戴天   作:灰汁

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やや短めです!


十五話

 跳べば届くほどの高さで、青白く燃える火の玉が二つ目の月となって境内の中心に浮かんでいた。

 大の大人を十何人は飲み込んで余りあるであろうその輝きは、月よりもむしろ太陽を思わせる。

 

 ――名無が放った【魔界転生】は、未だなお青の鬼火となって中空にあった。

 

 朝焼けに似て夜を照らす鬼火の直下で火花が散った。甲高い金属音が弾ける。蒼光の下に、突如として鍔迫り合う二つの人影が浮かび上がった。

 かたや逆手に苦無を構えた少女。かたや近未来的な意匠の刀を携えた機械。

 名無と、機忍だった。

 

「っ、つぅ……!」

 

 互角の鍔迫り合い――と呼ぶには分が悪い。太刀ほどの長さのある機刀の振り下ろしに対して、逆手の苦無では不利も見え透いている。

 常人には遥かに勝るといえ、忍びの中で特別膂力に優れるでもない名無では、その一閃を返すことは不可能だった。

 名無の矮躯が弾き飛ばされる。空中で翻ると、石畳に苦無を楔のように突き刺した。火花が一筋の光と散る。勢いを充分に減じたところで、名無は膝を突いて低く構え直した。

 派手に弾かれたが、見た目ほど威力があるわけではない。半ば以上は名無が自分から飛んだのだ。返せないと理解するや否や、威力と衝撃を少しでも軽減するべく体を動かした結果だった。

 とは、いえ。

 

「(間合いの長さはそうでもないけど、速さはわたしより一段上。ただの機忍じゃない、戦闘用に調整されてるな……)」

 

 認めざるを得ない。接近戦では完全に上を行かれている。

 ――実のところ、自分は割と忍者の才能がある方だと思っていた。

 自惚れではないはずである。忍者の戦闘、その基本である高速機動戦にも一通りは対応できているし、忍法もきちんと使えている。基礎は何の問題もなく、それどころか今は奥義の感覚すら掴んでいるのだ。

 本来十二、三歳の忍びなど、高速機動は精々音速を超えるか超えないか止まりであり、忍法の使用とておぼつかない。いわんや奥義など夢のまた夢のさらに夢だ。

 だから同年代の忍びに比べて、名無が遥か高みに位置しているのは間違いない事実ではある。

 それでも。

 

「(真正面からの戦闘は不利か)」

「――すげえよ、お前さん。次から次へと驚かせてくれるわ、ホントに」

 

 声は、機忍のさらに向こう、鳥居にほど近い場所から聞こえた。

 青の光に照らされ、きめ細かな龍の鱗が浮かび上がる。

 神樹さながらに佇む雄角の影から、金色の瞳が覗く。月明かりすら道を開ける輝きは、蛇に睨まれた蛙の心情を嫌というほど名無に味合わせた。

 声の主――龍頭は、だが素直な仕草で顎をゆっくりと撫でる。

 

「天晴れ見事、ってやつだ。まさか【反魂】なんて切り札を隠し持ってるとはなあ」

 

 言葉を返そうとした途端、口の中に錆びた鉄のような味が広がる。唾を吐き出すと血が混じっていた。

 

「余裕ぶるじゃないですか」

「感心してるんだよ。【反魂】と【魔界転生】で枠を食っといてよく戦うぜ」

 

 行使できる忍法の数や練度は当然そのまま忍者の力量と直結する。その点を踏まえた総合性能の話なら、機忍に対してこちらに軍配が上がる。恐らく倍程度の力量差はあるだろう。

 にも関わらず、総合力で遥かに劣るはずの機忍に苦戦を強いられている理由はふたつあった。

 ひとつに、名無が使用した【魔界転生】【反魂】はどちらも戦闘用の忍法ではない。

 逆に機忍たちは、その性能をすべて戦闘用の忍法行使に割り振っている。

 つぎ込んだリソースの差が性能差を埋め、あまつさえ上回られているのだ。

 龍頭の『枠を食う』とは、そういう意味だった。

 

「(くそ。同じ相手と戦ってるはずなのに)」

 

 だが本当に名無が舌を巻く思いなのは、

 

「(天理さんはどうやってこんなのを倒したんだ……!?)」

 

 機忍よりも、それを難なく一蹴した天理の方だった。

 瞬殺、という表現が正しいのだと思う。名無では随分と手こずらされる相手を、天理はたった一撃で撃破している――潜在能力をほとんど解き放っていない状態にも関わらず。

 

「お嬢ちゃんのことなら、比べない方が良いと思うぜ」

 

 名無の思考を読んだように、龍頭は苦笑した。

 

「あの嬢ちゃんが使っている力は特別だ。タダの異能とは出力も危険度もまるで違う」

「……『妖魔忍法』ですか」

「その通り」

 

 名無の言葉に反応してか、突如として機忍から機械音声が流れ始める。

 

『――妖魔忍法。忍者が受け継いできた忍法とはまったく異なる体系の業。妖魔のみが持つ異能であり、その術理は未だほとんどが謎に包まれています。唯一確かなのは、通常の忍法を遥かに上回る力を持つということです』

「うおっ、なんだなんだ。急に喋るじゃんこの機忍」

『""""自律型機械忍』

「だーっわかったわかった! そのくだり昼やったから!! 今そういう雰囲気じゃねえからちょっと黙っててくんない!?」

「……。あの、戦ってる最中にいきなり漫才始めるのやめてくれません? ものすごく反応に困るんですけど」

「このポンコツに言ってくれよ! おれだって困るわ!」

 

「ったくよ」とぶつくさ文句を垂れたのち、仕切り直すように龍頭はひとつ咳払いをした。

 

「まあ……要するにだ。妖魔忍法ってのは敵NPC専用データみたいなもんでな、普通の忍者が使うことは基本的にできん。厄介なことに、これがまあとんでもねえ力を持ってるんだわ。通常の忍法では考えられない次元の出力と危険度がある」

 

 妖魔は、たとえ低級であろうと脅威度では並の忍びを凌駕する。総合力では下忍とそう変わることはないが、妖魔忍法こそがその危険度を跳ね上げているのだ。

 逆を言えばそれが妖魔忍法と呼ばれる力の脅威を証明している。

 彼女が十歳の時に遭遇したという野良妖魔は、恐らくこの機忍以上の強さだっただろう。

 

「お嬢ちゃんの力はその中でも極みつきだ。邪悪にして致命的、凶悪にして破滅的。安っぽい言い方をすりゃ、いわゆるチート(・・・)ってやつさ」

「……そこまでわかるんですか?」

「能力の詳細まではわからんがね。ただ、あそこまで禍々しい力を持った奴はあんまり記憶にない」

 

 龍頭がそう評するとなればよほどのことに相違なかった。

 

「難儀だよな」

 

 彼の声は、同情するような色を帯びていた。

 

「才能と呼ぶにゃ血塗られ過ぎてる。本来なら殺しの果てにたどり着く領域だ。こんな時代に、こんな世に、なんてモンを持って生まれちまったんだかな」

 

 龍頭の言わんとするところは、よく理解できた。

 望まぬ才は呪いとなる。ましてや今の天理は、身に染みてわかっているだろう。

 ――内心で頭を振る。やはり、ないものをねだっても仕方がない。

 

「ま、だからおれたちがここにいる。どれ、退いてはくれんかな。名無」

「それはできない相談ですね」

「おれはお前さんまで殺したくはねえ」

「だったらそっちが退いてはどうです?」

「うーん。正直ここまでやられちまったら、おれ個人としてはそれでも良い気がするんだが」

 

 龍頭がつと己の真横に視線をやる。案の定、そこから返ってきたのは硬い声だった。

 

「ならん」

「……ジジイがこう言ってるからよ」

 

 やれやれとばかりに龍頭は苦笑した。

 ――底が知れないと、思う。

 潜り抜けてきた修羅場の数が、きっと根本的に違うのだろう。

 

 その両脇に二つの人影が降りる。大地がかすかに揺れたのではないかとすら思う衝撃と共に現れたのは、眼前のそれと同型の機忍二体だった。

 

 絶望とか、恐怖だとか、そういう感覚は多分なかったと思う。

 ただ、腑に落ちると表現するのも変だけど、納得があった。

 自分は、ここで、死ぬのだろう。

 

 一機ですら名無の手には余る機忍だ。それが三機となれば、もはや勝負の行く末は決まったも同然だった。

 いや。あるいははじめから、こうなることは間違いなかった。

 名無より遥かに格上の相手が二人もいて、そいつらがさらに機忍まで従えている。斜歯忍軍の連中まで干渉してくるのは予想外と言えば予想外だったが、とはいえ彼らの介入がなくとも元より名無に勝ち目などあるはずもない。

 だから最初から、そのつもりで動いていたはずだ。

 すべてを理解した上で、それでも天理を生かすと決めたはずだ。

 なにもかもわかっていたはずだ。

 生きて帰れないことくらい。

 

 ――なのに。

 

「……はっ」

 

 上等だと、思った。

 強がりでもなんでもなく、心の底から。

 

「やってみてくださいよ」

 

 天理はまだ、帰ってこない。

 それで良い。

 あの二人と話す時間が。自分と向き合う時間が。きっと、彼女には必要なのだ。

 ならば名無の役割は、その時間を稼ぐことにある。

 やるべきことは、なにひとつとして変わっていない。

 

「わかんねーな。どうしてそうも死に急ぐ?」

 

 龍頭がもう一度ため息を吐いた。

 会話で時を稼げるなら悪くない。どのみち真正面から戦うだけでは長くはもたないだろう。

 

「わたしは、一度死んだ身ですから」

「だから惜しくねーってか? そいつは違うだろう。あの二人が聞いたら、面白くは思わねえ」

 

 龍頭と二人の関係は名無もよくは知らないが、それなりに長い付き合いではあるらしい。ともすれば名無よりもあの二人については詳しいのかもしれなかった。

 だからなのだろう。彼が、二人と同じことを言うのは。

 喉の奥から苦笑いをこぼす。相変わらず人間くさいことを言う隠忍だと思った。

 緩く息を吐いて、

 

「――惜しいですよ」

 

 膝を押し込むようにして体重をかけ、ゆっくりと立ち上がる。

 

「やりたいことも。行ってみたい場所も。一緒にいたい人も。今は、いっぱいあります」

「だったら、」

「だから。わたしは本当の意味で、命を賭けられるんです」

 

 ――惜しむほどに、自分は、存外楽しく生きていたのだと。

 二人と話して、気付いた。

 

「昔はいつ死んでも良かった。忍びなら当然の覚悟だって思ってました。でもそれは、自分のことがどうでも良かっただけなんでしょうね」

 

 なんのことはない。

 自分の命に向き合っていなかったという、ただそれだけだ。空っぽの器に、覚悟というそれらしい言葉を貼り付けていただけだ。

 天理のことを言えたものかと、我ながら笑ってしまうくらいだけれど。

 

「今は違う。自分の命が惜しいです。生きてたい。もっともっと、いろんなことをしたい。拾ってもらった命だからこそ、今度はちゃんと生きたい」

 

 そう思えるほどに。

 いつしか自分は、自分の生に価値を見出せるようになっていた。

 

「その上でわたしは、ここにいることを選びました。その意味だって、今はわかってるつもりです」

 

 だからやっと、理解できたのだ。

 そんな大切な命を『賭ける』ことの意味を。

 

「さっき、あの二人に会ってきたんです。信じても信じなくても結構ですけどね」

「あいつらに?」

 

 龍頭はそう言って天を仰いだ。天に浮かぶ青い巨炎を見据える。その龍の顔には人のような表情は浮かばないが、少なくとも声音に動揺はない。

 ふむ、と細い髭が揺らめく。

 

「そうか。そういう感じか。『お嬢ちゃんの中にいた』わけだ」

理解が早くて助かります(なんでわかるんですかキショいですね)

「なあ、今言ってることと思ってることが逆になってなかった?」

 

 ひと目で術理とか詳細を見抜いてくるのは怖いを通り越してキモいのである。

 

「……そんで? なんて言われたよ?」

「めちゃくちゃ怒られました」

 

 ワッハッハ、と呵々大笑が響き渡る。

 

「死ぬ前提のやり方と、死を視野に入れることは違う……らしいです」

「なるほど、いかにもあいつらが言いそうだ」

「でもそんな風に言われたら、がんばっちゃうしかないじゃないですか」

 

 同じように、名無も牙を剥き、

 

「『死に急ぐ』なんて随分失礼な言いざまです。わたしは死ぬ気なんてさらさらないんですから」

「彼我の戦力差すら解さんか、名無」

「舐めるなって言ってるんだよ、老いぼれ」

 

 構える。

 

「今の(わたし)の命。あの時ほど安くはない」

 

 老爺の言葉は嘲りでもなんでもない。九割九分か、それ以上の確率で名無は敗れるだろう。以前の自分ならば、生存など端から視野に入れていなかったに違いない。死を前提として、どれだけ相手に痛手を与え、あるいは時間を稼ぐかを考えていたはずだ。

 だけど、たった一分(いちぶ)でも。気が遠くなるほど小さな可能性でも。

 今は、それに、賭けてみたい。

 

「なにがなんでも、天理さんの邪魔はさせねえよ」

「……そうかい」

 

 龍頭のため息、

 

「なら、これ以上の言葉も無粋ってやつだな」

「……ッ!」

 

 かがむ。わずかに遅れて、機忍の一太刀が顔のあった場所へ打ち込まれていた。

 冷や汗を浮かべる暇もない。

 残る二体の機忍がタイミングと位置をズラして襲いかかる。畳みかけるような下段と、回避先に『置かれた』中段。

 三倍に膨れ上がった手数。

 凌ぎ切れるか――。

 

「……やってやるよ!」

 

 名無は獰猛に笑って、地面を蹴った。

 その矮躯が稲妻のような速度で翔け飛ぶ。名無の速度は一瞬にして音速を超えていた。

 機忍たちの刀の隙間を縫うようにして身を飛ばす。植え込まれた木の幹に両足を付け、蹴る。再び音の速さで境内を飛び回れば、一瞬遅れて今度はその大木が両断されていた。

 一機目の機忍が同じく音速で追跡し、文字通り返す刀で名無を襲ったのだ。

 

 ――忍者の戦闘は、基本的に超高速戦闘の様相を呈する。

 

 風どころか音よりも速く駆けることのできる忍びにとって、この境内はあまりに狭い戦場だった。

 だが町の住民に被害を出したくない名無と、事を派手にしたくない龍頭たちの利害が一致する。結果として地面を、拝殿を、木を蹴って鋭角に境内を飛び回る名無と、それを追う機忍という構図ができあがった。

 わずか一秒の間に十度の交差を重ね、その度に火花が散る。

 常人ではその影すら捉えることができないであろう、忍者の高速機動戦である。

 本来音速を超えた物体は強烈な衝撃波を発する。未熟な忍びが高速機動の余波で周囲をめちゃくちゃにしてしまうことは珍しくない。だが腕の立つ忍びならばそのようなヘマはしない。衝撃波として放出されるはずのエネルギーすらをも異能の『コスト』とし、より高度な忍法や攻撃へ転化するのだ。

 四忍による機動戦闘。夜闇の境内に無数の剣戟音だけが響く。時折色の付いた風が吹いて、それこそが名無と機忍であると気付ける者は常人にはいないだろう。

 速さはそのまま時間の密度を凝縮し、わずか数秒にも満たぬうちに数多の攻防が煌めく。

 未だ致命傷は受けていない。

 しかし――。

 

 圧倒的な数的不利という、異能をもってしてなお覆しがたい重みが、徐々に牙を剥きつつあった。

 

「っつ……!」

 

 境内を飛び交う白銀の風に朱が混じる。名無の体にはもはや隠しえないほどの様々な傷が刻まれていた。

 単純計算で先程の三倍にもなる攻撃を受けている。回避を行いながら隙を見て反撃を試みてはいるが、それでも戦力差はいよいよ持って絶望的の一語に尽きた。

 

「(忍者でもこの出血はまずい……! さっさと数を減らさないと!)」

 

 長期戦に持ち込めばジリ貧だ。

 引き伸ばされた刹那の中、名無は迫り来る刃を躱して機忍の首へ苦無を突き刺した。硬い手応え。機能停止に迫る手傷を与えたことを確信する。

 だが喜んでいる暇はない。風が唸る。すぐそばに残る二機の機忍が迫ってきている。

 苦無を引き抜きながら、その場から離脱するべく機忍の亡骸を蹴って、

 

「――しまっ……!」

 

 一機落とした油断か。一機しか落とせていない焦りか。その両方か。

 蹴り方をしくじった。頭の中に描いていたイメージとはほんの少しだけ違う角度で名無の体が飛んでいく。わずか数度の違いは、だがこれだけの限界戦闘中は文字通りに致命的な隙となり得た。

 本能的に高速機動の制御へ移る。暴れ狂いそうになる体を必死に留め、膝をついて地面へ着地した。――もしこの場に常人がいたならば、何もない場所から突如傷だらけの名無が現れたように見えただろう。

 

「(逆凪(・・)だ……!)」

 

 それと同時に、名無の敗北が確定した。

 

 現実離れした高速機動こそが忍者の戦闘ではあるが、そこには当然リスクも存在する。超音速の世界では、わずかな軌道のズレや障害物の存在が命取りとなる。

 高速機動の制御、停止にすべてのリソースを注がなければならなくなった――『逆凪』と呼ばれる状態へ陥った名無の体は、ごくわずかな時間ではあるが完全に硬直していた。

 

 それは名無がもはや機忍たちの攻撃を回避できないことを意味している。

 逃れ得ぬ死を前にして、だが名無の思考はむしろ透き通るほどに冷静だった。

 

「(あー……クソ。やらかした)」

 

 ――こう言ってはなんだけれど。

 逆凪は、起こる時はどうやったって起こる。勝負は時の運と言う。忍びの世界でもそれは同じなのだった。

 

「(兵糧丸はもうない。この後どうにかできる忍具なんて持ってない)」

 

 元々勝ち目の薄い戦いであることはわかっていた。

 わかっていて、名無は賭けに出た。

 

「(奥義で再回復……無理だろうなあ。龍頭さんとクソジジイが動いてないのは、わたしがもう一度奥義を使ったときの妨害のためだろうし)」

 

 命を張った。

 賽を振ることを選んだ。

 その賭けに負けた。

 言ってしまえば、それだけの話で。

 

「(ダメだ。詰んだ)」

 

 眼前と背後から挟み撃ちにするように、二機の機忍が刃を振るう。

 これで向こうもなにかの拍子で逆凪になってくれれば、まだ命は拾えるのかもしれないが――。

 あいにく、その気配はまるでなかった。

 寸分違わず首を狙う斬撃は、なるほど逆凪状態の名無を確実に殺しに来ている。

 走馬灯などという洒落たものを見ることはなかったが、むしろそれで良かったとすら思う。大半はロクでもない記憶だ。

 そう考えると、やはり恐怖は浮かばない。

 絶望もない。

 ただ、

 

「……ああ、もう」

 

 どうしようもなく、惜しい。

 あの世で二人になんて言い訳しようか。

 せっかく。

 せっかく、天理さんと本当の意味で友達になれたのにな。

 ごめんなさい。

 最後まで、役に立てなくて。

 

「悔しいなあ」

 

 目を閉じる。

 二つの刃が名無の首に吸い込まれ、

 

 

 

「――ごめんね。遅くなっちゃった」

 

 

 

 

 ふわりと、桜の香りがした。

 

「……、え?」

 

 目を、開ける。

 ――視界いっぱいを埋め尽くすように、数え切れないほどの桜の花びらが舞っている。

 気付けば名無は星空の中にいた。逆巻く風の中、夜空に投げ出されている。いや、違う。誰かに抱かれている。

 桜と星屑とが交わる、丑三つの夜。淡い色の羽織がはためく。赤のマフラーがたなびいて月を覆う。

 そこで初めて名無は気付いた。【魔界転生】が解けている。役目を終えた結界の欠片が、無数の桜の花びらとなって夜に舞っているのだった。

 声がした方に、顔を、向ける。

 

「あ……」

 

 肩に届くか届かないかほどの、艶やかな黒髪。ほんの少しだけ癖を持ち、緩くウェーブを描くその髪は、束のひとつひとつが三日月のようだった。

 半分だけ被った狐の面は、名無にとってもよく見慣れたものである。

 抱かれた姿勢のまま、その真紅の瞳と視線がぶつかる。

 

「ありがとう。……もう、大丈夫」

 

 銀の月を背に、彼女はにっこりと笑った。

 息を呑む。

 その笑顔につかの間見惚れ、

 

「……遅いですよ。もう」

 

 気付けば名無も笑い返していた。

 ほおずき色の瞳を見れば、もはや言葉なんて必要なかった。

 ただ。

 ただ、やっと――。

 

 お別れが済んだのだと、わかった。

 

「待ってたんですから」

 

 だから。

 名無はまた、

 

「――天理さん……!」

 

 その名を呼んだ。

 

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