戴天   作:灰汁

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十四話

 どれだけそうしていただろう。

 しばらくして、涙は自然と収まった。すんと鼻を鳴らして顔を上げると、母の明るい蒼の瞳と視線がぶつかる。長い髪の隙間から、空の天色がところどころ零れて降り注ぐ。

 

「天理ちゃんがこんなに長く泣いたのはいつぶりでしたっけね」

「もしかすると初めてかもしれないね。お前は、案外泣かない子だったから」

「……そうかな」

 

 記憶を辿ってみれば、たしかに両親の前で泣いたことはあまりない気がする。もっと言えば誰かの前で泣いた記憶自体がそれほどない。特別意識して我慢していたということはないが、父の言う通り『泣かない子』だったのだろう。

 感極まって泣くのは人間だけだと、どこかで聞いたことがある。

 もしかすると、昔の自分は泣けなかったのかもしれなかった。

 ふと、

 

「にやにや」

「……!」

 

 横合いからいじわるな声が飛んできて、天理は思わずハッとそちらへ目線をやった。

 なんとも言えない笑みを浮かべて名無が天理たちを見ている。擬音で表現するならまさしく『にやにや』以外に言葉がない。さらに付け加えるなら、自分でそう言いながら笑う人物も見たことがない。

 

「いやあーっ、良いものを見せていただきました」

「〜っ!?」

 

 泣くことが恥ずかしいと思っているわけではないけれど、そういう風に言われると、みるみるうちに頬へ熱が昇っていくのがわかった。

 

「か、からかわないでよっ」

「え〜? そんな、からかうだなんて人聞きの悪い。わたしはただ『良いなあ』って思っただけですとも。にやにや」

「じゃあその『にやにや』はなんなのっ!?」

「口癖です」

「絶対嘘!! あたし今初めて聞いたもん!!」

「そうやってなんでもかんでも疑ってかかるのは良くないと思いますっ!!」

「わかるよ!! 友達なんだから!!」

「へ、」

 

 名無はなんだかものすごく変な声を漏らした。

 引いているのか驚いているのか怒っているのか照れているのか、ともかくそれらすべてがごちゃ混ぜになったみたいな表情をしている。赤くなった頬を歪めて、へにょへにょと口を曲げて、

 

「……ほ、ほんと不意打ちの天才ですよね天理さん」

「なにが……?」

 

 意味がわからず母の方へ視線を戻すと、なにやらそちらでも苦笑いされた。解せない。

 

「――っ、と」

「名無ちゃん!?」

 

 立ちくらんだように名無が足をふらつかせ、思わず再度視線を向ける。額を押さえる名無の指の隙間、その肌に一筋の汗が伝っている。

 母の手からすり抜けるように立ち上がった天理へ、名無は黙ってもう片方の掌を向けた。その肩がかすかに上下している。不規則な揺れは呼吸が乱れている証だ。

 

「……大丈夫です。ただ、もうあんまり時間はないかも。すみません」

 

 青い瞳には疲労の色が濃く滲んでいる。名無の身になにかが起きていることを、ようやく天理は理解した。

 

「すまない、名無。随分と無茶をさせてしまったね」

「あはは、良いんですよ。わたしは、お二人が亡くなる前に、たくさんお話をさせてもらいましたから。こうして会えただけで良かったです」

「ど……どういうこと?」

「ここは天理ちゃんの心の中ですけど、こうして皆でお話するために名無ちゃんの力を使わせてもらってたんです」

 

 答えたのは母だった。

 

「お母さんたちは死人ですからね。本当なら、こうしてお話ができる機会はほとんどありません」

 

 にわかに息を飲み、すぐに歯噛みする。

 当たり前の話だ。死者である二人と直接話すなどという事象を、なんの代償もなく引き起こせるはずがない。目を凝らせば名無の霊力が目に見えて薄くなっていることがわかった。

 普段の天理ならばすぐに気付けたはずだが、それだけ動揺していたのもあるだろう。

 だがなにより、名無がこの瞬間に至るまで自身の消耗をおくびにも出さなかったことも大きい。

 その理由も、天理には、よくわかっていた。

 

「【魔界転生】自体負担のかかる忍法ですからね……あの隠忍はふっつーに使ってましたけど。そこはわたしとあいつの忍者としての実力差ということで」

「……っ、」

「気にしないでください。このときのためだけに身につけた忍法です」

 

 名無は、心なしか少し暗くなった目元で三日月を描いた。

 

「話したいこと。言いたいこと。伝えたいこと。全部、出し切っちゃってください。そのためにわたしがいるんですからっ」

 

 ――たぶん。

 これが、正真正銘の『最期』なのだろうと思う。

 天理と二人の縁は、半年前のあの日以降、本来ならば二度と繋がることはなかったはずだ。それを名無たちが、世の理を覆してまで繋げてくれた。

 

「と、いうわけで……わたしは一足先に現実へ戻りますね! 結界が綻び始めたとなれば、外のあの二人もそろそろなにか仕掛けてくるでしょう。まあ時間稼ぎくらいはできると思います!」

 

 手のひらに爪が食い込む。

 ――そんな名無たちに、天理は何をしてあげられただろう?

 何もしていない。何も返せていない。今さらになって、天理はずっと自分のことしか考えていなかった事実に気付いた。

 己の中に抱えた虚無だけを見ていた。

 周りなんて、なにも見えていなかった。

 

「……そっか。行っちゃうんですね、名無ちゃん」

「やだなー、わたしとのお別れは前に済ませたじゃないですかっ。限りある時間です、一秒でも長く天理さんのために使ってあげてください」

 

 これでも名無とはもう二ヶ月ほどの付き合いになる。強がりだということはすぐにわかった。

 別れを済ませたというのも嘘ではないのだろう。だからといって二人に甘えたい気持ちがないわけがない。取り戻した記憶が正しければ、二人は彼女にとっても親代わりのようなもののはずだったのだ。

 二人の生前も、本当ならばもっと忍花屋敷へ訪れたかったはずだ。

 天理を案じて自重していただけで、名無だってもっと。

 

「名無」

「はい?」

 

 立ち上がった父が小さく笑い、今度は名無の頭に手を置いた。

 

「わぷっ、」

「――ありがとうね。お前ももう、僕たちにとっては娘みたいなものだ」

「…………、」

「あっそれじゃあわたしも! ほらお父さん、どいてくださいどいてください!」

「はいはい」

 

 びしっと挙手した母が、苦笑いの父に代わって、名無の体を抱きしめた。

 ちょうど、天理にやったように。

 

「えへへ。……名無ちゃんとも、いっぱいこうしてたかったな」

「………………ふぇ、」

 

 名無の顔が真っ赤になった。その目元がうるうると潤み出したのは、ともすれば天理のときよりもずっと早くて、それを隠すように名無はするりと母の手を抜け、後ろを向いた。

 

「…………あ、ありが……ありがとう、ございます。で、でもっ……わたし、は。わたしは、泣かないって決めてるのでぇ……」

 

 天理たちに背を向けたまま、

 

「――な……泣かないって……き、決めてっ……決めてた、のにぃっ……!! ずる、ずるいですよぉ〜っ……!!」

 

 すぐに取り繕いようもないほど、ぐずぐずでずびずびの声をあげた。

 

「名無、」

「もう禁止! 禁止です! 喋りません!!」

 

 涙声で名無は言った。

 

「天理さん! なるべく早く来てくださいね!!」

 

 言葉すべてに濁音が付いていそうな声だった。それでも名無は、天理に少しでも多くの時間をくれようとしているのだとわかった。

 

「……うん。ありがとう、名無ちゃん」

 

 名無が目元を腕で拭って、首だけで振り返る。

 

「そ、それじゃあ……それじゃあっ、」

 

 真っ赤な鼻と目元で、それでも懸命に笑顔を浮かべようとして、

 

「――ありがとうございましたっ。『お父さん』、『お母さん』!」

 

 言い残し、名無は瞬きのうちにふっと姿を消した。こつ然とその場から消え失せ、もはや気配すら感じられない。

 両親の返事を待つことなく。迷いも情けも、振り払うように。

 そよ風。やがてくつくつと、父が喉奥から笑みを絞った。

 

「頼りになるお姉ちゃんができたじゃないか、天理」

「ふふっ。そうですね……いやもしかしたら妹かもしれません。わたしはどっちでも素晴らしいと思いますが!!」

 

 天理も、小さく微笑む。

 

「……あたしにはもったいないね」

 

 そっと胸に手を当てる。

 いっぱいお礼をしよう、と思う。

 帰ったら、きっと名無の好きな食べ物をたくさん作ろう。学校に行っていない彼女のために、いろんな話をしよう。昼間は一緒にいられないから、せめて夜だけでも共に町を歩こう。

 またいつか、遊びに行こう。

 だから、そのためにも。

 

「お父さん。お母さん」

 

 二人に向き直る。その背を押すようにそよ風が吹き、またどこからか桜の花が寄り添ってくる。

 ほの暗い焔が胸の向こうで脈打っている。小さく、けれどたしかに、魂の音がする。

 

「あたしね。やっぱりまだ、わからないんだ」

 

 是非もなく、この鼓動は鳴り響く。

 天理の意志に関わらず。

 

「なんであたしなんかのために、って。なんであたしなんかが生きてるんだろう、って。代わりにあたしが死ねば良かったのに、って。……今も、心のどこかで思ってる」

 

 それは嘘偽りのない天理の本音だった。

 

「もしかしたら、ずっとわからないのかもしれない」

 

 ぎゅっと、胸へ当てた手に力を込める。

 

「――でも。お父さんが、お母さんが、名無ちゃんが。生きてて良いって、言ってくれた。生きてほしいって、祈ってくれた」

 

 両親はただ、天理を静かに見ている。

 

「だから。ずっとわからなくても、ずっと自分のことが嫌いなままでも……それでも、わかりたいなって思う」

 

 両親が命を賭して守ってくれたこの鼓動に。

 名無が命を懸けて繋げてくれたこの灯火に。

 せめて少しでも、意味を見つけていきたい。

 息を継ぐ。またゆっくりと口を開く。

 もうひとりの自分が、咄嗟にその口を閉じようとする。

 ――こんなことを言う資格が、自分にあるのだろうか。

 ――自分に、そんな価値があるのか。

 ――自分は本当に、生きていて良いのか。

 背に粘り着くためらいは、しかし一瞬だった。

 

「二人みたいになりたい。名無ちゃんみたいになりたい」

 

 踏み出すように。

 歩き出すように。

 たどたどしく、言葉を繋げる。

 

「苦しんでる誰かのそばで、『大丈夫だよ』って言ってあげられるひとになりたい」

 

 生まれるべきではなかったのだろう。

 生きているべきではなかったのだろう。

 それでも。

 

「あたしは、あたしなんだって。上手くできるかわからないけど……でも。でも、ちょっとだけ、信じてみたい」

 

 それでも――。

 

「……生きて、たいんだ……」

 

 心から、想う。

 自分でもなにを言いたいのかはあんまりハッキリとはしていないけれど、それだけは、確かだった。

 返ってきたのは、

 

「大丈夫」

 

 子守唄みたいな父の言葉だった。

 

「きっと、大丈夫さ。お前なら」

 

 くしゃりと、頭を撫でられる。

 やがて手が離れると、母がにっこりとその顔を綻ばせた。

 

「やっと言えますね。――お誕生日おめでとう、天理ちゃん」

「あ……」

 

 そっか、と言葉が零れる。

 

「その制服も、よく似合ってます」

「そういえばそうだったねえ。もうランドセルは卒業か」

 

 続く父の言葉はしみじみとしていて、これではなんだかお父さんというよりおじいちゃんである。おかしくて、思わずくすっと微笑みが漏れた。

 

「……ありがとう。そうだよ。あたし、中学生になるんだよ」

 

 自分の言葉もちょっとだけおかしかった。ほんのさっきまでは、中学生になるなんて天理自身にすらまったく想像できていなかったのに。

 

「時間の流れは早いね」

「それはまあ、お父さんからしたら人間の成長なんてあっという間でしょう。これから天理ちゃんは高校生になって、大学生になって、大人になって、もしかしたらすてきなひとを見つけて……」

 

 そこまで言ってから、母は「はっ」となにかひどく深刻な表情になって天理の肩を掴んだ。

 

「……だ、ダメですよ天理ちゃんっ。連れ添う人はちゃんと選ばないとダメなんですからね!! 変な人だったらお母さん許しませんよっ!?」

「ちょっと待て気のせいじゃなければ今『変な人』って言ったところで僕を見なかったかい?」

「え、ええと……今はそういうのあんまり興味ないから」

「天理ちゃんが興味なくても周りの男の子はそうじゃないです!! いや今の時代は女の子かもしれません!! わたしがいた鞍馬神流は血筋とか跡継ぎとかめちゃくちゃうるさい流派なのでアレですが聞いたことはあります!!」

 

 天理は目を丸くした。

 

「あたしをそういう意味で好きな子なんかいないと思うよ?」

「かあーっ聞きましたかお父さん!! 普通わたしたちがこれだけ普段から可愛い可愛いって言ってたら多少自覚みたいなもの生まれませんかね!? 親の贔屓目抜きにしてもかなりレベル高いのに!!」

「……ああ、うん。妖狐はそんなものだよ」

「お父さんも女性人気めっちゃ高かったですもんね!!」

「それこそ強い血が目的の奴も含めて、君を狙ってる連中は多かったけどなあ……。君のそういう性格を継いじゃったんじゃないのかね」

 

 どことなく憮然とした声音で父は言った。絶妙にどうでも良さそうというか、少しだけ拗ねている。

 

「だ、大丈夫だよ、お父さん。あたし、お父さんを変な人だって思ったことあんまりないから」

「多少はあるんだね」

 

 つと目を逸らした。

 父が苦く表情を解く。

 

「何、まあ、妖なんてそのくらいがちょうど良いさ。だからお母さんはこう言っているけれど、」

「――そ、そう言えば比良坂機関には女性同士で子を成す術が伝わっているという噂があったような……!! 本当に気を付けなきゃダメですよっ。女の子だからって油断しちゃいけませんからねっ!」

「……あまり気にしなくて良い」

 

 こういうのってお父さんがものすごく怒ってお母さんは応援してくれるパターンじゃないんだ。

 

「まあそういう話になったとして、万が一お前を不幸にするような奴だったら祟り殺すから安心しなさい」

 

 訂正。どっちも怖かった。

 

「い、今からでも他人との距離感について教え直し……いやでも誰にでも優しいのが天理ちゃんの良いところでもあり……そもそもわたしたちみたいな古い忍びの価値観を押し付けるのは毒親というやつなのではっ……わたしは天理ちゃんの幸せを願っているのであって天理ちゃんをわたしたちのエゴに巻き込むわけには……うごごごっ……!?」

「お母さんがあんな感じなのは大目に見てあげてくれ」

 

 なんでもないことのように父は続けた。

 

「これからはもう、言ってあげられないからね。世話を焼くことも、心配することも、叱ってあげることも、褒めてあげることも。……僕たちには、どれももうできないことだ」

「……、」

 

 息を呑む。

 

「お母さんほどとやかくは言わないけど、僕も心配だよ。お前はいろんな意味で無防備すぎる。色恋沙汰に限った話じゃないよ。それはお前の美点だけれど、いつかお前を傷付ける時もあるかもしれない。僕たちは何より、お前に幸せに生きていてほしいんだ」

 

 天理にはあまり自覚がないのだが、名無にも同じことを言われている。皆が口を揃えるからには、きっと本当にそうなのだろう。

 

「忘れちゃダメだよ。お前を愛しているひとはちゃんといるということを」

「……うん。はいっ」

「良い返事だ」

 

 父は狐面の向こうでにっこりと笑った。

 

「――あーっそうです!! 思い出しました!! 大切なことを忘れるところでした!!」

 

 藪から棒に母が叫んだ。天理と父が目を丸くしている間に、こっちへ走り寄って背へ回る。首だけで振り返ってもなにをしているのかは窺えない。

 

「お、お母さん?」

「そのまま動かないでくださいねっ。あ、ちょっと腕を上げて……はいっ」

 

 ふわりと、微かに母の香りがした。柔らかい何かが体を包む。腕を上げると、

 

「……羽織?」

 

 淡く羽織の袖が舞う。母がずっと着物の上から羽織っていたものだ。(ゆるし)色の地に白く象られた桜の意匠は、天理もよく見慣れたものだった。

 

「本当はもう少し大人になってから渡そうと思ってたんですけど……せっかくなので、今のうちに。お母さんから天理ちゃんへの誕生日プレゼント!」

「おや。それじゃあ僕もせっかくだし」

 

 今度は父がゆるりとマフラーを解いた。深い緋色のそれを、母とは対照的に向き合ったまま天理の首に巻いてくれる。

 

「あーっ! 真似しないでくださいよぅ!?」

「このくらい良いだろう僕だってまだまだ天理にやってあげたいことあったんだから!」

 

 珍しく父が声を荒らげる――と言ってもやいのやいのとまるで子どもの喧嘩みたいだったけれど、自分を挟んで言い合うのはちょっとやめてほしい――のを横目に、天理は自分の首を抱くマフラーにそっと手をやる。

 温かい。羽織とマフラーから伝わってくるほわほわとした熱に、天理は顔を綻ばせた。

 

「……ありがとう。お父さん、お母さん」

 

 上手く笑えているだろうかと、少しだけ不安になる。

 二人は口にしないけれど。

 きっとこれは、『形見』だ。

 二度と会うことができない両親からの、最期の餞別。

 

「大事にするね」

 

 再びじわりと目元から熱がせり上がりそうになって、天理はぐっと堪えた。

 

「ふふ。それをお母さんたちだと思って、」

「ああ、どっちも霊的なものだから大丈夫だよ。気合いを入れたら勝手に直る」

「気合いを」

 

 思わずオウム返しする。涙がちょっと引っ込んだ。

 

「お、お洗濯とかは」

「イケる。気合いで」

「気合いで……」

「せっかくの雰囲気なのに天理ちゃんもお父さんも身も蓋もない話するのやめてくれますっ!?」

「で、でもほら……お手入れの話は大事かなって……。あたし、名無ちゃんが来るまではほとんど一人暮らしみたいになっちゃってたし」

「いやたしかに大事ですけども!! 今この流れでしなくて良いじゃないですかっ!?」

「同じように気合いを入れたら出てくるし、気合いを抜いたら消える」

「えっじゃあこれ場所の問題もないの!?」

「なんとその辺りは全部気合いでイケる」

「わあ……! 気合い、すごい……!!」

「せめて気合い以外の語彙力付けてくださいよ! 下手な昼間のテレビショッピングみたいになってるじゃないですかっ!?」

「なんと今ならこんなものまで付いてくるよ」

 

 悪ノリした父が母に目配せをして、

 

「ほら、お母さん。アレ」

「……はあっ!? えっ、この流れで渡すんですか!?」

「あんまり時間もないしねえ」

「変なやり取りで時間浪費したのそっちですよねっ!?」

 

 久しぶりに夫婦漫才を見た気がする。懐かしさに和んでいるとその視線に気付いたのか、母が赤面と共に咳払いをした。

 まったくもう、と不満げな様子で唇を尖らせ、天理の正面へ回り込む。

 母が腰に手をやると、父も同じタイミングで懐から『それ』を取り出した。

 

「天理ちゃん。手を出してくれますか?」

 

 言われるがままに両手を差し出す。その手のひらにずっしりとした重みが伝わる。

 二人が同時に、『それ』を天理の手のひらに置いていた。

 ぎょっとする。

 

「これって――」

「どう使うかは、天理ちゃん次第です」

 

 載せられた『それ』は、二振り。

 刀である。父が脇差、母が本差、合わせて大小を天理へ差し出していた。

 

「僕たちの得物だ。お前に託す」

「抜けば、使い方はわかるはずです。お母さんたちの血が――天理ちゃんの魂が、きっと教えてくれる」

 

 どちらも、素人の天理ですらひと目でそうとわかるしっかりとした拵えだった。重みからして模造刀の類でもない。紛れもない真剣だろう。

 抜かずともわかる。本能的に理解する。

 軽々しく表現することすらはばかられるほどの、夥しい血を吸った刀だと。

 当然と言えば当然だが、生まれてこの方武器など握ったことがない。特に武芸の類をやっていたわけでもない天理にとって、真剣は見ることすら初めての代物だった。

 だがそれでも、母の言う通り、鞘の感触はひどく懐かしさすら感じるようだった。

 羽織には刀を差すための帯があった。制服に上手く巻き付けて、受け取った刀をそこへ差す。力みはなかった。手に、よく馴染む。生まれた頃からずっと持っていたような、体の一部であるかのような気さえする。

 

「うん。様になってます」

 

 にっこりと笑って、母がぱちぱちと拍手した。父はなにも言わなかったが、やはりその顔には微笑が浮かんでいる。

 

「その刀は、お前自身だよ。天理」

 

 父が、言った。

 

「それは斬るためのものだ。殺すための武器だ。別つための刃だ。だけどその力を、誰かを守るために使うこともできる。誰かと生きていくために振るうことも。誰かを繋ぐために斬ることだってできるさ。僕たちが、お前によって結ばれたように」

「……うん」

「それを決めるのは誰でもありません。天理ちゃんの『心』です」

 

 ――父も母も、ついぞ天理の中に在るものを語ることはなかった。

 その理由も、意味も、今の天理にはよくわかっている。

 

「さて。そろそろお別れだ」

 

 最後にひとつ、狐面の向こうから父が優しい声をこぼした。

 

「目を覚ませば、お前はきっと現実にいる。だけど今のお前なら、大丈夫」

「……もう、会えないの?」

「ううん。お母さんとお父さんは、ずっと天理ちゃんのそばにいます」

 

 母の声は、木漏れ日みたいに穏やかだった。

 

「ですよねっ。お父さん」

「……ああ。ずっと、一緒だ」

 

 最後に二人はそう言って天理を抱きしめると、背後へと振り向かせた。

 視界の果てまで、天色の世界が続いている。桜の花びらが見果てぬ先まで待っていて、二人の姿が視界に入ることはない。

 それでも。

 背に、二人の熱を感じた。

 見守るような。優しく背を押してくれるような。

 そんな、熱を。

 ――なんとなく、わかった。これが最後のやり取りになるのだと。

 首だけで振り返る。

 

「お父さん。お母さん、」

 

 なにを言うべきか。

 なにを言ったら良いのか。

 考えているうちに、目の淵から熱がこぼれそうになる。

 慌てて、天理はそれを親指で拭った。

 だって。

 最後だ。

 最後なんだ。

 だったらもう、泣いちゃダメだ。

 

 そう思った途端、不思議と天理は笑っていた。

 最後に向ける表情は、きっとなによりこれがいちばんだと思った。

 だから、もう。

 迷わなかった。

 息を、吸って、

 

 

「――行ってきます!」

 

 

 二人も笑って、

 

 

「――行ってらっしゃい」

 

 

 声が重なる。

 前を、向く。

 

 桜の花びらが頬をかすめていく。

 振り返らなかった。

 

 一歩。

 踏み出し、

 

 

 そこは闇の中だった。

 

 背後に桜の樹がある。だが咲き誇る桜は血のように紅く、死臭すら漂ってくるのではないかと錯覚させる。

 そばには誰もいなかった。

 天理ひとりだ。

 顔を上げる。

 暗闇の中に、『それ』はいた。

 

 ――強いて言うならば、見上げるほど巨大な狐と表現できなくもない。

 

 だが『それ』に首から上はなかった。首の断面からは赤い焔のような妖気が迸り、二筋の流星を描いて後方へとたゆたっている。

 漆黒の毛には無数の傷跡が刻まれ、そのどれもが淡い桜色に発光している。一定の間隔で傷跡がうっすらと輝き、闇に蠢いた。

 四つの尻尾は天理のそれと違い、さながら霧のように実体なく広がっていた。無数の巨大な目が浮かんでいる。ぎょろぎょろと闇を睨めつけているが、そのいずれもが天理を見てはいない。

 それでも、天理は見られていると思った。

 見つめあっているのだと、理解できた。

 多分、生まれて、初めて。

 

「ごめんね」

 

 一歩、踏み出す。

 ずっと一緒だったはずなのに。天理は一度たりとも、『それ』と向き合ってくることをしなかった。

 蓋をされた『それ』を、無視し続けてきた。

 

 ――天理の全身に、無数の赤い線が走った。

 

 一瞬遅れて、文字通り神経を貫く痛みが走る。皮膚を破り、肉を裂き、骨を断つそれが、夥しい数の斬撃であると気付いたのは直後だった。

 頭からつま先までを隙間なく覆う無数の剣閃。内臓がこぼれ落ちるような感覚。間違いなく命へ至る痛みの中で歯を食い縛る。

 半妖の頑健な体といえ、痛覚は人のそれとなんら変わらない。叫び出したくなるほどの激痛が襲う。噛み締めた歯が砕けそうだった。

 

「――あなたの方が、もっと痛かったよね」

 

 倒れ込むように、また、足を踏み出す。

 体を千に刻む斬撃が、絶え間なく天理に浴びせ続けられる。

 気付けば視界の左半分が赤く歪み、とうとう映らなくなった。のたうち回るほどの痛みが、左目を潰されたのだと伝えてくれる。

 それでも、天理は歩みを止めなかった。

 

「寂しかったよね」

 

 右腕を伸ばす。伸ばした先から、斬撃が腕を撫でる。指がちぎれ飛ぶ。手首が落ちる。構わなかった。拒絶するような斬撃の嵐の中で、それでも天理は止まらない。

 やがてたどり着いた『それ』の胸に、左腕だけで抱きつく。

 

「もう、大丈夫だよ」

 

 己の血と肉だったものが散らばる暗闇の中で、天理は、笑った。

 いつの間にか、斬撃は止んでいた。

 

あたし(あなた)は、あたしだ」

 

 首のない『それ』が、吼えた。

 体に熱が灯る。

 知覚すらしていなかった寒さが、消えていく。

 

「いこう」

 

 力が満ちていく。

 目覚める。

 笑う。

 

「いっしょに」

 

 俱に。

 天を、戴く。

 

 世界が、紅く弾けた。

 

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