戴天 作:灰汁
「天理さーん! 待ってくださいよーっ!?」
「あっ、ご、ごめん! 歩くの早かった!?」
背後から聞こえる名無の声に、天理は慌てて振り返った。
山の中だった。頭上では、枝葉に切り取られた空が窮屈そうに身を丸めている。夜空の中心に浮かぶ月はにわかに赤い。降り注ぐ月光は辺りを照らすにまるで足らず、かえって夜の闇を引き立てているようだった。
立ち止まれば草を踏む音もなくなり、ほー、ほーと夜鳥の鳴き声だけが遠くから聞こえてくる。
懐中電灯が描く光の円に、音もなく名無の姿が浮かび上がった。
「やっと追いつきました! 早いっていうか、どこ歩いてるかわかんないです! 獣道をひょいひょい行くから追いかけるのが大変で……!!」
「あ、ああ〜……そっか。ごめん、誰かと一緒に来るのは半年ぶりだから、つい」
名無は「もーっ」とため息を吐きながら腰に手を当てた。
二人の吐いた息が、白く夜の闇に溶けていく。肌を刺すような寒さの中、町の外れにある山を二人で登っている。正確には、ずんずんと進む天理を名無が追っている形だった。
日付はとうに変わって、午前二時を過ぎている。この時間帯において、山は人ではないモノたちが跋扈する一種の異界である。
天理は月に一度、この山を登らなければならなかった。今日がその日なのは偶然だ。数日前にクラスメイトが肝試しを行ったのもここだが、天理たちが今いる場所は、彼らが登った所よりもずっと深い。
懐中電灯で照らした名無の顔には汗ひとつ浮かんでいなかった。二人とも散歩でもするようなラフな格好だが、ここは既に、十二歳の子どもがまともな装備もなしに登れるような場所ではない。体力自慢の大人であろうと、普通なら汗どころか息切れくらいはしている。天理の聴覚をもってしてなお、名無の足音を一切聞き取れないことも、その異常さを際立たせていた。
やっぱり忍者ってすごいんだなあ、と心の中で感心しつつ、今度は置いていかないように歩き出した。
「懐中電灯があるから天理さんの場所はわかりやすいですけど……なんでそんなの持ってきてるんですか? 天理さんならいらないですよね?」
「あたしがいるっていう目印だよ。
「妖はともかく、この時間帯に、こんな山奥まで来る人なんていないでしょう」
「ゼロじゃないよ。神隠しに遭った人とかね」
「……要は妖に攫われた人ですよね。それ、生きてるんです?」
「あはは、もちろん。お父さんとお母さんが、そういう部分の決まりをちゃんと作ってくれてるんだ」
あんまりひどいことする人だったら怖い目には遭ってるかもしれないけど、と付け足す。
「中には、そういう契約を受け付けないモノもいるんだけどね」
「契約を無視する、ってことですか?」
「んーっ……そもそもあたしがどうこうできる存在じゃないんだ。妖ともちょっぴり違うんだよね。もっと原始的な怪異っていうのかな」
両親に言わせれば、ソレは生命というよりも現象に限りなく近いのだという。
嵐を前に、どれだけ言葉を投げかけたとて届くことがないように。
雷に慈悲を乞うても意味がないように。
山火事を説得したところで、火の勢いが弱まることはないように。
ただそこに在るだけで災禍を振り撒く、いわば存在そのものが災厄。
そういったモノが、幽世にはいる。
「なるほど。――『妖魔』ですか」
「あ、知ってたんだ」
「ふっふっふ。忍者ですので!」
妖魔は幽世の深奥――本来ならば、現世に干渉できないほど深いところに棲んでいる。
人間が彼らを認識することはできない。幽世に対する五感を持っていないからだ。
だが時間帯や星の並びなど、様々な要因によって現世と幽世の境目が曖昧になることがある。そういう時は、人間にも彼らの姿が視えてしまう。
しかし、妖魔は視るだけでも相当な危険を伴う。
人が妖魔を認識する。妖魔が人を認識する。その行為自体がある種の契約だ。『そこにいる』という相互認識を以て、互いの存在を保障している。
その契約が幽世の深奥と現世を繋げてしまう。本来ならば相互に干渉が不可能であるはずの妖魔が、災厄という形で現世に現れる原因はそれだ。
逆も然りである。
幽世のモノである妖魔が人を認識することで、その人物という概念が幽世にもたらされる。知られることによって、その人物は概念的に幽世へ生まれ落ちる。運が悪ければ、魂とでも呼ぶべきなにかごと『そちら』へ持っていかれる。『見るだけで正気を失う怪異』の伝承は各地に存在するが、恐らくはそういった妖魔を指していたのだろう。
「忍者と妖魔の戦いはずっと昔から続いてますからね。『降魔忍者』っていう、妖魔狩り専門の忍者もいるくらいです!」
「すごいね。あたしはあんまり関わらないようにするくらいしかできないのに」
「それが正解ですよ。向こうが持ってるなにかしらの法則やルールに触れない限りは無害、ってことも少なくないですから」
「だいたいは見たり聞いたり知ったりしただけでとんでもないことになる印象かなーっ……」
「遭ったことあるんですか?」
「他の人が目を付けられちゃったことが何回か。観光客さんが立ち入り禁止のところに入っていったり、なにか壊しちゃいけない物を壊しちゃったりして」
「お決まりのパターンですねえ。でも、それの一番厄介なところって――」
名無の言わんとすることが伝わり、天理は頷いた。
「そういうのって、『罰当たりなことをしたからその祟り』とか単純な話じゃないんだよね。因果の結び方が根本的に違うんだと思う」
名無も心当たりがあるのだろう。二人して、困ったような苦笑いを浮かべた。
「どんなことしてても引っかかる時は引っかかりますよ。『お地蔵様を蹴り飛ばしたから呪われた』って話を聞いて調べてみたら『実はお地蔵様に触れること自体が妖魔活性化のトリガーだった』なんてことがありました」
「う、うわあ……それ、参拝してた人もってことだよね?」
「お地蔵様のお掃除してた人も、偶然触れちゃった人も、みんな等しく呪われてましたよ。人間の意志や感情なんてぜんぜん関係ないんですよね。理不尽の権化です」
妖魔は独自の法則を持つ。その法則に触れれば誰であろうとタダでは済まない――天理のような、幽世にも身を置く存在であってもだ――し、人が見出した解釈にも意味がない。
妖魔が『現象に近い』と表現される所以はそこにあった。
生きている、死んでいるといった区別があるのかすら怪しい。
天理が生まれる少し前までは、妖魔の数はそれほど多くなかったのだという。『どこか誰も知らない場所で眠っていたんですよ』と母は教えてくれた。だが、最近になって再び妖魔の数が増え始めた――正確には、ここではないどこかへと消えていた妖魔が、また、戻ってきているらしい。
理由は、知らない。少なくとも天理は。知らなくて良いことだとも、なんとなく理解できていた。
妖魔は、ただ、そこに、在るのだ。ずっとずっと、昔から。
それ以上のことはわからないし、知るべきでもない。
妖魔とはそういうものだと、天理は認識していた。
「でも、天理さんが管理してる『結界』は――」
「妖魔を弾く効果があるから、この町には入ってこられないね。こっちから妖魔のいる場所に踏み込まなければ大丈夫っ」
この辺りには地元の人間ですらあまり近付かない。単純に険しいということもあるが、何より霊的に危険だからだ。既に人の領域からは外れているし、なにより山は古来より異界とされてきた。そう語り継がれるからには相応の理由がある。山の深みに位置するここは、もはや幽世に限りなく近い。
こういった場所から、人妖にとって良くないモノ――すなわち妖魔が流れてこないよう、町には結界が張られていた。
定期的に山を訪れなければならない用事とは、その結界のメンテナンスである。
かつては両親が結界の維持を担っていた。今は天理がその役目を引き継いでいる。
「正確にはお父さんとお母さんが決めた契約の有効範囲を示す結界かな。妖魔は存在の性質上契約を守れないし、結界もそれを理解してるから、自動で弾いちゃうんだ」
「それってかなり大規模な結界じゃないです? この町全部を覆ってるんですよね」
「あはは。張ったのがあのお父さんとお母さんだからね」
「いや、どんな術理してるんですか……。何かしらの霊具や呪物を基点にしてるわけでもなさそうですけど、いったいどこからリソースを捻出してるんでしょう。わけがわからないです」
「その辺はあたしにもさっぱり。お家が基点のひとつとは聞いたかな。だから、あたしがあそこに住んでる限りは維持され続けるって言ってた」
両親が亡くなったあとも、天理が施設などに預けられない理由はそこにあった。
事情を理解している町の偉い人などが、書類上上手く処理してくれているらしい。
「でも、できれば月に一回くらいはメンテナンスした方が良いんだって」
「……天理さんがいなくなったらすごい困ったことになる気がしますね、それ」
「あたしがいなくなったら結界の性質が変わるようになってるみたい。じゃないと、あたしこの町から一生出られないでしょ?」
「あ、そっか。たしかにお二人が娘さんを縛るような結界を作るわけないですね」
しばらく歩くと、闇の中から古びた鳥居が浮かび上がってきた。
鳥居は神域と俗界を分かつ門だ。だが鳥居の向こうにもこちら側にも、社や建物があるわけではない。ただ闇だけが広がっている。少なくとも、常人にはそう見える。
脈絡なくぽつんと建てられたそれこそ、天理たちの目的地だった。
「おおっ、これが結界の境目……!」
「見てて楽しいものじゃないと思うな」
目を輝かせる名無へ、天理は苦笑いした。
「出る前にも言ったけど、寝ててくれて良かったんだよ?」
「それはさすがに不用心ってレベルじゃないですよっ。わたしの野宿よりよっぽど危ないです! お家を荒らされたらどうするんですかっ」
「ふふっ。名無ちゃんはそんな人じゃないでしょ」
「、」
鳥居へ無造作に近付きながら、笑った。
「……やっぱり、あの二人の娘さんだなあ」
「うん? なにか言った?」
「いえいえ、光栄だなーって言っただけですよっ。邪魔してすみません、わたしはここで見てますので気兼ねなくどうぞ!」
言葉に甘えて、鳥居の前に立つ。
鳥居の真下にある空間――ちょうど、結界の境目にあたる部分へ、そっと手を当てた。
メンテナンスと言っても、特に天理が何かをするわけではない。霊力を注ぐだけで事足りる。それでさえ、必要な量が自動で汲み上げられる仕組みになっていた。気分的には採血のようなものだった。
獣や虫の小さな鳴き声と、そのどちらでもないモノたちが闇の中を跋扈する音だけが辺りに響いている。
ぽわ、と赤い燐光が天理の手から散った。色こそ違えど、どこか蛍火にも似たそれが、鳥居の向こうへと拡散していく。
「天理さんは」
背後でその光景を見ていた名無が、ゆっくりと呟いた。
「こうやって、ずっとこの町を守り続けてきたんですね」
「へ?」
顔だけで振り向く。
名無の青い瞳と視線がぶつかる。やましいことはなにもないのに、どこか居心地が悪く感じてしまって、天理は苦笑した。
「あはは……大げさだよ。あたしは、ほんのちょっとのお手伝いをしてるだけで」
「でも、そのお手伝いで救われたひともいるはずです。なのに、天理さんは誰に感謝されることもない。誰も、あなたの本当の姿を知らない」
「それは、」
この町には、人と妖を見守る『お狐様』がいる――。
ずっと昔から語り継がれるおとぎ話だ。
その正体は、『今は』天理である。
先代という呼び方が正しいのかはわからないが、とにかくかつては両親が『お狐様』だった。
しかし、誰もその事実を知らない。昔も。今も。
『
「あたしは、それで良いと思うんだ」
しばらく考えて、天理はまた、結界へと視線を戻した。
「たとえば――自分が特別に選ばれた、優れた人間だとは思いませんか?」
「あたしが? ……うーん。考えたこともなかったなあ」
「意外といるんですよ。天理さんみたいに、不思議な力を持って生まれる人は。そして、ほとんどがその力に溺れる。でも、あなたは違う」
「そんなことないよ。あたしだって、お父さんやお母さんが力の使い方を教えてくれなかったら、そうなってたと思うし……そもそもあたしは、自分でがんばってこの力を身につけたわけじゃないから」
「他の人にも言えることです。その人たちの言葉を借りるわけじゃありませんけど、それは天理さんの才能でしょう」
「だったらなおさら、悪いことには使えないかな」
結界の面が揺らぐ。空間が歪んだようにも見えた。
「お父さんとお母さんからもらった力を、そういう風には使えない」
天理はただ、じっとそれを眺めていた。
「正直、なんであたしがこんな力を持って生まれてきたのかなって思ったことは何回もあるよ」
「……普通の人に、生まれたかったですか?」
「どうだろ。それはそれで、お父さんやお母さんの力に憧れてたのかも。クラスの男の子みたいにね」
もう一度、苦笑いする。
「でも、ひとつだけ言い切れることがあるんだ。――あたしは、お父さんとお母さんの娘に生まれて良かった。それだけは、あたしのたったひとつの自慢なの」
視線を再び名無へ戻し、今度はにぱっと笑った。
「なにもせずに生きてたら、この力のことが嫌いになっちゃってたかもしれない。でも二人からもらったもので、誰かを助けられてたら。あたしが持って生まれたものに、あたしが意味を付けてあげられたら」
なんてことはない話だ。
天理が特別人格者だから、力に溺れていないわけではない。
天理が『良い子』だから、人助けをしているわけではない。
自分は、きっと。
「あたしは、生きてても良いのかなあって。お父さんとお母さんの娘に生まれるだけの価値が、あたしにもあったのかなあって、思えるから」
『ここ』にいて良い理由が、ほしいだけなのだ。
結界に視線を戻す。そしてまた、浮かべる。ほんの少しの苦みと嘲りを混ぜた、卑屈とも取れる笑顔を。
「だから――名無ちゃんが思ってくれてるほど、あたしは良い人じゃないよ」
言い訳のように、「ごめんね」と付け足す。
二人の娘に生まれたという事実を、呪いにしたくなかった。
だから、二人に恥じない自分で在らねばならなかった。
只人にはない力を持って生まれたからこそ、皆のためにそれを使わなければならないと思った。
それだけだ。
本当に、それだけだった。
「……そうですか」
それきり、名無はなにも言わなかった。
夜が過ぎていく。
結界の点検は十分とかからないうちに終わった。
同じ道のりを、取り留めのない会話をしながら引き返す。
「あふ……でも天理さん、こんな夜中に起きてて眠くないんですか?」
「んんー……あたし、ほんとは寝なくても生きていけるんだよね」
「えっ」
「なんならご飯も食べなくて良かったりする。えへへ」
「なにそれこわ……。え、半分は人間なんですよね? ってか普通の妖も何かしらは食べますよね? 仙人でも霞食べますよ?」
「不思議だよねーっ。お父さんもお母さんもそんなことなかったのに、なんであたしだけ大丈夫なんだろ? 体質かな」
「そ、そんなレベルの話じゃない気がしますけど……じゃあ、普段から寝ないし食べないんですか?」
「んーん。お父さんとお母さんに言われて、どっちもちゃんとやるようにしてる。『生きる』っていうのはそういうこと、らしいから」
両親の話をした。
「――あ、やば。あたし、そういえばまだ宿題やってない!」
「おおっ、宿題ですか! 憧れの単語……!」
「宿題が? なんで?」
「わたし、学校行ったことないんですよっ。そういう『学校らしい』単語にはなんとなく憧れがあります!」
「えっ、義務教育だよね!?」
「忍者には関係ないのです。わたしが今やってるのなんて完全に児童労働ですよ。しかも殺し。最悪すぎません?」
「た、たしかに……宿題に追われてる方がまだ絶対楽だよね。あたしは毎回後回しにしちゃうんだけど」
「ほへーっ、意外です。天理さんのことだから、真っ先に済ませちゃってるものだと」
「あはは、だったら良かったんだけどね。去年の夏休みなんて……うん」
「て、天理さんの目から光が消えていってるッ……!!」
「夏休み始まった時は『あと一ヶ月以上あるー!』って思ってたのに……気付いたら8月20日とかで……慌てて始めるんだけど、絵日記とかはもうどうしようもなくて」
「あ、ああ〜……」
「昔は人とそうじゃないモノの区別もあんまりついてなかったから、絵日記にうっかりそういうの書いちゃったりもしてたなあ」
「ホラー系の映画とかゲームでよく見るやつじゃないですか」
「それでお母さん呼ばれたこともあるんだよね。だからってわけじゃないけど、今でも苦手意識あるかも」
「わたしも絶対やらなさそう。っていうか書けないことが多くなりすぎちゃいますねっ」
「あはは、あたしも」
学校の話をした。
「……そういえば、もう何時でしたっけ?」
「ん、ちょっと待ってね。スマホ持ってきてるから――わ、三時だって」
「もう三時かあ。だいぶ経っ」
「『大惨事』だねっ。三時だけに!」
「……は?」
「いや、えと、ほら。『三時』と大『惨事』で……なんちゃって。てへへ」
「は ?」
「…………………………ごめんなさい」
「天理さん、そういうこと言うんですね……」
「うううっ!? ち、ちょっと言ってみたかっただけだよっ。そんな冷たい目で見ないで!?」
「じゃあ生暖かい目の方が良かったですか?」
「それもやだーーーっ!!」
他愛のない話をした。
山の闇を明るく練り歩いていると、向こうからぼんやりと光が見えてきた。町の光だった。深い夜の中にあっても、町のどこかには必ず明かりがある。真っ暗な山の中で、それは一際輝いて見えた。
「あ……」
声を、漏らす。
ここまで来れば忍花屋敷は目と鼻の先だ。元々距離はあまり離れていない――あくまで天理基準だが――とはいえ、いつもよりずっと短く感じた気がした。
「他にもなにかやることあるんですか?」
「ううん、なんにも。お疲れさま、付き合ってくれてありがとね」
「いえいえ! さっきも言ったじゃないですか――」
名無が、にっこりと笑いかけた。
「わたしが、天理さんのお友達になるって」
その花が咲くような笑みは、夜の中でもなお眩しく見えた。
「天理さんのことですから、お友達はたくさんいらっしゃるんでしょう。それでも、天理さんの秘密を知れたのはわたしだけです」
人差し指を自身の唇に当てて、名無は笑みをいたずらっぽいものへと変える。
「だから、こちらこそありがとうございます。抱えてたものを、少しだけわたしに見せてくれましたね」
「……名無ちゃん」
「さ、いきましょっかっ。屋敷に戻ってからも、わたしはたくさん天理さんの話が聞きたいです」
名無が、天理の手を取った。
「おおっ。天理さんの手、あったかいですね!」
「そ、そうかな?」
「ですです。『手の温かい人は心が冷たい』なんて話聞いたことありますけど、あれってやっぱり嘘だったんですねー」
「ふふっ。あれの根拠ってなんなんだろうね。あたしも心が冷たいのかもしれないよ」
「心が冷たい人は、こうやって手を繋いでくれないと思いますよっ」
なんてことのない話をしながら、家へ帰る。
そんな『なんてことのない話』が、今は心に染み渡るようだった。
誰も知ることのない夜の中。
月だけが、二人を見守っている。
◇
かくして、忍びを名乗る少女との奇妙な同居生活が始まった。
もっとも、名無は忍花屋敷に留まるつもりはなかったようなのだが――
「じゃあ、一回お家に帰るの?」
次の日の朝、朝食を食べながら問いかけると、
「そうですねーっ。そもそもお家自体ないので、その辺を適当に拠点にしつつ――」
「はい?」
「……あっ」
お箸を口に咥えたまま、名無は「しまった」という表情になった。
天理はそっとお皿とお箸を机に置いた。しん、と場が静まり返る。
「気のせいかな。今お家がないとか聞こえたんだけど?」
「あ、あはは。珍しくないんですよ、わたしみたいな忍者って。中には表の世とまったく関わらない仙人みたいな人もいてぇ……」
「そうなんだ。それで?」
「えっとお……自然が家みたいなものと言うかあ……」
「ふうん?」
「なのでそのお……わたしにとってはいつも通りの場所で寝泊まりしたいなー、なんて……あはは……」
「つまり野宿ってこと?」
「そういう表現も……ある、かも?」
天理はにこっと笑った。
名無もにこっと笑った。
「――ぜっっったいだめーっ!! 昨日も言ったけど、あたし許さないからね!? っていうかお家がないってどういうこと!?」
「に、忍者にはよくいるんですって! 脛に傷があるようなはぐれ忍びとか!!」
「どんな理由でもダメだよ! 風邪引いちゃったらどうするの!? もう決めました、名無ちゃんは春までここにいることっ! 決定!」
「ええ!? 一日泊まらせてもらっただけでも申し訳ないのに――」
「もんどうむようですーっ!!」
「そんなあー!?」
名無は色々言っていたが、まともに寝泊まりする場所もない同年齢の女の子を放り出すなど天理にとっては言語道断であった。
一時間ほど話し合いを続けた結果、折衷案として名無には家事などを担当してもらうこととなった。天理としては別に構わなかったのだが、「お言葉はほんっとーにありがたいんですけど、ここは譲れません。天理さんに溺れちゃうので絶対ダメです」とのことだった。
ともあれ――。
◇
それから、二人は一緒に暮らし始めた。
「……んみ……」
「あっ、おはようございます! すみません、まだ朝ご飯作ってる最中でして。改めて、今日からお世話になりま……天理さん?」
「ふあ……おはよー……」
「めっちゃ眠たそう!? ど、どうしたんですか? 寝不足ですか!?」
「んーん。体が寝るようにできてないから……たまに、あるんだ。どれだけ寝て良いかわからなくて……ずっと、眠気が……」
「そっか。そういうパターンもあるんですね」
「んゆ……今も……寝ぼけてる。名無ちゃんが見える」
「いやそれは寝ぼけてないです。昨日のこと忘れたんですか?」
「ほんもの〜……?」
「ほんものです。ってか天理さん今だいぶだらしない格好ですよわかってますかすごい目に毒なんですけど」
「わかった……きがえる……」
「わあわあわあここで脱ぐなここで!! 自分の部屋で着替えてください!! 今でもパジャマ半脱げだし!!」
「んみい……」
「脱ぎながら寝るなーーーっ!」
初めての朝は、ドタバタと訪れた。
◇
「た……大変なご迷惑をおかけしました……ううっ、あたしってばホント……」
「いえいえ。天理さんの意外な一面を知れて良かったですよっ。はい、朝ご飯です」
「わ、すごい!? これ、名無ちゃんが作ってくれたの!?」
「えへへ。拙い腕ですけど」
「ううん、そんなことないよっ。ありがとう、いただきます!」
「はい、どーぞっ。今日は学校ですよね?」
「うん。――美味しい!」
「なら良かったっ。帰りはいつ頃になりそうです?」
「夕方には帰ってこられるよ。連絡先交換しとこっか」
「良いですね、ぜひぜひ」
「……えへへー」
「どうしたんです?」
「誰かとお話しながら朝ごはん食べるの、久しぶりだなあってっ」
「……抱きしめて良いですか?」
「なんで!?」
「すみません、あまりにも健気だったもので……。でも、そういうことなら任せてくださいっ。わたしがいるとこれから賑やかになりますよ! 覚悟しておいてくださいね!」
「あはは。じゃあ、楽しみにしておくねっ」
賑やかな空気の中で食べる朝ご飯は、いつもより数段美味しかった。
◇
「ただいまーっ」
「おかえりなさい、天理さん。楽しそうですね。良いことでもあったんですか?」
「んーん。朝のお話と被るんだけどね。『おかえり』って言われるの、最近はあんまりなかったから――わ。ほ、ほんとに抱きつかなくても」
「大丈夫ですよ。これから毎日言ってあげますからねっ……!」
「う、うん。ありがとう……?」
「ところで天理さんって」
「なあに?」
「すんすん。やっぱりすごく良い匂いしますね」
「あ、ちょっ!? い、今はやめて!? あたしきっと汗かいてるから!?」
「そ、そんなに勢いよく離れなくても大丈夫だと思いますけど……」
「今日五限目に体育してきたばかりなの!」
「食いしん坊さんが地獄を見そうな時間割ですね。でも、汗の匂いなんてぜんぜんしませんでしたよ?」
「ううっ……そ、そう言ってくれるのは嬉しいけどっ」
「そもそも食事も睡眠も必要ない天理さんの汗って何でできてるんでしょうね。砂糖水とか?」
「それだとあたしべたべただよ!? っていうか、そんなに本気で考えないでよっ。ちょっと恥ずかしいし……!」
「むむ、はーい。じゃ、お風呂の準備先にやっちゃいます?」
「ありがとう。でも、お風呂とか晩ご飯の準備はあたしに任せてっ」
「えっ、ですけど」
「『友達』になってくれるんでしょ? じゃあ、二人で分担しなきゃだよ。対等なお友達ってそういうことだと思う」
「……。それ、甘やかしの達人にしてダメ人間製造マシーンの天理さんが言います?」
「なにそのあだ名!?」
「将来変な男に引っかからないようにしなきゃですよっ。天理さん、誰彼構わず一流のヒモに育てて上げてしまいそうでわたしはとても心配です……」
「あたしのことなんだと思ってるの……?」
「昨日わたしに言ったこと覚えてます? 『名無ちゃんはなんにもしなくて良いんだよ。ぜーんぶあたしに任せて!』ですよ。善意がデカすぎる」
「……あははー、なんのことかなーっ。もう忘れちゃったっ。さ、それより座ってて。準備できたら呼ぶから」
「露骨に目を逸らしてるじゃないですか!?」
「え、えへへ。じゃ、行ってくるね」
「はーい――って! ぬ、抜かりましたっ。つい流れで天理さんに準備を押し付けてしまったっ」
「ふっふっふ。あたしの勝ちだねっ」
「なんの勝負ですか……。にしても。いやあ、本当に楽しそうですねえ」
「そうかな?」
「ですです。ものすんごい勢いで耳と尻尾が揺れてるので」
「……ほんとだ!? あたしの尻尾って嬉しいと揺れるんだね!?」
「えっ知らなかったんですか!?」
「あたしの耳とか尻尾とか見えるの、お父さんとお母さんだけだったもん! あたしの気持ちに連動してたんだコレ!? わ、わあ〜……」
「んーっ……でも、可愛いと思いますよっ。ワンちゃんみたいで!」
「あたしは狐だってばーっ!?」
家へ帰るのが、いつもより楽しくなった。
◇
「夜の温泉通りって、案外明るいんですねえ」
「昔はもっと暗かったんだけどね。いつの間にか街灯がたくさん点いて、歩きやすくなったんだ」
「でも、人通りはぜんぜんないですよね。土日が嘘みたい」
「あはは、平日はこんなものだよ。それに、夜はあんまり出歩かない方が良いって皆なんとなくわかってるから」
「そうなんですか?」
「うん。だって、」
『 ァ 』
「――うわあああっ!? び、びっくりしました!! 誰ですかどちらさんですか妖魔ですか!?」
「こんばんは。今夜も良いお月様だね」
『ァ !』
「お……お知り合いですか? 天理さん」
「うん」
「何この……何? わたし見たことありますよこんな妖魔。見るだけで正気失うやつ」
「くねくね?」
「そう、それです」
『ァ』
「ふふ、そんなに怖いものじゃないよ。この子は人間とも仲良くなりたいって思ってるだけなんだ。ただ……その。ちょっと人間の真似が上手くいかなくて、ものすごい見た目になっちゃってるだけで」
『ァ……』
「いや中途半端に似てるせいで余計怖くなっちゃってるじゃないですか!?」
「――っと。名無ちゃん、肩失礼するね」
「へ? わ、っと……貂? いつの間に」
『キシャーッ』
「よく見て。目が赤いし、尾も三本あるでしょ。妖怪の一種だよ。よく人にいたずらして遊んでるんだ」
『フシャーッ!!』
「あははっ、なあに? くすぐったいよ」
「……めっちゃ怒られてません?」
「いつものことだよ。いたずらっ子さん、今日は何をしてたのかな?」
「よく肩に乗せて平気ですね……」
「もう結構長い付き合いだしね。昔から何度も遊んでるし。その電信柱の後ろにもいるのも友だちだし、あたしたちの真上にもいる子もそう。あ、そこの屋根にもいるね。あのベンチに座ってるのは顔馴染みの幽霊さん」
「……。魑魅魍魎のオンパレードじゃないですか」
「普通の人には見えないけど、それでもなんとなーく気配みたいなのは感じるのかな。だから、町の人はあんまり夜に出歩かないの。コンビニの夜勤とか、他の町と比べて時給がすっごく高いんだって」
「あれ、もしかしてここって怖い町だったりします?」
「あははっ、怖くない怖くない。本当に危険なモノはいないし、万が一に備えてあたしもこうやってパトロールしてるし。たまーに不思議な体験する人はいるけど」
「そもそも普通の町は『たまに』でもそんな現象起きませんからね!? やっぱり異常ですよ。なんか危ないものでも埋まってるんじゃないですか、この土地」
「そもそも『お狐様』自体、モデルになったモノは相当危険だったらしいねーっ。いわく付きの土地ではあるのかも?」
「えっ、『お狐様』って天理さんとかご両親ですよね?」
「そうだけど、そうじゃないんだよね。あたしたちはこの町に元々あったおとぎ話に乗っかっただけで……あっ、でも、たしかお父さんはすごい昔にもこの辺で暮らしてたのかな? その時の話がいろいろ混ざって伝わって、今の『お狐様』になったって聞いたことある気がする」
「町に歴史ありですねえ……じゃあ、本来の『お狐様』はぜんぜん違うお話だったんですか?」
「妖魔の一種だったらしいよ。一歩間違えれば日本って国はなくなってたかもしれない、ってくらいの。今はどこかへ行っちゃったみたいだけど……」
「とんでもない大妖魔じゃないですか!?」
「そういうモノが根付いてた土地だから、他の町に比べて妖が多いのかも」
「……なんだか」
「うん?」
「そう言われると、天理さんを中心にいろんな妖がいるのも百鬼夜行みたいですね。一昔前の漫画みたいというか。ほら、あれです。ぬらりひょん、妖の総大将――って、昔の漫画だし通じないか」
「あはは。あたしはクォーターじゃなくてハーフだし、姿とか性格が変わるわけじゃないけどね」
「読んでたんですか!?」
「人間と妖怪が混ざってるっていう設定、ちょっぴり親近感湧いちゃうよねっ」
「そういう感想になる人、間違いなく少数派だと思いますけど……」
『ァ』
『フシャーッ』
「わ、懐かしい! そんなこともあったねーっ!」
「なんて言ってるんですか?」
「あたしが妖の皆に読んでもらって、一時期百鬼夜行ごっこやってたっていう話! 懐かしいなあ」
「それはもう『ごっこ』じゃなくて本物の百鬼夜行ですからね!?」
同じものを視て話せる友だちがいるというだけで、こんなにも話が弾むことを、天理は今さら知った。
◇
「――おにはーっそとーっ!!」
「うわあ!? なになになに!? どうしたの名無ちゃん!?」
「なにって……節分ですけど?」
「今名無ちゃんが投げた豆、お庭に着弾して土煙上がってるんだけど。節分ってそんな怖い行事だったっけ……」
「もちろんあとで拾って洗って食べますよっ」
「うん、あたしが言いたいのはそういうことじゃなくてね?」
「ってわけで、天理さん! コスプレ用の巫女服と虎柄の鬼さんビキニ風衣装もらってきました!!」
「なんて???」
「どっちが良いですか? わたしとしては天理さんが着ることで超絶王道キュート狐巫女になれる巫女服も、露出度高めでちょっぴり勇気がいるもののその分天理さんの体型が映える鬼っ娘コスも両方捨て難いんですけど」
「待って待って待って???」
「あっ、両方着れば良いのか。わたしってば天才ですね!」
「話聞いてよっ!? そんなのどこからもらってきたの!?」
「天理さんのファンクラ……有志から」
「今ファンクラブって言いかけなかった!?」
「キノセイデスヨー。心優しい方が恵んでくれたんです。眼鏡をかけた若い女性の方で、今は教師をやっておられるんだとか。対価として秘蔵の写真を三枚ほど渡す羽目になりましたけど」
「もしかしなくてもそれ担任の先生だよね!? ……あれ、ちょっと待って。その写真って、」
「まあまあまあそんなことはどうでもよろしいのです。まずは王道の巫女服から。別室で着替えを――」
「着ないよ!? ぜ、絶対あたしなんか似合わないって!! 名無ちゃんの方が可愛いじゃんどう考えても――うわ力強っ!?」
「こっちのセリフなんですけど!? なんで
「名無ちゃんこそ力入れすぎだよ!! 普通の人だったら手ちぎれてるでしょこんなの!!」
「ぐぬぬぬ〜っ!?」
「か、肩外れちゃうってーっ!?」
「ぜえ……はあ……。な、何やってるんでしょうねわたしたち……」
「はあ……はあ……。ほ、ホントだね……」
「……ふふっ」
「……あははっ」
「なんだか疲れちゃいましたねっ。ごめんなさい、ムキになりすぎました。天理さんの気持ちも考えず、本当に申し訳ないです……お衣装も返してきますね」
「あー、うー……えっと、その。こっちこそ、ごめん。せっかく持ってきてくれたのに……名無ちゃんも一緒に着てくれるなら、その。良い……よ?」
「えっマジですか!?」
「食いつき早っ!? い、一緒に着てくれるならだよ!? 恥ずかしいけど、せっかく用意してくれたんだし……な、なんて……えへへ」
「――天使さんっ……!!」
「その呼び方やめてってば!? 着てあげないよ!?」
「あーっごめんなさいごめんなさい冗談です! ふふっ、やったあ。じゃ、天理さんの気が変わらないうちにっ」
「……すごいなあ。名無ちゃんは抵抗ないんだね? こういう、この、コスプレっていうのかな」
「わたし、可愛い女の子とお衣装が大好きなのでっ。じゃあツーショット撮りましょう!」
「……誰にも見せちゃダメだからね?」
「お金積まれても見せないですから安心してください!」
「逆にあたしたちの写真にお金積まれてる状況があったら怖いよ!?」
「え?」
「……えっ?」
「あっ、そっか。知らないのか。まあその方が本人の精神衛生上……」
「ちょっと待ってどういうこと!? もしかしてお金でやり取りされてるの!? 待って!? あたしたちの写真が!?!?」
「あたしたち、というか天理さんの写真が……いやまあ、それは置いといて」
「置いとけないよ!? ねえ本当に怖いんだけど!? なんとか言ってよ名無ちゃんっ!?」
「〜♪」
「掠れた口笛でごまかさないでええええっ!?」
くだらないこと――いや、天理にとっては決してくだらなくはないが――ではしゃいで、じゃれて、笑った。
◇
「おおっ。天理さん、今日はめちゃくちゃ気合い入れてエプロンしてますね。すっごく可愛いです、写真撮っておきますか。はい、チーズ。はーいありがとうございますっ。永久保存版ですね! ――それで、なに作るつもりなんです?」
「えへへ、あとでスマホ没収ね。作るのはバレンタインのチョコだよっ。クラスと先生の皆に渡すやつだから、今日くらいからもう作っておかないと」
「め、めっちゃノリノリの笑顔でピースしてくれたのに――って、全部手作りで渡すんですか!?」
「名無ちゃんがことあるごとに写真撮るから自然と出るようになっちゃったのーっ! とにかく、クラスの文化っていうのかな。ここの辺りって和菓子屋さんとかお菓子屋さん多いでしょ? 作れる子は手作りでチョコ交換するの。あたしも昔は市販のやつあげてたんだけど、なんだか申し訳なくなっちゃって」
「ファンサービス旺盛、これはアイドルの素質大ありと見ました! 次は指ハートでお願いしますねっ。ともあれ、なるほど。手作りチョコって重い印象ありましたけど、そういう文化もあるんですねえ」
「絶対しないからね? ……うーん。重いかな、やっぱり。あたし、お菓子屋さんってわけじゃないもんね」
「あっいえいえそういう意味じゃないですよ!? ただ、びっくりしただけです」
「あははっ、大丈夫だよ。気にしてないし、手作りって言っても、あたしは売ってるチョコを溶かして型抜きするくらいだから」
「ああ、なるほど。ちなみにどんなチョコを?」
「狐面の形のチョコ。実は毎年表情変えてるんだよ。今年は笑顔にしようかなーって。さっき作ったやつあるけど、良かったら食べる?」
「良いんですか!? わーい!! ――うん、おいしいです! でもこれ、ちょっと妖力こもってません?」
「えっ、嘘!?」
「人体に害があるわけじゃないと思いますけど……これは。本当に微弱ですけど、天理さんに言えないようなお薬っぽい感じがします」
「あたしに言えないようなお薬? なにそれ」
「え、えっとお……それはあ……
「う、うん。そうだけど」
「高校生……いえ、中学生になったらやめた方が良いと思います。軽い惚れ薬みたいになってますよこのチョコ」
「いや中学生になる前に名無ちゃんがあたしのこと殺しちゃうんでしょ……って、惚れ薬!? あたしの妖力ってそんな効果あったの!?」
「お父様の血が関係してるのかも。天理さん、いつか痴情のもつれで刺されたりしないでくださいね。わたし、本当に心配になってきました」
「あ、あたしだってそんなつもりないよーっ!!」
一緒に過ごす中で、ちょっとした軽口を交わせるようになるまで、そう時間はかからなかった。
◇
「この時代劇ってさ」
「はひ?」
「お煎餅飲み込んでから返事しようね。あとこたつで寝そべったまま、しかもスマホ弄りながら食べない。お行儀良くないよ? こぼれないように下にお皿敷いてるのは偉いけど」
「……んくっ。でもそういう天理さんだってこないだこたつで爆睡してたじゃないですか。尻尾だけ出して」
「うっ……そ、それを言われると弱いなあ」
「ふっふっふ。まっ、お互い気をつけましょう。で、時代劇がどうしたんですか?」
「名無ちゃんって忍者だけど、格好は普通だよね。こういう劇に出てくるような『いかにも忍者!』って感じの人もいるの?」
「ああ、いるんじゃないですかね? 忍び装束の他にも、忍法ってほどでもない昔懐かしの小技だったりも伝わってますよ。口の中に薬を仕込んでおくとか」
「えっ、それってもしかして自殺しちゃうやつ?」
「いえいえ、今はちゃんとした薬を仕込んでることが多いです。忍者の薬はすごいですから。たとえばわたしが持ってる……ええと……あっ、あったあった。これ、『兵糧丸』って言うんですけど」
「うん。今、絶対入らなさそうなとこからその包み出したね」
「忍者ですから。で、これを食べると」
「うん」
「千切れた手足くらいは生えてきます。ニュッて」
「そんなに!?」
「忍者の回復力があってこそ、ですけどね。普通の人が飲むと薬どころかとんでもないことになるんじゃないでしょうか」
「……忍者って、怖いなあ」
名無や忍者のことを、少しだけ聞いた。この頃にはもう、しっかりと向き直ることもなく、寝そべりながら会話をするほどに互いの存在は自然なものになっていた。
◇
「ねえ、天理さん」
「よ、ほっ。どうしたの? 名無ちゃん」
「今って何月でしたっけ」
「もう三月だねーっ」
「ですよね。――なんで三月にこんなドカドカと大量の雪が降ってるんですか!?」
「あはは、たまにあるんだよね。思い出したみたいにぶわーって雪が降ること」
「昨日まで晴れてたし雪もほとんどなくなってたじゃないですか! 朝起きたら一面真っ白でびっくりしたんですけど!?」
「ね。あたしもびっくりしちゃった」
「って言いつつ、固まってるわたしを横目に、爆速で装備整えていつの間にかスコップ構えてましたよね。歴戦の猛者の反応でした」
「お昼からまた降るらしいから、ある程度片付けちゃおうね」
「うう……天理さんは手慣れてそうで良いですけど、わたしは雪かきなんてやったことないから体中が既に痛いです」
「ふぁーいとっ。終わったら温かいものでも作ってあげるから、一緒にがんばろ?」
「ぐっ……て、天然上目遣いッ……ナチュラル悪女ッ……!!」
「あ、ここが終わったら温泉通りの方のお手伝いもするからね」
「やだーーーっ!!」
結局、雪かきが終わったあとも雪合戦をしたり雪だるまを作ったりして――。
◇
「ぜ……ぜんしんが……いたいです……」
「あはは……お疲れ様。でも、ありがとね。温泉通りの人たちもみんな感謝してたよ」
「それなら良かった……です。ま、まさか雪かきがこんな重労働だとは。こうしてこたつに入って温まってるだけでも節々が痛い」
「後半は遊んでた気がするけど……でも、慣れてないとしんどいよね。はい、お茶とお菓子。ゆっくり休んで」
「わーい……ありがとうございますう〜……」
「あたしもちょっと疲れたし、しばらくはゆっくりしよっかな。さすがにもう雪も止むでしょ」
「んー……おっ、テレビの天気予報見る感じ大丈夫そうですねっ。良かった良かった」
「三月にそんなたくさん降られても困るもんね。卒業式もそろそろなのに」
「そっかあ。もうそんな季節なんですか」
「あはは。名無ちゃん、お年寄りっぽいよ」
「天理さんだってこないだ『あれっ今日ってもう三月一日?』とか言ってたくせにー」
「あーあー聞こえなーいっ。なんのことかわかりませーん」
時間が経つのは、一瞬だった。
二人してこたつに足を突っ込み、庭から一面の銀世界となった外をぼんやりと眺める。山にほど近い場所にある忍花屋敷から、雪化粧でおめかしした町の姿が見下ろせる。
「でも、そっか」
その光景を、網膜に焼き付けた。
「もう、三月なんだよね」
――きっともう、二度とは見られないと思うから。
「……? どうしました?」
「ううん。なんか、あっという間だったなあって」
「そうですねえ。一瞬でした」
「卒業式まであと一週間くらいしかないって思うと、なんだか不思議な気分。ぜんぜん実感が湧かないや」
にへ、と耳を垂らして笑う。
「名無ちゃん」
「なんですか?」
「ありがとう。名無ちゃんと一緒にいたここ最近は……すっごく、楽しかった。良い思い出話になりそう」
「……。なら、良かったです」
「うん。良かった」
そろそろ。
名無と出会ってから、二ヶ月が経つ。
「……名無ちゃん」
「二度目ですね。なんですか?」
言葉は、思ったより自然に言えた。
「『いつ』にする?」
「――……」
「そろそろだよね。いつでも良いよ。あたしは、もう」
名無へ、優しく微笑みかけた。
「本当に、楽しかったから」
長い沈黙があった。まだ少しだけ雪が降っている。雪がはらりと地に落ちる、音のない音が、しんと耳に痛く響く。
「もう少しで、天理さんの誕生日でしょう」
ぽつり、と名無が言った。
「その日なんてどうです?」
「誕生日かあ」
「嫌ですか?」
「ううん。なんか、ロマンチックだなーって」
「……ロマンチックですか?」
「うん。すっごく」
「そ、そうですか……」
空気がほぐれる。重苦しくはなかった。いつか来るとわかっていたことだ。その『いつか』が、目の前に迫っているだけの話だった。
なのに。
「じゃあ、その日。最期に少しだけ、わたしに付き合ってください」
心が少しだけ、ざわめいている気がする。
気がするだけだ。
悟られないようにほんの少しだけ深く呼吸をすれば、それはすぐにどこかへ消えた。春を前にした雪のように。
「もちろん良いけど……なにするの?」
「内緒です。でも、」
そこで初めて、名無も笑った。
「――きっと。楽しい一日になりますよ」
◇
季節外れの大雪を最後に、いよいよ冬の面影が去り、温かな空気が仄かに香り始める。
卒業式を間近に控えた時期。
殺す者と、殺される者。二人の奇妙な暮らしにも、着々と終わりが近付いている。
――約束の春はもう、すぐそこだった。