心に、何かが落ちた。

『ここ』は自分がいて良い場所じゃないのかな、なんて。胸の奥のさらに奥底に、いつからかそんな気持ちがくっ付いていた。

 剥がしようもないほどに深く根を張ったそれが――。

 ずっと、耳元でなにかを囁いていて。

 ずっと、目元を覆っていて。

 羊水に包まれた赤子のように、なにか分厚い膜の向こうから世界を見ているような感覚があった。

 少しだけ、その根っこにあるものがわかった気がした。

 

「貴様がそう在ろうとするならば。せめて最期だけは、人として送ってやろう」

 

 金色の光が舞う。景色がゆっくりと現在の神社へと戻る。

 

 ――あたしは。

 

 妖力を自身の心臓へ集約させる。物理的な圧力を伴った妖気が、容易くその心臓を握り潰す。

 苦痛を感じるより早く、宛てがわれた刃が引かれる。

 

 ――やっぱり、生きてちゃいけなかったんだね。

 

 天理は指一本すら動かすことなく介錯を受け入れ、

 

 その首が落ちた。

 

 

 ――さて、どうすっかな。

 

 境内中心に生じた、木星めいた模様の結界がほどけ、標的である天理と老爺が現れる。

 その首筋に老爺が刃をかけているのを見た瞬間、龍頭は思わず再び頬をかいていた。

 

 中でどんなやり取りがあったのか龍頭には知る術もないが、おおよその想像はつく。

【魔界転生】の効果としても、この町の結界の観点から見ても、二重の意味で老爺は天理を殺せない。

 だが天理本人による自死であれば話は変わる。

 過去を知った彼女が、どういう選択をするのかは想像に難くなかった。

 

「(名無を死なせちまったのは取り返しのつかない失態だったな。【アレ】を使ってやれるのはどっちかだけになっちまったし、あいつの意図もわからねぇ)」

 

 彼女が老爺の連絡に返事すら寄越さなかった事実が、妙に引っかかる。

 龍頭が助っ人としてやってきたことは恐らく名無にとっても予想外であっただろう。だが、裏を返せば老爺の接触自体は想定できる範疇にあったはずだ。

 

 ――それこそが名無の狙いなのか?

 ――自分以外の忍びを、なんらかの理由でここにおびき寄せる必要があったんじゃないのか?

 

 名無が天理を連れて遊園地へと向かったのは偶然か?

 彼女は、老爺がここへやって来ることを予め見越していたのではないか。

 裏を読もうと思えばいくらでも深読みできてしまうのは、それだけ名無の行動がチグハグな証だ。

 

 奇妙――と言えば、名無の死も腑に落ちない。

 龍頭が見る限り、この町を覆うようにして存在する結界には『他者の殺害を禁ずる』性質がある。龍頭たちはその対策を行っていない。

 正確には行えなかった、と言うべきだろう。名無が天理という爆弾を連れ出したことで、龍頭たちは追跡を余儀なくされた。捉えようによっては、それすらも意図的に用意された状況に見える。

 ――龍頭たちが名無を殺すことは不可能なはずだ。

 だが事実として、彼女は既に死んでいる。

 あるいは結界の性質そのものを見誤った可能性も否定できない。

 

「(結界は嬢ちゃんの両親(あの二人)が遺したものだ。並のシロモノとは思えねえし、もし効果を誤解していたとすれば後々もっと面倒なことになるかもしれねえ。だがあえてこの状況を作り、おれたちを揺さぶって嬢ちゃんが逃げる隙を作るのが名無の目的だった……って線もある)」

 

 名無の傷は即座へ死に至るほど深くはないはずだった。

 恐らく口内に薬でも隠していたのだろう。速やかに死ぬためのものだ。

 名無の実力を踏まえれば、天理がこの場から離脱するための隙をまともなやり方で作るのは難しい。その上での策であることは理解できる。

 

「(直接の死因がおれたちではなく名無自身にあるとすれば、嬢ちゃんと同じく『他殺』ではなく『自殺』扱いになって結界の判定をすり抜けたのかもしれん。だとすれば結界効果の見通し自体は間違ってないことになるが……)」

 

 己の命まで賭けようとする心意気は見事だが、時代錯誤が過ぎるだろうにと、率直な感想はそれだった。

 馬鹿な生き方だ。その是非はさておき、そういう馬鹿は嫌いではない。

 だがそれを選んだのが子供となれば、ため息のひとつやふたつは吐きたくなる。

 

「(名無はあの二人と親しかった。結界のことやその発動条件はある程度知っていると踏んで良い。おれならその利を殺すような手をわざわざ打つことはしねえ……やっぱ罠か、おれがそもそも結界の性質を勘違いしているのか)」

 

 本音を言えば、蓋を開ければ死者はなし(・・・・・・・・・)、とするのが理想ではあったが――

 

「――何を今更、ってか」

 

 殺す覚悟も、殺される覚悟もなくこの場へやってきたわけではない。

 ただ大団円を迎えるには何もかもがもはや手遅れの現状に、少しばかり倦んだ。

 逆を言えば、龍頭にとってはそれで済む話だった。

 

 膝をついた天理の首は、老爺によって音もなくあっさりと断ち斬られた。項垂れた天理の姿とその光景はさながら介錯である。

 

「……終わったぞ、龍頭」

 

 老爺が血振りした。境内に赤い点がいくつも飛び散る。

 

「『始まった』んだろ」

 

 小さく、大地が身じろぎした。

 転がった天理の首が血の色に燃えた。赤黒い焔と共に包まれ、純粋な妖気となって消えていく。

 元の形に、還る。

 

「斜歯の連中は、奴を殺せば中の妖魔も消滅すると宣っていたが……いい加減な情報を」

「そりゃ封印直後に殺せてればの話だ。始めからわかってたことじゃねえか」

 

 天理の首であった鬼火は、ゆっくりとその遺体へと向かっていく。

 本来ならば体の内が覗くはずの遺体断面には、だが血すら滴っていない。

 真紅と漆黒を混ぜた、殺意の炎が代わりとばかりにたなびいている。

 ()むことのない修羅の焔。

 

「おれたちの仕事はここからだぜ」

 

 女が嗤うような音。

 肉と骨とが砕ける音。

 血飛沫を撒き散らす音。

 

 焔が爆ぜる。

 

 天理だったものの首を突き破って、

 天理だったものの肉体を千切りばら蒔いて、

 天理だったものの命を喰らって、

 

『それ』がこの世に生まれ堕ち、

 

 

「――へえ。随分見上げた仕事ぶりですね、龍頭さん」

 

 

 龍頭は横からの飛び蹴りをモロに食らった。

 

 

 状況が動いた。

 龍頭が吹き飛びながらも即座に空中で体を翻し、体勢を立て直す。ダメージはまるでない。不意打ちの可能性を常に考慮していたのだろう。それを『いつ』『誰が』かましてくるのかまでは悟らせなかったはずだが、その上で完全に受け切ってくるのはひとえに彼の技量と経験の賜物と言うほかない。

 小さく舌打ちしながら、蹴りの反動と共に着地する。

 

「貴様、生きておったか」

 

 間髪を入れず着地を狩りにきた老爺の刀を、苦無で受け止めた。

 

「――名無!」

「ふんっ。忍びが片腕片足程度で死ぬわけないでしょう!」

 

 ってかなんで欠片も動揺せずに着地狩りにきてるんですか馬鹿なんですかどんだけバーサーカーなんですか! コンマ一秒くらいは動き止まるでしょうよふつー!!

 

 吐き出しかけた言葉をぐっと堪え、再生(・・)した半身を軸に再度蹴りを放つ。

 単に刀を構えただけの防御であれば、名無の蹴りは容易く刀ごと人体を両断する。

 回し蹴りが寸分違わず老爺の首に向かう。

 直前で、名無は無理やり軌道を真逆に変えた。闇に紛れて飛んできていた手裏剣をかかとで落とす。

 

「だああっ、邪魔です!! そんなだからおっさんって呼ばれるんですよ――龍頭さん!!」

「禁止カードやめろや!! 普通にお兄さん傷付いちゃうんだわ!!」

 

 機と見て押し込んできた老爺の刀を、後ろへ転がるようにしていなす。

 手裏剣が飛んできた方角へ苦無を投げる。そこにいた忍び――龍頭はかわすでも弾くでもなくその身に苦無を受けた。

 左の肩に深く苦無が突き刺さり、

 

「あ痛っ」

「……、は?」

 

 それだけだった。

 龍頭が左手を捻って軽々と苦無を抜いて放り投げた。傷から血すら流れない。

 

「おー、いつつ。良いのもらっちまったよ。中々腕を上げたもんだ」

 

『即座にその傷が修復されていく』。

 龍頭の声にはわずかな笑みの含みがあった。嘲りではない。文字通り幼子を見守るような余裕である。

 

「……冗談でしょ」

 

 目を見張る。

 瞬きひとつの間さえ置かず、龍頭は無傷の状態でそこに立っていた。

 

「(幻術――じゃない。単純に効いてないのか? 【矢止め】の類の線も……)」

「苦無投げ、練習したのか? 前はよくすっぽ抜けてあの狐にぶっ刺さってただろ」

 

 龍頭は懐かしむように、なんでもない昔の話を持ち出した。おおよそ戦闘時とは思えないほど暢気な声である。

 

「(戦っているつもりはない、ってことか)」

 

 歯噛みする。

 龍頭にとって、名無は未だ敵ですらない。

 対等な戦いが成り立つとは元よりさらさら思っていなかったが、

 

「随分コケにしてくれるじゃないですか」

 

 名無のこめかみに冷や汗と青筋が浮かんだ。

 

「あれだけ半ギレでほっぺた引っ張られれば嫌でも上達するってもんですよ!」

「鞍馬の鬼嫁は横で手叩いてゲラ笑いしてたっけな」

 

 鞘へ納めたままの刀を無造作に肩へかついで浮き沈みさせながら、龍頭が闇の中からゆっくりと歩み寄ってくる。

 先の不意打ちと苦無程度で傷を負わせられると甘く見ていたつもりはないが、

 

「にしても驚いたぜ。まさか生きてたとはな、名無」

「あーそういうの良いです! そのやり取り、さっきそこの爺さんとやったんで省きますね!」

 

 ――回避すらしてくれないか。嫌になるな。

 気付かれないよう、さりげない仕草で頬に伝った冷や汗だけを拭う。青筋は消えなかった。

 

「兵糧丸か? 下忍のお前さんが持ってるのはちょっと予想外だったぜ。あれなら手足の一本や二本くらい治せるが」

「下忍『頭』ですー!! この忍務受ける前に昇格してますーっ!!」

「あ、そうなん? 素で勘違いしてたわ。すまん、おれからしたらどっちもそんな変わらないからさ」

「よーーーしわかりました喧嘩売ってんですか売ってますよねおう買うぞいくらだぶっ飛ばしてやらぁ!!」

 

 二本目の苦無を飛ばす。やはり龍頭はかわす仕草さえ見せなかった。脳天に苦無が直撃したが、今度は鱗に弾かれて刺さりすらしない。

 

「お、眉間ど真ん中。ブルズアイだ」

 

 わずかに欠けた鱗が、やはり一瞬のうちに癒えている。っすー、と息を吸って、龍頭は顎を撫でた。

 

「ただもうちょい威力があればなあ」

「あ゛ぁ゛!?」

「めっちゃキレるじゃん。いや、悪い。そういう意味じゃなかったんだが、ついうっかり」

 

 やはり【矢止めの術】ではない。あの忍法ならばそもそも苦無は命中しないはずだし、龍頭に傷が付く道理もない。

『ダメージはある』のだ。その上で『それが完全に無効化されている』。

 

「じゃあどういう意味だってんですか言ってみろ!!」

「差し引きトントンって意味だよ。あとは自分で考えてみな」

 

 子供をあやすように笑う龍頭の顔がムカついたが、恐らくなんらかの術理があるはずだ。それを突き止めない限り、これ以上の攻撃は無駄だろう。

 格上相手に後手へ回るのは避けたかったが、やむを得ず攻撃の手を止め、見に転ずる。

 

「でもまあ、良かったじゃねえか。お前さん、この忍務が終わったら中忍になれるぜ」

 

 龍頭の言わんとすることがわかり、うげ、と思わず声を出した。

 

「……こっちの奥の手はお見通しってことですか」

「伊達に上忍頭やってねーよ。兵糧丸での回復ならさすがにおれたちも勘づくし、死んだと誤解することもねえ。つまりお前さんの回復の仕組みはそれじゃねえんだろ」

 

 これだから歳を食った隠忍は嫌いなのだ。遅れて老爺も気付いたらしく、ぽつりと言った。

 

「……【奥義】か」

「あーはいはいその通りですよ。ま、わたし自身こんな土壇場で使えるようになるとは思わなかったですけどね!」

 

 せっかく覚醒したんだから勝ち確まで持っていかせてくださいよ空気読めないなーっ、と、負け惜しみをひとつおまけで吐き捨てた。

 

 忍びや妖魔といった超常の異能を持つ者たちの切り札――通常の忍法よりも遥かに強力な効果を持つそれを、名無たちは【奥義】と呼ぶ。

 だが字のごとく技の最奥にある奥義は、それゆえに修得に多大な時間と鍛錬、何より才を要する。

 一生を費してなお奥義に開眼することなく前線を退く忍者も決して少なくはない。名無もまた忍者として奥義に手がかかるほどの実力は未だなく、その形どころか取っ掛りすらまるで掴めぬ有様だった。

 

「火事場の馬鹿力ってやつは忍者にもある。死に瀕した忍びがその潜在能力を開花させるのは珍しい話じゃねえ。自己再生型――【不死身】の奥義だろ?」

 

 黙って目を逸らした。

 

「……さ、さーてどうですかねー? 忍者が自分の奥義を明かすわけないでしょうっ。もしかしたらブラフかもしれませんよ?」

「致命傷から復帰できる奥義は【不死身】だけだからブラフも何もないんだよな」

「えっそうなんですか!?」

「知らなかったのかよ!」

 

 初耳である。

 龍頭は露骨にため息をつきながら頭を押さえた。

 

「奥義の過程(術理)はそれぞれ固有のものとしても、結果(効果)は大まかに分類できる。今この現状から逆算すれば【不死身】(それ)以外ありえねえ」

「ず……ズルくないですかそれ!? わたし初めて知ったんですけど!!」

奥義持ち(中忍以上)と戦ってりゃ自然とわかるようになるさ。ま、下忍じゃ奥義持ちにゃまず勝てないだろうから、経験を積めってのも無理な話ではある」

 

 ――名無は死の淵へ触れることで奥義を会得した。偶然、たまたま、奇跡、百パーセント想定外のイレギュラーであることは言うまでもない。

 龍頭の言葉通り、名無のそれは瀕死状態からの再生を可能とする『強力な自己再生』である。

 その力をもってすれば、黄泉の坂を駆け上がることすら不可能ではない。

 だがそれでも、なお――。

 

「(……わかってたけど、地力だけじゃなくて経験でも差がありすぎる……!)」

 

 当初の予定では死を偽り注意を逸らした後、兵糧丸で傷を癒して奇襲を行う流れだった。

 意表は突けるだろうが、その前に目論見がバレていた可能性の方が高かっただろう。明確に名無のミスだ。

 奥義がそうであるように、龍頭の介入もまた名無の計画には存在しないものだった。

 

「(……だけど)」

 

 それでも、状況はまだ最悪ではない。

 

「(そのイレギュラー同士が相殺して、辛うじてここまで持ち込めたんだ)」

 

 むしろこれを好機と言わず、なんと呼ぶのか。

 名無は強気に笑った。

 

「経験……。なるほど、伊達におっさんやってないってことですか……!」

「マジで死なすぞお前」

 

 実力、経験、手札、すべてにおいて向こうが上だ。

 勝ち目はまずないと見て良い。

 

「それがどうした」

 

 老爺が鼻を鳴らした。

 

「遅きに失するという言葉がこうも当てはまる状況もあるまいな、名無よ。貴様は天理()が死ぬ前に儂らの不意を突き、逃げるべきだった」

 

 彼らの背後――天理だったモノへと目をやる。

 

「……天理さん」

 

 誰が見ても理解できる。

 あれはもう、助けられない。

 首から下は人と判断できる姿を保ってはいるが、それだけだ。斬り落とされた首の断面から天も底もない殺意を振り撒き、もはや『それ』が顕現するまでほとんど時を待たないだろう。

 目を伏せる。

 

「――その通りですね」

 

 視線を二人へ戻し、

 

「天理さんが死んでしまった時点で、わたしの【使命】は失敗ですよ」

 

 すんなりとその言葉を受け入れた。

 

「天地がひっくり返るような何かがあってあなたたちを倒せたとしても、この結末までは覆らない」

 

 ――天理さん。

 ――大丈夫。

 

「普通なら、ね」

 

 静かに手で印を結ぶ。

 

「だけど、わたしたちは忍者です」

 

 紡ぐ言の葉は、すなわち魔界を開く言霊。

 生を転ずる魔の忍法。

 

「どんな奇跡も悲劇も、ひっくり返す力がある」

 

 零した音色は青白い光となって、赤い夜闇に波紋を呼ぶ。

 

「だから、忍びの戦とは常に理不尽(・・・)なものなのでしょう?」

 

 景色が揺らぎ、現世と幽世の境がぼやけてゆく。

 

「貴様……なにを」

 

 浮かべる笑みはどこまでも不敵に。

 大丈夫。

 絶対に上手く行く。

 いや、成功させるのだ。

 わたしの命に代えてでも。

 

 ――今、行きますから。

 

本当は、こういう風に使う忍法じゃない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)んですがね」

 

 意趣を返して結んだ言の葉が、

 

 

「【魔界転生】」

 

 

 解けて、消えた。

 

 

 夜露に漬けた筆を走らせるようだった。

 現世(うつしよ)の輪郭が淡くぼけていく。

 フィルターのように浅い縹色の帳が、うっすらと景色を塗りつぶしていく。

 天理『だったモノ』から発せられる殺意が、薄く、だがたしかに中和されていく。

 

「――【魔界転生】だぁ!?」

 

 驚嘆の声をこぼし、龍頭の体がにわかに強ばった。

 

【魔界転生】自体は隠忍に伝わる忍法だ。名無が修得していることそのものはなんら不思議ではない。

 だが発動したところで、本来ならば下忍程度が使いこなせる忍法では到底ない。

【魔界転生】そのものには、あくまで忍法に巻き込んだ人物の記憶や心の中を具現化する程度の効果しかないのだ。

 加えて外部と内部を完全に遮断する結界を構築するにあたり、術者は命を削るほどの負荷を強いられる。

 内部において互いの直接的な攻撃能力がほぼ失われる関係上、発動の手間に見合うアドバンテージを得るには複雑な工夫を要求される。隠忍でもこの忍法を修得している忍びは多くないが、それは修得難易度ではなく運用難易度によるものだ。

 老爺は天理の記憶という情報を本人に知覚させることで、その精神に多大な負荷をかけ自死にまで追い込んだ。しかしそれはあくまで天理の境遇や性格を前提とした結果に過ぎない。

【魔界転生】は単独で効果を発揮する忍法ではなく、他の手段との併用が前提となる。

 言い換えれば、妙技自在の域に達した忍びが、他の忍法と組み合わせることで初めて脅威となりうる術式――。

 名無はその域には遥か及ばない。

 

 それでも、ひとたび【魔界転生】を展開したからにはこれで終わりではない。名無には何かしらの手が存在するはずだ。

 

 だがこの状況をひっくり返す忍法など、

 

「…………まさか」

 

 透けていく夜の中、龍頭は思わず呟いていた。

 

 ――ある。

 

 たったひとつだけ、この状況を覆しうる忍法が存在する。

 

「わたしは、やろうと思えばいつでもあなたたちに攻撃できたんです」

 

 名無の細く小さな体が薄く揺らいだ。声はどこか曖昧で、目の前から聞こえているようにも、左右から届いているようにも、背後から投げられているようにも感じられる。

 彼女の存在が現実そのものから独立しているのだ。術の制御を誤れば、自己の存在が曖昧に『なりすぎる』危険性がある。

 まさしく、生を転じて魔界を開く忍法。

 

 その開かれた世界へ、龍頭たちは入ることすら叶わない。

 魔より生じた幽世へ、踏み入ることの赦されたものは――。

 無名(むめい)の天を戴くは。

 

 術者である名無と、

 

「でも、しなかった。『天理さんが死んでいる』という手遅れの状況こそが必要不可欠だったから」

 

 天理の、遺体。

 

 ――忍花天理は、生きても死んでもいなかった。

 

 妖魔としての本質を持つ限り、彼女は人間でも妖でもなく『そういう現象』でしかないからだ。

 故に名無は彼女を生かそうとした。

 故に龍頭たちは彼女を殺そうとした。

 結果、その天秤は後者に傾いた。

 天理は間違いなく死亡している。

 

 そして忍びの世界には、死亡した人物に対してのみ(・・・・・・・・・・・・)使用できる忍法が存在する。

 

「……馬鹿な!」

 

 遅れて龍頭と同じ可能性へ至った老爺が、血相を変えて叫んだ。

 

「その忍法は貴様の格を遥かに超えておる! まともに扱えるわけが……!!」

 

 身に余るという言葉では生温い大忍法を御するために、彼女の心身には想像を絶する負荷がかかっているはずだった。頬に伝う汗はその証に相違ない。

 だが名無の笑みは、なおいささかも崩れなかった。

 

「もっともです。……わたしと天理さんの繋がり。わたし自身の命を担保として賭けた術式。事前の下準備。どれかひとつでも欠ければこの忍法は成らないでしょう」

 

 自身の力が吸い取られていることに龍頭が気付いたのはその直後だった。思わず口を開く。

 

「――結界の効果か!」

「ご明察ぅ!」

 

 あの二人が遺した結界が、簡単なルールを強いるだけの封印で済むはずがない――龍頭の直感は正しかった。

 名無単独の力では発動できない忍法のリソース源として、龍頭と老爺の霊力が強制的に使用されている。

『天理へ作用するはずの内向きの封印』が龍頭たちを対象として発動し、名無がそれを活用している形となっているのだ。

 

「(結界の契約内容を読み違えた……! っぱジジイがこの町へやってくるのは織り込み済みだったわけか!)」

 

 膨大な契約情報に小さく一文を紛れ込ませるがごとき阿漕で悪辣な手だ。普段ならば龍頭が引っかかることはまずなかっただろう。

 二度目以降は対抗のしようもあるが、そも次はありえない。

 すべては、ただ一度だけ【その忍法】を放つための仕込みだ。

 

「ありえぬ……! 元より理に反した業! そう簡単に通じはしまいぞ、名無!」

「通すんですよ! だって、わたしは!」

 

 名無が印を解くことなく組み替える。

 それが意味するところは、すなわち【魔界転生】からさらなる忍法へ繋げる意思表示である。

 

「あの二人に! 天理さんに! 無理を通して、救ってもらったんだから!!」

 

【魔界転生】が展開された時点でお互いに単純な攻撃能力は失われている。名無の忍法を阻止する手立てはない。

 

「だから、今度はわたしが救う番!」

 

 身がバラバラに千切れるような苦痛だろう。

 魂が解けるほどの負荷だろう。

 それでも、名無は高らかに言い放った。

 

「――それが! わたしの、【本当の使命】です!!」

 

 ――その妖魔は、殺すことができないのだという。

 ――ならば、生まれさせてやれば良い。

 ――殺すために。

 

 ――その少女は、生きていなかった。

 ――ならば、殺せば良い。

 ――生きてもらうために。

 

 それは、隠忍の血統に伝わる禁術中の禁術。

 頭領にのみ許されたという、奥義すらをも上回る禁忌の御業。

 天の理を踏みにじる、神にも迫る大忍法。

 かつて【蛭子】の名を与えられた少女は、その業によって魂と肉体を強引に結び付けられた。

 

 故にそれは今、他ならぬ蛭子の手にある。

 因果が巡る。

 覆った水は、還るのだ。

 

 青。

 どこまでも透き通るように、

 

 

 

「――――【反魂(・・)】ッ!」

 

 

 弾けた。

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