戴天   作:灰汁

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遅くなりましたごめんなさい!!!


四話

 

 少しだけ昔の話だ。

 その日――天理は、地獄を見た。

 

 昔から、夜の山は遊び場みたいなものだった。

 日が暮れた後の山に光と呼べるものはほとんどない。町の夜とは抱えている闇の深さがまるで異なる。四方八方を夜闇に囲まれた中において、生半可な知恵や感覚はほとんど役に立たない。

 獣や虫、地形といった自然もまた、容赦なく人へ牙を剥く。ましてやこの山には、人ならざるものまでもがそこかしこに潜んでいるのだ。

 日常の外にある場所。いわば、『普通ではない場所』。それがこの町の、夜の山だ。

 そんな『普通ではない場所』に足繁く通えているのは、天理もまた『普通ではない存在』だからなのだろう。

 

「――……」

 

 山をそれなりに登った場所で、天理は一本の木にもたれかかっていた。

 この辺りは斜面が急で、ほとんど坂と言っても過言ではない。おかげで少し高い位置から町を見下ろすことができる。眼下に広がる町にはいくつもの光が浮かび、きっとそのひとつひとつで人々が何かを営んでいるのだろう。

 人の営みは、光を放っている。妖が闇の中で生きるのとは対照的に。

 かさかさ、と頭上から音がした。虫の類だろうか。ふと横を見れば、闇の中に青白く巨大な人の顔が浮かんで、どこかへと消えていく。妖だ。いつもと様子の違う天理を見守ってくれているようだった。遠くからアオバズクの鳴き声が聞こえて、心が少しだけ落ち着いた。

 天理は今日、十歳になった。

 クラスメイトや周りの大人に、自分が視ている世界のことを言わなくなってから、何度目かの誕生日だった。

『天理ちゃんはうそつきだよ』、なんて。初めて言われたのは、いつだっただろうか。

 不思議と怒りは湧いてこなかった。今でもだ。薄々、なんとなく、どこかで気付いていたのかもしれない。皆、あたしと同じものを視て生きてるわけじゃないんだって。

 ただ、――ただ。疲れたような、なにかを誤魔化すような苦笑いを浮かべて謝ったことだけは、覚えている。

 

「……そんなことないもん」

 

 視線の先には月があった。今の天理の頬みたいに、真っ赤な満月だった。

 

「あたし、変じゃないもん」

 

 ここに来てから、ずっと空を見上げていた。涙が零れなくて済むから。

 忍花屋敷から少し東へ向かったところに小さな神社がある。東へ向かうと言っても、屋敷から神社へ続く道があるわけではない。山を背に立つ屋敷から一度町へ降り、温泉通りに出る。そこを東へ進んで、また山の方角へ向かう必要があった。

『お狐様』が祀られているその神社へ、天理は毎日通っていた。

 すべての神社に神様がいるわけではない。神様だって住む場所の好みくらいはあるのだろう。『お狐様』が祀られている神社もそういうところだった。――そもそも『お狐様』自体が世間一般に言われる神様とはやや違う存在だと両親から聞いたのは、もう少し後のことである。

 だからと言って、その神社がなんの意味も持たない場所というわけでは決してない。

 そこは古くから町の人々に愛され、親しまれてきた神社だった。老若男女を問わず、町の人々の心が集まる場所である。

 天理も、その輪の中に入ってみたかった。

 休みの日はもちろん、学校の帰りにだって神社へ立ち寄っては、できる範囲で掃除などをしている。もう神職の方々にも顔は覚えられていて、たまにお菓子やお小遣いなんかをもらえたりする。そういう目的でやっているわけではないのだが、ともあれ天理にとってもその神社へ寄ることは生活の一部になっていた。

 今日はまだ春休みで学校もない。春の空気が薫る昼下がり、境内を動き回りながら、箒で石畳を掃いていた。

  管理はよく行き届いていたが、それでもゴミや埃はいくらでも湧く。それらを手早く掃いていると、境内に人がやってきた。

 身なりからして観光客のようだった。若い男で、手にスマートフォンを構えて、ニヤニヤと笑いながら「なにしてんの?」と言った。問いかけの形こそしているが、本当に疑問に思っているようではなかった。「うわー、真面目ちゃんだねえ」という言葉からは、嫌な粘つきがした。

 天理の返事を待つことなく、男は半笑いを浮かべて、早口でまくし立てた。

 その男曰く――。

 こんな場所で掃除なんてしている子どもは、きっと神様を信じているのだろうが、それはおかしいのだという。

 神などという非現実的なものを信じている人間は例外なくバカなのだという。

 まだ小学生なのにそんな宗教に洗脳されている天理は、可哀想なのだという。

 

「子どもの頃から宗教にハマっちゃうなんて勿体ないよね。かわいそ」

 

 言いたいことを一通り言い終えたらしい男は、そこで言葉を区切った。天理の返答を待っているのだということはわかった。どう答えても彼が納得することはなく、ただ天理のような人間をバカにしたいだけであるということも、また。

 声を荒らげて反論するような真似はしなかった。というより、できなかった。男のような人物を、今まで見たことがなくて、どう答えれば良いのかわからなかった。

 彼はきっと、想像もしていないのだろう。目の前にいる天理が、その『非現実的なもの』であるなんて。

 彼の目は曇っていた。他人を、自分が言い負かすための噛ませ犬くらいにしか捉えていない。人として人を見ているわけではないのだ。ましてや天理の本当の姿など、彼に視えるはずもなかった。

 

「なんで、そんなこと、言うんですか……?」

 

 震えた声で、そう返すことだけが精一杯だった。

 そこへ偶然、神社の神主が通りがかった。男の顔を見るなり、神主は血相を変えて眉を吊り上げ、天理が見たこともない形相になった。火花が散るような言い合いが始まって、どちらもわーっと怒鳴り立てるものだから、天理には二人がなにを言っているのかさっぱりわからなかった。

『警察』という穏やかならぬ単語だけは辛うじて聞き取ることができて、同時に男も舌打ちと共に神社を去っていった。忌々しげにその背を見ていた神主は、こちらへと向き直って天理と目線を合わせた。

 変なことされなかったかい、ひどいこと言われなかったかい、と尋ねられ、「大丈夫です」とだけ答えた。不思議と声は震えていて、その時はじめて、天理は自分が涙を浮かべていたことに気付いた。

 神主に聞くところによると、どうやら彼は動画を配信しているらしい。いわゆる『炎上系』『迷惑系』なるジャンルにカテゴライズされる配信者であるようで、罰当たりな行為によって再生数を稼いでいる。この神社にやってきたのは少し前からだという。天理以外の参拝客ともトラブルを起こしているらしかった。

『警察』の言葉が聞こえたのは気のせいではなかった。以前あの男がやってきた時は、まだ『次に来たら通報も視野に入れる』くらいの考えだったらしいが、天理にまで被害が及んだことでいよいよ我慢ならなくなったのだという。まさか小学生にまで絡み始めるとは神主にとっても予想外だったようで、顔を真っ赤にして、天理以上に怒りをあらわにしてくれた。

 何度も謝られたが、彼が悪いわけではないことくらい充分理解している。だから、気にしていないフリをした。自然に笑顔を浮かべられれば良かったのだが、神主の表情を見れば、それが上手くいっていないのはすぐにわかった。

 本当に気にしなくて良いからね、天理ちゃんはなにも悪くないからね、むしろ今の時代君みたいなのはすごく珍しい良い子なんだからね――と、繰り返し優しい声音で言われた。その言葉が優しければ優しいほど、心にじわりと染み込み、ことさらに涙が零れてきてしまいそうだった。居心地が悪くなって、天理はすぐに神社を後にした。

 ――あたしは、おかしいのかな。

 帰り道、そんなことを考えた。

 少なくとも、普通ではないのだろう。今さらなことだ。人間にはないこの耳も、尻尾も、力も、天理が両親の娘であるという証だ。

 だが、ああも悪意をもって自分の存在そのものを否定された経験ははじめてだった。

 ――じゃあ、あたしは、あの人にはどんなふうに見えてたんだろう。

 天理たちは、否定される側なのだ。

 これからも、ずっと。

 

 ――もし、あたしの本当の姿が見えたなら。

 ――『普通』の人は、どう思うんだろう?

 

 屋敷へ戻ると、両親が誕生日パーティをして待ってくれていた。純和風のつくりをしている屋敷の居間の、そこかしこに洋風の飾り付けがしてある。いかにも高級な座卓の上に、どどんと大きなケーキが置いてあるのはなんだか不思議な面白みがあった。天理はこのくすりと来るような面白みが大好きだった。年に一度、天理と両親と、三人だけの時間だ。

 だけど今日は、浮かべた笑みにも疲れが滲んでいる自覚があった。

「どうかしたのかい?」両親も、天理の様子がおかしいことに気付いたのだろう。父がそう尋ねた。「元気がないみたいに見えるけど」「疲れちゃいました? それとも、調子が悪いとか……?」

 今日のために、二人がせっかく用意してくれた場だ。自分のわがままで台無しにするわけにはいかない。

 心配そうに顔を覗き込む二人へ、天理は無理にでも笑って、「だいじょうぶ」と答えた。幸い、神社にいた時も目を腫らすほどには泣いていない。だから、跡は残っていないはずだ。今度は上手く笑えていると良いなと思った。

 両親は、ひとまずそれ以上なにも聞かなかった。

 

 日付が変わる頃、誕生日パーティはお開きになった。天理にとってはほんの少しの夜更かしだ。

 だが天理の体は本来睡眠を必要としない。だからなのか、時おり眠れなくなる日があった。今日のように。

 そういう時はこっそり屋敷を抜け出して、夜の山を登った。多分両親にはバレているのだと思うが、なにも言ってくることはなかった。

 山では、ただぼーっと散歩をしたり、そこに棲む怪異と遊びをして過ごしていた。遊びと言っても、人のそれとは随分違う。天理にもハッキリと言葉にはできないが、どこかおまじないのようなものだ。人が巻き込まれれば命の危険がある。

 そういうものに触れていると、心の中のギラギラした、目に痛い輝きが、するりと落ちていく気がした。温かな黒いものが心に寄り添ってきて、お布団の中にくるまっているように落ち着くのだ。

 光の中で生きていると、自分の形がくらんで、わからなくなる。眩しくて、頭痛がする。自分の奥にある白くないものまでもが、無機質に白くされてしまうようで、落ち着かなくなる。

 だけどずっと闇に浸っていたら、今度は自分の輪郭が薄く溶けて、見えなくなっていくのだろう。暗くて、耳鳴りがするのだろう。天理という存在そのものが薄くなって、きっと魂の底にある黒いものも、流れ出ていってしまうのだろう。

 朝も夜もどこか落ち着かない。だからどちらにも触れて、どうにか釣り合いを保っている。きっと、朝や夜の境目が一番心地良いのだろう。

 夕焼けか、あるいは朝焼けか。薄い闇を鈍く照らす光の中で、道行く人々が本当に人間なのかを知る術はない。人かもしれないし、そうじゃないかもしれない。だから、その時刻を『誰彼(たそがれ)』『彼誰(かわたれ)』と呼ぶ。

 朝と夜との隙間には、その両方のものが棲む。どちらなのかは、声をかけるか顔を見るまでわからない。そんな場所なら、きっと天理たちもありのままで生きていけるのに。

 そんな意味のない思考を巡らせたまま、ただ、月を見て過ごしている。気付けば神社でのことを思い出していた。虫のざわめきと、獣の息遣いと、妖の足音。柔らかく温い夜風が、胸に溜まった重たいものを虚空へと溶かしていく。

 それだけで、天理の心は少しずつ穏やかさを取り戻していた。

 夜の山はそれ自体が異界だ。

 乾き荒れた布を水に浸せば、それだけで潤いを帯びていくように。人の世が疲れた時は、人ならざるものたちの世に身を置くだけで、ある程度は気持ちがすっきりする。

 ――だから、気付いた。

 

「……!」

 

 赤い月を見上げていた天理は、ぴん、と耳を逆立てた。

 目を閉じ、耳にすべての意識を集中させる。草葉をかき分けて進むがごとく、雑音を取り除き『それ』のみを聞き取る。

 聞こえた。

 妖ではない。人の声だ。

 そう理解すると共に、天理は涙を拭って駆け出していた。風が吹いた。黒い風だ。天理という風が、山を一瞬にして駆けた。

 声が聞こえたのは、山のかなり深い所からだった。光に頼ることのない天理の視覚は、深夜の山であろうとほとんど昼と変わらない景色を映し出す。

 その中に、いっそう濃い『闇』を見た。

 声は、そこからしていた。

 

「た、たすけ……たすけて……たすけてください……たすけ……」

 

 木々の隙間が生み出す闇。そこに紛れるようにして、明らかに自然にできたものではない、さらなる闇があった。

 正確に言えば、それは闇ではなかった。――妖気だ。妖が放つ気。それが、闇のように視えているのだった。

 恐ろしく濃く、重い妖気だった。幽世の壁を超え、既に現世へ干渉し始めている。

 その闇から上半身だけを出すようにして、人が倒れていた。その様子は尋常とは到底言い難い。うつ伏せに倒れたその男の手足には、無数の黒い影がまとわりついている。天理は、さらに目を凝らし『視』た。

 闇を放つその怪異は、歪な人型をしていた。男の背後に、二メートルほどにもなる影がいる。人で言うところの頭に当たる部分が、引き伸ばされたかのように伸び、男に突き刺さっている。血は出ていなかった。だがそれは、男の無事を意味しているわけではない。

 

「たすけてください……たすけて……たすけて」

 

 男の声は虚ろだった。

 それしか喋ることができないかのように、うわ言のように、ずっと繰り返している。男が自分の意志で絞り出しているわけではない。

 天理の背筋に、ぞっと冷たい汗が走った。

 ――生き餌にされてるんだ。人間を呼ぶために生かされてる。

 ――いらないところを、今、食べられてるんだ。

 肉体ではなく、だが人が人として生きるにあたって恐らくはそれと同等に大切であろう何かを、あの男は貪られている。そこには一方的な関係があった。『弄ばれ、踏みにじられる側(人間)』と、『それをする側(怪異)』だ。

 それはまさしく、この世ならざる地獄の光景だった。

 感じる気配からして、あの影は恐らくはただの妖ではない。

 ――『妖魔』。

 両親から聞いたことがある。父のような妖とは一線を画する存在。言葉を持たず、感情を持たず、命を持たない。それは原始の怪異であり、妖たちの祖でもあると。

 災厄そのものであるが故に、彼らは自らの犠牲者を選り好みすることはない。人であろうと妖であろうとなんであろうと、妖魔にとっては等しく餌だ。

 それは、天理も例外ではない。

 だから近寄ってはいけない、と。妖魔についての話は、いつもそんな言葉で結ばれた。

 

「だいじょうぶですか!?」

 

 ためらいなど、わずかたりともなかった。

 返事は期待していない。だけど、妖魔の注意を惹くことはできるかもしれない。

 男と目が合った。そこで、天理はようやく気付いた。

 

「もしかして……神社の!?」

「たすけて……たすけて」

 

 妖魔に貪られているのは、昼間神社で会った男だった。妖魔に意識を割いていたばかりに、気付くまで時間がかかった。

 どうしてこんなところに、と考えを巡らせた瞬間に、心当たりが浮かんだ。山には結界を維持するための鳥居がある。あくまで結界の管理に必要な目印として建ててあるだけなのだが、見方によっては彼のような人間にとってはちょうど良い題材かもしれない。

 彼は登山用の装いをしていた。ここが忍花家以外立ち入り禁止であることを知らなかったのか、あるいは知った上で強行したのか。どちらにせよ、ここは相当な山奥だ。わざわざ夜に来ていることや、その装備から考えても、偶然迷い込んでしまったわけではなさそうだった。

 鳥居のある場所は結界の境目だ。少し向こうへいってしまえば、そこはもう妖魔たちが棲む世界である。

 恐らく、彼は越えてしまったのだろう。人の世界を。現世を。

 自業自得、と言ってしまえばそれまでだった。引き返す機会はいくらでもあったはずだ。危険を感じる瞬間もあっただろう。ここまで来ているのならば、立ち入り禁止であるという警告もまず間違いなく目にしている。

 天理も、この男について良い感情は正直なところ抱いていない。

 妖魔の餌食になった人間を救い出すとなれば、それこそ虎穴に入るが如き危険を伴う。滝壺に落ちている人間を助けるようなものだ。怪我のひとつやふたつで済めば御の字。下手をすれば、助けるどころか自分まで溺れ死ぬことだって有り得る。

 災厄とは、そういうものだ。

 妖魔とは、そういうものなのだ。

 

「――離れて!」

 

 それでも、天理は妖魔へ向かって駆け出した。襲われている側が何者だろうと関係ない。天理の両親なら、きっとそうしただろう。それだけが行動の根拠だった。

 男の傍にたどり着くなり、靴の裏で急制動をかけ速度を殺す。すぐさま地面に倒れ伏している男の手を掴むと、引っ張り上げるようにして妖魔から引き剥がす。

 信じられないほど重い手応えだった。今までこんなに抵抗のあるものを持ち上げたことはない。歯を食いしばって、地面が抉れるほどに踏ん張る。ぶちっ、ぶちっ、と蔦がちぎれるような音がした。男の体から影が離れた。抵抗がなくなった瞬間、引っ張り上げるための力すべてを足に回してその場から離れる。

 十メートルばかり距離を取ったところで、男を地面に寝かせた。

 

「しっかりしてください!」

「たすけ……たす……たた……たすけ」

 

 男は相変わらず虚ろな目で夜を見上げるばかりだった。天理のことさえ視界に入っていない。男の体を懸命に揺らす。

 

「あたしのこと、わかりますか!?」

「あ……ああー。たすけて……神社。神社の」

 

 男は、ようやく天理を見た。未だ拙く、不気味なまでに感情の籠らぬ声ではあったが、それは妖魔に言わされたものではない、たしかに男自身の言葉だった。

 息もある。天理を認識し、言葉を発することもまだできている。ひとまず胸を撫で下ろす。

 しかし、事態はなにも解決していない。妖魔の方へと視線をやった。

 その妖魔はヒトの顔を持たない。だから、『そう』表現するのも、きっと正確ではないのだろう。

 それでも天理には、その妖魔が憤怒の形相を浮かべているように感じられた。

 男の背後に立っていた、ひときわ大きな人型の影。その全身、至る所からぎょろりと人間の目が浮かぶ。甲高い声で、むちゃくちゃに、影が異形の叫びを上げた。森がざわめく。手当り次第に大きな影が周りの影へ腕を振り回し、蹴散らした。小さな影は真っ黒な液体めいて飛び散り、地面のシミと化す。巻き込まれた木々がへし折れ、轟音を鳴らした。

 風圧がここまで届くほどの威力だ。風に黒髪を弄ばれながら、天理の頬には一筋の汗が浮かんでいた。巻き込まれれば、人ならば即死。天理でも大怪我は免れないだろう。

 

「(このまま逃げても多分追ってくる。この人が怪異の法則とか、そういう発動条件に触れちゃったんだ。この人が死ぬか、あの妖魔が祓われないと、二人の因果は終わらない)」

 

 下手をすれば、男を追う過程で妖魔による被害が拡大する危険さえある。逃げるという選択肢はない。

 覚悟は、していた。駆け出した時から。

 瞳を閉じる。

 

「だいじょうぶ」

 

 助けるというのは、こういうことだと。

 

「あたしが、ぜったい助けます!」

 

 一度関わったからには、最後まで責任を持って介入し続けなければならないのだと。

 瞼の裏に、両親の姿が過ぎる。二人はそうやって人と関わり続けていたはずだ。その娘である天理もまた、無責任な助け方をするつもりはさらさらなかった。

 妖魔を祓うどころか、見たのだって今が初めてだ。町でたまに頼まれる除霊と同じようにやって良いものか。だが除霊など感覚でしかやったことがないし、それが妖魔に通じる可能性はどれほどだろうか。妖魔から感じる圧は半端なものではない。天理が今まで相対したどの妖や幽霊よりも厄介なのは間違いないだろう。

 それでも、やるしかないのだ。

 目を開ける。腹はとうに括っていた。

 天理と影が駆け出すのはほとんど同時だった。

 一瞬で互いの距離がゼロになる。

 

「(――速っ、)」

 

 天理の身体能力は圧倒的だ。全力で走れば、世界のすべてがスローモーションで流れていくかのような感覚さえ覚える。加速した世界で、天理以外のすべては時間を止めていた。

 だからこそ、その止まった世界の中で妖魔だけが呼応するように駆け出したとき、天理の思考は一瞬で吹き飛んだ。

 何かを考えて突っ込んだわけではないが、その出鼻を挫かれる。明確な『隙』が生じた。

 影が天理の顔目掛けて手を伸ばした。うなじにピリピリとした感覚が走る。直感した。捕まれば顔を握り潰されて死ぬ。

 恐怖――は、感じなかった。

 それ以外の何かが、天理の体を突き動かす。

 再び足で地面を蹴る。慣性を殺し、余った勢いで真横へ飛んだ。蹴り飛ばした土が衝撃で爆ぜる。ゴロゴロと転がる。天理の髪が数本空を舞う。赤い飛沫がぽたぽたと跳ねた。

 

「つ……うっ……!」

 

 起き上がった天理は激痛に呻いた。見れば右腕の袖がざっくりと破れている。熊にでもやられたかのような裂傷があった。前腕が丸ごと赤く染まり、今もなお出血が止まっていない。

 顎から雫が垂れた。咄嗟に拭うと、手のひらがべったりと赤くなった。頬から血が伝っているのだろう。しんと静かな夜の空気が傷跡を弄ぶ。歯を食いしばるほどの痛みが走った。

 見くびっていたつもりはない。最大限警戒していた。だからこそこれで済んでいる。

 

「(あたしより、ずっと速いっ……!!)」

 

 天理をも上回る速度となれば、下手をすると音速を超えている。

 妖魔の攻撃をまさしく間一髪躱したように思えたが、その一挙手一投足には強烈な衝撃波が伴う。それが天理の体を引き裂いたのだ。

 ずずん、と地響きがした。二人の加速した世界に物理現象がようやく追いつき、妖魔の背後の木がなぎ倒される。周囲の状況はめちゃくちゃだった。地面は抉れ木はへし折れ、まさしく天災が過ぎ去った後と言わんばかりの様相を呈している。

 

「(……痛い)」

 

 転ぶどころか、車に跳ねられたって傷ひとつ付かない体だ。血が出ることなど、これからの人生でそうそうないとなんとなく思っていた。

 

「(今まで、よくわからなかったけど)」

 

 怪我をしたら、ちゃんとこんなに痛いんだな、なんて。そんな取り留めのない考えが浮かんだのは、痛みから少しでも目を逸らそうとしているのだろうか。自分でもよくわからない。

 ゆっくりと立ち上がる。右腕はだらりと垂れ、それに沿って血が落ちた。

 

「(右腕は、もう使えない)」

 

 だから、左腕でなんとかするしかない。

 

「(どうせ使えないなら――)」

 

 傷が、焼け付くような熱を帯びていく。

 同じように、思考が冷たく冴えていく。

 血と一緒に、余計なものも流れ落ちていくようだった。

 頬がズキリとひときわ強く痛んだ。だがその痛みさえ天理の思考を妨げる障害にはなり得ない。

 だから、天理は気付かない。

 ――自分が、笑っていたことなど。

 右腕は死んだ。普通には使えない。なら、普通ではない使い方をすれば良い。

 頭の中が透明になっていた。例えるなら、今まで知覚すらできていなかった雑音や思考の壁が、綺麗さっぱり取り払われて、音もなく脳が回転しているような。

 加速する思考を待つことなく、天理は再び駆け出した。

 影は動かない。

 ようやく妖魔の指が動いた。だがそれは、先程と比べればあまりにもゆっくりと、

 

「(違う)」

 

 さらに世界が加速していく。

 どこまでも。

 影よりも早く。

 思考速度を超えて。

 ――音を置き去りにして。

 

「(『今は』、あたしの方が速いんだ)」

 

 今まで全力で動いていたつもりだった。だから、自分の限界は『そこ』なんだと決めつけていた。

『そこ』を、天理は飛び越えていた。なんでもない石ころを跨ぐように。

 叫び散らす影に対し、今度は体より先に右腕を突き出す。体ごと拳で殴りかかるような姿勢だ。影が迎撃する。天理の拳を、手のひらに当たる部分で掴み取った。それでもなお片手では止めきれず、両の手のひらを重ねるようにして衝撃を殺す。

 天理に跳ね返った反動は大きかった。まともに力の入らない右腕を、音速以上の速さで、体の捻りによって叩きつけたのだ。脊髄が跳ねるような嫌な痛みが走った。腕の骨が砕けたかもしれなかった。

 それのみならず、天理の拳に、無数の赤い筋が稲妻型に走る。筋から噴水のように血が飛び散る。傷は手の骨に一瞬で達し、無数のヒビを刻みつけた。

 嗤い声が聞こえた気がした。しかしそれは果たして、

 

「捕まえた」

 

 自分か、妖魔か。どちらの声だったのだろう。

 天理の目が赤く輝く。真紅の光が二つ、夜の闇に尾を残した。

 この攻撃でどうこうしようなど端から考えていない。むしろ、右腕がまだくっ付いている事実に天理は肩透かしを食らったような気分になっていた。

 どうせもう使えない腕だ。一本くれてやる代わりに、ほんの少しだけ隙を作ることができればと思っていた。にも関わらず、妖魔は天理の腕を飛ばすどころか攻撃を受け止めるだけで精一杯のようだった。

 どちらにせよ、逃がすつもりはない。

 地を蹴る。体を浮かせた。目線が影よりも高くなる。赤月を背負い、妖魔の首を左手で掴んだ。

 その左手から、炎が迸った。

 ただの炎ではない。外炎は夜の闇よりなおどす黒く、しかし内炎は血よりも赤い。炎心だけが白い輝きを放っている。

 

「(わかる。どうやれば良いのか)」

 

 幽世に棲む人ならざるものは、その身に強い気を宿す。言葉にすれば『妖気』だ。

 だが『妖気』とはあくまで仮の名でもある。人の言葉で表現するならば、辛うじてそれが近かろうというだけである。

『それ』は怪力乱神の源であり、現世の法則に依らぬ力だ。ゆえに現世に生きる人は怪力乱神を語ることはできない。『それ』をはっきりとは言葉にできぬからだ。言葉にはできぬゆえに、理解もまたできぬ。理解できぬがゆえに、人は『それ』を畏れる。

 ――当然、天理にも『それ』は宿っていた。

 

「(覚えてるんだ)」

 

 使おうと思ったことは、ない。その発想自体がなかった。自分に『それ』が宿っていることを知らなかった。考えてみれば、妖を父に持つならば当たり前の話であるはずなのに、天理は『それ』を不自然なほど綺麗に忘れていた。

 だが、誰に教わるでも、何を考えるでもなく、赤子がやがてひとりで歩き出すように。

 天理は、『それ』の使い方を理解した。

 赤黒い炎が、天理の手から妖魔へ流れ込む。影の全身が地獄の炎で包まれる。狐火――と呼ぶにはあまりに禍々しすぎる焔が、妖魔の存在そのものを焼いていく。

 妖魔が叫ぶ。それをも上塗りするように、天理は声を上げた。それは咆哮にも似ていた。鬼神の焔が天理の全身から立ち上った。

 妖魔の首を後ろにへし折る。馬乗りの姿勢で押し倒す。その脳天ごと地面へと叩きつけた。山が揺れ、夜鳥たちが一斉に飛び立つ。蜘蛛の巣状に大地がひび割れた。そのひびから炎が伝って、周囲一帯を包む。赤と黒に彩られた禍々しい炎が、天理と妖魔を囲み円形に噴き上がる。

 

「――ッ!?」

 

 炎に身を焼かれながら妖魔がもがく。本能的に首を傾け、『それ』をかわす。

 天理の全身に無数の棘が突き刺さった。

 妖魔が地面に叩きつけられたまま、ハリネズミめいて全身から巨大な影の棘を伸ばし、天理を貫いたのだ。顔を逸らすのがあと一瞬でも遅れていれば、確実に両目を奪われていただろう。

 しかし、影に接していた両手や天理の体にその棘をかわす術はなかった。

 手に突き刺さった棘は、手首を貫いて天理の肉と骨をぐちゃぐちゃにした。肩や脇腹、鳩尾、太ももから足首に至るまでもが貫かれている。滲んだ血が服の繊維を埋め尽くし、地面へと零れ落ちる。

 

「、」

 

 痛みによる絶叫。湧き起こる恐怖。溢れる涙。

 ――『普通ならば(・・・・・・)』噴出するはずの反応の、その一切を天理は行わなかった。

 痛みを感じていないわけではない。恐怖と表現して良いのかはわからないが、一手間違えれば死ぬという事実は理解している。文字通り骨の髄までをも貫く激痛が、天理に『死』の現実を否が応でも教えてくれている。

 だから天理は、無自覚のまま、笑みをいっそう深くした。

 血に彩られた凄絶な笑顔を浮かべ、進む。『死』へと。

 漆黒の尾から、赤く黒く穢れた死の炎を放つ。その反動を使って全身ごと左手をさらに押し込む。地面に刻まれた蜘蛛の巣状のヒビが一回り大きくなった。際限なく高まり続ける少女の殺意に呼応するかのように、辺りを囲む焔が、天をも飲み込まんばかりに勢いを増した。

 当然の帰結として、刺さった棘がさらに食い込む。いっそう血が噴き出る。神経そのものを貫かれる責め苦が天理を襲う。当たり前の話だ。それがどうした(・・・・・・・)

 退くな。

 退けば死ぬ。

 ここで――。

 甲高く澄んだ、金属音にも似た音がした。

 妖魔の動きが止まる。その体にまとわりついていた地獄の炎に、ほんのわずかな『切れ目』ができた。ひとつ。ふたつ。みっつ。数秒経つと、数え切れないほどの切れ目が浮かび上がる。

 切れ目は赤白い光を放っていた。

 天理はぽつりと呟いた。

 

「 【◻️◻️】 」

 

 ――それが『斬撃』であると気付ける者は、この場にはいなかった。

 いたとしても、それを理解するのは首を落とされた後だっただろう。

 無数の斬撃が、妖魔を、木々を、世界を断つ。何本もの大木が真っ二つになり、地響きを立てて倒れ伏した。地面に無数の斬撃跡が刻まれ、土煙が舞い上がる。斬撃が風圧を生み、周囲の空気を土煙ごと斬り飛ばした。

 剣ではない。何でもない。強いて言うなら、それは妖気による斬撃だった。不可視にして、物理的な法則の尽くを踏みにじる幽世の斬撃である。影に刻まれた『切れ目』はその跡だった。

 ぱしゃり、と妖魔がその形を保てなくなり、地面に飛び散り黒いシミとなった。

 天理の体に埋め込まれている無数の棘だけが、かつて妖魔であったものの形を保っていた。

 

「はあっ……はあっ……」

 

 天理たちと、それらを囲み迸っていた赤黒い炎が、ふっと風に煽られて消える。天理の瞳から、赤い輝きが抜けていく。その顔から、ようやく不吉な笑みが落ちた。

 全身を貫く痛みはいっそう増すばかりで、どこが痛むのかなどとっくに定かではない。思考を揺らす激痛の中で、しかし天理は、それよりも強い高揚感を覚えていた。

 斬ろうと思ったわけではない。

 ただ、ありったけの妖力を振るっただけだった。天理の力は自動的に幾閃もの斬撃の形を成し、周囲の尽くを一瞬にして斬り捨てたのだ。

 晴れた青空の下で、誰にも、何にも縛られることなく。自分の意志だけで、好きなだけ、好きなところまで走り続けたあとのような。全身から流れる血は、言うなれば火照りを鎮める汗だ。迸る激痛も、この身を包む死の気配さえも、何もかもが心地良かった。

 

 天理はその場に座り込むと、自身の腕丸ごとにもなるほどの大きさの棘たちをゆっくりと引き抜く作業を始めた。斬撃の対象に棘を含めなかったのは、こうして引き抜きやすくするためだった。

 妖魔を祓っている最中はまるで気付かなかったが、手のひらに刺さった棘は二の腕を通って肘から突き出ている。運良く関節からは逸れていたらしく、ある程度肘の曲げ伸ばしができることは唯一の幸いだった。

 だが、それを片手で抜き取るのは相当の労力と苦痛を伴う作業である。右手のものから抜こうとしたのだが、まず左手に刺さった棘と溢れ出る血が邪魔で上手く握ることができない。

 一瞬面倒だからやはり腕ごと切り落とすべきだったかと思ったが、よくよく考えれば片腕を失った時点でもう片方の腕の棘を抜けなくなる。先ほどのように意味のある捨て札としてならばともかく、両親からもらった体を無意味に傷付ける真似もしたくなかった。

 頭に回す分の血が足りないのか、どうにも思考が鈍い。眠気にも似たこの感覚に従えば、恐らく二度と目覚めることはできないだろう。急がなければ、と試行錯誤する。

 左手のみならず、尻尾を巻き付ければどうにか棘は抜けそうだった。

 刺さったものを抜く時には、刺された時と同じだけの痛みを伴うという。同い歳の子どもはもちろん、大人であろうと既にショック死は避けられないほどの苦痛が天理を襲っている。表情ひとつ変えないまま、天理は引き抜いた棘を無造作に地面へ放り投げた。抜けた棘はすぐに夜の闇に溶けていき、付着していた血だけが地面に溜まった。天理は一瞥もくれず、既に次の棘へと手を伸ばしていた。

 同じ要領でもう片方の棘を抜き、とりあえず両手を自由にした。右手は砕けていたが、ひとまず動かせないわけではない。筋肉と神経が繋がってさえいるならば、激痛と引き換えにとりあえずは動く。

 ぎゅっと手を握り込むと、穿たれた肉の隙間から圧力で血が飛び散った。何度かそれを繰り返す。既に天理の全身は血で汚れ切っていて、白い肌はもうほとんど見えない。だが、いくら頑丈な体とてひたすらに血を流していれば、いずれは死ぬ。早急に対処する必要があることは、本能的に理解できた。

 おびただしい出血が傷口の目視を困難にしている。だが、こうして血が飛び出ているならばそこが傷口だ。妖力を回し、代謝を活性化させ、止血した。自分の力をこういう風に使えるなど天理は露も知らなかったのだが、体は勝手に動いていた。

 人が意識的には呼吸をしていないように、天理の体は妖気を使って自己修復を始めている。刺された瞬間に飛び退いていれば、恐らく再生が間に合わず失血死していただろう。

 人間の治癒速度と比べれば何百倍速もの早回しに思える再生とはいえ、それでも瞬時に傷が治るわけではない。大きな棘からゆっくりと動かし、時おり抜き切らず手を止めては再生を待つ。それだけ激痛は長引くが、そうしなければ出血で死ぬのだから仕方がない。やはり天理は一切表情を変えず、淡々と作業を進めた。

 無表情を通り越して、もはやその顔からは生気が失われていた。瀕死状態にあるから、というわけではない。むしろ既に致命的な傷はあらかた塞がっていて、ひとまず命の危機は脱しつつある。

 だがそれ以上に、今の天理のかんばせには、なんの感情も浮かんでいなかった。幼さゆえにまだ目立たないだけで、元来平凡と呼ぶにはいささか優れすぎた容姿の持ち主ではあるが、今はそれがかえって一種の不気味さすら漂わせていた。予断を許さぬ重傷でありながら、苦痛の一切を表に出さぬその姿は、精巧な人形にも似ている。

 ちょうど最後の棘を引き抜き、放り捨てた辺りで、妖魔に襲われていた男がゆっくりと目を開けた。

 

「……ここは、」

 

 男の声を聞いた途端、天理はハッと息を飲んだ。作り物めいた表情に人間味が宿る。ほおずき色の瞳が、先ほどの妖しいそれとは違う、穏やかな光を放った。

 

「――気がついたんですかっ?」

 

 天理とは対照的に、男にはなんの外傷もなかった。周囲一帯を斬り刻んだ斬撃に男だけは巻き込まれていない。単なる偶然か、それとも無意識に男を斬撃の対象から外したのか。天理でさえ今となっては思い出せない。

 

「だ、だいじょうぶですか? 怪我とか、してませんか? ここがどこか、わかりますか?」

 

 天理は不安そうに眉をハの字に曲げ、地面に手をついて男の方を見た。誰がどう見ても天理の方が重傷である――少なくとも、外傷という意味では――のだが、妖魔に攫われた以上、その傷の軽重は見た目だけでは判断できないものだ。

 男が寝転んだまま、ゆっくりと天理の方を見た。その瞳には、人間らしい正気の色が見て取れる。天理はほっと小さく息を吐き、胸をなで下ろした。心を壊される前に、なんとか助けることができたらしい。

 しかし男の顔が、瞬く間に恐怖で引き攣った。

 

「ひ……ひいっ」

「ど、どうしました!?」

「来るなっ。来ないでくれぇっ!!」

 

 天理が慌てて立ち上がり、駆け寄ろうとすると、男も同じように体を起こそうとした。腰を抜かしているのか立ち上がれずに、手だけを後ろについて後ずさる。

 その目には、はっきりと、怯えが浮かんでいた。

 他ならぬ、天理に対して。

 最初は、自分が血で汚れているからかと思った。

 だが、そうではなかった。

 男はやがて切断された木の幹に体をぶつけると、今度は亀のように体を丸めた。後頭部に両手をつき、自分の頭を抱え込むと、ひい、とも、ひえ、とも付かぬ呻き声を漏らす。

 

「た、頼む……お願いします……見逃してください。助けてください。もうこんなことはしません。だから……神様……」

 

 ぶつぶつと、呟いている。

 

「お願いします……お願いします。『こんな化け物』に襲われて、死ぬなんて」

 

 ――ああ、と。そこで天理は、ようやく、合点が行った。

 通常、人間が幽世のモノを視ることは叶わない。なにか特殊な条件でも揃っていない限り。例えば、今この瞬間のように。

 既に時刻は深夜の二時を過ぎている。いわゆる丑三つ時と呼ばれるこの時間帯は、現世と幽世の境目が曖昧になることで知られる。そういう時間に、こういう場所に来ているのだ。彼が妖魔に目を付けられた理由も、恐らくはそれだ。様々な条件が重なった結果、山に棲む妖魔を視てしまったのだろう。

 つまり、今の彼は幽世に対する五感を一時的ながら得ている。

 思考が、先ほどまでとは違う意味で、ひゅっと冷えていく。

 自分は――。

 何をしていたのだろう?

 これほどまでに血を流し、痛みを感じながら、おおよそ人間らしい反応のひとつも出ない。今でも、人として発すべき反応が、なにひとつとして浮かんでこない。

 自分でも信じられなかった。胸の奥が底冷えした。自分が、自分ではなくなってしまっていたのではないかとさえ思った。

 言葉を忘れ――。

 感情を忘れ――。

 命を忘れ――。

 そんな天理を、男は、どう視たのだろう。

 わかっている。決まり切っている。

 だから、男は天理のことを『そう』呼んだのだ。

 

「ひいいいいっ……」

 

 ――『もし、あたしの本当の姿が見えたなら。普通の人は、どう思うんだろう?』

 神社からの帰り道で過ぎった疑問の答えが、期せずして目の前にあった。

 天理の表情が崩れた。

 悲しんでいるような、悔やんでいるような。体から発せられるそれではない、どこか別のところから感じる痛みを、こらえるような。

 

「……ごめんなさい。怖がらせて」

 

 天理はかがみ込んで、男に手を掲げた。

 男の震えが止まる。やがて、静かな寝息だけが聞こえてきた。穏やかな呼吸だった。

 

「ごめんなさい」

 

 天理の顔は、曇り尽くしていた。

 

「ごめんなさい――」

 

 それしか、言葉が見つからなかった。

 

 赤い月と、崩れた山だけが、天理を嘲笑うように佇んでいる。

 

 

 ――はっと、目が覚めた。

 遠くから、ちゅんちゅんと鳥の声がした。真っ先に目に入ったのは窓から差し込む光だった。寝ぼけた思考が、それを朝日と理解するまで、ほんのちょっぴりだけ間があった。

 ばさっ、と音を立て、布団から上半身だけを起こす。鳥の声の他にはなにも音がしない。静けさが肌の奥に染み込む。反射的に目覚まし時計を見る。時刻は朝六時。外があまりにも明るいものだから一瞬寝坊を疑ったが、単に春がやってきて、日の出も早くなりつつあるだけらしい。

 はあ、とため息を吐いて顔の半分を手で覆った。

 

「……なんで今さら、こんな夢見るかなあ」

 

 天理が、初めて妖魔と出会った時の――『何もできなかった時の話』だ。あまり気持ちの良い夢ではなくて、朝から少しだけ気分が滅入った。

 山で妖魔と出会った時、『天理はなにもできなかった』。『辛うじて男を逃がして妖魔の攻撃をいなすのが精一杯だった』のだ。

『間もなく両親が助けに来てくれて、妖魔を一瞬で祓ってしまった』。

 妖魔退治は、普段天理が町の人々に請われてやるような除霊などとはまるでわけが違う。一歩間違えればどんな被害が出るかわからない、命懸けの仕事だ。幼い天理がこなせるはずもない。『その時だって、両親と妖魔の戦闘の余波で山にそれなり以上の被害が出ている』。『後日その現場を見たが、ぞっと背筋が冷えたものだ』。『多分天理が本気で力を振るったとしても、これほどの爪痕は残せないだろう』。

 幸いというべきか、男に目立った外傷はなく、後遺症もほとんど残らなかった。記憶の混濁くらいはあったようだが、数ヶ月も療養していれば、身体的にも精神的にも問題ないレベルの快復が見られた。唯一当時の記憶についてだけが戻らなかったが、本人にとってはそれこそ幸いだろう。妖魔と関わった記憶など、常人が持っていてもなにひとつ良いことはない。

 彼はあの事件以来、炎上系動画配信者の界隈から綺麗に足を洗ったらしい。少なくとも視聴者の気分を害する動画を投稿することはなくなり、まっとうな配信者として活動しているようだった。後日神社の方へ謝罪に来ていたらしく、神主経由で聞いた話だ。

 天理にも一言謝ろうとしていたようだが、それは叶わなかった。妖魔からの呪いによって、天理は男以上の大怪我を負ってしまっており、快復するまで屋敷から出られなかったからだ。

 重傷としか表現しようのない天理の容態を見て、現場にやってきた母なんかは卒倒せんばかりだった。

 事情を知った両親からはこっぴどく叱られた。それはもう、後にも先にもあんなに怒られたのはあれきりだと思うくらいに。

 あれから二年。たった、というべきか、それとももう、というべきか。どちらにせよ、今の天理にはどこかモヤのかかった(・・・・・・・)遠い思い出のようにも感じられた。

 

 よりにもよって今日こんな夢見なくてもと、自分でも思う。夢など得てしてそんなものだと言えば、それまでなのだけれど。

 いつかの夢へ思考を巡らせるのも程々に、まずは朝の準備をしなければと布団から出る。寝間着を脱いで着替えているところに、

 

「――おっはようございまーすっ!!」

「うわあああっ!?」

 

 すぱあーんっ、と音を立てて部屋の襖が開かれた。天理は下着姿のまま、反射的に服を持った手で体を隠した。

 開け放たれた襖の方を見ると、そこには名無の姿があった。

 

「あ、お着替え中でした? これは眼福……じゃなかったです、失敬」

「そう思うならせめて声くらいかけてよっ!?」

 

 尻尾と耳を逆立てて天理は言った。どこまで真剣に聞いてくれているものか、名無はにへへーっと頭をかいて笑う。

 

「いやあ、すみません。でも天理さん、いつもこの時間には起きてるじゃないですか。逆に寝坊してる時は昼頃まで起きてきませんし」

「そ、それはそうかもだけど……はあ、びっくりした。名無ちゃんの方こそどうしたの? こんな朝早くから」

「どうしたの、って……ま、まさか忘れちゃったんですかっ。わたしとの約束!」

 

 捨てられた子犬みたいな表情を名無がするものだから、天理は思わず苦笑を浮かべていた。

 

「覚えてるよ。もちろん」

 

 既に冬が過ぎ去って、季節は春を迎えていた。四月初頭にあたるこの日は、天理にとっては思い出深い日でもある。

 

「今日は、」

「そうです!」

 

 天理は今日、十三歳になった。

 二人、同時に口を開いて、

 

「――名無ちゃんがあたしを殺す日だよね?」

「――卒業兼誕生日祝いでわたしと一緒に遊園地に行く日です!!」

 

 バラバラの言葉が重なった。

 

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