戴天   作:灰汁

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十三話

「――えへへへ久しぶりですね名無ちゃん元気にしてましたかあーらもうこんなに大きくなっちゃって」

「――あだだだた゛た゛た゛!! 待って待って折れる!! 折れます!! 背骨がミシミシ言ってる!! 人体から鳴っちゃダメな音してるってこれ!!」

「もー、大げさなんですから……って、あれ? むむ、名無ちゃんしっかりご飯食べてます? 折れちゃいそうなくらい細くてちょっと怖いです」

「怖いのはあんただよ!! わたしをへし折りながら言うセリフじゃねえからそれ!!!」

「ぎゅー♪」

「ぐわあーーーッ!!! て……天理さん助けてぇーーーっ!!!」

「え……えっと……」

 

 ――なんでこうなってるんだろう。

 何度目になるかわからない言葉を心の中でこぼす。なんとも言えない表情で名無を見ていると、ふと自分が何をしているのかわからなくなるような気さえした。

 

 淡く春の色が付いた空気の中で、景色だけを見ればさながらお花見でもしているようだった。

 澄んだ青空の中で、桜の花びらがゆったりと風に運ばれ、斜に視界を横切っていく。その向こうで名無が母に捕まっていて、現在進行形で温かな抱擁(ベアハッグ)を食らっているところである。名無の細い体から家鳴りみたいな音がして、それが少し離れたこっちまで聞こえてくる。

 声を張ればやり取りができる程度の距離にある桜の大樹に、背を預けるようにして天理は座っていた。

 にわかに肩を狭めているのは、なんとなく、居心地が悪いからだった。

 

「あっあっあーっ!? 死ぬ!! ガチで死にます!!! 離して!!!」

「そんなつれないこと言わないでくださいよぅ。ちょっとしたスキンシップじゃないですかーっ」

「鞍馬神流のやり方でスキンシップするのやめろ!! わたし普通の隠忍なんですよ!?」

「え、鞍馬神流(わたしたち)のやり方でやって良いんですか?」

「……え?」

「一応遠慮してたんですけど……」

「…………」

「いやーっそこまで言うなら仕方ないですねっ」

 

 ひっく、という嗚咽が聞こえた。神に縋るような眼差しで、再び名無が天理を見る。

 いろいろひっくるめて、どう反応したものか非常に困る。

 

「天理、よく見ておくといい。お母さんは名無の全身の骨を砕く気だ」

「なんて???」

 

 隣からする声――父の言葉に、天理は思わず目を丸くした。気のせいでなければ今『名無を殺すつもりだ』と言われたような。

 右横へ顔を向ければ、妖狐の男がゆったりと桜にもたれかかっている。抜けるような苦笑いを浮かべているが顔の上半分は白い狐面で覆われていて窺えない。

 

「鞍馬神流ではね、最初の修行で全身の骨を砕かれるんだ。あの流派における師弟のスキンシップとはそういうものなんだよ」

 

 もしや天理は『スキンシップ』と『拷問』を聞き間違えているのだろうか。

 耳聡く父の言葉を聞きつけたのか、母は「いやいや」と口を挟んだ。なおベアハッグは絶賛継続中である。

 

「お父さんったら。天理ちゃんに変な嘘吹き込まないでくださいっ」

「あれ、違ったっけか?」

「違いますよ!」

 

 ぷんすこと頬を膨らませる母に、内心で小さく胸を撫で下ろす。どうやら冗談であったらしい。そうだよね、いくらなんでも骨を砕くってそんな

 

「骨だけじゃなくて内臓も先に潰されます!」

 

 喉から変な声が漏れた。

 

「あとその辺は修行じゃないですっ。単なる準備ですっ。その状態で人喰い虎を倒せっていうのが修行ですっ!」

「ああ……」

 

 父の返事は、思い出した時の「ああ」に、納得と諦観とドン引きをブレンドしたような声音だった。

 いよいよ名無の顔が青ざめている。天理は呻き声と共に目を逸らすしかなかった。固く目を閉じる。ごめん。本当にごめん。どうもしてあげられない。

 名無はこの世の終わりみたいな顔をしている。

 

「ところでわたし、名無ちゃんに前なんて言いましたっけー?」

 

 微笑みを浮かべたまま、母は薄く目を細めた。上まぶたから見え隠れする瞳は名無のそれよりも濃く青い。鴉の羽が濡れたような色の髪が、ふわりとそよ風に混じった。

 名無が肩をビクッと跳ねさせて、

 

「『自分の命を犠牲にしてでも天理ちゃんを助けて』――なんて、言った記憶ないんだけどなあ〜……?」

「ぎくっ。そ、それはあ……いやでもほら……け、結果オーライというか、」

 

 ミシミシという音がさらに大きさを増した。

 

「あだだだ!?!?!? ごめんなさいすみません申し訳ありません調子乗りました!!」

「龍頭さんを巻き込めたから良かったものの、本当なら霊力賄いきれずに死んでたんですからねー? わかってますかー??」

「わかってますわかってます!! わたしが生きてるのは偶然です運が良かっただけです!!」

「ふーん、わかっててやったんですね。やっぱお仕置き続行かなこれは」

「どう答えりゃ良いんだよアバーーーッッッ」

 

 母の目元にはほのかに影がかかっていた。表情こそ微笑んでいるが目はまったくその通りではない。母の小さな全身から青白い炎みたいなものがうっすらと立ち上っている気がする。多分気のせいではないのだろう。

 天理にも覚えがある。あれは、

 

「相当怒ってるねえ」

 

 隣で苦笑する声と、天理の思考が重なった。

 背を預けている桜からこぼれ落ちた花びらが、束の間隣の妖狐の目元を遮る。

 

「まあ、お母さんの気持ちもわからないではない。まさか【反魂】を持ち出すとはね」

 

「発想を褒めるべきか、自死前提のやり方を叱るべきか、悩ましいところだ」 女性と見紛う線の薄い顎を撫で、言葉とは裏腹に父は笑みを崩さない。

 桜が過ぎ去った先で、天理よりもいくらか明るい緋色の瞳が顔を覗かせる。

 懐かしい目の色だった。最後に見たのはわずか半年前のはずなのに、それよりずっと久しく感じられる。

 

「……お父さん」

 

 その姿はたしかに、あの日天理が殺してしまった父に相違なかった。

 母だってそうだ。声音も、表情も、仕草のひとつひとつに至るまで、どこを見ても夢や幻の類には感じられない。

 

 天理は既にほとんどの記憶を取り戻していた。

 記憶を失っていたこと自体は、実のところそれほど不思議というわけではない。似たようなことは天理にもできる。それこそ名無と出会う数日前、運悪く怪異と出会ってしまったクラスメイトの記憶を封じたあの術は、他でもない両親から教わったものだった。

 原理は同じだ――唯一、術の強度だけが違う。

 もしどこかなにかが違っていれば、天理はきっとこの記憶を思い出すことはなかったのだろう。

 恐らく、永遠に。

 

 考えるだけでぞっとしないが、それは『思い出した』今だからこそ言える話だというのもわかっている。両親になにかを言う気など浮かぶべくもないし、その資格もありはしない。

 本来であればもう一度話をする機会すら失われているはずだった。

 

 なにかを言わなければならないはずなのに。

 なにを言えば良いのか、わからないままでいる。

 名無にも。両親にも。

 

「天理」

「……はい」

 

 そんな天理の胸中を見透かしたかのように、父はその眼差しをこちらへと向けた。体が強ばったのも当然だと思う。背筋を伸ばし、自然と返事は敬語になっていた。

 静かな声で、

 

「最近、誰かにイタズラしてるかい?」

「…………はい?」

 

 父はなんでもないことのように聞いた。

「いやね」と苦笑いをひとつ、

 

「なんだか狐につままれたみたいな顔をしてるからさ。お前も半分とはいえ妖狐なんだし、どちらかと言えばそういう表情をさせる側だろう?」

 

 たぶん今の天理はさっきよりも狐につままれたような表情をしていると思う。

 

「ここはひとつ、今この瞬間がどういうカラクリで形作られているのか熱心に聞いてくるくらいの気概はあっても良いと思うよ。少し元気もなさそうだし……もしかして、妖狐らしいことをしていないんじゃないかと心配でね」

「い、今そういう流れだったかな……?」

「ああ、言いたいことはわかっているとも。お前は昔から人間寄りの子だったからね。ただ僕としてはもう少しやんちゃでも構わないんじゃないかと常々思っていたんだ」

 

 なにひとつ伝わっていない。

 

「で、どうなんだい?」

 

 それともあえて伝わっていないフリをしてくれているのか。

 困惑を隠しきれない表情のまま、天理は曖昧に首を横へ振った。

 今そんなことを考えている場合なのかという問題はさておき――。

 誰かにイタズラすることは嫌いではないしむしろ好きだけれど、いざそう問われてみるとあまり心当たりはない。特に最近は正直それどころではなかった。強いて言えば名無に遊園地で軽くやっているが、『しょうもなさすぎる』というあまりにもあんまりな評価を下されたので口にすることは憚られた。

 やっぱり今はそんな話をしている場合ではないのではないか。

 そう思って父を見ると、その口元がかつてないほど深刻そうな形になっていた。下手をすると『あの日』戦っていたときと同じくらい強ばっている。そんなに大事なことなのかなこれ。

 

「天理。それはまずい」

 

 聞いたことのないくらい本気のトーンでの説教が始まろうとしている。どうやら大事な話らしい。

 

「人を化かすのは心の健康に効くんだ。自然と笑顔になれるし元気も湧く。僕なんてほら、誰かにイタズラするときはすごく良い顔をしてるだろう?」

「自分で言っちゃうんだ……」

 

 たしかに物凄く活き活きとはしている。その被害者は主に天理と母だが。麦茶めんつゆ入れ替え事件については未だに許していない。

 反射的にジト目を向けると父は肩を竦めた。

 

「人間や動物だって食事やら睡眠やら運動やらを怠ると心身の調子を崩す。妖怪のイタズラや悪事というのは、つまるところ人間にとっての食事、睡眠、運動にあたるのさ。天理、お前は半分人間だけどもう半分は妖怪なんだ。ちゃんと悪いことをしなさい」

「え、えーっと……はい……?」

「よし。悪い子だ」

「そんな『良い子』みたいな言い方で」

「字面はアレだけど、ちゃんと褒めてるんだよ? 人の世界に身を置いている以上ある程度は仕方のないことだけれど、本当はもっと伸び伸びと生きて良いんだからね」

「……。でもお父さん、よくイタズラしてお母さんに怒られてたじゃん」

 

 快活な笑いが返ってきた。

 

「それこそ仕方がない。悪さはしたいけど怒られるのは嫌だというのは、ちょっと筋が通らないね」

「そこまでして悪さするんだ?」

「そういう風に生まれついた。だから、そうする。単純明快だろう?」

 

 天理はしばらく黙ったあと、結局なにも口にすることなくまた顔を俯かせた。

 言っていることの意味はわかる。半分とはいえ天理も幽世に身を置いて生きてきたのだ。人の価値観で言えば口にすることすら躊躇うような怪異と出会った経験もないではない。妖魔などはその最たる例だろう。

 だからそのすべてが悪意に満ちた邪悪な存在というわけではないことも、なんとなく知っている。

 

「人間だって獣や魚を食う。その獣や魚は、虫とか植物を食う。別にそれぞれが憎いわけではないけれど、世の中はそういう理で回っている」

 

 嵐や津波が人を殺すのにも似て、そこに理由、道理といったものが介入する余地はない。

 語るも難き怪力乱神。その本質は『理不尽』にこそある。

 そこにせめてもの慰めを見出すならば、きっと父の言う通り、『そういうモノだった』という言葉になるのだろう。

 

「だったらそれは、誰のせいでもないさ」

 

 刃に触れれば、人の肌を容易く裂く。しかしそれは刃に悪意があったからではない。

 炎に触れれば、人の肌を容易く焦がす。しかしそれは炎に邪意があったからではない。

『そういうモノだから』としか、言いようがない。

 

「だからね、天理」

 

 だから、人は神を畏れた。

 だから、人は妖を恐れた。

 だけど――。

 

「お前が気に病むことは、なにもないんだ」

 

 それこそ、ただの理屈ではないのか。

『仕方ない』と言うのなら。

 二人が死んだのも、『仕方ない』ことなのか。

 そんなはずがない。

 そんな理屈が、あって良いはずがない。

 

「……僕たちに伝わる業の中に、【反魂】という術がある」

 

 天理がなにも答えなかったのを見かねてか、ため息を吐くように父は話の方向を変えた。

 

「死者蘇生の禁術だ。使いこなせる術者は、きっと片手の指ほどしかこの世にいないだろう。お前を現世に繋ぎ止めている術はソレでね」

「……名無ちゃんが使ってくれたんだよね」

 

 視線を向ければ、変わらずわーわーぎゃーぎゃーと騒がしく名無たちが格闘を続けている。

【反魂】とやらの詳細は天理にはわからないが、術を発動したのが名無であることは理解できる。

 それを行使するために名無がどれほどの無茶をしたのかも、うっすらとではあるが感じ取れていた。

 

「わかっているなら話は早いね。【反魂】は凄まじい効果を持つ術だが、それ故に制約も多い。まっとうなやり方では発動させることさえ困難だし、行使できたとしても、その上でさらにいくつかのルールがある」

 

 父と天理の間を、また花びらが一枚、横切った。

 

「一度の発動に際して、蘇らせられるのは一人だけ。死後から時間が経ちすぎていてもいけない。同一術者による連続使用もできないし、蘇る者にもちょっとした副作用がある。死者復活とはそれだけ難しいということだが、とにかく今大事なのは、」

「お父さんとお母さんは死んでる。もう何をやっても生き返れない」

 

 いつのまにか母のベアハッグがヘッドロックになっている。名無の顔が青ざめつつあった。

 それをぼんやりと眺めていた。父がにわかに息を飲み、

 

「知ってたのかい?」

「その術のことはよく知らないけど……『それ』はなんとなく、わかる」

 

 恐らく父にも母にもない、天理特有の感覚なのだろう。言葉にするのは難しいが、見ていれば本能的に『それ』が理解できた。

 死の気配と表現するのが、正確ではないまでももっとも近くはあるだろう。二人の気配はもはや死と同化していて、再び現世に還ることはない。

 色の付いた雫を川に垂らすようなものだ。溶け合ったその色を戻すことは、もう二度と叶わない。

 父は人差し指で頬をかいた。

 

「困ったな。そこまでお見通しか」

「名無ちゃんにも似たような雰囲気があったんだ。でも今のお父さんとお母さんからは、名無ちゃん以上に『そんな感じ』がする」

「あの子も一度死んでいるからね。蘇って時間が経ってるから死の気配が薄れているんだろう。少なくとも、あの日死んだままの僕たちよりは」

「…………」

 

 わかっていたつもりだった。あの記憶が嘘でもなんでもないことくらいは。

 反射的に「ごめんなさい」と呟こうとして、だがそれすら口から零れることはなかった。

 そんな言葉に、なんの意味があるのだろう。

 自分が奪ってしまった命に対して、なんの償いになるのだろう。

 むしろそれを口にしてしまうことさえも、二人への冒涜に他ならないのではないかと思った。

 

「まあ、実を言うとこうなることはわかってたんだけどね」

「……、え?」

 

 今度は天理が目を丸くする番だった。

 

「もちろん、あの場でお前を止められたならそれに越したことはなかった。だけどもし失敗すれば、そのツケは僕たちの命では足りない。本来の姿に戻ってしまったお前は、きっとこの国の――この世界の、おおよそ命と呼べるものを殺し尽くすか、あるいは自身が消えるまで止まらないだろう。だから、保険をかけた」

 

 滔々とした口ぶりは、さながらおとぎ話を語るようだった。

 少しだけ顔を俯かせる。

 

「……あたしは、」

 

 こぼした言葉には、ためらいが濃く残っていた。

 それでも結局、天理は訊かずにはおれなかった。

 

「『何』なの?」

 

 自分がどういった存在であるのか、実のところ記憶を取り戻した今でもよくわからない。

 ただひとつ確かなのは、父の推測は間違っていないのだろうなということだけだった。

 ――たとえばそれはいつかの日、迷い込んだ野良妖魔を滅ぼしたように。

 ――たとえばそれは思い出すほどでもない先のこと、龍頭と出会ったお化け屋敷でそうしようとしたように。

 ――たとえばそれは手に感覚が残るほど真新しく、機械忍者とやらの腹を貫いたように。

 天理は多分、『そうするように』できているのだと思う。

 善悪や好き嫌いとは別の、もっと深い――魂の根っことでも呼ぶべきほどの奥底に、その行為が根付いているような。

 人が生きるために血を巡らせるように、天理は誰かの腸を斬り裂いてそこに在る。

 近付くモノすべてを殺さねば、天理はそこに在ることができない。

 なぜそうなのかは、わからないけれど。

 そういうものだというぼんやりとした理解は、なんとなくあった。

 

「逆にお前は、自分のことをなんだと思ってるんだ?」

 

 いたずらっぽく父は微笑んだ。

 

「はぐらかさないでよ」

「そういうわけじゃないさ。大事なことだよ」

 

 押し黙り、考える。

 

「……わからない」

 

 ただひとつだけ、

 

「でも、生きてちゃいけないモノなのかなって、思う」

 

 そんなことだけが、わかった。

 

「そうか」

 

 返ってきた声は静かだった。天理の言葉を肯定しているようにも否定しているようにも、あるいはどちらでもないようにすら感じられる。

 

「ひとつ、大事なことを忘れているようだね」

「……何?」

「お前はまず、僕たちの娘じゃないのか?」

 

 決して荒い声ではなかった。いつも通りの静かな語り口で、なのにそれは不思議といつもよりもずっと強く聞こえた。

 

「何である前に。誰である前に。お前は忍花天理(・・・・)だ」

 

 柔らかな声でありながら、その言葉は、不思議と天理の胸の奥にすっと入り込むようだった。

 

「だから残念だけど、お前のその質問には答えられないし、その意味もない。僕たちにとって、お前は『忍花天理』であり、娘であり、それ以外のものではないからだ。そういう風に、僕たちはお前を名付けた(呪った)

 

 父は小さく、笑った。

 

「もちろん、お前が求めている答えがそういうことじゃないのもわかってる。心配しなくて良い。お前がもし本当にそれを知りたいのなら、きっとすぐにわかる(・・・・・・)

「…………」

「だから僕たちが話してやれるのはそれ以外のことだ。たとえば……今この状況について、とかね」

 

 もたれかかった桜の大樹が枝を広げ、傘のように天理と父へ被さっている。父は、頭上の枝を見やるように視線を上げた。

 

「と言っても大したことじゃない。僕たちの魂……その一部をお前に取り込ませるよう術式を組んだ。術の発動条件は、お前が僕たちを殺すこと。『保険』とはすなわちその術であり、この状況そのものでもある」

 

 顔を上げ、息を呑む。

 少し離れた場所から、「よしっ、このくらいで許してあげましょう! 反省してくださいね?」と可愛らしい声が聞こえる。声とは裏腹にまったく可愛らしくない剛腕で全身と首を締め付けられた名無が、口から魂を吐き出しながらぶっ倒れていた。虫の息である。

 

「ここはお前の心の中だ。より正確に表現するならば、心の()とでも呼ぼうか」

「……(ふち)

「お前の『本質』を包む世界。お前の魂を覆う薄い膜。お前が忍花天理として生きた時を経て形作られた、同じく忍花天理という世界」

 

 苦笑いをひとつ、

 

「とにかく僕たちはそうやってお前の中に取り込まれた、いわば魂の欠片みたいなものさ。大本の魂とは繋がっているけれど、逆を言えばそれだけだ。本来ならこうして話すことは難しいんだが……黄泉に限りなく近いこの場所だ。名無の忍法のおかげでもあるだろう。ま、ちょっとした奇跡だねえ」

 

 ――『妙だな。魂の総量が多い』。

 遊園地で龍頭が零した言葉が、天理の脳裏をふと過ぎった。あの言葉は恐らく両親の魂のことを指していたのだろう。

 魂の総量という概念自体天理にはわかるようでわからないが、永く生きた人外である龍頭には何かしら違和感があったのかもしれなかった。

 

「なんで、そんなこと」

 

 ひとえに『魂』と言っても、それがどういったものであるのか理解することは難しい。人間が未だ肉体のすべてを解明できていないように、千の歳を経る人外ですらその全貌はわからないのだという。

 だがそれでも、魂の移植―― 一部とはいえ――という行為が一筋縄でいかないことはなんとなくわかる。

 

「『幽霊の正体見たり枯尾花』って言うだろう? これには逆のことも言える。単なるススキであろうとも、見る人物が幽霊だと思えば、その世界におけるそれは幽霊だ」

 

 座ったまま立てた片膝に、父はゆっくりと腕を乗せた。

 

「世界をどう捉え、どう切り分け、どう分類するかの違いでしかない。嵐も津波も山火事も、今の人間が組み立てた理屈で突き詰めてしまえば自然現象だ。枯尾花と同じさ。かつての人々はそれを神と呼び、今の人々は現象と呼び、妖魔もまたそういうモノのひとつの形でもある」

「…………」

「妖魔の中にはそういった畏怖や信仰が形を成したモノも多い。数多の人間が、その現象をそういう風に解釈し、観測した結果、それが現実になったというわけだ。僕たちも、お前に同じことをしてやりたかった」

 

 緩く息を吐くように、

 

「お前をなにかの形で観測し続けることで、少しでもお前の存在を安定させてやりたかった。僕たちが見守ることで、お前の性質を固定しようとしたんだ」

 

 妖魔のそれとは方向が逆になるけどね、と父は付け加えた。

 

「でもそれが、かえってお前を苦しめてしまったのかもしれない」

「――」

「お前は、」

 

 ゆっくりと父が顔をこちらへ向け、

 

「――はいそこまでーっ!! いい加減お母さんと名無ちゃんもお話に入れてくださいね、お父さん!!」

 

 むむーっと不機嫌そうに眉をひそめた母が、天理と父の間に割り込んだ。その手には名無の服の襟が握られている。どう贔屓目に表現しても『首根っこを掴んでいる』以外の言葉が見当たらないし、実際引きずられた名無の口からは未だに魂が抜けたままだった。

 

「……。いや、君が先に『名無には特別な話がある』って引きずっていったんだろう。可哀想に、随分絞ったみたいじゃないか」

「とーぜんですっ。わたし、名無ちゃんにはそんなことしてほしくありませんでした!」

 

 母が頬を膨らませた。

 

「『わたしたちに何かあったら天理ちゃんをお願いしますね』とはたしかに言いましたけど!! 『ただし命を粗末にするような真似はしないでください』とも言いましたもん!! ねっ、名無ちゃん!」

「ひっ……いやほんとマジすみませんでした……二度とやんねーですので……」

「な、名無ちゃんの言葉遣いがだいぶおかしくなっちゃってる……」

 

 気持ちはわかる。母は怒るとちょっとした地震が起こりかねない規模のお仕置をする。誇張抜きで。

 

「今となってはあれくらいしか方法がなかったのは事実だろう。こうして僕たちが話せているのも名無のおかげだ」

「そんなことはわかってますーっ!!」

 

 苦笑する父に、母はさらに眉を上げた。

 

「でも! だったらなおさら、名無ちゃんがわたしたちの分まで責任を取る必要なんてなかったんです! ましてや、自分の命まで使うような真似して……!」

「そ、そうしないと天理さんが――」

「それはそれ!! これはこれです!!」

「そういう話ではなくないですか!?」

「そういう話なんです!! そのために名無ちゃんが死んで良いわけないでしょう!?」

 

 その声が震えているのを聞くなり、名無の表情が曇った。

 

「……それは。だって。お二人だって、天理さんのために……」

「いやはや、本当に。それを言われると返す言葉もないねえ」

 

 反対に父がからからと笑うさまは、とても命を落とした人物とは思えなくて、まるでお日様みたいだった。

 母ががるると牙を剥き、

 

「お父さんっ」

「子は親を真似るものだ。そういうやり方を教えてしまった僕たちの責任なのは間違いないだろう」

 

 なら、と父は穏やかな声で続けた。

 

「それを正すのも、僕たちの責任だ」

 

 笑ったまま、

 

「名無、僕は少し心外だよ。この状況を僕たちが望んでいたと思っているのかな?」

「……。だって、その。こうなるように仕込んでたんでしょう?」

 

 名無はバツが悪そうに唇を尖らせた。

 

「少し違う。言っただろう、『保険』だって。今も生きてお前たちの傍にいられることこそが、僕たちにとっての最善だった。……さて、では名無。お前のやり方で得られる『最善』はどんな結果だ?」

 

 微笑んだまま、父は尋ねた。

 

「死を視野に入れることと、死を前提とすることは、似ているようでまったく違う。お前は自分が生き残ることを初めから考えていなかっただろう?」

「――」

 

 名無が息を飲んだ。

 

「お母さんが怒っているのはそこさ。付け加えるなら、僕も悲しい」

「…………」

 

 ゆっくりと、母が再び口を開く。

 

「……天理ちゃんの母親として、名無ちゃんには感謝してます。それは間違いなく本音です。なのにこんなやり方じゃ、褒めたくても褒めてあげられないじゃないですか」

「……、」

「名無ちゃんはまだ子どもなのに。大人だったらやって良い、ってわけじゃないけど――それでも、二度とこんなことしてほしくありません……!」

「それには僕も同感だね。お前の命はもう、そういう使い方をするものではないはずだ」

 

 名無は天理が見たこともないようなしおらしい顔で、

 

「……はい。本当に、すみませんでした」

 

 首根っこを掴まれたままそう言った。

 ――いろんな意味で口を挟みづらいのだが、いい加減離してあげても良いと思う。

 

「……ん。よろしいです!」

「よしお母さん、それなら名無の首を離してあげてくれ。そろそろ本当に死んでしまう」

「あっそうでしたうっかり忘れてましたごめんなさい!」

「おいふざけないでくださいよ(わたし)うっかりで今まで首掴まれてたのかよ!!」

 

 パッと手を離された名無が盛大に咳き込んだ。「し、死ぬかと思った……」と涙目で喉を押さえている。

 一通り咳き込んだあと、ちらと天理の方を名無が見た。

 

「うぅ……天理さん、慰めて〜っ!」

「わあ!?」

 

 飛びついてくる名無を座ったまま抱き留める。

 

「さすがに今のはひどいと思うんですよわたし!! 娘としてなんか言ってあげてくださいよ!!」

「え、ええと」

 

 実のところ先ほどからずっと困惑しっぱなしで、どう反応すれば良いのか見当がつかずにいた。

 ――二人を殺したことを知らされたかと思えば、暗闇の中で名無と再会して、気付けばどこともわからない景色の中にいる。

 そこで両親と出会って普通に会話をしているのだから、正直に言えば理解がまるで追いついていない。

 天理の心情を察してか、父が小さく笑った。

 

「ご愁傷さまだね。名無」

「まあ死んでるのはわたしたちの方ですけどねーっ。なんちゃって」

 

 空気が凍った。

 ため息と共に父はこめかみを押さえ、

 

「……お母さん。それはちょっとさすがの僕でもどうかと」

「あ、あれ? 今のは笑うとこだったと思うんですけど!?」

「天理さんが絶妙に反応しづらい冗談を言うの、まさかこの人から来てるのか……?」

「ちょっと待ってあたしそんなこと言わないよ!?」

「しかも両方自覚ないのかよ性質(たち)悪いな!!」

 

 父に続くようにして名無がため息を吐く。二人とも仕草というかため息の吐き方がそっくりで、こうして見ているとなるほど影響が感じられた。それはそれとして人に抱きついたまま呆れるのはものすごく失礼だと思う。

 

「……天理ちゃん。お母さんたちとお話しても、あんまり楽しくないですか?」

 

 そんな天理の表情をどう捉えたものか、母が微笑みに苦味を混ぜた。

 

「わたしもお父さんも、たくさん隠し事してましたから……わたしたちのこと、もう嫌いになっちゃったかな」

「そ、そんなことない!」

 

 天理は顔をあげて強く言った。

 

「そんなことない、けど。ただ……」

 

 そしてまた、ゆっくりと俯く。

 口にして良いものかという躊躇いがふと浮かんで、だが一瞬で過ぎ去っていく。

 

「――わからないよ……」

 

 二人が何をしたかったのか。

 名無が何を考えていたのか。

 なぜこうして会えているのか。

 理屈は、理解できた。

 

「名無ちゃんも。お父さんも。お母さんも。なんで、あたしにそこまでしてくれるの……?」

 

 だからこそ天理には、そこだけがわからなかった。

 

「二人のこと、聞いたよ。忍者なんでしょ。あたしは、二人に殺されるために生まれてきたんでしょ」

 

 やがて母が静かに、

 

「……そうですね」

 

 そよ風と草鳴りの音に紛れて呟いた。

 

「天理ちゃん。どこまで思い出してますか?」

「……多分、一通りは。生まれる前のことまでは、わからないけど」

「そっか」

 

 名無がそっと天理の傍から離れた。

 

「――わたしとお父さんは、あなたの討伐に失敗したことで流派からも追放されました。今でこそ落ち着いていますが、刺客を放たれた回数も一度や二度じゃ済みません」

「おい、お母さん」

「もう隠し事はなしです。どのみち思い出しちゃってるのなら、これは天理ちゃんが知っておかなきゃいけないことでしょう」

 

 窘めるような父の視線へ、母が静かな言葉を返した。

 父はそれ以上止めることはせず、自身のおとがいを人差し指と親指でそっと撫でた。

 

「あたしを殺しておけば、お父さんもお母さんも、そんな目に遭わなくて良かったんじゃないの?」

「その通りです」

「あたしが死んでおけば、二人は今でも生きてくれてたの?」

「なんともですけど、きっとそうでしょうね」

「じゃあ、」

 

 桜が天理の目の前を横切る。

 

「あたしがいなかったら、みんな幸せになれてたんじゃないの?」

 

 生きていて理由が見当たらない。

 この世界に在って良い訳が見つからない。

 自分の意味が、わからない。

 

「それは、違います」

 

 だけど母は、その言葉だけは強く言い切り、天理の目を見た。

 

「天理ちゃんがいなくても、わたしたちはきっとそれなりの生き方をしてたでしょう。それはそれで楽しくて幸せなのかもしれません」

「……なら、」

「でも天理ちゃんがいなかったら、お母さんはお母さんになれませんでした」

 

 花が咲くようなと言ってしまえば、ありきたりだけど。

 母が桜に紛れて笑うさまは、まさしくそうだった。

 

「誰かと家族になること。誰かと一緒に生きていくこと……わたしには、そんな生き方なんて選べないって。そう、思ってました。でも天理ちゃんが、それを変えてくれた」

「……。あたしは、なんにもしてないよ。そんな風に思ってもらえることなんて、なんにも」

「それで良いんです」

 

 小さく波が揺れるように、穏やかな声音だった。

 

「ただ天理ちゃんがそこにいてくれるだけで、お母さんはもう、たくさんの幸せをもらってるんですよ」

「――……」

「お前も、名無から聞いているかもしれないけれど」

 

 父が、鼻から抜けるように笑った。

 

「不倶戴天とはよく言ったものでね。かつての僕たちは、まあそんな感じだった。それがなんの因果か、こうして夫婦なんてやってる」

「ふっふっふ。お父さんにはもったいないくらいの良妻賢母ですね!」

「ああうん、そうだね」

「えへへー」

 

 ふふんと胸を張る母へ、めちゃくちゃどうでも良さそうに父が言葉を投げた。物凄い棒読みだったが母はえへえへと笑っている。それで良いのだろうか。

 緋色の眼差しが、天理を柔らかく包んだ。

 

「『どうして』とお前は言ったね。正直、それを言葉にするのは難しいんだが」

 

 しばらく悩むように黙ってから、父は続けた。

 

「――うん、そうだね。多分、嬉しかったからだと思う」

 

 薄い笑みが投げられ、

 

「それなりに生きてきたけれど、子孫というものにはどうしても興味が持てなくてね。だけどお前を見た瞬間に、『こういうことか』と思った。僕の血を引いている命がそこに在るというそれだけのことが、なぜだかたまらなく嬉しかった」

「あーっそれ!! お母さんもそういう良い感じのこと言いたかったのに!!」

「君ちょっと黙っててくれるかい」

「ひどい!?」

 

 母は頬を膨らませて、父の言葉をわざと遮るような大声で、

 

「お母さんも一緒に過ごすうちに、こんな生活も悪くないなって、いつの間にか思えるようになってましたっ。覚えてますか? お母さんたちが喧嘩しそうになる度に、天理ちゃんが止めてくれたんですよ!」

 

 別にそう大したことではないはずなのだが、なぜだか無性に恥ずかしくて、天理は顔を赤くした。まったく覚えていない。

 

「……そっ、そんなこと、あったっけ」

「すっごく小さい頃でしたからねーっ。覚えてないのも無理ないです。『けんかしちゃだめーっ!』って怒ったかと思えば、次の瞬間には大泣きするものですから、あの時は本当に慌てました」

「仲良いアピールするためにお母さんに無理やり頭を掴まれてくっつかされた記憶があるね。アイアンクローって言うんだっけか。頭が砕けるかと」

 

 母が下手くそな口笛を吹いた。

 やれやれと父は肩をすくめるだけに留め、

 

「不思議な縁だと。そう、思ったよ」

 

 続ける。

 

「不倶戴天の敵同士と呼ばれた僕たちが、『天理(おまえ)』という子を()いて。いつの間にか、家族として一緒に笑っているんだからね」

「ねーっ。天理ちゃんをお迎えするまでは絶対ありえなかったです!」

 

 父のゆっくりと大きな手が伸びたかと思うと、天理の頭を優しく撫でた。

 

「いつの日か、言っただろう? お前は、僕たちの宝物なんだって。……だから。だから、そんな悲しいことを言わないでくれ」

 

 触れたそこからじんわりと熱が伝わる。

 

「っ、でも……!」

 

 視界が滲む。崩れるように、天理は表情を歪めた。

 

「――あたしはっ。上手く、生きていけなかった……!」

 

 人とも。

 妖とも。

 現世と幽世の狭間で、どちらともきちんと折り合いを付けることが、天理にはどうしようもなくできなかった。

 

「二人、にも。名無ちゃんにも、迷惑、かけてっ……あたしは、なんにもできなくてっ。しちゃいけないことばっかり、しちゃってっ……!」

 

 ここにいるべきではないのだと、思う。

 生きているべきではないのだと、思う。

 天理は、誰かを殺すことでしか、自分の魂を確かめられないのだから。

 あの日、両親を殺したように。

 

「……そうだね」

 

 父は天理の頭から手を退かすことなく続けた。

 

「お前の本質。それは生けとし生きるモノ――この天上天下に在るすべてのモノと相容れない。息をするように死を求め、殺戮の中でこそお前は安寧を得る。だから僕たちは、お前の中にあるそれを封じてやろうとした」

 

 でも、と父は言葉を繋げた。

 

「思い上がりだったんだろうね。僕たちの」

「……え……?」

 

 父が離れ、今度は母が天理を抱き留めた。

 

「ごめんなさい。天理ちゃん」

 

 耳元で聞こえる声はどこまでも柔らかく、

 

「あなたが生まれ持った『それ』を。あなたの宿痾を。わたしたちは、否定しちゃいけなかったんだと思います」

「――」

「天理ちゃんのことを受け入れて、一緒に生きていこうって。押さえ付けるんじゃなくて、一緒に歩いていこうって。その方法を、一緒に探していこうって。こんなやり方じゃなくて、もっと、別の……」

 

 その声に小さく、涙が混じり始める。

 

「こんなことになる前に、そう言ってあげられたら……天理ちゃんも、苦しまなくて良かったのかもしれません」

 

 ぽんぽんと、優しく背を何度も叩かれた。

 

「ずっと、自分自身を殺してたんですよね。お母さんたちが、あなたを殺させてたんですよね」

 

 喉の奥から、声が漏れる。

 

 

 ――ずっとずっと昔から、『ここ』にいてはいけないような。そんな気がしていた。

 

 

 透明な、けれど分厚い膜の中で生きている。呼吸をするのもどこか息苦しくて、膜の向こうにある現実はなにもかもが曖昧だった。靴の上から足の裏を搔くのにも似て、どこかなにかがズレている。

 気付けば将来なんてどうでも良くなっていて、そこに繋がる今すら興味がなくて、両親がいなくなってからは過去を思い起こすことさえ苦痛だった。

 なにもかもが億劫だった。

 

「あなたに宿ったものがなんであれ。あなたの本質がなんであれ。天理ちゃんは、わたしたちの大切な娘です」

「、」

 

 楽しいことがないわけじゃないけれど。

 嬉しいことがないわけじゃないけれど。

 友達だって、頼れる大人の人だって、馴染み深い妖怪だっているけれど。

 そのどれもが、生きる理由にはならなくて。

 

「自分を怖がらないで。自分を赦してあげて。生まれてくるべきじゃなかったなんて、そんな風に、自分を踏みにじらないでください。……それはわたしを、お父さんを、名無ちゃんを、あなたと関わったすべての人を傷付けちゃうから」

「、」

 

 元々天理は、そういう風に生きるモノではないのだろう。

 だから、この手で両親を殺したのだろう。

 虚ろな生。

 罪悪感。

 その両方が、天理の世界を遠く霞ませていたのだと、思う。

 

「本質も魂も関係ない。あなたは自分の在り方を、自分で決めていけるはずだから」

 

 だから。

『ここ』にいてはいけないのだと――いるべきではないのだと、漠然と信じていた。

 

 抱き留められた視界に、母の顔は映らない。

 それでも母がどんな表情をしているのかは、見るまでもなく明らかで。

 ふと視線を移せば、微笑む父の姿があった。また移せば、名無のコバルトブルーの瞳と目線が交わる。

 

「天理さん。……やり直しましょう?」

 

 彼女もまた、笑っていた。

 仕方ないなあとばかりに眉を下げて、苦笑いとも微笑みとも取れない表情を浮かべている。

 

「わたしが、あなたのそばにいます」

 

 天理の底に空いた穴は、今もまだ、埋まることはない。

 自分が生きている理由なんて、今だってわからない。

 

「だから、大丈夫」

 

 どうしようもない虚ろばかりがある。

 もしかしたら、この闇が埋まる日は永遠に来ないのかもしれない。

 

 それでも、名無はふわりと笑って、

 

 

「――――あなたは、ここにいて良いんですよ」

 

 

 そよ風。

 世界が、澄んでいく。

 

 天理の中で膿んだほの暗いそれが、熱を帯びて瞳を覆う。

 込み上げたものをまぶたのふちに留めようとして、また、母が優しく背を叩く。

 

 何も元通りにはならない。

 二人の命は二度と還ることはない。

 失われたものが戻ることはない。

 天理の罪は変わらず在り続け、きっとこの闇をずっと抱えていくのだと思う。

 それでも(・・・・)

 

 意味もなく、価値もなく、ただ声をあげて泣いた。

 産声のように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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