戴天   作:灰汁

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七話

 

「――ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」

「いや、気にすんな。さっきのは普通におれが悪かった」

「ほんとにごめんなさい〜っ!?」

 

 頬にあたる部分をぽりぽりと気まずげにかく男へ、天理は何度も頭を下げた。

 二階へ続く階段に、並んで腰掛けている。

 声をかけてきた男は天理と同じくこの遊園地へやってきた客なのだという。噂に名高いアトラクションを楽しもうと中へ入ったは良いが、なにやら天理がずっと一階でうろうろしているのを見て、とりあえず先に二階へ上がっても構わないか尋ねようとしたらしい。

 そういうことにならないよう順番を設けていると受付から聞いたが、手違いか、あるいは天理たちが時間をかけ過ぎてしまったのか。

 しかし男は気を悪くした様子もなく、ワッハッハと声をあげて快活に笑った。

 

「しかし別の意味でも驚いた。お前さん、『見た目に似合わず』こういうのダメなんだな」

 

 その言葉が天理の狐耳と尻尾を指しているであろうことはすぐにわかった。

 実のところ、さほど驚きはない。

 

「……やっぱり、わかるんですね」

 

 耳と尻尾をふわりと揺らして苦笑いをするだけに留めた。

 見上げるような身長は、男性ということを差し引いても人混みの中で頭ひとつ抜けて見えるだろう。縹色の着流しを身に纏う姿はいかにも時代劇から飛び出てきたようで、現代では少し浮く。古い町並みがなお残る場所で生まれ育った天理ですらそう感じるのだから、ここでは相応に人目を惹くはずだ。

 しかしそれ以上の特徴が男にはあった。

 

「そりゃあまあ、お互い様にな。お前さんにも視えてるんだろ? 『この顔』」

 

 男が自分の顔を指さす。

 びっしりとそれを覆う赤い『鱗』の質感は岩を思わせる。ひと口に赤と言ってもその深みは尋常の域を超え、男が悠久の年月を経てきたであろうことは一目瞭然だ。

 ヒトの頭で言うところのこめかみ辺りから生えた『角』も、鱗が岩ならこちらは大樹である。深山幽谷に佇む神樹を彷彿とさせるそれは、天理などとは根本的に違う、正真正銘人外の証であろう。

 ゆらりと伸びた『髭』は空気に溶けるかのごとく細く舞い、それでいて輝くように存在を主張している。陽光を練り上げ束ね、数え切れぬほど折って伸ばしたようだった。

 気さくな態度とは裏腹に、どこか凄みのような、神々しさなも似たものを男から感じるのは決して気のせいではない。

 ――龍である。

 正確には、龍の頭である。

 そうとしか表現のしようがない。首から下はヒトのそれだが、頭だけが唐紅の龍となっている。

 まさしく、異形だった。

 

「あー……おれのことは怖くないか?」

 

 ヒトとヒトならざるものの特徴を併せ持つ姿の人外というのは、実は案外珍しい存在ではない。天理がそうであるように。

 だから彼の特異な点は、ひとえに『龍である』ということに尽きる。

 その姿を見たことは天理も片手の指で数えうる程度しかなかった。幽世の奥深くに棲む彼らを、人が世に見い出せなくなって随分と久しいという。現代では彼らの通り道が虹という形で顕現する程度であり、幽世に住まう者たちでさえそうそうお目にかかれるものではない。

 お互い幽世に身を浸している――天理は半分だが――関係で、名を聞くこともない。彼のような幽世の者たちにとって、名前というものの重みは人間のそれとは少し異なる。

 名はひとつの呪いである。それは人間も人外も変わらないが、後者の方がその影響は大きい。名を知る、知られるということ自体が互いにとって危険を孕むのだ。

 

「いえっ、お兄さんはぜんぜん大丈夫です! 本物なので!!」

「本物」

 

 ぶんぶんと手と首とついでに尻尾を横に振ると、男は神妙な声で答えた。

 

「あたし、作り物の方がダメっぽくて……ふ、普通の幽霊とか妖怪とか神様は大丈夫なんですよっ?」

「そんなことある? てっきり人見知りの妖怪バージョンみたいなもんかと思ってたぜ」

 

 そういう意味では驚いたものの、かといって怖いかと言えばそうでもない。少なくともこのお化け屋敷の幽霊よりは、遥かに。

 

「それに、あたしを怖がらせないように抑えてくれてますよね? こう……霊力? って言うんでしたっけ」

「ほほう、お見通しか。最近の子はすげえなあ」

「えへへ、ありがとうございます。お兄さんは優しいんですね」

「どーも。いやあ、なんだか照れくさいね。……それはそれとして、今おれのことを『お兄さん』って呼んだか?」

 

 ぎらり、と男の瞳が輝いて、天理は思わず尻尾の毛を立たせた。力量差云々よりも、単に相手を怒らせてしまったかもと思ったからだった。

 

「ごめんなさい、もしかして嫌でしたかっ? でも、その、呼び方がわからなくて」

「――いやいやいや構わねえ! お兄さんで良い。むしろお兄さん『が』良い! なんだ嬢ちゃん、話のわかる子だな!」

 

 男の目が『^^』の形を描いた。器用なのか、瞼を閉じることなく目だけで笑っている。そんなことできるんだ。

 面食らう天理に構わず、男は腕を組んでうんうん唸った。

 

「いやーっ嬉しいよお兄さんは。どいつもこいつもおれのことをおじさんおじさんと呼びやがる。たしかに実年齢はおじさん通り越しておじいさんだが、こう見えて若く見てもらうためにいろいろやってんのよ。フェイスパックとか」

「フェイスパック」

「まあ貼った瞬間破れるんだが」

「ダメじゃないですか!?」

 

 さもありなんである。そもそも鱗にパックは効くのだろうか。

 顔の周りにキラキラとエフェクトが舞っていそうなほど機嫌良さげな男の声が続いた。

 

「妖狐ってのはどいつもこいつもタチの悪いもんだと思ってたが、考えを改めなきゃならんかな?」

「あはは……あたしは半分だけですけどね」

 

 苦笑しつつ、『タチの悪い』という点については否定しない。おおよそ妖狐の類がそういう気質の持ち主という傾向は、天理が知る限りでも大いにあるからだ。

 思えば父もそうだった。温厚な性格ではあったが、それはそれとして人や天理に時おり軽いイタズラをしては母に尻尾を掴まれ連行されていた。あんまりひどいと天井に尻尾を括り付けられて吊られていた。

「歳を取ってもこういうことをやりたくなるんだよね。狐の性分というやつさ。しょうがない、しょうがない」「お醤油に麦茶のラベルを貼って冷蔵庫に入れた言い訳(遺言)はそれで良いですか?」と、二人が喧嘩――と言うにはちょっと一方的だったが――していたことを思い出して、ふと懐かしさが込み上げた。

 涙目で頬を膨らませながら、逆さまで吊られている父に、母と二人で報復のラクガキをしたものだ。以来天理は飲み物をラベルだけで判断しないようにしている。つまりそういうことである。

 男は髭を撫で、改めてまじまじと天理を見た。

 

「そうか、お前さん、半妖か。どうりで魂の感じが少し変だと思った」

「そういうのも見てわかるんですか?」

「まあな。半分ってことは親御さんが?」

「お父さんが妖です。お母さんは普通の、」

 

 記憶の中の母が、それこそ少女のような顔でにっこり笑った。母の周りには砕け散った食器と壊れた壁と踏み抜かれた床が、

 

「……。ちょっと変わった人でした!」

「ほお、そうなのか」

 

「天理ちゃん!?」と記憶の中の母が涙目で抗議した。

 天理の表情が、笑みを浮かべたままわずかに翳る。

 両親についての話になると、自然と二人が亡くなっていると話すことになりやすいし、その度に気を遣わせてしまう。

 両親のことを思い出すだけで、今でも胸の奥が重くなる。だからこそ、配慮を強いているようで余計に嫌だった。

 一年とは言わないまでもそれなりの時間が経っている。いい加減立ち直らなければと感じる一方で、それだけで二人のことを思い出にできるのならば、自分はもっと自由に生きていられただろうなとも思う。

 だがそんな心の揺れ動きが伝わってしまったのか、それとも偶然か、男は天理の両親について深く尋ねることはなかった。

 代わりに小さく独りごちる。

 

「妙だな。『魂が多い(・・・・)』」

「え?」

「――っと、すまん。独り言だ、忘れてくれ」

 

 どこかから『ピコン』と音が鳴った。

 

「お、スタミナ回復したかな」

 

 男は避けるように話題を変え、着流しから随分と似つかわしくない最新型のスマホを取り出す。

 彼の鼻歌に混じって可愛らしい女の子の声が廃校舎に響き渡った。

 

「起動音のせいで人前ではやりづらいんだよな、これ」

「……ゲームですか?」

 

 男はまた目だけで笑った。

 

「意外だろ。おれ、こういうのもやるんだ。音ゲーなんだけどな、なかなかどうして暇潰しになる。っつーか最近は暇潰しどころかスタミナが溢れると気持ち悪くなる」

「おとげー? すたみな?」

「おっと、そういうのやらないクチか。案外楽しいぜ」

「クラスの子が話してるのは見たことあるんですけど、それくらいで。えっと、たしかお年玉で『ばくし』? したって言ってましたっ」

「小学生から聞きたくなかったなそんな不吉な単語……」

「推し? の……お正月ばーじょん?? っていうのがいて、200連??? でしたっけ。引いても来なかったって言ってました。なんのことかはちょっとわからないんですけど、」

「いや悲惨すぎるだろそれだけで伝わるわ!! そいつは確実に天井コースだな」

「あっ、たしかに天井? って言ってました!! お金足りなくてできなかったって!!」

「馬鹿野郎ッだから普段から石はちゃんと貯めとけとッ……!」

 

 単語の意味は天理にはわからないが、男には伝わるものであるらしい。

 少なくとも良い意味の単語ではないようで、「聞いてるだけで気分悪くなってきたぜ……」と呟く男の顔の鱗は、心なしか色をくすませている気がした。

 

「まあ……嬢ちゃんは昼でも夜でも忙しそうだもんな。やってる暇もないか。拝み屋やら霊媒師紛いのことやら、それに妖怪の頼みを聞いたりもしてるんだろ? 感心するわ」

「え、えへへ……でも、お父さんもお母さんもやってたことですし、二人に比べたらあたしなんてまだまだです。そんな大したことじゃ」

「そうかあ、カッコイイな。次は尻尾を揺らさないようにできると良いかもな」

「ふえっ、」

 

 慌てて自分の耳と尾に手をやると、もうこれでもかとばかりにぴょこぴょこぶんぶん揺れていて、

 

「〜〜っ!?」

「隠世の奴らは達観してるっつーか動じないっつーか、そういうのが多いが……嬢ちゃんは見てて面白いな」

「そ、それ褒めてます!? 絶対褒めてませんよねっ!? バカにしてますよねっ!?」

「ッスー……イヤソンナコトハ……」

「すっごい棒読み!! も、もうっ。意外といじわるなんですね、お兄さん!」

「ちょっと待て今のは結構な割合でお嬢ちゃんの自爆だったと思うぜ!?」

 

 男の評価が『ちょっといじわるなお兄さん』にランクダウンした。

 ふと、

 

「……あれ? でもそういえばあたし、町でそういうことやってるってお話しましたっけ?」

「……あ」

「えっなんですか今の『あ』って」

「あーっなんのことかなーっおれわかんねーっさあ今日こそ頑張ってフルコンするぞー!!」

 

 天理の疑問をかき消すように男がわざとらしく声を張り上げた。

 ポップで明るい音楽が流れてきて、廃校舎のおどろおどろしい雰囲気が少しだけ和らぐ。もしかしたら男はそれも含めてあえてこういうゲームを起動してくれたのではないか、なんて、ちょっと考えすぎだろうか。

 お化け屋敷でこんなことをやっていたら注意されそうなものだが、不思議と周囲に人の気配はまったくなかった。

 

「見るかい?」

「良いんですか?」

「布教ってやつさ。ま、おれはどっちかっていうと布教される側なんだけどな。つまり神様だ」

「よ、妖怪と神様って仲良くして大丈夫なんでしょうか」

「ワハハ、お前さんは半分だけだろ。第一、この国じゃ神様も妖怪もあんまし変わんねえよ。お嬢ちゃんならよくわかってるんじゃないかね」

 

 言葉に甘えて少しだけ彼へ寄り、画面を覗き込む。真っ暗な闇の中で、その輝きが天理の瞳をきらきらと照らした。

 スマホいっぱいに可愛らしい女の子のイラストが映し出されている。よく見ると細部がゆっくり動き、アニメのようになっているのがわかった。背景にもエフェクトがかかっているのか、あまりこういった分野に明るくない天理の目にも華やかな印象を与える。

 ふと、気付くか気付かないか程度に男がさりげなくスマホを天理の方へ傾ける。画面を見やすくしてくれる心遣いが、なんだか良い意味で人間くさい。少しだけおかしくて、天理も男に気付かせないくらいに小さく笑う。

 

「わ、綺麗なイラストですねっ」

「わかる〜良いよな〜。この子ストーリーもめちゃくちゃ良くてだな、読み切った時思わずツイッ……いや今は名前変わってるか。とにかく、それで20ポスト分くらい長文で感想投げちゃったもんな」

「えっ、お話とかあるんですか?」

「そりゃもうあるある。最近のソシャゲはむしろストーリーでぶん殴ってくるようなのが多いぜ」

「へえ〜っ……。遊んでいくと読めるみたいな?」

「そうそう。これはこうやって……それで、曲に合わせて画面を叩くって感じのゲームでな」

「わ、楽しそうっ。あたしにはちょっと難しそうですけど」

「やってみると案外なんとかなるぜ。だがおれの指さばきをもってしても、この曲だけは無理なんだよなあ……ちょっと見てろ――そうここ! ここが無理なんだよマジで!」

「ええっなんですか今の!? あ、あれって指でなぞるやつですか?」

「ああ、めちゃくちゃむずいんだよ。ちょっともっかいやってみるか。……。…………」

「あっ、そろそろですよ。……おお!?」

「――おわっ嘘だろなんか知らんけど抜けた! 自分でもどうやったのかぜんぜんわからんけど!! イケるぞこれ!!! なんでできたんか本当にわからんけど!!!!」

「が、がんばれーっ!」

 

 ピコン、とまた男のスマホが鳴った。

 画面上部にメッセージアプリの通知が、

 

「あっ画面が止まっ」

「ジジイゥァア゛ーッ!!!!!!」

 

 男がスマホをぶん投げそうになって、「わあわあわあ!?」天理がその腕をすんでのところで掴んで止めた。

 

「ふ……ふざけやがってあんのクソジジイ! なんつータイミングでメッセージをッ!」

「お、落ち着いてくださいっ! 今のはきっとお相手さんもわざとじゃないはずですから!?」

「いーや絶対わざとやったに決まってるぞあいつ! だっておれ見たもん!! メッセの中身『なにを遊んでおる☺️』だったもん!! 一丁前に若者ぶって絵文字なんか使いやがって、しかもなんでそのチョイスなんだよ!! 確実に煽ってきてるだろ!! っつーか忍語(しのびがたり)で良いじゃねえかよなんでわざわざ個チャ投げてきたんだッ!!」

「こんなところでスマホ投げても壊しちゃうだけですよ!?」

「ぐっ……そ、それもそうか」

 

 龍の頭でも血が昇ると息も荒くなるものなのか、鼻から赤黒い煙がふんすふんすと蒸気機関車のように漂っている。ゆっくりとそれが消えていくのに伴って、彼の頭も冷えたらしかった。

 手を離すなり、ふーっと大きな息を吐いた男は、またバツが悪そうに頬をかいた。

 

「すまん、見苦しいところを」

「あ、あはは……悲しいのはわかりますから。落ち着いてくれて良かったです」

 

 訂正。いろんな意味で人間くさいらしい。

 

「とりあえずこういうゲームさ。あっやるならフレンド登録するから是非」

「ふれんど……。すみません、興味はあるんですけど」

 

 苦笑いしながら、やんわりと断る。

 そのゲームをプレイする機会はないだろうし、それくらいなら最初からそう言った方が良いと思った。

 興味があることは、嘘ではないけれど、

 

「今日死ぬつもりなら難しいか?」

「、」

 

 何気なく放たれた一言に、今日を最期に止まるはずの心臓が、どきりと跳ねた。

 

「――なんで、それを」

 

 声は震えていたが、むしろその言葉を絞り出せた理由の方が、自分でもよくわからなかった。

 男はゆっくりと天理から視線を外す。

 

「そういう顔をしてるからさ」

 

 思わず自分の頬へ手をやる。わかるはずもなかった。

 

「死相とはちょっと違う。死ぬ覚悟を決めたような表情でもない。『どうでも良い』って顔してるぜ、お前さん」

 

 ぐさりと、刺さる。

 

「……そんな、こと」

「こういう場所に来て、なんだかんだ楽しんじゃいるんだろう。おれと話すのも、まあ少なくとも不快ってわけじゃなさそうだ。だが、そこから先がお前さんの中ではなにも繋がってない」

「――」

「良くない。そいつは良くないぞ、お前さん」

 

 ちょっとしたイタズラを咎めるように軽く、しかし決して茶化しているのではないとわかる重みのある言葉だった。

 

「ま……だからっておれが言葉でなんとかしてやれるもんでもないけどな。気持ちは、ちょっとだけわかるぜ」

「……お兄さんも、ヒトじゃないからですか?」

「それはあんまり関係ないな。化外だの魑魅魍魎だの神様だのってやつが、皆お前さんみたいに自分に無関心なわけじゃない。人間だってそれぞれ抱えてるモンは違うだろ」

 

 男は苦笑すると、懐にまた手を突っ込み、スマホと入れ代わりに煙管を取り出した。

 

「おれにできることと言ったら、せいぜい先達として話をするくらいだ」

「お兄さんの?」

「あ、もしかして興味ない? それならお兄さん黙っちゃうけど」

 

 天理はぶんぶんと首を横に振った。

 

「……聞きたいです。お兄さんは、何年くらい生きてるんですか?」

「ウワー話をするとは言ったけどピンポで答えたくねえ質問だ〜〜〜」

「あっ!? ご、ごめんなさいあたしってばすごい失礼なこと聞いちゃいましたね!?」

 

 引き攣った笑みと心底嫌そうな声がブレンドされた返事だった。

 

「いや……大丈夫……みんな聞いてくるから。むしろ人外はどれだけ歳食ってるかでマウント取るみたいな風潮ないわけじゃないから。おれも逆の立場だったら気になるしな」

 

 男は苦笑と共に続けた。

 

「まあ……どれだけ少なめに見積もってもお嬢ちゃんの十倍以上とだけ言っておく」

「そ、そっか……あたしもそのくらい生きるのかな」

「半分人間だからな、どっかで寿命は来るだろう。それが百年後か二百年後か、はたまた千年後か一万年後かはわからん。普通の人間のスケールじゃねえことは確かだ」

「その間、しんどくなかったですか?」

 

 踏み込んだ。

 

「うーん……しんどい、か。辛いと思ったことはないが、お嬢ちゃんはそういう風に感じたか?」

「……わかりません。ただ、なんとなく、息苦しいなって」

 

 ごまかすように笑うと、返ってきたのは逆にはっきりと通った笑い声だった。

 

「わからんでもないな。妖怪って学校も会社も試験もないし、そういうことをするようにもできてねえんだよな。宿題とかめちゃくちゃダルいだろ」

「やったことあるんですか?」

「神様だからな、宿題手伝ってくれってお願いされるときもある。特に夏休みの終わりの方。しかも普段神社にも来ないようなガキンチョからだぜ? 神頼みするならせめて普段からもうちょい信仰しとけよって思うよな。お願いの仕方もありえねえんだよ、賽銭箱の上に算数ドリルとか置いてきやがる。罰当たりすぎるだろ」

「でもやってあげたんですよね?」

「途中式のヒントだけ書いた紙を郵便受けに入れといてやった。自分でやらねえと身にならんしな」

 

 想像すると、ちょっとだけおかしくて、思わず小さな笑みがこぼれた。

 男も同じように笑みを小さくして、

 

「その子は、おれがちょっと目を離した隙に死んでるんだろうな」

 

 なんでもないことのように淡々と言った。

 

「今までもそうだったよ。おれが視える人間は何人かいたが、全員が全員生きた証なんて大層なもんを遺せるわけじゃねえし、もうなにも残っちゃいない。正直なところ顔も名前も覚えてねえ。人が神を忘れるように、神も案外人間のことって覚えていられねえんだよな」

「……そう、なんですか」

「おれたちは隠世(かくりよ)のモンだから、現世のやつらのことがぶっちゃけた話よくわからないってのもある。お嬢ちゃんは半人だからもう少し保つかもしれん」

 

 だが、と男は続けた。

 

「それも永遠じゃねえ。今感じていることも色褪せていくし、そんなことがあったって記憶さえも思い出せなくなる日が来る」

 

 天理の町にもいろんな人間がいる。

 先にいなくなるのはきっと彼らの方で、天理はずっと置いていかれる側なのだろう。両親でさえそうだったように。

 それを考えるだけで、心の底が抜けたように、ふっと景色が狭く、遠くなる。

 彼は、そんな生を今に至るまでずっと送ってきているのだ。

 天理がたかだか十年と少しで『もう良いや』と思ってしまった人生を、その何十倍か、下手をすれば百倍か――。

 

「ああいうゲームとかやってるとさあ」

 

 男は膝に肘を当て、頬杖をついた。

 

「たまに『なんにも残らないのになんでゲームなんかやってるんだろう』って言う奴を見る」

「……それは、あたしも聞いたことあります。先生がたまに言ってますね」

 

 苦笑いすると、「かーっ!」と男は頭を抱えた。

 

「別に人生だって死後一億年経ちゃどのみちなんも残りゃしねえよ」

「だいぶ極論じゃないですかそれ!?」

「だが事実だ。なんなら生きてても後から『ああ、あの時の経験にはちゃんと意味があったんだなあ』って思える時間はそんなにないだろ。忘れてることの方が多いぜ」

「そ、それはそうかもですけどっ……」

「勘違いすんなよ。だから無価値だって言ってるわけじゃねえ。むしろ、そういう意味のない時間に大切なもんが埋まってるのさ」

 

「まあソシャゲで丸一日周回とかしてるとたしかに『何してるんだろうおれ』とはなるが、それはそれとしてだな――」男は苦笑した。

 

「人間ってのは馬鹿だよな、たかだか百年も生きられない癖にどんどん面白い暇潰しを作る。だけど同じくらい頭が良いから、そういう暇潰しを自分で否定して、いちいち理屈をこね回さんと生きていけなくなる」

「それは……」

 

 天理は少しだけ考えてから、口を開いた。

 

「妖怪も神様も、みんな同じじゃないんですか」

「そうだな。人に関わるとそういう馬鹿が移るな」

 

 ワッハッハ、と笑い、男が自分の頭を撫でた。

 

「神や妖怪、物の怪の類ってのは、元を辿れば妖魔に行き着く。奴らはほとんど海とか山みたいなもんで、心がない。だからおれらでも話は通じない。そんな正真正銘血も涙もないようなやつらが、何かしらの過程を経て、心を得たのがおれたちだ」

 

「そこへ至るまでの道筋はそれぞれ違うだろうし、お嬢ちゃんは生まれたときからそうだったんだろうがな」と男は前置きした。

 

「心っつーもんの功罪は大きい。おれみたいに人生――人生? まあ良いか。とにかくそういうのを楽しめるようになったやつもいれば、嬢ちゃんみたいに理由を見い出せなくなっちまうやつもいる。だからおれは、こう思うようにしてるんだ。『元々意味なんかねえ』ってな。みんな、蛆のように湧いて、ボーフラみてえに生きて、なんの意味も理由もなく死んでいくのさ。妖魔がそうであるように」

 

 男が口に咥えた煙管から、ぷかぷかと赤い煙が浮かぶ。

 

【使命】(命の使い道)があるのはそりゃ結構。善いことだ。だがそれが見つけられてないやつらもいる。そいつらはどうなる。意味がなきゃ生きてちゃいけねえのか? 理由がなきゃ命に価値はねえのか?」

「…………」

「おれは、違うと思う」

 

 よっこらしょ、と男が立ち上がった。その頭を目で追う。自然と見上げる形になる。男がまた目を合わせた。

 その瞳をまっすぐに見ることが、今の天理には、なんだかひどく難しかった。

 また、俯く。傾けたコップから水がこぼれるように、気付けば、言葉が口を突いて出た。

 

「……でも。あたしは、なんだか。ここ(・・)にいちゃ、いけない気がして」

 

 言ってから、後悔する。自分で口にしておきながら、ひどく曖昧で、要領を得ない話だ。雲を掴むような言葉だった。

 しかし龍の男は、その雲を掴み笑った。

 

「んなこたないさ。お前さん、ちゃんと笑って怒って泣いて、そうやってここにいるじゃねえか。誰が文句を付ける。誰の許しがいる?」

 

 男がまっすぐに天理の目を見る。曇りも迷いもない言葉が、すっと静かに響いた。

 

「望まれて生まれたやつもいれば、そうじゃないやつもいる。話してりゃわかる……お前さんはきっと前者さ。だからってお前さんの苦しみが消えるわけじゃないが、あんまりご両親が悲しむようなことを言うもんじゃない。蛭子(ひるこ)の奴も怒るぜ」

「……ひるこ?」

「ん? なんだ、あいつ、本名は名乗ってなかったのか。随分お前さんに懐いているように見えたが……いや、今はもう本名でもなんでもないのか? どのみち知らない方がお互いリスクはないが」

 

 独りごちた男は、「まあ良いか」と続け、天理に背を向けてゆっくりと階段へと足を乗せた。

 

「悪いな、説教臭くなった。龍ってやつらの性分だとでも思ってくれ。おれたちは自分のことを話したくて仕方がないんだ。なんせ、通った道が虹になるくらい自己主張の強いやつらだからな」

「……どこへ?」

「蛭――じゃなかった。ええと、名無か。お前さんのツレがそろそろここへ来る」

 

 男には、なぜ天理が一階で立ち往生していたのか事情を説明してある。一方で、なぜ名無が来ると断言できるのかはわからなかった。目を丸くして、そのあと名無の気配を探ってみたが、さっぱりわからない。

 まるで、霧の中にいるような――。

 ハッとする。奇妙だった。不自然なほど気配がわからなさすぎる(・・・・・・・・)

 

「さっきも言ったが……神と妖の境は曖昧だ。だから、おれにはこういうこともできる」

 

 廃校の闇が、演出のための人工的な闇ではなく、天理にとって慣れ親しんだ妖たちの棲むそれに変わっていると気付いたのはその時だった。

 

「名無のやつ、あんまりお前さんの気配が辿れないから心配になったらしい。イタズラ好きだが、悪いやつじゃない。お前さんは知っていると思うが」

「お兄さんも、名無ちゃんを知ってるんですか……?」

「おれと会ったことは言わない方が良いぜ」

 

 男が一歩、階段を登る。

 

「卒業祝いの日なんだろ。おれも台無しにするのは心苦しい。黙ってくれていればあいつも気付かないはずだし、邪魔はしない。少なくともこんなとこで手を出すつもりはなくなったが、話されるとそうもいかなくなる」

「ま、待ってくださいっ。お兄さんはいったい、」

「いずれわかるさ――なんつって。言ってみたかったんだよな、このセリフ」

 

 喉の奥から笑って、「ああそうだ、それと」と人差し指を立てる。

 

「少しはあいつの【秘密】っつーか……事情も探ってやれ。聞かないでおいてやる優しさも必要だが、聞いてやるのも同じくらい大事だぜ。普段人の話を聞いてばっかな神様(おれ)が言うんだから間違いない」

 

 反射的に立ち上がる。

 

「おっと、もうひとつ。忘れてた」

 

 なんてことのない話をするようにポンと手を叩いて、男が振り向くと、

 

「――ッ!?」

 

 全身の肌が総毛立つ。首筋を貫くような冷たさを感じて、意識よりも早く本能が天理の足を止める。

 全身の神経がビリビリと緊張を帯び、つかの間無意識に呼吸が消える。ほとんど勝手に体が動き、天理の姿勢が構える獣のそれに似て低くなった。

 龍の黄金の瞳が、思考や理屈の一切を置き去りにして、天理に『死』を予感させた。

 

「ふむ」

 

 心音さえ咎めるような沈黙が流れた。

 全身の血が駆け巡る。

 五感が研ぎ澄まされていく。

 世界が、澄んでいく。

 体の奥底が熱を帯びて、空虚だった現実がその距離を近付ける。

 遠かった目の前の景色が寄り添ってくるようで、天理の心臓が小さく高鳴った。

 

「なるほど。こいつは、脅しにもならねえな」

 

 最初に沈黙を破ったのは、男のため息だった。

 懐から、季節に似合わない厚手のマフラーを取り出して、男は自分の首にそれを巻き付けた。

 

「どういう、意味ですか……?」

「いずれわかるって言ったろ。その時に答え合わせをしよう。……じゃあな」

 

 それだけを言い残して、男は再び天理に背を向けた。

 次は、追いかける気にはならなかった。

 男の言葉は間違いなく真実で、命を落とすのは自分の方だろうと、一瞬で理解できたからだった。

 思い出したように呼吸が戻る。

 怖い――とは、思わなかった。

 自分の手を見る。じわりと手汗が滲み、かすかに震えている。

 その手を、己の頬へとやる。

 

 笑っていた(・・・・・)

 

「…………」

 

 しばらくすると、二階からドタドタと足音と共に、汗を浮かべた名無が駆け下りてきた。

 

「――天理さん!? 良かったっ、見つかった〜! どこにいたんですか!?」

「名無ちゃん……」

 

 果たして男の言う通りだった。気付けば辺りの闇はまたヒトに造られたそれへと戻っていて、もはや男がいた痕跡すら天理には辿れない。

 安堵のため息を吐いた名無が、わーっとまくし立てるように続ける。

 

「ずっと見てたはずの天理さんの気配が急になくなっちゃってっ。校舎中探してもどこにもいないし、いったいどうしたのかなあって……!」

 

 つかの間、迷う。

 あの男は――恐らく、名無と同類だ。共通する独特の気配があった。すなわち、超人的な力を振るう『忍者』であろう。

 となれば、名無が言っていた『天理を狙っている忍び』である可能性も高い。

 しかし腑に落ちない点もある。

 もし天理をどうこうするつもりが男にあったのならば、先程の時点で確実に殺されていたはずだ。

 だが結果だけを見れば、男は天理に何もせずふらりとどこかへ消えてしまった。

 その目的が何なのか、想像すらできない。

 

「……お、怒ってます……?」

 

 名無は、おずおずと上目遣いでコバルトブルーの瞳を天理に向けた。しかし天理は目を合わせることなく、どこを見るでもなく、視線を床へと向けた。

 言えば――。

 たしかに、名無はすぐにでも天理を連れて遊園地を後にするだろう。

 男の目的がわからない以上ここにいる理由がない。彼の存在を話して町へ戻り、すべてを終わらせてもらうのが最適解となるはずだ。あるいは名無にはなにかしらの心当たりがあるかもしれないし、天理にはやはり想像できない策を取るかもしれない。

 頭ではわかっている。

 だけど、

 

「ご……ごめんなさいっ。その、ええと、」

 

 もしそれで、本当に男がなにかしらの手を打ってきたとしたら。

 天理の喉が小さく蠢き、額に一筋の汗が浮かぶ。

 襲撃でもされた場合、事態が最悪の一途を辿るであろうことは容易に想像できた。

 名無の実力を軽んじているわけでは決してないし、恐らく天理よりもそういうことには慣れているだろう。

 だが少なくとも、天理には妖怪どうしの喧嘩を止めたり、ちょっとした除霊を行った程度の経験しかないのだ。

 荒事の場数には違いないが、超常の力を持つ忍び同士の戦闘を目にしたこともない以上、名無の足手まといにならない保証はない。

 少なくとも天理にどうこうできる相手でないことだけは確かだ。

 そんな状況で――。

 名無を、この遊園地へ訪れている人々を、危険に晒せば。

 取り返しが付かない。

 

「こ、怖がる天理さんが面白かったと言いますか見てて楽しかったと言いますかちょっとした出来心と言いますか、」

 

 天理自身がどうなるかについては男の目的にもよるが、殺されない可能性もある。天理の殺害が目的ならば、わざわざ手を出さずとも今夜どのみち死ぬのだ。

 なら、理由はそれ以外だろうか。

 どちらにせよ、自分のことなんてどうでも良かった。

 

「…………あの。ほんと……反省してますので……なにとぞ……なにとぞおゆるしを…………」

 

 唾と一緒に言葉を飲み込む。

 やがて天理がたどり着いた答えは、男の言葉通りだった。

 

「て、天理さん……」

「――ごめんっ、ボーッとしてた!」

 

 天理は、小さく震える名無に対して努めて明るく笑顔を浮かべた。

 

「もーっ、急にいなくなっちゃうんだから! あたし、ホントに怖かったんだからねっ」

「……天理さん?」

「ん、なあに?」

 

 首を傾げると、名無は一瞬訝しむような表情になり、

 

「……。いえ」

 

 しかし、なにも言わずに首を横へ振った。

 

「その、改めてごめんなさい。置いていっちゃったりして」

「ううん、気にしないで。あたしこそごめんね、いろいろびっくりしちゃってて」

「天理さん、やっぱりこういうホラーが……?」

「ダメみたい。あ、あたしもここに来て初めて気付いたんだけど……えへへ」

「そっか。いや、隠れて見てた時にやっぱりって思ったんですが――」

 

 ……うん? と、天理はもう一度首を傾げた。

 

「……え、今『隠れて見てた』って言った?」

「…………あれ? あっ、もしかしてさっきの聞こえてなかったんですか!?」

 

 声を上げた名無が、慌てたように口を抑えて、

 

「名無ちゃん?」

 

 コバルトブルーの瞳が、そっと逸らされた。

『聞こえていなかった』というよりは『返事をする余裕がなかった』だけの記憶を改めて引っ張り出す。

 

 ――ずっと見てたはずの天理さんの気配が急になくなっちゃってっ。

 ――怖がる天理さんが面白かったと言いますか見てて楽しかったと言いますかちょっとした出来心と言いますか、

 

 つまるところ名無はわざと天理を置き去りにしたのであり、

 そうやって怖がる天理を見て楽しんでいたのであり、

 へえ。

 へえ……。

 ぶちっ、と天理の中でなにかが切れた。

 

「……………………。え、えへへ違うんですよ天理さん聞いてくださいこれはちょっとしたドッキリというかいやホントやばそうだったらちゃんと出てくる気でしたよええそんな別に涙目の天理さんを見て楽しんでたとかそういうのではなく」

「へえ」

「いやちょっとは楽しんでたんですけどジョークというかちょっと落ち着いてください妖力が溢れてますほんとなにとぞおゆるしください申し訳ありませんでしたこのたびは心から反省しておりましてですね」

「へえ」

「あのそのほんとすみませんでした謝りますからちょっとその妖気をですねうわあ周りの闇が粘ついてるマジでこれ妖怪とかが人襲う前に出すやつごめんなさいごめんなさいごめんなさい!?」

 

 お化けに間違えられると天理以上に他人がびっくりしてしまうから、あまりそういう気配を出さないように心がけてきた。

 具体的にいつ頃からそうし始めたのかまではあいにく思い出せないが、とにかく妖気を抑える習慣が天理にあったことは間違いない。

 だから、久しぶりだった。思いっきり『それ』を出すのは。

 にっこりと笑う。その目元を黒い影が覆った。妖気と霊力の入り交じった、赤白い焔みたいなものが天理の背後でゴゴゴと音を立ててほとばしっている。「ぴえ……」というか細い名無の鳴き声は、お返しに聞こえなかったことにしてあげた。

 息を吸って、

 

「――名無ちゃんのばかあああーーーっ!!!!!!」

「――ご、ごめんなさあああいっ!?」

 

 

 

 

「なぜ殺さなかった?」

 

 唐傘を被り校舎から出ると、顔中のシワを怒りの感情表現のためだけに総動員したような表情で老爺が出迎えた。

 龍の男は、吐き捨てるように言葉を返した。

 

「フルコン邪魔されたから」

「ふざけるな」

「なんだってわざわざあのタイミングなんだよ。マジで良いところだったのに」

「儂は万一のための隠形の結界を維持するのに忙しいのだ。貴様も仕事をしろ」

 

 ぶつぶつ言いながら、二人はふらりと校舎から離れて人混みへと歩き出す。

 男が差した唐傘から、一定の距離を取るようにして、人混みが隙間を開ける。迷惑そうな顔ひとつすら浮かべることのない雑踏は、まるで二人の存在をはじめから認識できていないかのようだった。

 油と水が交わらないのにも似て、二人は人混みと一度たりとも溶け合うことなく、悠々と歩みを進めていく。

 

「……気が変わった。こんな所で殺り合ったらとんでもないことになるぜ」

「何?」

 

 男が首に巻いたマフラーをずらして、老爺へ見せつける。

 龍頭の頭から下は人間のソレとまったく同じだ。だからこそ、首に浮かんだものは嫌でも目を惹くものだった。

 ズタズタの傷跡である。一直線の刀傷にも似た跡を中心に、火傷で爛れたような肌がぐるりと男の首元を半周している。

 龍頭が校舎へ向かうまでは存在しなかったその傷は、老爺の目を見開かせるに充分だった。

 

「それは……」

「ちょっと試すつもりで殺気をぶつけたらこれだ」

 

 暗闇の中に浮かんだ、あどけない彼女の顔を思い出す。

 妖狐としての特徴を除けば、歳頃の少女となんら変わるところのない、幼く優しい顔立ちの子だった。ひと目見たとき、今からでも降りるべきかなんて甘い考えが脳裏を過ぎるほどに。

 だが今では、その考えは綺麗さっぱり吹き飛んでいた。

 

「即座に『おれの首を斬り落とそうとしてきやがった』。殺気が濃すぎて物理的な威力を持っちまってるんだ」

 

 記憶の中の少女の顔が――。

 赤く光る丸い瞳が、研ぎ澄まされた刃にも似て細まる。

 妖の血を引くとは思わせぬほどに柔和な雰囲気が、凍えるような闇を纏う。

 龍頭のそれを呼び水としたかのように、無尽蔵の殺意が辺りに満ち、なお際限なく高まっていく。

 

 ――そのかんばせが、笑みを浮かべた。

 

 天井知らずの殺気は一瞬で物理的な事象を引き起こすまでの濃度へと至り、一秒にも満たぬ間に龍頭の首を斬ったのだ。

 まさしく一瞬の出来事であったがゆえに、彼女自身も己のそれには気付いていないだろう。

 しかし龍頭はあのとき、たしかに幻視した。

 己の首がずり落ち、自身の体と忍花天理に見下ろされる、死の景色を。

 霊力で身を守るのがあとわずかにでも遅ければ、それは現実の光景となっていただろう。

 龍頭の殺気に対する反射とでも言うべきか、本来ならば咄嗟の防御や逃避として現れるはずのそれが、忍花天理に関してはまったく真逆の方向で発現している。

 あくまで反射、反応の類であり、天理本人にも自覚はなく、制御もできないのだろう。

 ――現段階でも、龍頭の想像の範疇を遥かに超えている。

 殺気をぶつけただけでこれならば、戦闘状態に入った彼女の力が周囲にどれだけの影響を及ぼすかはまったくの未曾有だった。

 厄介だな、と首をさすり、マフラーを元の位置へ戻す。

 

「さすがにこれだけの人混みで、常人を庇いながら戦うにはめんどくさすぎる相手だ。……周りの被害は無視しろなんて言うなよ。その瞬間おれは降りるからな」

「わかっておる。下策の下だ。派手に動けば、他の忍びが介入する口実を与えることになる」

 

 老爺の、タダでさえ刺々しい印象を与える顔のシワが、いっそう深くなる。苦虫を噛み潰したよう、という表現以外に言葉が見当たらない表情だった。

 

「比良坂の連中に言い訳を考えるのも癪だ。常人どもが気付くような真似はせぬさ」

「そんじゃ、やっぱりあの町で戦った方が良いな。少なくともここよりはマシだ。嬢ちゃんも黙っててくれるとお互い都合が良いんだが」

 

 龍頭は頬をかいた。

 

「それに、ちょっと気になることもあるんだよな。蛭――いや、今は名無だったか」

「儂が遣わせた隠忍のことか」

「そうそう。なにを企んでるのか、ちょっと興味が出てきた。一度接触しておきたい」

「どのみち両方殺すだろう」

「お前さん、そういうところ未だにちょっと鞍馬の忍びっぽいぜ」

 

 嫌いじゃねえけどな、とくつくつと笑った。

 

「おれが見た限りでも嬢ちゃんは相当ヤバい(・・・)。名無も初めて会ったとき、それを理解したはずだ。だが撤退するわけでもなく、報告を寄越すわけでもなく、応援を要求するわけでもなく、今もなお行動を共にしている。たしかに名無になにか別の意図がある可能性は否定できん。推測しうるパターンはいくつかあるが、一番ありえそうなのは――」

「あやつの力を利用しようとしている」

 

 老爺が口を挟んだ。

 

「所詮は小娘、情に付け込めば取り入るのは容易かろう」

「おれも、その線は考えていた。しかしお嬢ちゃん本人と話してみて、どうも違うんじゃないかとも思えてきた」

 

 顎を撫でる。

 

「嬢ちゃんは今日にでも殺されると考えてるっぽいんだよな。なにか約束事でも交わしてるのかもしれん」

「馬鹿な。既にあやつにどうこうできる相手ではないぞ」

「本人が無抵抗なら話は別だろ?」

「……ならばあやつは、本当に忍務を遂行しようとしておるのか?」

「だがそれならそれで、なんの報告もないのはやっぱ変だよな。お前さんからも再三連絡を取ろうとしたが返事がなかったんだろ。そんなやつじゃなかったはずだし、おれも現段階ではひとまず裏切ったと考えといて損はないと思う」

 

 少なくとも、事態を甘く見て足下を掬われるよりはよほどマシだろう。

 もっとも、最悪は往々にして予想の外からやってくるものである以上、油断などできるはずもない。

 ふと、老爺がわずかに目を丸くしていることに気付いた。

 

「お主、あやつのことを知っておるのか?」

「ん……。ちょっとな」

「先程は知らぬような素振りをしていただろう」

「名前が変わってたからな、さっき見てから気付いたんだよ。ま、それはどうでも良いだろ」

 

 龍頭は強引に話を切り上げた。

 

「とにかく、嬢ちゃんを殺すつもりなのか生かすつもりなのか、どっちつかずの動きだ。その割にお嬢ちゃんは自分が殺されるもんだと思い込んでる。……『名無はお嬢ちゃんですら知らない何かをやろうとしてる』んじゃないか?」

 

 しばらく考え込んでから、老爺は言った。

 

「魅了されているという線もある」

「何?」

「忍花天理にはそういう力があるのだ。本人は無自覚だろうが」

 

 龍頭は「マジか」と呟いた。

 

「初耳だぜ。『傾城』の相ってやつか? たしかに妖狐の血筋なら納得だが、あれは男にしか効かんはずだろ」

「いや、あやつの魅了は傾城のそれとは根本的に性質が違う。龍であるお主にはわからんかもしれんが」

 

 忍花天理という少女の『正体』と、己が龍であることを繋げて考えれば、そこへたどり着くのはそう難しい話ではなかった。

 

「そういうことか。だとするとたしかに、名無には『効く』な……」

 

 人混みの向こうに、二人の姿がふらりと消える。

 

「――仕方ねえ。名無に直接吐いてもらうしかねえか」

 

 龍頭の声は、誰のものともわからぬ喧騒に紛れていった。

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