戴天   作:灰汁

12 / 17
大変お待たせいたしました……!!


十二話

 目を開けるとそこは地獄だった。

 

「……ここは――」

 

 名無は呟き、辺りをぐるりと見回した。

 

 ある意味で色のない景色だ。なにせ視界に飛び込むソレとなれば赤と黒しかない。モノクロームの白を赤に置き換えたようだと思った。

 空と地がどこまでも広がっている。血で染めたと言われても納得の行く真紅の空。踏みしめる大地は光を一切反射することのない黒で満ち、色の濃淡すら存在を許されていなかった。

 

 赤子の声が聞こえる。

 

 目を突き刺すコントラストの中で、名無は小さく眉をひそめた。どう見ても現世の景色とはかけ離れた世界である。ともすれば気付かぬうちに三途の川を渡り切ったのかとすら見紛う世界だが、そうではない。

 

 赤子の声が聞こえる。

 

 ここは心の中だ。

 忍花天理という少女が抱えた、幽冥の底。

 

 忍びの世には『異界律』という概念が存在する。

 名無も詳しくは知らないのだが、この現実とは異なる世界――つまるところ異界、あるいはそことの結節点にて生じる特殊な現象を指すという。

 名が指す通りに異界固有の法則であるそれは、忍者の解析力をもってなお未だ解明されていない部分が多い。斜歯忍軍や鞍馬神流は熱心に異界律の探究を進めているらしいが名無にはとんと無縁の話で、多分聞いてもよくわからないと思う。

 さておきその異界律とやらのひとつに『他者の心象世界』がある。ざっくり言ってしまえばこれこそ『心の中』というやつである。

 その姿は各々によって大きく違う。むしろ共通点を探す方が難しいくらいで、『心の中を映し出した場所である』という以外の定義を設けることはきっと不可能なのだろう。

 

 名無の【魔界転生】は、自他のそういった世界を結界内に投影する忍法である。

 それぞれの世界が映し出す景色はまさしく現実離れしている。当たり前と言えば当たり前の話で、実際そこは現実ではないのだ。無秩序、無茶苦茶、支離滅裂なのが当然だし、例えるなら夢の中で見る景色に近い。

 

 ――ならば目の前に広がるこの景色は、きっと悪夢だ。

 

 赤子の声が聞こえる。

 

 ふと紅色の空が、真っ黒い影を産み落とした。――人の形をしている。それが真っ逆さまに落ちてきて、名無から少し離れたところで頭から潰れた。にわかに粘り気を帯びた赤い液体が飛び散って、心なしか血臭が漂ってくるような気さえする。実際のところ匂いなどなにもしないが、記憶に染み付いた死臭を思い起こさせるのに、その光景は充分すぎるほどだった。

 名無はさらに深く眉をひそめた。直視に耐えかね、再び空へ視線をやる。

 

 赤子の声が聞こえる。

 

 無数の人影が逆さまに空から堕ちてきている。それらが次々と地面にぶつかっては、赤のペンキをぶちまけたような模様を残して消えていく。死の流星だった。

 なにもない。赤と黒と、死以外は。

 普段ならば悪趣味の一言で済ませられる風景も、ここが天理の心象世界であるというただひとつの前提だけで、途端に意味合いが変わってくる。

 たったひとつの呼び声を除き、音さえも聞こえない世界の中で、名無は細くたなびくような息を吐いた。

 

 赤子の声が聞こえる。

 

 ――天理さんはずっと、こんな世界を抱え続けていたのか。

 

「……予想してなかったわけじゃないですけども」

 

 遠くから響くその赤子の呼び声に、名無は耳を塞ぎたい気分になった。

 視界を覆う地獄の中で、ふと目を閉じたくなった。

 ふと、――なにもかもが、遠くなるようだった。

 

 たしかに、心がどんな世界を映し出すかは千差万別十人十色だ。名無とてしたり顔で法則を語れるほどこの忍法を極めたわけでも、自惚れているわけでもない。想像すらつかない景色を持つ者もいるだろう。

 それでも、心底から『ここに居たくない』と思わされる世界は初めてだった。

 いや、それさえ随分控えめな表現だと言わざるを得ない。理屈ではなく、本能にも似た何かが『ここに居るな』と叫んでいる。全身の細胞が悲鳴を上げている。

 ここに広がる天上天下のすべてから存在を否定されているような。魂のひとひらに至るまでもが踏みにじられているような。

 忍びでなければ、わずかに垣間見ただけで発狂しかねないほどの――。

 

「なんて殺意ですか……」

 

 冷や汗が伝う。味わうのは、これで二回目だ。

 一回目は、名無が『名無』として生まれついたあの日。屋敷の中で天理を見ようとしたあの瞬間である。あのとき感じたものとまったく同質の、魂が凍てつくような否定の意志。

 

 暴力的なまでの『それ』が、この世界にはあった。

 

 なんとなくだが、特別名無の介入を拒んでいるわけではないのだと思う。

 だけどそれは、天理の心が名無を受け入れてくれていることを意味しない。

 これがこの世界の正常(・・)な姿であるというだけだろう。

 心には他者へ踏み込まれたくない領域や、逆に明け渡せる場所がある。術者と対象者の関係性によってもこのグラデーションは大きく姿を変えるし、互いの人格といった要素もまた無視できない要因となりうる。

 しかしこの世界(天理)にはそれすらない。

 何もかもが、誰しもが、皆等しく無価値である。

 たとえこの場に足を踏み入れたのが名無ではなく、天理にとってもっと大切な――あるいは彼女の両親であったとしても、この世界はきっと姿を些かも変えはしなかっただろう。

 剥き出しの殺意は、忍花天理という少女の本質でもある。

 鞘から抜き放たれた刃にも似て、触れるものすべてを死へ至らしめる殺戮の神。

 この地獄こそ、彼女が抱え続けていた悪夢に相違なかった。

 

 それでも――ならばなおさら、踏み出す足にためらいはない。

 ゆるりと一歩、歩き出す。

 この世界の奥深くに、きっと天理はいるのだから。

 会えるだろうかと逡巡して、すぐにかぶりを振る。会えるはずだ。

 なにより名無は、世に通ることなき無理を道理とすべくこの場にいるのだ。

 やれるかどうか、ではない。

 やるしかない。

 

「よしっ。待っててくださいね――」

 

 ふんすと腋を閉めて、気合い一発。

 だから別に油断しているとか気を弛めているとか、そういうことは決してなかったのだ。

 むしろ気炎万丈やる気充分で、もしかすると逆にそれが良くなかったのかもしれない。

 

 この世界を訪うにあたり、用いた忍法は【魔界転生】のみではない。

 より正確に記すなら、『【魔界転生】で自身と天理のみが内側へ入ることのできる結界を展開する』『結界内で【反魂】を使用し、死亡した天理を蘇生させる』『蘇生した天理の心象世界を結界に投影し、彼女との対話を図る』――というのが、今へ至るまでの一連の流れになる。

 土台として機能しているのは【反魂】だが、術者たる名無の力量不足もあって未だなお天理の魂は不安定だ。彼女の心象世界も同様である。結界内に投影したこの世界は砂上の楼閣にも等しく、輪をかけて何が起こるか予測が付かない。

 その魂を安定させる意味も兼ねて、なにはともあれまず名無は天理と会わなければならなかった。

 あるいは相応の力を持つ忍者が【反魂】を用いれば結果は違ったのかもしれないが、それは詮無き話だろう。

 まっとうなやり方で【反魂】を修得するならば、まず隠忍たちの頂点に限りなく近い場所まで上り詰める必要がある。何十年かかるのかという話である。己に忍びの才がないとは言わないが、それでもひょっとすると百年――あるいは一生かかっても名無では及ばぬ領域かもしれない。

 ならばやはり、仕方がなかったのだと思う。これ以外のやりようはちょっと名無には浮かばない。配られた手札で戦っていくしかないのだ。

 

 ただやはり死者蘇生の大忍法【反魂】は、名無の手には随分と余る業なのであり。

 そもそも忍法という業自体が強力極まる異能であるゆえに、それを御すべく忍びは厳しい修行を重ねるのであり。

 名無はそれをすっ飛ばして、自分の命を賭け金にしてまで無理やり【反魂】を使用したのであり。

 それでもなお代償としては足りないくらいで、だから天理もまだ油断はできない状態なのであり。

 故に名無は、ここへ至っていっそうことさら慎重を期すべきだったのであり。

 

「今会いにいきま、」

 

 さて踏み出した先の感触がいやに柔らかくて、名無はふと己の足下を見た。

 真っ赤な地面がぐにゃりと歪んで、さながら泥の中へ足を突っ込んだみたいにずぶずぶ沈んでいる。かかとの辺りに嫌な浮遊感があった。

 

「……す?」

 

 浮遊感の正体を理解する。沈んだ先に地面がない。

 というより、なにもない(・・・・・)

 そう表現するのが正しいのかはさておき、心象世界ですらないどこかへと繋がっている。確信である。たぶん術者だからこその、理屈ではない何か直感のようなもので、名無はそう理解した。

 脳がフル回転を始める音。

 

 ……ちょっと待ってこれどこに落ちそうになってるんですか?

 あ、もしかして【反魂】が上手く扱い切れなくて天理さんまだ完全に蘇生できてない?

 ってことは心象世界の『ふち』がまだ黄泉と繋がってる?

 多分アレですよね。進もうとした先が世界の奥じゃなくて外側方向だったわけですよね。

【魔界転生】の結界と、中に投影した天理さんの世界の、その隙間に入っちゃいけない黄泉の部分があったと。わたしはちょうどそこに落ちつつあると。なるほどなるほど。ゲームの壁抜けバグみたいな。なぞのばしょ的な。

 なるほどなるほどなるほど。

 …………。

 

「え、やばくね?」

 

 言うまでもなくやばい。

 さーっ、と自分の血の気が引く音が聞こえたような錯覚。

 咄嗟に足を引こうと思ったときにはもう遅かった。既に足首の辺りまでが『そこ』へ引き込まれていて、どれだけ力を込めてもまったく動く気配がない。

 

「うおおおッ待って待って待って!? 今のなし!! なしってことにしてくれませんかすみませんちょっとうっかりしてただけなんですだから今の一歩なしってことでウワーッなんか足が固定されてるーっ!?」

 

 人間追い詰められるとなりふり構わないもので、両手を振り回して羽ばたこうと試みたり太ももを掴んで引っ張り上げたりしたがまったく意味がなかった。むしろ普通に沈んでいる気がする。底なし沼みたいである。言ってる場合ではない。

 

「あっあっあっちょっ本気でやば、」

 

 地面がぱっくりと口を開けて、

 

「――て、天理さん助けてぇーーーーっ!?!?!?」

 

【反魂】によって想像以上に消耗していた名無の体に、もはや抗う術もなく。

 大口を開けた穴の中へ、情けない悲鳴と共に、名無は吸い込まれていった。

 

 

 目を閉じた時の景色の中を、真っ逆さまに堕ちていた。

 

 ここがどこなのかはわからない。

 ただ、このまま沈んでいけば――。

 もう二度と浮かび上がることもないのだろうなと、ぼんやり思った。

 指先に力を入れることも億劫で、瞼を開けているのか閉じているのかさえどうでも良い。

 

 ――少しだけ、思い出した。

 

 十歳の誕生日のこと。

 山奥にいた妖魔と相対した日のこと。

 両親を殺した日の、

 

 また、えずくような咳をした。

 

 自分が何者なのか。

 なぜ両親を殺さねばならなかったのか。

 もはやそんなことすらどうでも良い。

 理解したところで二人の命が戻るわけではないし、自分を赦すことも決してないのだから。

 

 死んでおくべきだった。

 生まれてきてはならなかった。

 この世界に在ることそのものが間違いだったのだ。

 

 だから、この結末はきっと必然で。

 やっと、終われるのだと思った。

 

「……――」

 

 ――誰かに呼ばれている気が、した。

 

 ふと考えて、思わず緩く嘲笑する。そんなことがあるはずもないのに。

 

「……ん理さんんんんん…………」

 

 ゆっくりとその時を待つ。

 別に興味があるわけでもないが、ぼんやりと、この闇の底になにが待っているのか思いを馳せた。

 

「――――天理さんんんんん!!! 聞こえたら返事してくださいあとついでに助けて術の制御ミスった!!!!」

 

 あの老爺の言う通りだった。両親は天理を生かすべきではなかった。

 地獄というものがあるのだとすれば、天理が行く先はきっとそこだ。

 それとも、自分の魂ごと消えてなにもなくなるのだろうか。

 どっちでも構わなかった。

 ただ、誰もいないどこかへゆくことができればそれで、

 

「あっいた!!!! 天理さんいた!!! すみませんいきなりで申し訳ないんですけどちょっと助けてくれませんかオワーッ……」

 

 ふとドップラー効果を残して、なにかが真横を落ちていった。

 ぱちりと目を開く。

 

「ウワーーーッ……」

「、……え?」

 

 聞き間違いでは、なかったと思う。

 反射的に下を見る。深い闇の中に、ぽつりと小さく少女の姿がある。

 

「……、」

 

 見覚えのあるその姿を目に留めた途端、

 

「ッ――!!」

 

 天理の頭を稲妻が貫く。考えるより早く体が動いていた。

 落ちていった少女の体から一筋の光が見える。青とも赤とも桜色とも取れる色合いのそれが天理の胸へと繋がっていた。

 糸とも縄ともわからないその何かを掴む。どういったものなのかは知らない。だが、やらなければならないことは理解できた。

 無理やりそれを手繰り寄せる。

 全身が重い。泥に埋もれているようだった。肩が外れるほどの重みがした。暗闇の底から引っ張られているような感覚。

 構うことなく、力づくで光の繋がりを引っ張り上げる。

 なんとも言えない間の抜けた悲鳴をあげていた少女が、釣り上げられるようにして隣まで浮上してくる。会話ができるほどの距離になった頃、天理は胸を撫で下ろしながらようやく糸から手を離した。

 ふよふよ漂っていた少女が、両手でバランスを取って姿勢を制御した。二人を繋いでいた光が解けるように消える。

 

「て……天理さん〜っ!! ナイスフィッシングです!! いやーっ、助かりました!! ほんとに!!」

「……、」

 

 少女――名無は照れくさそうに笑って、頭の後ろへ手をやった。

 その姿があんまりいつも通りなものだから、天理は自分がなにを言おうとしていたのかすら思い出せなくなった。

 代わりに肩が小さく震える。

 ――なんで。

 ――どうして、

 言いたいことも聞きたいこともたくさんある。

 なのに名無はそんなのまったく知らないみたいに、わざとらしく額を拭う仕草をした。

 

「ま、マジで危なかったです。天理さんと会話する間もなくわたしが死んじゃうとこだった……」

 

 ――やめてよ。

 ――なんで、そんな風に笑ってるの。

 ――なんで、あたしに、

 口の中で暴れた言葉は、結局声にもならず消えていく。

 名無の表情に険しさはまったく感じられない。

 普段となんら変わることのないそのかんばせが、今の天理には、

 

「わたしと天理さんは魂の部分で繋がってますし大丈夫かーって思ってたんですけど……油断してました。あ、天理さんは覚えてないんでしたっけ」

 

 ひどく、眩しい。

 眉間に皺を寄せ、目を眇めた。

 

「いや違うな、思い出してるんですか? すみません、わたしも天理さんがどのくらい記憶を取り戻してるのか把握してなくて……えへへ」

 

 ――ダメだ、と。そう思った。

 こぼしそうになった言葉が、邪気のない笑顔の前に解けていく。

 代わりに口からぽつりと、

 

「……るの」

「え?」

 

 小さな声が漏れた。

 息を吸って、

 

「――こんなところでなにしてるのって言ったのばかーーーっ!! もーーーっ!!!」

 

 叫ぶ。

 あまりの声量にほの輪郭が揺れたような気すらした。名無は素っ頓狂な表情を浮かべて目を丸くしている。

 自分でもどの口で言っているのだろうとは、思う。

 思うけど。

 構わなかった。

 

「もう! もう!! もうっ!! なに考えてるの!? ここがどういう場所かわかってるのっ!?」

「え、ええと……一応は?」

「ぜーったいわかってない!! あのまま行ったら名無ちゃん死んじゃうところだったんだからねっ!?」

「あっはい。それは知ってますけど、」

「だったらなんで落ちていくのばかばかばかーーーっ!!!」

「あれぇなんかわたしが予想してた流れと違う!?」

 

 唇を尖らせて人差し指を突き合わせ、名無はバツが悪そうに目を逸らした。

 

「い、いや……わたしもこんなつもりはなかったんですよ? その、ええと、ちゃんと良い感じにどこからともなく語りかけるつもりでやりたかったんですけど」

「普通あんな風には絶対ならないからね!?」

「んなこと言われても仕方ないじゃないですかこうなっちゃったんだから!!」

「仕方なくないよ!? そもそもあたしが無視したらどうするつもりだったの!?」

「いやいや」

 

 名無は手を振って、

 

「それこそないと思いますよ。だって天理さんだし」

 

 真顔でそんなことを宣った。

 

「……ど、どういう意味なのそれっ」

「言葉通りの意味です。絶対助けてくれるだろうなーって思ってました。てへ」

 

 てへではない。

 よっこいしょ、と闇の中で器用に座り込む名無を前に、喉奥から、「う」とも「ぐぅ」とも言えぬ声が漏れる。

 そんなことないよと否定したいところだが、事実考えるより体が動いていたのだからどうしようもない。名無もそれを理解しているのか、心なしか勝ち誇ったような表情を浮かべている。

 しばらく口をへにょへにょさせてから、天理は無意識で立てていた耳と尻尾を下ろした。

 

「……ズルい」

「いや、天理さんも普段似たようなものですからね? お人好しというか善人というか、よく真顔であんなセリフが言えるなって常日頃から思ってます」

 

 褒め言葉ですよ、とおまけのように付け足す名無へ小さく笑う。暗い色をした笑いだった。

 そんな言葉が自分に似合うはずもない。

 

「……あたしは、二人を殺したのに?」

 

 名無が露骨に眉をひそめた。苦虫を噛み潰したような、と表現してしまえばありきたりだが、さておきそうとしか形容できない顔で「あのクソジジイ、余計なことを……」と呟く。

 そんな言葉遣いだっけ、なんて、どこか場違いな感想が浮かんだ。

 

「名無ちゃんは、はじめから知ってたんだね」

 

 口にした言葉は、自分でも少し驚くほどに無感動だった。

 名無へ思うところがないわけではない、のだろう。ただそんな他人事みたいな言葉を使う程度には、今はどうでも良かった。

 

「……全部知ってたわけじゃないですよ」

 

 名無は自身の隣を指さした。座れ、ということらしい。

 口の中で空を何度も噛む。言いたいことはあるはずだが、いざ喉からそれを発しようとすると上手く形に纏められない。言葉の輪郭を掴もうとしては、幾度もするりと抜けていく。

 ややあって、結局天理は名無から拳三つ分の隙間を空け、躊躇いがちに座り込んだ。なんだか言葉を詰まらせてばかりな気がする。

 名無は唇を尖らせ、手で自分の体を浮かせるようにしてその距離を詰めた。

 肩と肩が少し擦れる。

 三角座りの膝元に、天理は口から下を埋めた。

 

「あたしが――」

 

 いざ口火を切ると、なぜ言えなかったのか逆にわからなくなるくらい、あっさりと言葉が零れた。

 

「憎くないの?」

 

 聞きたいことは、きっとそれだった。

 

「嫌な質問ですね」

 

 もう一匹苦虫を噛んだような声だった。

 

「……言って良いものか、言わない方が良いものか。嘘はつきたくないけど、本当のことも言いたくないやつです」

「なんで」

「……。傷付けちゃうからに決まってるじゃないですか」

「良いよ。言って」

「わたしの話聞いてました???」

「言ってよ」

 

 少しだけ間があった。

 果たして名無は、諦めたように言った。

 

「憎んでません。これっぽっちも」

 

 それが嘘ではないことなんてすぐにわかった。わかってしまった。

 表情を変えたつもりはないが、そこに何かを見出したのだろう。大きめのため息を吐かれた。

 

「……ほら」

 

 顔をもう少しだけ埋める。

 

「『憎んでる』って、」

 

 名無も不貞腐れたように、視線を天理ではない方角へやった。

 

「『嫌いだ』って、」

 

 心のどこかでわかっていた。

 

「『死んでしまえ』って――」

 

 名無がどう言ってくれるかなんて、はじめから。

 こんなところまでやってきてくれている事実が、名無の言葉を証明している。

 

「そう、答えてほしかったんでしょう」

 

 言葉を纏めるのに時間がかかった理由は、きっとそれなのだと思う。

 自分の狡さが身に染みて、また、胸の底に澱みが積もる。

 心のどこかでその答えがわかっていたなら、自分はきっとそう言ってほしかったのではないか。

 許してほしい、とは少し違うかもしれないけれど。自分を肯定してほしかったのではないか。

 あるいは否定してもらうことで、少しでも楽になろうとしたのではないか――。

 虫唾が走る。

 何もかもが嫌だった。

 何を言っても、何を聞いても、何を見ても。

 ただ自分への昏い気持ちだけが募っていく。

 ただ、

 

「だから、嫌だったんです」

 

 自分への殺意だけが、天井知らずに増していく。

 

「天理さんを傷付けることも。そんなことだけわかってる自分も」

「……名無ちゃんは悪くないでしょ」

 

 むしろ不思議なくらいだった。

 出会ったあの日、あの場ですぐに天理を殺してくれていれば――。

 名無が、こんな場所に来ることもなかったのに。

 

「……ねえ、帰りましょうよ。天理さん」

 

 嫌になるくらい、柔らかな声だった。

 

「仕方ないことだったんです。お二人も最初から全部わかってて、」

「……どこに、帰るの?」

 

 だから天理も、笑った。

 嘲笑ったと言い換えても良いのかもしれなかった。

 

「それで、全部なかったことになるの?」

 

 隣から息を呑む音がして、

 

「あたしがやったことは、全部許されるの?」

「……天理さん、」

「ひどいこと言うなあ――」

 

 喉の奥から凍えた声が漏れて、

 

「――あたしに、あたしを、許せって?」

 

 自分はこんなにも、誰かを憎むことができるのだと知った。

 

「無理だよ。そんなの」

 

 名無も――。

 恨んでくれれば良かった。

 憎んでくれれば良かった。

 それならきっと、天理は受け入れられたはずなのに。

 今も彼女は、ひどく傷付いたような顔をするだけで。

 恨み言のひとつすら、言ってはくれない。

 

「全部、嘘だったんだもん」

 

 ならば、誰が自分を裁くのだろう。

 

「っ……それは違います。天理さん、あなたは……!」

「もう良い。もう良いんだよ、名無ちゃん」

 

 自分が、誰かと倶に天を戴くことなど。

 もはや、天理には赦せなかった。

 

「ありがとう、こんなところまで追いかけてきてくれて。きっと大変だったと思うけど」

 

 ゆっくりと立ち上がる。

 背を向け、深い闇の中へ一歩踏み出した。

 

「……ごめんね。もう、会うこともないよ」

 

 複雑な気持ちではあるけれど、最期に話せたこと自体は嬉しく思っていた。

 

「さよなら」

 

 だから、もう充分だった。

 二歩、三歩と闇を往く。

 四歩目を踏み出す瞬間、

 

「――待てよ」

 

 背後から別人みたいな低い声がした。名無の声であると気付くまで、にわかに時間がかかるほどに。

 だから、というわけではないけれど。

 ともかくその声には、天理の足を止めさせるだけのものがあった。思わず振り返る。コバルトブルーの瞳が射抜くように天理を見ていた。

 

「いい加減にしろ。怒るぞ、本気で」

 

 静かに、だが確かな熱を帯びた言葉が、暗闇に解けた。

 その眼差しに暗いものはない。ただ青く燃える厳しさだけがあった。

 小さく息を飲む。肩を怒らせた名無が、踏み鳴らすように歩み寄る。

 

「……それは、そうだよ。あたしは名無ちゃんに殺されたっておかしくない」

「そこじゃない。やっぱわかってねえよ、お前」

 

 名無が天理をそんなふうに呼ぶのは、記憶を遡るまでもなく初めてのことだった。彼女はますます不機嫌そうに続け、

 

「そもそも(わたし)がお前に文句を言う資格はない。友達を名乗る権利すら、 本当はないんだと思う」

 

 だがその言葉には、棘はなかった。

 

「そりゃそうだ。だってわたしはお前のことを知ってたし、こうなることだって聞かされてた。でもお前はわたしのことをなにも知らない。ひどい話だ。わたしが逆の立場だったら、きっとふざけんなって思うよ。けどな。けどさ、」

 

 まくし立てるように名無は言葉尻を上げていく。

 やがてその声は、

 

(わたし)は、楽しかったんだ」

 

 縋るように、

 

「勝手なのはわかってる。でも嘘ばっかりのこの二ヶ月で、これだけは、嘘じゃないんだ」

「――、」

「今日の遊園地だってそうだ。大げさかもしれないけど……あなたが笑ってくれてたから。だから、生きてて良かったなあって。(わたし)は本気で、そう思ったんだよ」

 

 いつの間にか名無の表情は、今にも泣き出しそうなものへ変わっていた。

 

「天理さん。あなたは、どうだった?」

「――、」

「自分の全部が嘘だって言うなら。(わたし)と笑ってくれてたのも……嘘、だったのか?」

「……そういう、意味じゃ、」

「そういう意味になっちゃうだろうが」

 

 言い訳みたいに飛び出た声を、名無が遮った。

 

「たしかに、あなたが生きてるせいであの二人は死んだ。それは否定しない。だけどあなたがいるおかげで、(わたし)はここにいられる。楽しいって、生きてて良かったって、そう思える」

 

 天理は答えなかった。

 

「はじめは嘘だったかもしれない。だけど、そこから繋がる全部を嘘にしちゃダメだ。それは、あなたに関わったひとすべてを侮辱することになる」

 

 言葉が、突き刺さった。

 脳裏に様々な人の顔が浮かぶ。両親。名無。町の人たち。クラスメイト。

 名無がふっと、表情を緩めた。

 

「……ほら」

 

 仕方ないなあとばかりに笑って、

 

「今の言葉でそんな顔になっちゃう人が、嘘で生きてるわけないでしょう」

「っ……!」

 

 ――わからない。

 なぜそうまでして、天理を生かそうとするのか。

 なにをしたって、天理がやったことは覆らないのに。

 

「……名無ちゃん、」

 

 なにかを言おうと呟き、同じタイミングで名無は頬を染めてごまかすように咳払いをひとつ、

 

「――あと天理さんが本当にそんな感じだったらお化け屋敷であんな可愛く泣き叫ばないと思います!!」

「…………は?」

 

 声にちょっと殺意が乗った。ほんのちょっとだけ。勝手に。

 

「いやだってそうじゃないですか? 恐怖って感情自体が生存本能由来というか、生きてるから怖さを感じるわけですし。でもほら、妖魔って現象みたいなものだからそういう感情とも無縁だと思うんですよね」

「…………」

「まあそういうところも可愛げ、もとい人間味ということでひとつ。つまり天理さんは少なくとも妖魔ではない! きゅーいーでぃー、証明かんりょあ゛た゛た゛た゛!゛?゛ な、なんで抓るんですかあ゛あ゛あ゛ー゛っ゛!゛?゛」

 

 気付けば天理はじとーっと湿った眼差しを向け、その頬を引っ張っていた。

 

「今良い感じのお話してたじゃないですか痛い痛いいひゃいふみょみょみょ!?」

「言うほど良い感じのお話かなあ今の? あたしのことバカにしてない??」

「…………」

「なんで黙るの???」

「う゛に゛ゃ゛ーっ!? く、口を割る(物理)(かっこぶつり)やめてください〜っ!!」

 

 絶対バカにしていた。

 仕方なく指を離すとその頬がお餅みたいに揺れ、「あうっ」となんとも言えない声がする。恨めしげな目線を向けられた。でも正直今のは自業自得だと思う。

 

「ううっ……昔天理さんのお父さまにほっぺた抓られたの思い出しました。そんなところまでそっくりじゃなくて良いのに」

「……お父さんが?」

「苦無投げの練習してたら間違えて何十……いえ、何度かお父様に刺さってしまって」

 

『何回』と『何十回』はだいぶ違う。

 

「最初は許してくれてたんですが、四回目くらいからさすがに怒られるようになりました」

「誰でも怒ると思うよ!?」

「お母さまはお腹抱えて笑い転げてましたけどね」

「お、お母さん……」

 

 思わず苦笑いを浮かべて、途端に胸の奥底に稲妻めいた痛みが走る。バラバラになりそうな痛みが、天理の笑みを歪めた。

 笑う資格など、自分にあるわけがないのだ。

 

「……お二人も」

 

 名無がおもむろに呟いた。

 

「きっとわたしと同じです。天理さんのことを、憎んでなんかいませんよ」

「……でも」

「納得できないなら」

 

 彼女はふっと笑って、

 

直接(・・)聞いてみたらどうです?」

「――、え?」

 

 天理の背後を指した。

 

「ここは黄泉に半歩近い場所。……こういうこともあるでしょう」

 

 ――夜が明けるようだった。

 瞬きひとつの間に、どこまでも続いていた暗闇が、天理の背後から彩りを帯びていく。

 白と青を混ぜた真空(まぞら)の色が、降り積もる闇を解かしていく。

 気付けば二人が立っていた闇の輪郭は柔土となり、そこに幾ばくかの草が息吹いている。

 天と地が別れた世界の中で、思わず振り向いた。

 目に入ったのは、少し離れた先、視界の中央に鎮座する桜の大樹である。

 そのそばに、寄り添うように誰かがいる。

 

 

「なんて顔してるんだい、まったく」

 

 

 呼吸が、止まる。

 緩やかに散り流れていく桜の花びらの向こう。

 朱を濃く帯びた、思い色のマフラーがそっと揺らめく。白く晴れた銀髪が積もり、その下にひどく懐かしい狐の面がある。隙間から覗く緋の瞳は、同じ色の天理のそれよりもわずかに薄い。

 

 

「あーあーっ、せっかくの美人さんが台無しじゃないですか。もう」

 

 

 記憶の底を掬うまでもなく思い出せる声。

 桜をそのまま編み込んだような聴色の羽織が、薄く青を透かした濡羽の髪と交差する。うっすらと水気を帯びているような黒髪は、天理よりもずっと長く艶やかだった。

 

 そよ風。

 桜の花がふっと散り、天理と二人の隙間を流れた。

 指先ほどの桜花の幕が、つかの間二人の姿を隠す。

 瞬きを忘れ、天理は目を見開いていた。

 

 花びらが去る。

 その下にあった顔は、紛れもなく――。

 

 あの日、自らの手で殺したはずの二人のものだった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。