戴天   作:灰汁

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すごく遅くなっちゃいました!ごめんなさい!!次回はもう少し早めに更新出来たら良いな……!!


二話

 

 両親がどのような生を過ごしてきたのか、天理は知らない。

 自分がそうであるように、二人もまた不思議な力の持ち主だったということ以外は。

 

 父は、天理とは比べ物にならないほど強大な妖力を持つ妖だった。

 この町で父の本名を知る者は天理と母しかいない。父の妖としての格が、名を知ることにさえ大きな危険を伴わせているのだという。

 正確には名前だけではなく、顔や姿――要は存在を認識してしまうこと自体が危険だった。人が蟻を意図せず踏み潰してしまうのと同じで、そういった『事故』をゼロにすることはできないらしい。

 だから、父は決して名乗らなかった。

 

『名前は呪いだよ、天理』

 

 父はよく、そう言っていた。『すべてのモノは名によって生まれ、定義され、理解される。僕の名はそれ自体が災いなんだ』

 名を知る。顔を見る。存在を認識する。そこで初めて、その人物の世界の中で、父が生まれる。だが父を知覚すると、ヒトの世界観は致命的な不具合を起こす。理由は、少なくとも天理にはよくわからない。『そういうモノだから』としか言いようがないらしい。

 父が人前に立つ時は顔の一部を隠すか、狐の面を被っていた。それも、父を理解してしまわないためのまじないのようなものなのだという。天理が『お狐様』として人助けをする際に被っている狐面も、元はそういう風に使われていたものだった。

『そこにいる』と理解してしまうだけで、人の正気を容易く奪い去る、正真正銘の怪物――母は時おり、父のことをそう形容していた。

 言いようの割にはどこか楽しそうだったことを、今でも鮮明に覚えている。

 

 その母はどうかと言うと、血筋は純粋な人間であることを証明しているらしい。『らしい』と付けざるを得ないのは、これはあくまで父の言であり、天理は母の家族を誰ひとりとして知らないからだった。

 母が普通の人間であると思ったことは、多分ない。

 天理が知る『普通の人』は、デコピンで大きな岩を粉々にしたり、トラックと衝突して無傷で済んだ挙句フロント部分に人間の形をした凹みを作ったりはしない。木刀を振った風圧で台風を押し返すこともないし、素手で山を崩したりもしない。っていうかそんなの天理にもできない。

 母は父のように不思議な術を使うことはなかった。父に言わせれば、『そもそも使う必要がないだろうからね、アレなら』ということだった。『アレってどういう意味ですか?』とにっこりと笑った母がすぐ側に立っていた。間違いなくさっきまでは部屋にいなかった。笑っているはずなのに周囲の温度が一気に下がった気がした。数秒後、父の頭にはものすごい大きなたんこぶができていた。その衝撃でほんのちょっとした地震が起きていた。よく屋敷が壊れなかったなと思う。

 この町では何度か原因不明の地震が観測されているという。天理はその原因を知っている。母が手を滑らせたか、足を滑らせたか、夫婦喧嘩である。

 

 ともあれ、両親もまたおおよそ『普通』とは言い難い人物だったことは間違いない。

 家に帰るといつも両親がいた。天理にとってはそれが普通だったから、クラスメイトの家へ遊びに行くと、いつも父親だけが不在で不思議に思ったものだ。

 記憶にある限り、二人がどこかに勤めに出ていたことはない。自宅で仕事らしい作業をしているようなこともなかった。『天理ちゃんのお父さんとお母さんはどんなお仕事してるの?』と聞かれて困った回数は、両手の指の本数以上にはあると思う。

 だが忍花屋敷はこの町でも一番の豪邸だ。民宿か、ともすれば旅館として看板を立てられるかもしれないほどと言って良い。どれだけのお金をかければこんな屋敷が建てられるのか、天理には想像もつかない。

 父は時たま、『こんな大きなお屋敷をもらうつもりはなかったんだけどねえ』と困ったように苦笑いしていた。母は毎日のように、『これだけ広いとお掃除が大変ですねーっ』と、楽しそうに笑っていた。いつもその数秒後くらいには、お皿か家具か壁のどれかが壊れる音がしていた。「お母さんにお掃除をさせてはいけないよ」という、常日頃からの父の言葉の意味を理解したのは、物心がついてそう間もないうちだった。

 

 あまりの広さゆえに使われていない部屋も多かったが、客間にだけは毎日と言って良いほど両親以外の姿があった。

 大半は季節の挨拶だとか何かのおすそ分けだとかで、みな例外なく両親に敬意を払っていた。いや、両親だけではない。娘である天理にも、だ。慣れない手つきでお茶を持っていく――頼まれたわけではないが、飲み物くらいはあった方がお話も弾むだろう、という子どもなりの気遣いだった――と、こちらの気が引けるほどに恐縮されたものだ。

 それだけ両親には影響力があったのだろうと、今は思う。

 中には困り事や不安を抱えて忍花屋敷の門を叩く人もいたが、両親は嫌な顔ひとつせず彼らの話を聞き、手を貸した。

 両親は、自分の力を私利私欲のために使うことは決してしなかった。

 幼い頃からずっと、人に寄り添う父と母の背中を見てきた。

 そんな二人の娘である天理が、困っている人を放っておけない性格の少女に育ったのも、ある意味当たり前の話なのかもしれなかった。

 

 しかしどんな経緯があって、二人は町の人から信頼されるようになったのか。

 この町に来る前はなにをしていたのか。

 どうやって結ばれたのか。

 なぜ、天理と同じような――いや、それよりも遥かに強大な力を持って、この世に生まれ落ちたのか。

 

 天理は、何も知らない。二人のことも。自分のことも。

 だから、

 

「――結論から言っちゃうと、天理さんのご両親って『忍者』なんですよね」

「……はい?」

 

 名無の言葉を飲み込むまで、ほんの少し時間がかかった。

 

「にんじゃって、あの忍者?」

「ですです。どの忍者かわかりませんけど、多分その忍者です」

 

 どう説明して良いかわからなかったのでうろ覚えの印を結ぶと、机の向こうの名無もにっこりと笑って印を結び返した。

 

「でもまあ、確かにあなたが考える『忍者』とは微妙に違うかもですけど……と。そう言えば、お名前も聞いてませんでした。お伺いしても?」

「あっ、そうだったね。ごめん。あたしは天理。忍花天理」

「天理さん、ですね。『正しい理』『自然の道理』。素敵なお名前だと思います」

「そ、そうかなっ。えへへ、ありがとう。あたしも気に入ってるんだ。あたしにとって正しい道を歩けるようにって、お父さんとお母さんがくれた名前」

「……なるほど。だから、か」

「え?」

「すみません、こっちの話です」

 

 なにかを取り繕うように、名無は苦笑いした。

 そういう笑顔を見分けるのは得意だった。天理自身が、一番よく浮かべる類の笑みだからだ。

 天理は、それ以上聞かなかった。

 無理に追及する気になれなかったのも、きっと同じ理由に違いなかった。

 

「話を戻しましょう。忍者と言っても、世間一般の方々がイメージするものとは少し違います。ものすごおーくざっくりと言っちゃえば、天理さんのお父さまやお母さまのように、超人的な能力を持った人たちを『忍者』って呼んでるんです。普通の人がイメージする忍者は『職業』ですけど、わたしたちが呼ぶものは『種族』に近いかな」

 

 一応人間であることに代わりはないんですけどね、と名無は付け加えた。

 

「……時代劇とかで、偉い人に雇われてお城に潜入したり、手裏剣とかクナイとか使って戦ったり、忍術で辺りをどかーんって爆発させてるイメージなんだけど」

「間違いではないですけど、それはあくまで忍びの一側面ですね。忍者は現代にもちゃんと存在していますよ。普通の人には気付かれないところで、日夜戦いを繰り広げているのです。もちろん、わたしも忍者ですよ!」

 

 ふふん、と誇らしげに名無が胸を張る。天理はただ、「なるほどなあ」と呟いた。

 忍者という概念をひとまず飲み込むのに、さほど抵抗はなかった。

 天理もまた超常の力を持つ存在だ。同じような力を持った人が他にもいるかも、と考えたことはもちろんある。それが忍者という存在への理解をスムーズにしていた。

 しかしそれはそれとして、あまりピンと来ていないというのも事実だった。

 少なくとも両親の口から『忍者』という単語を聞いたことは一度もなかった。二人や天理の力が、いわゆる『忍法』に分類されるものだとも思えない。

 もっとも名無に言わせれば、天理のイメージ自体が正確ではない、ということなのだろう。

 

「じゃあ、あたしも忍者なの?」

「そうとも言えますし、そうじゃないとも言えます。忍者の定義は『血』です。忍びの血を引いている以上、天理さんも忍者ってことになりますね」

「そ、そうなんだ……」

「でも、忍者の血を引いているだけで超人になれるわけじゃないんです。自分が忍者であることに気付かないまま、普通の人間として一生を終える方もいます。わたしが見たところ、天理さんはまだ忍者の力には目覚めてないように感じますね」

「そうなの? でも、あたし――」

「あっ、もちろんわかってますよ! すごい妖力ですよね。身体能力も、もう普通の人間の領域はとっくに飛び越えてるんじゃないですか?」

 

 心臓が、少し跳ねた。

 名無の青い瞳と視線がぶつかる。そんな意図がないことはわかりきっているが、なぜだか、責められているような気分になった。

『あなたはここにいるべきじゃない』と、そう言われているような。

 

「でもそれは、天理さん自身の才能です。忍びの血に依る力ではありません。そういう意味では、天理さんはまだ忍者じゃないとも言えますね。もし忍者の力に目覚めていたなら、『そんなもの』では済まないでしょう」

 

 天理は、車に轢かれても傷ひとつ負わない。

 自分の身長以上の岩を持ち上げることもできるし、本気で走れば風よりも疾い。そこいらの霊や妖であればその場で祓えるし、儀式や祭事に必要な霊力を一人で賄うことも可能だ。

 それでもまだ、天理には眠っている力があるのだと。名無は、そう言った。

 自分の事として受け入れるには突拍子もない話だと思う一方で、なんとなく嘘ではないんだろうな、と感じる気持ちもある。

 天理はただ、

 

「……そっか」

「…………」

 

 自分でも気付かないほどに小さく、疲れたように、ため息を吐いた。

 

「……あの二人の娘さん。しかも現時点でそれだけの力をお持ちとなれば、既にいくつかの『流派』が天理さんに目を付けているのも、頷ける話です」

「りゅうは?」

「忍者の勢力です。今は大きく分けて六つ存在しますね。すべての忍者はこのうちのどれかに属してると言って良いかと」

「それは……お父さんとお母さんも?」

「もちろん。天理さんのお母さまは『鞍馬神流(くらましんりゅう)』と呼ばれる流派の忍者でした。武術の達人にして、最強の忍剣士たち」

 

 くらましんりゅう、と口の中でその名を呟く。

 やはり、馴染みのない言葉だった。

 忍者。流派。鞍馬神流。それらの言葉に、一度だって覚えは――。

 いや、違う。

 どこかで、似た単語を聞いた覚えがある。

 考え込む天理を前に、名無は続けた。

 

「対するお父さまは、」

 

 それを思い出すまで、さほど時間はかからなかった。

 

「――『隠忍(おに)』……」

 

『鞍馬と隠忍が夫婦(めおと)など――』。

 記憶がフラッシュバックする。

 この屋敷に、古めかしい装いをした人物がやってきた時のことだ。町の人々と違い、彼らだけはひどく冷たい空気を纏っていた。やけにはっきりとその言葉を覚えていたのは、そういう理由もあるのだろう。

 

「……びっくりしました。どこでその言葉を?」

「あ、えっとね。昔、ここに見慣れないお客様が来たことがあって。その時に、そんなことを言ってたなあって」

 

 目を丸くした名無に、わたわたと手を振る。

 名無は「なるほど」と頷いた。

 

「お察しの通りです。天理さんのお父さまは『隠忍の血統』っていう流派にいました。恐るべき妖術の使い手、人外の血を引く忍者の集まり。その特徴は天理さんにも受け継がれていますよね」

 

 ふわり、と天理の狐耳と尻尾が揺れる。

 いわゆる妖の類だろう。どうやら忍者というのは、イメージするそれよりも遥かに多彩な特徴を持つ者たちらしい。

 

「……その、鞍馬神流と隠忍の血統は、あんまり仲が良くなかったりするのかな」

「『仲が良くない』っていうのはだいぶ控えめな言い方だと思います。少なくとも鞍馬神流にとって、隠忍の血統は相容れない天敵です」

「そうなの!? お、お父さんとお母さんはすっごく仲良かったよっ!?」

「わたしも詳しくは知らないんですけど、そもそも昔は天理さんのご両親もすんっっっごく仲が悪かったってお話ですよ。一回顔を合わせたら、血を見るまで止まらなかったらしいですからね。お母さまは毎回『あんにゃろう絶対ぶっ殺してやります!!』って息巻いてたらしいです。お父さまもお父さまで『千年早いよ小娘』って挑発してたみたいですし、本当に不倶戴天の敵同士って感じだったんだとか。ご両親本人と、周りの忍者がそう言ってました」

「そんなに!?」

「『昔の話』だとも、言ってましたけどね」

 

 名無はくすっと笑った。

 

「わたしがお二人と出会った時は、もうすっごい仲良しさんでしたし。なにかきっかけみたいなものがあったんじゃないかなーって」

「き、きっかけかあ」

 

 名無の話を聞く限り、ちょっとやそっとのきっかけでは到底仲良くなれそうにない間柄な気がした。

 だが現に二人は結ばれ、こうして天理がこの世に生を受けている。

 両親は近所でも有名なおしどり夫婦だった。単なる好意だけでなく、どこか不思議なものが二人の間にはあった。

 それを天理が無理やり言葉にしようとすれば、きっと愛だとかなんだとか、口にするのも少し恥ずかしい、どこかズレた概念になってしまう。二人を繋いでいたのは、たぶんそういうものではなかった。なにぶん人と妖の縁だ。奇縁という言葉さえ飛び越えた、不思議な繋がりだったのだろう。

 ただ、二人が並んでいる光景は、これ以上ないほど自然で様になっていた。町の人も同じことを感じていたはずだ。

 あるいは、戦いの中で育まれた『なにか』が二人を分かち難く結び付けていたのだろうか。

 いずれにせよその結果として、天理がこの世に生まれたなら――。

 

「でも、そっか」

 

 胸の奥から、ぽわぽわと笑みが込み上げた。

 

「ふふ。なんだか良いなあ。そういうの」

 

 自分が知らない両親の話を聞くのは、新鮮で、不思議な気分だった。

 

「そうですね。……ただ、今まではご両親がそういった流派からの干渉や接触を防いでたみたいなんですけど、もうそういうわけにもいかなくなりました」

 

 名無は微笑み、その笑みをすぐに曇らせた。

 

「天理さんは既にいろんな流派から狙われています。気付いてないと思いますけど、かなり危険な状況にありますね」

「えっ、そ、そうなの?」

「忍者にとって、流派からの『忍務』は絶対です。彼らはなりふり構うこともないでしょう」

「……よく、わからないけど。もしかして、名無ちゃんがこの町に来たのもその『にんむ』だったりする?」

「察しが良いですね! その通りです」

 

 名無はまた、にこりと笑った。

 

「わたしの忍務は、」

 

 告げる。

 

「――あなたを殺すことですよ! 忍花天理さん!」

「…………はい?」

 

 

 

 かぽーん、という音が響いた。

 

「ねえ、名無ちゃん」

「なんですか?」

 

 既に日が落ちて、それなりの時間が経っている。

 春は目前とはいえ、未だ冬の寒さが残る季節だ。夜闇が空を覆うまでさほど待つことはない。外では月と星々がこの町を優しく見守っていることだろう。

 

「名無ちゃんって、あたしを……その。殺しに来たんだよね?」

「そうですよ?」

 

 そんな景色に思いを馳せながら、

 

「――なんであたしは、そんな名無ちゃんと一緒にお風呂入ってるんだろうね?」

「えへへー。細かいことは気にしない、です!」

「ぜんぜん細かくないと思うよっ!?」

 

 天理は忍花屋敷の湯船に身を浸していた。より正確には、天理と名無だ。

 忍花屋敷のお風呂場は、いち住宅というより旅館のそれと表現した方がまだ近いほどに広々としたスペースである。

 張ってある湯も正真正銘の温泉だ。町の人が厚意で引いてくれている。となれば、これはもう完全に浴場や銭湯の類だった。どう考えてもひとりで独占して良いものではない。入浴の度にそう思っているのだが、湯に体を浸していると、尻込みする心さえ溶けていくようだった。

 隣には同じように湯に浸かっている名無の姿があった。それでもまだ四、五人入ってなお余るほどのゆとりが残っている辺り、その広さは推して知るべしである。

 

「それを言い出したら、わたしを泊めてくれる天理さんの方が大概だと思いますよ? 見ず知らずどころか、命を狙われてる相手なのに」

「うっ。そ、それはそうかもしれないけど……」

 

 天理は目を泳がせ、あははーと誤魔化すような笑みを浮かべた。

 名無も、手ぬぐいを頭の上に乗せて、愉快そうに目を細める。

 

「本当にお人好しなんですねえ、天理さんって。わたしのことなんて放っておけば良かったのに」

「だって、寝る場所もお財布もないんでしょ? そもそも小学生がひとりでどこかに泊まるのも難しいだろうし」

「それならそれで野宿――」

「ぜったいだめーっ! どこが誰の土地なのかもわからないし、何より危ないよっ」

「一応忍者ですから、不審者くらいだったらなんとかできますよ?」

「それでもだめなのっ。あたしが心配だから!」

 

 何が面白いのか、名無はけらけらと声をあげて笑った。

 

「助ける理由も、心配する義理もないでしょう」

「んーん。名無ちゃんが困ってて、あたしは力になれそうだった。理由はそれで充分だよ」

「わたしは、あなたを、殺そうとしてるのに?」

「あはは、それは関係ないよ。大したことでもないし。あっ、もちろん『これであたしを見逃して』なんて言うつもりもないから、安心してねっ」

「…………」

 

 本心だった。このお風呂場ひとつ取ってもわかる通り、天理ひとりで暮らすには些か広すぎる屋敷である。来客用の布団などもたくさんあるし、名無を泊めるくらいどうということもない。

 困っている人がいて、自分はその力になれそうだった。天理が首を突っ込む理由はそれだけで事足りた。単なるお節介焼きなのだろうと、自分では思っている。感謝してほしいわけではないし、ましてや名無の『忍務』とやらに口を出すつもりは欠片もなかった。

 

「……天使さん……」

「なんて???」

 

 今名前のようで違う何かで呼ばれた気がした。多分気のせいではない。

 

「泊めてくれるだけじゃなく、一緒にお風呂まで入ってくれるなんて……これを天使と言わずなんとお呼びすれば」

「い、いやっ、それはっ。ここのお風呂場すっごく広いし、名無ちゃんが案内してほしいって言うから着いていったら、なんかいつの間にかそういう流れになっちゃってただけで……!」

「ふっふっふ。裸の付き合いというやつができてわたしは嬉しいです!」

 

 ぺかーっ、と名無は笑った。

 

「おかげでだいぶ揺らいでます。殺すどころか天理さんのファンになっちゃいそう。作りますか、ファンクラブ」

「もうあるみたいだからやめて!?」

「えっ、そうなんですか!? ……いえ、よくよく考えれば当たり前ですね。天理さんみたいに優しくて可愛い女の子ならファンクラブのひとつやふたつありますよねっ」

「普通だから! あたしより性格良くて可愛い子なんてたくさんいるからっ!」

「いや、それはないです」

 

 マジトーンで名無が首と手を横に振った。

 

「この町で生活してて良かったですね、天理さん。都会歩いたら二秒で声掛けられてると思いますし、わたしが男の子だったら一発で惚れてますよ。学校でも告白されまくりなのでは?」

「告白なんかされたことないよ!?」

「えー……うっそだあ」

「ほんとほんと。男の子からは『ゴリラ女』なんて呼ばれてるくらいだもん」

「うわ、なんですかそれ。すっごく失礼じゃないですか!?」

「ねー。あたし、ゴリラじゃなくて狐なんだけどなあ」

「いやそういう問題でもなくないです!?」

 

 どちらにせよ、天理はどう考えても『可愛い』と表現されるような少女ではない――少なくとも、天理本人はそう感じている――のだった。

 

「でも、そういう男子に限って……ってパターン、ありがちだと思うんですよね」

「あはは、ないない。その子、こないだ抱きついたらすっごい嫌がってたし」

「……抱きつく?」

「バスケやってたんだけど、その子がスリーポイント決めてくれたんだ。接戦だったのもあってつい」

「…………。どんな反応してました?」

「普通の反応だったよ。近付くなー! って言われちゃった」

「顔、赤かったりしませんでした?」

「運動してたからねーっ。茹でダコみたいに真っ赤だった」

「それ、バスケしてる時よりも赤くなってたりは……?」

「……あ、言われてみればそうだったかも。すごいね、名無ちゃん。よくわかるねっ」

 

 名無が天井を仰いだ。盛大なため息が聞こえた。

 

「……気の毒すぎる……」

「え、えっ? なにが?」

「いったいどれだけの淡い初恋を奪ってきたんですか。ハーフとはいえやはり妖狐……」

「???」

「その様子だとアレですか。落とし物拾った時とかも、ちゃんと手を握って渡してあげたりしてるんですか?」

「なんでわかったの!?」

「……。一応聞きますね。男の子にもそれやってるんです?」

「お、男の子にもっていうか。皆にだけど」

「もうひとつ。手を繋いだりもしてますね?」

「するよ? そっちの方が仲良しー! って感じするしっ」

「天理さんのことです。誰に対してもやってるでしょう?」

「うん。あたし、昔から人との距離が近くなりやすいみたいで……そういうの嫌がる人もいるから、直さなきゃって思ってるんだけど。名無ちゃんも嫌だったらいつでも言ってほしいな。でも、すごいねっ。なんであたしのことそんなにわかるの?」

 

 さっきより大きなため息が聞こえた。

 

「あっ、も、もしかして嫌だった? ごめんっ」

「いえ、そういうわけじゃないですよ。わたしはぜんぜん大丈夫というか、むしろばっちこい! って感じなんですが……あまりにも…………うん…………」

「えっと。よ、良くないかな。こういうの」

「良くないけど、される側からしたら役得なんだろうなあとも思っちゃいますね。難儀です。ま、でも、そこも天理さんの良いところなんでしょう。そのままで大丈夫だと思いますよ。男子もいつか夢から醒める時がくるはずです」

「どういうこと?」

「わからない方が天理さんは素敵ですよ」

 

 名無が、にこっと笑った。

 

「しかし、そう考えると天理さんの裸を見ている現状……もしかしてわたし、ファンクラブの方々からぶっ殺されちゃうのでは?」

「いやタオル着けてるからね?」

 

 同性どうしだからあまり気にしていなかったのに、そういう言い方をされるとなんだか無性に恥ずかしくなってしまい、天理は頬を膨らませた。

 

「あはは、冗談です。そんな引かないでください。ありえんほどお肌白くてすべすべだなあとは思ってますけど」

「皆そう言ってくれるんだよね。普通じゃない?」

「いやいや、皆が言ってるってことはやっぱりそうなんですよ。ちょっと触ってみても良いです?」

「ん、良いよ。触って楽しいものじゃないと思うけど……」

「えへへ、まあまあ」

 

 湯船から腕をあげ、名無へ差し出す。彼女はおっかなびっくりと天理の二の腕へと触れた。少しだけくすぐったい。

 

「おおおっ!? えっちょっと待ってくださいなにこれ。なにこの……え? 想像の一万倍すべすべふにふにもちもちなんですけど。え? なにこれ? は?」

「な、なんでちょっと怒ってるの……?」

「お……お手入れとかは普段何を?」

「ううん、特別なことはなんにも。あたし、そういうのよくわからないし。あはは」

「ってことは天然でこれなんですか!? 嘘でしょ!? お、恐るべきお二人の血っ……!! それとも妖狐だからですかっ」

 

 うむむむむ、とどことなく悔しさを滲ませた表情で名無はひとしきり二の腕を触ったあと、「ありがとうございました!」と離れた。

 

「"罪"の感触がしました。ヤバいです。そんなお肌で抱きついたんですか。ヤバいです。ヤバすぎます。ヤバです」

「ご、語彙力がなくなってる……」

「しかも天理さんってなんかすごい良い香りしますし、本当に同情します。くだんの彼はこれからまともな恋愛ができるんでしょうか。めっちゃ理想高くなってそう……」

「香り? お風呂入ってる最中だからじゃない?」

「いえ、さっきからずーっとふんわり良い香りがしますっ。桜の香りみたいな!」

「そうかなあ。そ、そういうこと言われるとちょっと恥ずかしいねっ。えへへ」

 

 いかに人間離れした嗅覚を持つ天理と言えど、自分自身の匂いまではそうわかるものではない。顔をにわかに赤くしたまま、天理は苦笑いするほかなかった。

 

「時に天理さん。こんな話をご存知ですか?」

「なあに?」

「二の腕って胸の柔らかさと同じくらいらしいですよ」

 

 天理が思いっきりむせる音がお風呂場に響き渡った。

 ざぱあっ、と音が立つ勢いで体を仰け反らせ、真っ赤な顔のまま言葉を飛ばす。

 

「なっ、なななな何言ってるのっ!?!?!?」

「つまりそういうわけですよね。ははあ、なるほど……」

「ニヤニヤしながら手をわきわきさせないでよっ!?」

「えー? わたし、まだなにも言ってないですよー?」

「今の話の流れでそんな仕草されたら意識するなって言う方が無理でしょおーっ!?」

 

 あわわわわ、と自分の体を隠すようにして名無から距離を取る。

 そんな天理を見て、名無は茶目っ気たっぷりに笑った。

 

「冗談です。人体の構造的に二の腕の方が硬くなるらしいですよ」

「うぅー……名無ちゃんって、結構そういうこと言うんだねっ。もうっ」

「あはは、ごめんなさい。ちょっとしたジョークのつもりだったんですけど」

「……女の子だからまだ良いけど。名無ちゃんが男の子だったらさすがに怒ってたかも」

「それは全力で顔面殴り飛ばして良いと思います。二の腕触ってる時点でぎるてぃ! ってやつです。天理さんに触れたらそれはもう死刑です」

「首から上なくなっちゃうよ!?」

「大丈夫。男の子も最期に良い思いができて本望でしょう」

「なにも大丈夫じゃないんだけど!?」

 

 ひとつ覚えた。名無は結構、普通に怖いことを言う。

 

「…………」

 

 言われたからというわけではないが、試しに自分の二の腕を摘んでみた。たしかに少し硬いような気がしないでも、

 

「あっ、良かったらわたしが本当にそうか確かめまし」

「ばかあああーーーっ!!!」

「あばーっ!?」

 

 こっちに迫ってきた名無の顔に、思いっきりお湯をぶっかけた。

 ぷるぷると顔を振って水気を払うなり、名無は唇を尖らせた。

 

「むむ……さすがに同性でもまだダメでしたか」

「だっ、だだダメに決まってるでしょっ!?」

「ざんねんです。わたしよりおっきいと思うんだけどなあ、天理さん」

「あたしそういうの気にしたことないからね!?」

 

 自分の胸を隠すようにして、湯船の中で後ずさりする。

 

「強者の余裕的な?」

「強者って何???」

「まあ、たしかに天理さんの容姿なら胸の大きさはどう転んでも些細なことでしょうが。しかも脱衣場で見た感じ脚もスラッとしてましたし。小学生離れしてますよね、モデルさんみたいです」

「そんなとこまで見てたの!? いや、えっと、そうじゃなくて。あたし自身、あんまりスタイルみたいなの気にならないんだよね。自分だけじゃなくて、他の人のも」

「それは……芸能人とか見てても、あんまりときめかない感じですか?」

「あっ、うん。それそれ。他の子が話してるのはよく聞くんだけど、あたしはあんまりピンと来ないっていうか」

「天理さん自身がレベル高すぎるからなのでは」

「二つの意味で違うよ!?」

「……っていうか、改めて見るとやっぱりお顔の整い方もずば抜けてますよね天理さん」

「そ、そう?」

「ですです。……うわ、まつ毛長……瞳綺麗すぎる…………肌白…………………………あっやばい、まじまじと見てるだけでちょっと違う扉を開いちゃいそうです。そっ閉じそっ閉じ。いやほんとどれだけハイレベルな見た目してるんですか『傾城(けいせい)』の相あるんじゃないですかしかもあれ女性には効かないはずでしょ怖すぎる……」

 

 じーっと天理の顔を見ていた名無の頬が、それだけでにわかに赤みを帯びていく。少しだけ恥ずかしそうに目を逸らした名無は、上擦った声で続けた。後半は早口でよく聞こえなかった。

 

「ま、まあ。お母さまもすごい美女――っていうか、三十超えてるはずなのに美少女みたいなお顔でしたし。お父さまも『黄色い悲鳴製造機』とか言われてましたもんね」

「ふふっ、なにそのあだ名」

 

 ちょっとおもしろい。天理は小さく笑った。

 

「お母さんは天然だけど、お父さんは自分であの顔作ったって言ってたよ。現実離れしてかっこよすぎるくらいが人を騙すのにちょうど良かったんだって」

「えっ、そうなんですか。じゃあ天理さんも?」

「んー、どうだろ? 少なくともあたしは自分でそうしようって思ったことはないけど、無意識にやってる(ひと)もいるらしいよ。写真とか映像で一番目にしやすいのが芸能人だったりモデルさんだったりするから、人になりすましてる妖は綺麗な顔が多いみたい」

「……。そうなんですか」

 

 名無は静かに頷いてから、湯船の中でんーっと背伸びをした。

 

「いやーっ、でもこういうお話は楽しいですね! 久しぶりに小学生らしいことを話した気がします!」

「小学生らしかったかなあ……?」

「少なくとも、血なまぐさい話ではないですから!」

 

 ――忍者のことを、天理は何も知らない。

 曰く彼らは、現代社会の闇に潜み、日夜戦いを繰り広げる者であるという。

 その力によって引き起こされる戦いがどのようなものなのか、天理には想像することすら難しい。

 こうして能天気に暮らしている自分には、想像すら。

 

「まっ、天理さんの学校生活の様子は『改めて確認する』として。とりあえず、今日はお世話になりますっ。お礼と言ってはなんですけど、わたしにできることなら家事とかお手伝いしますよ!」

「良いよ、気にしないで。名無ちゃんはお客様なんだからゆっくりしててよ」

「いえいえ、そういうわけには。……本当に、殺す人間と殺される人間の会話には思えませんね」

「ほんとだね」

 

 どちらともなく、また、苦笑いした。

 

「さっきはびっくりして聞きそびれちゃったんだけど。名無ちゃんは、なんであたしを殺そうとしてるの?」

「『忍務』ですから。なぜそういう忍務が下ったのか、という意味ならお答えできません」

「そっか」

「……聞かないんですか?」

「答えられないんだよね?」

「それは、そうなんですけど。普通、もうちょっとあるんじゃないかなって」

「そうかな」

「もしかして、わたしがなんだかんだ天理さんのこと殺さないと思ってます?」

 

 名無の声のトーンが、少しだけ、変わった。

 わずかに悩んで、天理は答えた。

 

「気に障ったらごめんね。正直、そう思ってる」

 

 天井を見上げた。

 

「単に実感が湧かないだけなんだけどね」

「……いえ、確かにそうです。いきなり『あなたを殺す』って言われても、って感じですよね」

「それに、名無ちゃんがそういうのを隠すのが上手いのかな。『そんな感じ』がしない。なんて言うんだっけ」

「……殺気みたいなものですか。わかるんです?」

「そう、殺気。『感じない』っていうのとは違うか。『感じさせられてる』?」

「――」

「わざとあたしに伝えようとしてるみたいな。なんて言ったら良いかわからないんだけどね」

 

『そういうもの』に対する感覚が、天理は相当に敏感らしい。

 正直なところはよくわからない。天理にとっては当たり前の感覚であり、両親や、他の妖に指摘されて初めて気付いたことだからだ。天理に殺意を向けるようなことがあれば、どれだけ隠してもほぼ確実に気付くのだという。

 そういうものを向けられると、急にうなじが痺れるような感覚がする。その痺れが全身を伝って、気付けば体の重心を落としている。肩の力が抜け、呼吸が浅くなる。ぞわぞわと心が落ち着かなくなり、それでいて懐かしい感じがする。得も言われぬ高揚感。誤解を恐れず表現するならばある種の『心地良さ』が体を包むのだ。

 普通は、こうはならないらしい。恐れ、おののき、体が竦むような感覚だという。だが少なくとも、天理にとっては『ソレ』は存外に心地良いものだった。

 血筋だと、両親は言った。

 そうとだけ言った。

 今にして思えば、それこそが忍者の血が成せるものだったのだろうか。

 日夜戦いを繰り広げる、忍びの血とやらの――。

 

「……気付いてないのかと思いました」

「ううん、結構ビリビリ来てたよ? いきなりだからびっくりしちゃった。でも、普通の子にはやっちゃダメだよっ」

「やりませんよ。そもそも普通の人が忍者の殺気を浴びたらその場で気絶しちゃいます」

「えっ、そんなレベルだったの!?」

「いやそこは気付いてなかったんですか!?」

 

 名無が「なんだかなあ……」と釈然としない表情になる。

 

「今すぐに天理さんを殺さないといけないわけじゃないんです。春までに、という命令なので。殺気は、一応警告みたいなものでした。ぜんぜん反応なかったので内心で頭抱えてましたけど」

「え、えへへ……でも、そっか。春かあ。じゃああたしの余命って二、三ヶ月くらい?」

「余命て。普通もうちょっと足掻いたりしません?」

「あはは。でも、まあ。最初はびっくりしたけど、冷静に考えてみたらそれはそれで良いのかなあって」

「――、は?」

「だってほら。あたしって『こんなの』でしょ?」

 

 湯船から突き出た己の尻尾を、ゆらゆらと揺らして、苦笑いする。湯の中に沈んでいたにもかかわらず、ほんのわずかにすら濡れていない。

 物質としての性質を持たない獣耳と幽尾は、天理が持つ妖の血の証だ。そこに存在しているのは間違いないのに、ほとんどの人間は見ることも触れることもできない。

 逆に幽世のモノは、人としての天理の姿を上手く捉えることができない。原始的な妖にとって天理は『黒く赤いなにか』に視えるらしい。少なくとも人の姿をしていないことは確かなようだった。

 なら――。

 自分の本当の姿は。

 天理自身が認識している『自分』とは、なんなのだろう。

 自分が視ているこの世界は。自分が生きているこの場所は、なんなのだろう。

 そんなことを考えていると、ふっと気が遠くなる。なにもかもが夢幻に思えてくる。すべてがどうでも良くなるようだった。

 

「お父さんもお母さんも……いなくなっちゃったし。これからどうやって生きていけば良いのかなあって、自分でもよくわからないんだよね」

 

 笑う。

 なにがおかしいわけでもない。しかし真面目な顔で話すほど、自分の人生に興味を持っているわけでもなかった。

 天理がこれから何年生きるのかはわからない。少なくとも、百年や二百年では済まないらしい。父が千年を生きる妖であったように、天理もまたそれだけの時を過ごす可能性があると、両親から聞いたことがあった。

 ――たった十二年を生きるだけでも、こんなに息苦しかったのに。

 この違和感が、何百年も続くのだろうか。

 

「考えるだけでも、なんだか疲れちゃうんだ」

 

 深刻な話ではない。天理以上に自分の人生について思い悩み、苦しんでいる子はたくさんいるだろう。

 そんな子たちと比べれば、本当になんてことのない話なのだ。

 ただ、生きていくのが億劫だなんて。

 

「……天理さん」

 

 どこにも居場所がない――など、それは自分の思い上がり以外の何物でもないのだろう。

 誰だって、人に言えないことのひとつやふたつはあるはずだ。物の見方もそれぞれで、皆が本当に同じものを見て生きているわけではない。自分が認識する『赤色』と他人が見ている『赤色』が同じ見え方であると証明することは、誰にもできない。

 ましてや天理にはたくさん友達がいて、心配してくれる人もいる。

 頭では、わかっている。

 しかしどれだけ言い聞かせても、それで楽になれることはなかった。

 彼らのことを大切に思う気持ちはある。寄り添い続けることもできるだろう。両親がそうであったように。

 だが天理は、彼らと同じように生きることはできないのだ。

 そして皆、いずれ天理を置いて先にいなくなってしまう。

 それもまた、両親がそうであったように――。

 

「だから、良いんだ。それが名無ちゃんの忍務なら、」

 

 殺されても、構わない。

 そう口にするよりも早く、

 

「――そんなこと、言わないでください」

 

 名無が、言った。

 ひどく、傷付いたような表情で。

 

「ご両親が聞いたら。きっと、悲しみます」

「っ、」

 

 二人の顔が脳裏を過ぎる。胸に、鋭い痛みが走った。

 

「……ごめん。そんなつもりじゃなかった」

「あ……」

 

 我に返ったように、名無が目を見開く。

 

「ううん。こちらこそ、ごめんなさい。わたしが言って良いことじゃなかったですね」

「謝らないで。ありがとう」

 

 こぼした言葉が、嘘だったというわけではない。

 偽らざる天理の本音だ。

 それでも、言ってはいけない言葉だった。

 

「……名無ちゃんは、 」

 

 話題を変えるべく、声音を明るくして、名無へ尋ねた。

 

「お父さんやお母さんと、どんな関係だったの?」

「……昔、すごくお世話になったんです。わたしの人生を変えてくれた方々ですよ」

 

 しばらくしてから、名無は笑ってそうとだけ言った。

 細かい部分は言えない、ということなのだろう。

 どのようにして知り合ったのか。どんな風に世話になったのか。名無の言葉を信じるならば恩人であるはずの二人の娘を、なぜ殺さなければならないのか――。

 疑問はいくつもあった。

 それでも、

 

「そっか」

 

 天理もまた、そうとだけ答えた。

 また、しばらく沈黙が流れる。

 二人が湯船に浸かってから、結構な時間が経とうとしていた。

 そろそろ上がろっか、という言葉が口から出る寸前に、

 

「――決めました」

 

 名無が、言った。

 

「わたしは、天理さんを殺す忍務を受けています。でも今この状況で、それは不可能だと言わざるを得ません。天理さんは『生きていない』からです」

「……あたし、幽霊じゃないよ?」

「そういう意味じゃありませんっ。言葉にするのは難しいですけど、でも少なくともご両親は天理さんに『そういう人生』を送ってほしくはなかったはずです!」

 

 だから、と名無は力強く、

 

「天理さん!」

「な、なに?」

「あなたを殺すまでの二ヶ月ちょっと! その間わたしと、」

 

 そして満面に、笑った。

 

「――お友達になりましょう!」

 

 椅子の上に置いた、使っていない桶が滑り落ちる。

 お風呂場の端から、また、かぽーんという音がした。

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