戴天   作:灰汁

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六話

 幽霊を怖いと思ったことはあんまりない。

 

『あんまり』というのは、つまりまったく怖くないわけではない。

 たとえば悪霊や怨霊の中には――そこへ至るまでの過程は様々だが――半自動的に呪いや祟りを振り撒くようになってしまったモノもいる。

 さしもの天理も彼らに近寄ればタダでは済まない。少しばかり呪われたくらいでどうにかなるような体ではないけれど、霊的に干渉されればしんどいものはしんどいし、物理的に攻撃されれば痛いものは痛いのである。

 とはいえ、天理が彼らに感じる恐怖は災害に対するそれとほとんど同じだ。

 地震、雷、火事、大風(おおやじ)、幽霊、物の怪、魑魅魍魎。天理の中ではすべてが同じ括りにあって、少なくとも人間のように怪異だけを特別に恐れることはない。やはりそれは、天理が半分はそちら側であることも関係しているのだろう。

 

 一方で、人々が幽世の存在を恐れる事実も知識として理解はしている。

『ソレ』はいつもそこに在って、妖とか神とかといった括りはヒトの尺度以上の意味を持たない。

 和むソレを畏れ、また荒ぶるソレを恐れる。

 表裏一体の『おそれ』がヒトとソレを結びつけ、故に怪異は恐ろしく見えるのだという。

 

 天理はその(あわい)に生まれ落ちた。

 だから人よりはちょっとだけ妖のことがわかるし、妖よりはちょっとだけ人のことがわかる。

 だけど人ほど人をちゃんとわかっているわけではないし、妖ほど妖をちゃんとわかっているわけでもない。

 あくまで『知識として』知っているだけで、そのどちらの立場にも、身の底からは寄り添えないのだろう。

 

 ――理解していた、つもりだった。

 

 木造の床が軋む音だけが暗闇に響いている。

 ふと視線をあげると、等間隔に設置された蛍光灯が黄色く濁った光を吐き出している。チカチカと頼りなく瞬く明かりのせいで、遠い闇の輪郭がいつもより大きく見えた。

 手に持った懐中電灯から伸びる光の筒が、歩みに合わせ上下に揺れて、暗闇から景色をすくい上げる。所々が剥がれ落ちた緑の掲示板。窓の割れた教室。高窓から伸びる掠れたプレートには、多分『一年三組』と書かれているのだろうか。

 古い廃校の廊下である。辺りを覆う闇はドロリと粘るように濃く、ともすれば夜よりも深い。懐中電灯の光が壁に当たって月を作った。

 どこまでも続く暗闇を、ちっぽけな光で照らすのは、柄杓で海の水をすくっているような気分だった。

 ふと、足を止める。

 頭上の耳をぴょこぴょこと震わせた。

 

「…………!」

 

 狐耳と尻尾がピンと張る。その輪郭が、ぶわっと音を立てたのではないかと自分でも思うくらいにギザギザの棘を帯びた。

 また、床の軋む音がする。こうして立ち止まっている天理のものでは、ない。

 ――後ろに、誰か、いる。

 鼓膜に心臓が張り付いたように心音がやかましく高鳴る。

 油を久しく差していない機械みたいな動きで、頬に冷や汗を伝わせてぎこちなく振り向けば、

 

「、」

 

 切り取られた闇の中に、血まみれの女の顔があって、

 

「……ぴ、」

 

 ひゅっと全身の血が滝のように足下へ逆流して、

 

「――ぴええええええっ!?」

 

 校舎に天理の悲鳴が響き渡った。

 

 

 

「お化け屋敷?」

「ですですっ」

 

 遡ること一時間前、遊園地の中で、天理はオウム返しで尋ねた。

 少し離れた場所にある観覧車の向こうから覗く空は、まばらな雲を抱いて青く晴れ渡っている。機嫌良く笑う太陽の陽射しも温かで、春休みという時期も合わさり、遊園地は随分と人でごった返していた。

 別世界のような喧騒の中、ポップコーンのカップを片手に持った天理の眼前へ、名無がキラキラした瞳でパンフレットを広げた。

 

「正確には体験型アトラクション、ってやつなんでしょうか。廃校を作り直してお化け屋敷にしてるんですってっ。わたし、テレビで見たことあります!」

「へえーっ……」

「……あんまり乗り気じゃなさそうですね?」

「そういうわけじゃないけど」

 

 ふと視線を感じてそちらを見やる。人混みの隙間から天理よりいくらか歳下の男の子が二人を覗いていて、眼差しがこつんとぶつかった。

 彼の丸い瞳が、正確には天理ではなく別のものを追いかけていることに気付き、小さな笑みがこぼれる。

 ぴょこりゆらゆら狐耳と尻尾を揺らしてみる。合わせて男の子の視線が右往左往した。

 目を細めて手を振ると、そこでようやく天理に見られていることに気付いたのか、男の子の顔がたちまち赤くなった。近くにいた母親と思しき女性の後ろへさっと隠れ、また人混みの中へ消えていく。

 

「……み、見てしまいました。天理さんが無垢な男の子の初恋を奪う瞬間を」

「違うよっ!?」

「そうやって普段から男の子を誑かしてるんでしょう!! 女狐……!!」

「……むう。名無ちゃん、最近あたしに遠慮なくなってきたよねーっ」

「ふっふっふ。友達ってこういうものかなあって」

 

 ジト目を向けるとにっこり笑って返された。「もう」と苦笑いを浮かべる。

 

「そういうのじゃないよ。ただあの子、あたしが『視』えてたみたいだから、ちょっとこう……イタズラ心みたいな。えへへ」

「やっぱり女狐じゃないですか!!」

「だってあたし妖狐だもーん! 人を化かしたりするタイプの妖怪だもーんっ!」

 

 そういう血筋か、それとも他の要因によるものか、まれに天理の姿を認識できる子どももいる。

 とはいえ、ごくわずかだ。そのほとんども歳月を経るにつれ力を失っていく。今の男の子とて天理の頭上と腰の辺りに変なものが視えていたというだけで、狐の耳と尻尾であるとまではわからなかったかもしれない。

 

「天理さんってたまに思い出したように変なイタズラとかやりたがりますよね……」

「ちょっと待って『変』は心外だよっ!? あ、あたしだって半分妖怪だからっ。悪いことしたくなる時があるの!」

「具体的にどんな?」

「えっと……じゃあ名無ちゃん、後ろ向いて?」

「この流れでそれはもう『今からイタズラします』って言ってるのと同じですよねっ!? まあ良いですけど……」

 

 名無は素直に立ち止まって背を向けた。となれば妖狐の本領発揮である。うんうんと天理は頷いて、自慢のイタズラに取り掛かるべく、背ではなくその肩をポンポンと叩いた。

 

「ごめん名無ちゃん、ここだと人多いしやっぱりあっちでやろっか」

「ええー? なんですかそむぎゅっ」

 

 振り向いた名無の頬に、天理の人差し指がぷにっと埋もれた。

 

「えへへ。引っかかったー♪」

「……………………」

 

 心からの笑みを浮かべる天理に対して、名無の表情は能面みたいだった。

 

「あ、あれ? あんまりびっくりしてない……?」

「いえ、びっくりはしてます。あまりにしょうもな……古典的だったもので」

「ねえ今しょうもないって言おうとしなかった!?」

 

 天理は頬を膨らませた。

 

「他の子はちゃんとびっくりしてくれるもん!」

「もうちょっと妖狐っぽい驚かし方あるでしょ! それこそ化かすとか!!」

「あんまりやっちゃいけないんだよそういうのっ。なにかの拍子で戻ってこられなくなっちゃうかもしれないし、そうじゃなくても良い影響はないからね。座ろうとしてる時に椅子を引くイタズラと同じで、皆やりたがるけど本当はやらない方が良いんだ」

「そう例えられると嫌な生々しさが出ますね」

 

 ため息を吐いて再び向き直った名無が、ポップコーンを口に運んだ。断りを入れてから天理もひと口分もらう。

 

「でも普通に幽霊とか視える子ってたまにいますよね。やっぱり感受性が強いとかそういうのなんでしょうか?」

「どうなんだろうねーっ。あたしは生まれつき視えてたからなんとも……。感受性みたいなのも関係ないわけじゃないだろうけど、血筋とかその辺もあるんじゃないかな?」

「わたしも忍者だから視えてるだけですしねえ……」

「そっか、忍者も血筋なんだっけ」

「ですです。忍神と呼ばれる存在の血を引いているのが忍者ですから、多分わたしもその辺のおかげでなんとかやっていけています。天理さんとはまたちょっと違いますね」

 

 血筋とは言うが、名無の家族については一度も話題に上ったことがない。

 そもそも戸籍さえ持っていないらしいと聞いたのは果たしていつ頃だったか。少なくともそれすら思い出せないほど、あっけらかんと言われたことは確かだった。

 それ以上のことは、訊ねていない。

 興味本意で踏み込んで良い話題ではないような気がしたし、必要なら名無から言ってくれるだろうと思っていた。

 そんな心情を知ってか知らずか、あるいは言えないことなのか、名無の素性について天理は今に至ってもなおまったくと言って良いほど把握していない。

 ただひとつ、天理が名無について知っていることと言えば、

 

「忍者の血がなかったら、わたしなんて一般人みたいなものですよ」

 

 名無は多分――。

 

「そっか」

 

 苦笑いを浮かべる名無へ、天理も似たような曖昧な笑みを返した。

 

 ――名無し、と書いてナナです。

 ――名前は呪いだよ、天理。すべてのモノは名によって生まれ、定義され、理解される。

 ――天理さんは『生きていない』からです。

 

 ――ならば、『名前がない』ことが名前である名無は。

 ――その名が、生まれず、定義されず、理解されないモノであるという意味ならば。

 ――本当に『生きていない』のは。

 

 天理はゆっくりとかぶりを振った。

 それこそ、名無から直接聞いてはいない話である。すべては後付けの理屈で、はじめに『そう』思ったのはなんとなくの直感だった。

 少なくとも普通の人間に話せば正気を疑われるような内容には違いなく、決めつけるにはあまりに礼を失している自覚もある。

 勘違いという可能性もあるし、なにより天理自身、なぜ『そう』思うのかはピンと来ないでいた。

 

「あっ、でもそういえば、お化けと組んで怪奇事件を解決してる小学生たちがいるって聞いたことありますね」

 

 意識を名無との会話に戻す。

 世代としては天理より上になるが、腹巻を巻いた赤毛の二足歩行の猫のキャラクターが入れ替わりに脳裏を過ぎって、

 

「……それ、もしかして妖怪ウォッ」

「待ってください天理さんそれ以上はダメです。言いたいことはわかりますけど、そういうのじゃなくて」

 

 名無はびしっと強く手のひらを天理に向けた。

 

「『いのせんと』って言うんだったかな。お化けと接触できる以外は普通の子どもなので、忍者(わたしたち)とはまた違う扱いですが」

「へえーっ、偉いなあ。あたしの町にもいるのかな」

「かもしれません。他にも忍者や魔法使いはほぼ確実に怪異が視えますけど、人間って言って良いのかは微妙です」

「……魔法使い?」

「あれ、見たことないですか? 文字通り魔法を使う連中なんですけど」

「あっやっぱりそういう人たちも本当にいるんだ!?」

「なんだかんだこの世界にはいろいろいるのです。それぞれ事情もあるし、活動範囲も重なってるようで微妙に違うので、お互い接触することはあんまりないんですけど……ま、今のわたしたちには関係ない話ですよ」

 

 天理はおとがいへ指をやって「うーん」と難しい顔をした。

 

「話戻すけど、さっき言ってたお化け屋敷だっけ。余計に名無ちゃんは楽しめないんじゃない? 本物もそれ以上のものも見慣れてそうだし」

「作り物には作り物の良さがあるんですよ」

「そういうものかなあ?」

「そういうものです。もうネットで予約しちゃってるので、天理さんが行かないならわたしひとりでしょんぼり行くことになりますけど」

「断りづらい言い方するね!? 行きたくないわけじゃないよ。ただ、こういうのって初めてだからどんなのかちょっぴりわからなくて」

「えっ、そうなんですか?」

「お化け屋敷もだけど、ホラー映画とかそういうのも経験ないんだよね。いつも本物が近くにいたから」

 

 目を細めてなんとも言えない苦笑いを浮かべる。そういうジャンルの創作はもちろん知っていたけれど、なにせ身内が人外だし町にも怪異はたくさんいる。となれば、創作の怪異に関心が向かないのも無理からぬ話ではあると思うのだ。

 目を丸くしていた名無は「そっか、それもそうですねえ」と納得した。

 

「でもでも、それならなおさら行ってみたいです! さっきも言いましたけど、作り物には作り物の良さがあるのでっ」

 

 本人がそこまで言うならと、ひとまず向かってみることにした。

 時折お互い人混みに流されながら細かく合流を繰り返しつつ、想像より時間をかけてそこへたどり着く。

 遊園地の隅の辺りにそびえるそれは、名無の言葉通り古い校舎の形をしていた。

 コンクリートではなく木造で、パッと見ただけでも相当の年季を感じさせる。二階建てのようだが窓はすべてカーテンで閉め切られており、中の様子はまったくうかがえない。玄関の真上には看板が掲げられ、血が滴るようなフォントの赤く太い文字でアトラクション名が記載されていた。二人で頬をくっつけるようにして一枚のパンフレットを覗き込む。「ここみたいですね」天理も頷いた。

 順番が来たので受付へ向かうと、本当に女の子二人で大丈夫かと確認された。もちろん二人同時に頷いて説明を受ける。

 テーマは『肝試し』であり、校舎内のどこかに複数存在するろうそくの模型をすべて持ち帰ればクリアらしい。

 二人分の懐中電灯と、お札風の模様が描かれたリモコンを渡された。これのスイッチを押せばリタイアとなり、スタッフが回収してくれるようだ。

 怖かったらいつでも押してくださいねと心配そうに告げる受付に笑顔を返し、二人並んで生徒玄関の扉を開けて、

 

「連れてきておいて言うのもなんですけど、無理しちゃダメですからね?」

「あはは、ありがと。でも、本物はいなさそうだね」

「万が一ってこともないではないですよ。もしいたらどうします?」

「うーん。妖魔みたいなのになるとちょっと困るけど」

 

 一歩、足を踏み入れる。

 なんてことのないお散歩でもするように、名無へ笑いかけた。

 

「これでも、ちょっとした怨霊くらいならその場でお祓いできるからねっ。いざとなったら任せて!」

 

 別に、調子に乗っていたとか。

 舐めてかかっていたとか。

 そういうわけでは、決してないのだ。

 

「冗談抜きで普通の怨霊なら目を合わせただけで逃げていきそうですもんね……頼もしいやら恐ろしいやらです」

「えっへん!」

 

 名無の言う通り、それほど危険ではない怨霊や妖なら天理を見た瞬間に逃げていくこともある――なぜ逃げられるのかは天理にも正直あまりわからないのだが――くらいで、だから今回も仮に本物がいたとしても大丈夫だろう、と思っていただけで。

 本当に危険ならお化け屋敷の外からでもわかるはずだし、これほど人が集まれるはずもないから、十中八九どころか九割九分問題ないだろう、と考えていただけで。

 今、思い返してみれば。

 あれが、すべての間違いだったのだろう。

 

「――ぴえええええーーーっ!?」

 

 天理の肩の辺りに浮かび上がった、血まみれの女の顔を見て、なりふり構わず全力で駆け出す。その速度たるやもはやほとんど風みたいなもので、いちばんびっくりしているのは恐らく天理ではなく幽霊役だろう。

 時速150キロオーバーを叩き出しながら廊下に沿ってほぼ直角に折れ曲がるなり、かかとで急制動をかける。

 ぜーっ、ぜーっ、と息を荒くした天理は、目元と口を情けなく歪ませて、

 

「も……」

 

 涙目で叫んだ。

 

「もうやだああああ〜っ!! 名無ちゃあああん!! どこおおお〜っ!?」

 

 忍花天理、十二――いや、十三歳。

 久しぶりのガチ泣きであった。

 ギシリ、と床がまた軋む。

 

「、」

 

 ひっく、と泣き声がいったん引っ込む。これでもかと言わんばかりに耳と尻尾がピンと張って、周囲の気配を探り取る。

 たっぷり十秒は沈黙があった。

 常人を遥かに上回る聴覚がさらに鋭敏化し、遠くから聞こえるお化け役と思しき声を拾い上げる。

 

「……えっ、何今の」

『どうした?』

「う、ううん。お客さんが来たから脅かそうと思って後ろに立ったら、次の瞬間消えてて」

『お前それ……本物じゃね?』

「ねえなんでそんなこと言うのちょっとやめてよそういうのマジで私お化けダメなんだからさあ!」

『脅かして良いのは脅かされる覚悟のある奴だけだぞ』

「脅かされる覚悟があっても人を脅かすのは趣味悪いでしょ!」

『なんでこの仕事してんだよお前』

 

 ヘッドセットの向こうからの声も含めてバッチリだった。

 ならば今の音は、恐らくお化け役ではない。隙間風か家鳴りの類だろう。

 肩を大きく動かして、ゆっくり安堵の息を吐く。ぐす、とまた喉が鳴った。

 

「ううう〜っ……!?」

 

 どうしてこんなことに。

 

 意気揚々と玄関から校舎へ足を踏み入れた天理たちは、ひとまず周辺の探索を始めた。

 賑やかな遊園地から一転浅い闇が張り付いた下駄箱は、なるほど宵の入口を思わせる。色合いこそ違えど、逢魔時の過ごしやすい風景がなんとなく脳裏を過ぎった。

 二人して思うままに懐中電灯を右往左往させると、光の筒がぎょろぎょろと目のように動き、闇の中に沈んだものを照らし出す。最初に光が拾い上げたのは、廊下の左手にある『一年一組』と書かれたプレートだった。

 中へ入ってみると、天理の担任が見たら大目玉を食らわせそうなほど荒れ果てた教室が広がっていた。机と椅子がほとんどバラバラな向きで置かれているのは序の口として、ひどいものになると脚が折れて転がっている。大半が抜けた木製のスクールロッカーは使い物にならないだろう。教室に対してこんな言葉を使うことはないと思うが、もはや死屍累々という表現がしっくりくるほどである。

 

「よし、それじゃあ調べてみよっか。あたし、カーテン見てくるよ」

「じゃあわたしは机を」

「いろいろ転がっちゃってるけど、手伝う?」

「むっ、わたしだって忍者ですよっ。このくらい片手どころか指一本でも持てます!」

「あはは、冗談冗だ――」

 

 軽口を叩きながら窓のカーテンを開け、

 

「ん゛」

「えっどうしました今なんか天理さんから聞いたことないような声出ませんでした!?」

 

 視界いっぱいに、真っ赤な手型が飛び込んできた時。

 気付くべきだったのだと、今は思う。

 

「うわっ真っ赤……もしかしてこれ、全部人の手型ですか?」

 

 紅い満開の桜と見紛う、夥しい数の手型が窓にべったりと貼り付いていた。外から見たときはなかったはずだが、なにか特殊な仕掛けが施されているのだろう。

 思わぬ不意打ちに固まる天理をよそに、駆け寄ってきた名無が「ほえー」と呑気な声を漏らす。

 

「ホラーゲームなんかではありがちな演出ですけど、実際に自分が経験するとなんだか不思議な感じ! 手が込んでますねーっ! 『手型』だけに。フフッ……」

「…………、」

「……あの、天理さん?」

「ひゃい!? な、なな、何!?」

「あ、いえ。反応がなかったので。ツッコミ待ちのギャグをスルーされるとちょっと悲しいものが」

「ご、ごめんっ。ええと……なんだっけ? もっかい言ってくれる?」

「いちばん大ダメージ食らう返ししてくるじゃないですか!!」

 

 つかの間呆然としていた天理がようやく帰ってくると、名無は申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 

「やっぱり、退屈ですか?」

「ううん!? そんなことないよっ!? そうじゃなくて、えっと、その。ちょっと……びっくりしちゃって」

 

『こういうこと』をしてくる怪異がいないわけではない。むしろ妖怪や幽霊の中には人を驚かすことを何より楽しむ性質のモノもおり、天理だってイタズラされた経験がある。少なくとも普通の人間よりは慣れているはずなのに、全身に嫌な強ばりを感じていた。

 

「たしかに、これはホラーっていうかジャンプスケア(おどかし)に近いかもしれません。机にも証はありませんでしたけど、代わりに髪の毛が入ってましたね。こういうやつ」

「かみ、」

 

 黒い糸の束を持った名無が微苦笑を浮かべた。

 

「さすがに作り物ですよ。でも、良い演出ですね。雰囲気出てます!」

「……そ、そうだね」

 

 名無と共に廊下へ戻ると、廊下の奥の蛍光灯が薄く光を放っていた。

 

「さっきは光ってなかったんですけど……あそこへ行けってことでしょうか」

「かなあ? あそこ、お手洗い?」

「なるほど、『いかにも』な場所ですねっ」

 

 女子トイレに入ってみるとやはり教室と同じように荒れていて、割れた鏡と剥がれたタイルが二人を出迎えた。

 四つの個室のうち、一番奥にあたる場所の床に、赤い液体がぶちまけられてできた染みがある。

 嫌でも目に付くそれは、ちょうど中で大量の出血でもしたかのような、

 

「ふむ。手前のは鍵がかかってますねえ」

「躊躇ないね!?」

 

 薄ら寒い想像が脳裏を過ぎるのとほとんど同時に、名無が手前のドアノブを遠慮の欠片もない手つきでガチャガチャ捻っていた。中に人がいたら絶対に怒鳴られている。

 名無はけろっとした表情で天理へと振り返った。

 

「だってそういうアトラクションですし。それともこじ開けます? わたしたちならできるとは思いますけど」

「ダメだよっ!? 開けたとしてもなんにもなさそうだし!」

「でしょうね。それならやっぱりひとつずつ開くかどうか確かめていくしかないかなーって」

 

 たしかに軽く見渡した限りでは他に調べられそうな場所もなく、どのみちトイレを開けるしかない。となれば手前から順番に調べていくというのも道理である。

 あるのだが。

 もうちょっとこう。

 なんかこう。

 

「そうなんだけど……心の準備的な、こう」

「なんですかその絶妙に下手っぴなろくろ回し」

「この動きに上手いとか下手とかあるの……?」

 

 上手く言えずに手でうにゃうにゃしている天理を、名無はいまいち得心の行かない様子で眺めていたが、やがて何かに気付いたようにハッと眉を上げた。

 

「ははーん、なるほど?」

「ど、どうしたの?」

「いえ、アトラクションについてじゃないんですけどね。天理さんのことがひとつわかりました」

「あたしのこと……?」

「ふっふっふ、まあ気にしないでください。結局全部開きませんでしたし、お待ちかねの奥の個室行ってみましょっかっ」

 

 待ってはいないが、とはいえこれ見よがしに染みがついているとなれば、開けてみないことには始まらなさそうではある。

 名無がやはり躊躇というものがまったく感じられない動きでばーんっと扉を開け、目にそれが飛び込んでくる。

 一瞬、この個室だけタイルの色が変わっているのかと思った。

 しかしそうではない。薄ピンクの床や壁を一面塗り潰して、そう錯覚するほど大量の赤い液体が散らばっているのだった。

 

「こ、これ……血?」

 

 呟いて、すぐに内心で否定する。

 本物の血など用意できるはずがないし、もしそうならこれほど近付く前に匂いでわかる。目の前の液体からは、ペンキや絵の具といった塗料に特有の、ほろ苦い極彩色の香りがした。

 嗅ぎ慣れた(・・・・・・)鉄っぽい血の香りに、天理が気付かないわけがない。だってむせ返るほどに酸っぱく甘い血の香りは、あの時(・・・・)からずっと、記憶の底にこびり付いて、

 

 ――あの時(・・・)

 

 自分の思考に疑問符を付ける。

 あの時とは、いつだ。

 これほど大量の血を見たことなんて、

 ――本当にそう?

 頭の中から声が聞こえる。

 ――本当に見たことない?

 違う。あたしの声じゃない。

 ――本当に、この懐かしさは知らないもの?

 あたしじゃない。

 地面に飛び散る血。肉と骨。転がった頭。五臓六腑の沼に誰かの首が沈んでいる。

 あたしじゃない。

 夜の底には死の香りが満ちていた。桜の樹の下には死体が埋まっているという。

 あたしじゃない。

 そうじゃないと、こんなに綺麗な花が咲くわけがない。月が雲に隠れている。それはきっと、まだ誰も死んでいないからだと思った。だから、

 あたしじゃない。

 日が昇る。月が満ちる。夜が来る。星が瞬く。風が吹く。花が咲く。

 あたしじゃない。

 世に敷かれた天の理がそうであるように、

 あたしじゃない。

 息をするのに理由なんてないのと同じで、

 あたしじゃない。

 今この天の下に在るのならば、

 あたしじゃない。

 あたしじゃない。

 あたしじゃ、

 

「うわ、派手ですねえ」

 

 名無が呟いた。ハッとする。

 ――なにかを遠く見ていた、気がする。

 だけどそれはもう無意識の彼方へと消えていて、到底手繰り寄せられそうにない。考えれば考えるほど、指の隙間からするりと抜けていく。なにを思い出そうとしたのかさえ思い出せなくて、なんだか霧を手で掴もうとするようだった。

 ひとまずかぶりを振って、思考を目の前の現実へと引きずり戻す。

 

「すごいね……こういうの、どうやって作ってるんだろ?」

「塗料かなにかぶちまけたんじゃないですか? さっきの手形といいこれといい、さすが評判通りに凝ってます! 色も本物そっくりですしっ」

「名無ちゃんが言うと洒落にならないからね!?」

 

 ふと、先程から覚えている違和感の正体にたどり着き、天理は曲げた人差し指を口元に当てた。

 

「……そっか。作り物だからこんなにびっくりしてるのかな、あたし」

「と言いますと?」

「妖怪とか幽霊がこういう風に脅かす時ってなんとなくわかるでしょ?」

「まあ、わたしたちならそこに『なにかいる』ことはわかりますね」

「でもここだとそういう気配みたいなのもないし。何もいないのに変なことが起こるってこんなに気味悪いんだなあって」

 

 人や獣が動く前に物音を立てるのと理屈は同じである。

 だけど、ここに妖も霊もいない。

 いないのに、奇妙な現象が起こる。

 その矛盾にひどい違和感を覚えるし、前触れがないからびっくりするのだ。

 幽世のモノを知覚することができないヒトにとっては、この感覚こそが怪異に遭遇した時のそれに近いのだろう。

 うっすらとではあるが、人が怪異を怖がる理由に共感できた気がした。

 

「こういう薄暗い場所でなんにもいないって、逆にちょっと新鮮かも……」

 

 呟くと、名無が小さく笑う。

 

「だから言ったじゃないですか。作り物には作り物の良さがあるって」

「良さ、かなあ」

 

 一通り調べてみたがトイレにも目立ったものはなく、とりあえず出てみると、再び蛍光灯が点灯していた。どこかの探索が終わるタイミングで、目印代わりに光が点く仕組みのようだ。

 光に誘われるまま暗闇をゆくと、少し離れたところに職員室があった。やはり中は荒れ果てているように見え、最後に人が訪れたのは何十年も前なのだろうかと思わせる。実際は毎日誰かがやってきているのだろうが、ともあれ天理にはそう見えた。

 どこからともなくかかってくる電話――受話器を取ると女性の笑い声だけが聞こえた――や、ひとりでに音を立てて開く引き出しなど、怪奇現象が頻発する職員室を二手に別れて調べていく。その度にちょっとびっくりしていたのは内緒である。

 その割にここにも手がかりらしいものはなく、ひとまず名無の方はどうだったか聞こうと思い、

 

「……あれ? 名無ちゃん?」

 

 ふと辺りを見回すと、名無の姿がなかった。

 何度か呼んでみるも、反応はなし。しんと静まり返った職員室の中で、彼女を呼ぶ天理自身の声だけが反響している。そこかしこへ飛ばした懐中電灯の光が名無の姿を明るみに浮かび上がらせることはなく、代わりに壊れたデスクだけが転がっていた。

 

「え? 嘘。えっ、名無ちゃん!? おーい!?」

 

 返事はない。

 姿もない。

 

「……、」

 

 今に至る。

 

 半泣きで探索を進めている。

 懐中電灯を付けているのは、もしかするとこれを目印にして名無が見つけてくれるかもしれないと思ったからだった。無論天理がそうであるように、名無にとっても懐中電灯なんてあってもなくても変わらないのだろうが、とにかくもうなんでも良いから合流したかった。

 

「ほ……」

 

 闇の中、天理は涙目で叫んだ。

 

「――本物は絶対あんなに怖くないよ〜っ!!」

 

 同じ物の怪の類を視ているとしても、天理と常人とではその『視え方』が異なる。

 つまるところそれは幽世へのアンテナの強さ、解像度の違いから来るもので、ヒトは自身が持つ負の感情や恐怖を媒体にして彼らの姿を解釈するから、そういう風に映るのだという。

 裏を返せば、怪異を視認できる天理が、本当の意味でヒトと同じように彼らを視ることはできない――はずだった。

『恐怖』の側面だけを切り取り、強調された怪異。本物を見慣れている天理にとっては、それゆえに見ることができない作り物の魑魅魍魎。

 作り物には作り物の良さがある、なんて。今さらながら、名無の言葉が脳裏を過ぎる。

 本物が視えるから大丈夫なのではない。

 本物に親しみすぎたせいで、逆に良くないのだ。

 ズバッと言ってしまえば、

 

「霊力も妖気もないのにいきなり出てくるしっ!! 見た目もすんごく怖いしっ!! もうやだあああ〜っ!!」

 

 半分怪異なのに、天理はホラーがこれ以上ないほどダメなのだった。

 とはいえ、名無が楽しみにしていたアトラクションを勝手にリタイアするわけにもいかない。

 

「ぐすっ……だ、大丈夫……大丈夫……役者さんだから。作り物だから……いや、作り物だからあたしは怖いんだけど……」

 

 念仏のように呟き、ひとまず今まで探索した場所をもう一度訪れる。

 教室。トイレ。職員室。どこにもいない。

 幽霊役の見えない影に怯えながらしばらく辺りを探索しているとき、ふとこの校舎に二階があったことを思い出す。

 二階へ続く階段は大蛇の口にも思えた。踊り場でとぐろを巻いて、さほど高さのない段は牙のようだ。どこからともなく吹く不吉な風が頬を生温く撫でた。背筋がぶるりと震える。

 

「あとは……ここしか……」

 

 たった一歩を踏み出すのに必要な勇気は相当なものだった。

 胸に手を当て、ひとつ深呼吸をする。ふたつ。みっつ。どれだけ呼吸を重ねても、ドキドキという胸の鼓動は鳴り止まない。むしろこうして立ち止まっている分だけ、ぞわぞわと怖気がつま先からこみ上げてきて、それが心臓を余計に急かすようだった。

 

「――よ、よしっ」

 

 なにが『よし』なのかは自分でもわからなかったが、こうしていても始まらない。

 長い時間をかけてようやく一歩を踏み出そうとして、

 

「なあ、嬢ちゃ」

「きゃああああああーーーっ!?」

「ウワーーーッ!?」

 

 肩に手を乗せられ、天理は絶叫した。

 男性の、龍の咆哮みたいにデカい悲鳴が続いた。

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