戴天   作:灰汁

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五話における龍頭の階級を上忍→上忍頭に修正しました!!
シンプルに作者のミスです、申し訳ありません……!


八話

 天理は激怒した。

 必ず邪智暴虐いじわるおたんこなすの名無に一泡吹かせねばならぬと決意した。

 

「て、天理さ〜ん……機嫌直してくださいよ〜。わたしが悪かったですから。ね?」

「つーん」

 

 申し訳なさそうに笑って手を合わせる名無を無視して、カレーライスを頬張る。

 甘口で親しみやすく、給食のカレーを少し豪華にしたような好みの味で、ほんのちょっぴりだけ怒りが和らいだ。ほんのちょっぴりだけ。

 

「天理さ〜ん……」

「つーん」

「わたしのうどんの油揚げあげますから〜……」

「あたし別に油揚げ好きじゃないからね!?」

「えっ狐なのに!?」

「みんなが好きだと思ったら大間違いだよ!!」

 

 嫌いというわけでもないのだが、それにしても食べ物で釣ろうとはなんとも反省の色が見られない。ぷいっとまたそっぽを向いた。

 

「て、天理さ〜ん……」

「がるる」

 

 呼ばれたので威嚇した。このお店に入ってから、もう数え切れないほど繰り返したやり取りだった。

 遊園地内のレストランである。お昼のピークタイムはやや過ぎて、店内の客数も少しずつはけ始めている時間帯だった。とはいえまだ店内でのんびりしている客や、天理たちのようにあえて少しお昼をズラしてやって来ている人々の姿もあり、賑やかな声に紛れて遠くから店員の大声のやり取りがかすかに聞こえてくる。

 にわかに戦場の雰囲気が残る店内の隅のテーブル席で、もう一度名無は手を合わせて深く頭を下げた。

 

「ごめんなさいっ。もうしませんから許してくださいっ。ね? ね??」

「……あたしは名無ちゃんが楽しんでくれると良いなって思って我慢してたのに」

 

 頬を膨らませる。名無が捨てられた子犬みたいな表情をした。

 

「ううっ、申し訳ないです。怖がってる天理さんが面白」

「は ?」

「ヒェッ……も、もとい可愛くてつい」

「『つい』じゃないよ!? もう、もう、もおーっ!! あたし、本当に怖かったんだからねっ!?」

「あ、『可愛い』なら良いんだ……」

「良いわけないでしょ! だから怒ってるんだよっ!? わかってるのーっ!?」

 

 うがーっと怒ると、名無は素直に平身低頭しながらまた「ごめんなさい!!」と謝った。

 結局――。

 名無と合流してすぐ、お化け屋敷はリタイアと相成った。

 名無には言っていないとはいえ、謎の男の件もある。

 印象の話をすればどうにも悪人には見えないが、一方で天理に推し量れるような存在とも思えない。少なくとも行動原理がわからないのは確かであり、警戒するに越したことはないだろう。

 ――というのは半分くらい建前で、やっぱりあのお化け屋敷にあれ以上いたくなかったのももちろんあるのだが。

 

「い、言い訳をさせてもらえばですね」

 

 こほん、と名無は咳払いをひとつ。

 

「あんなに怖がってくれるとは正直思ってなくて。ほら、天理さんって本物には慣れてるじゃないですか。入る前に天理さん自身もそんなこと言ってませんでしたっけ?」

 

 それはそうなのだが断じて話が違う。天理はじとっとした半目になって、コップの水で喉を少し潤した。

 

「本物は絶対あんなに怖くない……」

「普通の人にはだいたいあんな感じに視えてると思いますけどね〜っ」

「ううっ、みんなの気持ちがちょっとわかったよ……」

 

 たしかにあんなのが跳梁跋扈しているとなれば、さしもの天理も夜の町に繰り出すのはちょっと勘弁願いたいところである。

 姿かたちがおぞましい妖怪というのはいるにはいるが、それとはまた少し違う怖さがお化け屋敷にはあった。多分天理は視覚以外の何かしらの感覚でも妖を知覚しているはずだし、その情報量が制限されることで余計に恐ろしく感じるのだろう。

 

「わたしは逆に本物知ってるから怖くないってタイプなので、意外でした。そもそも本物にしたって、全員が友好的なわけじゃなくないですか?」

「わかってても怖いのっ。妖魔よりずっと怖かったよ!!」

「それはそれでどうなんですかね……」

 

 どう言われても怖いものは怖いのである。

 またカレーライスをひと口頬張って、

 

「うううっ。名無ちゃんのばか〜……」

「ま、まあまあ……。お詫びと言ってはなんですがここは奢りますから、好きなもの頼んでください」

「むう……ほんと? じゃあ」

 

 天理はもう片方の手でメニュー表を取った。

 ジト目のまま、一通りの品を睨みつける。

 

「ストロベリータルトとティラミス、あとデラックスパフェ。バニラシェイクも追加で」

「めっちゃ頼みますね!?」

「あっ、そういえばジェットコースターの前に屋台あったよね。あそこでベビーカステラも食べたいなっ」

 

 半目から一転、にぱっと笑うと、鞄から遊園地内の地図が載ったパンフレットを取り出して、テーブルの上に広げた。

 

「ふ、太りますよっ。そんなに食べて平気なんですか!?」

「その分動くからだいじょーぶ! ついでに食べ終わったらジェットコースターにも乗ってみようよっ。絶叫マシン系? ってやつだよね。あたし、興味あったんだー」

 

 対照的に今度は名無が表情を曇らせ、

 

「…………絶叫マシン、ですか…………」

 

 ぴこん、と天理の悪戯レーダーが反応した。

 

「――ふーん? なんか意味深な反応だね、名無ちゃん」

「いえいえいえいえそんなことはぜんぜん」

「へえ〜。じゃ、一緒に乗ってくれるよね?」

「初体験なんですよね? 経験済みのわたしが傍にいるのは野暮だと思います。天理さんひとりでどうぞ」

「でもあたし、名無ちゃんと一緒に乗りたいな〜」

「………………。天理さん、最近自分の容姿の良さを武器にし始めてません?」

「えっ。い、いや、そういうのじゃないけど」

「ってことは今の上目遣いは無自覚なんですかこの天然悪女ッ……!! 雪かきの時にも言った気がしますッ……!!」

 

 とはいえ、無理強いするのもよろしくない。かんばせを解いた。

 

「本当に苦手ならぜんぜん大丈夫。あたし、名無ちゃんと違って優しいから。名無ちゃんと違って」

「うぐっ。そ、それを言われるとぐうの音も……」

 

 ふふんと笑う。そろそろ許してあげることにした。

 

「冗談だよ、もう怒ってないから」

「ほ、本当ですか……?」

「ほんとほんと。次やったらもっと怒るけど」

 

 デコピンくらいは許されると思う。

 店員が持ってきてくれた追加オーダーのシェイクのストローに口を付けて、話を戻す。

 

「でも意外だね? 名無ちゃんにも苦手なアトラクションってあったんだ」

 

 むう、と観念したように名無がぼやいた。

 

「生きてれば怖いもののひとつやふたつありますよ……。あれだけの速度が出てるのに、自分で制御できないっていう状況が嫌なんです。ジェットコースターなんて体むき出しじゃないですか」

 

 なるほどたしかに、ジェットコースターはものによっては時速100キロ後半を超えるという。さすがにこの遊園地はそこまでではないだろうが、とはいえ万が一外に投げ出されたらと考えると背筋に薄ら寒いものが走るのも事実である。

 

「た、たしかに。冷静に考えるとすっごく怖いような気も」

「なんかこう、逆凪(・・)したときのあの感覚を思い出して嫌なんですよねえ」

「さかなぎ?」

「あ、そっか天理さんには伝わらないのか……。いえ、忍者の話です。すみません、わたしってばついこういう話を」

 

 てへへ、と名無は照れくさそうに笑った。

 

「天理さんは不思議ですね。こうして話してると、昔から友達だったみたいに思えちゃいます」

「――……」

 

 天理がなにかを言う前に、名無は話を戻した。

 

「えっと……じ、じゃあ、次はジェットコースターですか……?」

 

 だから天理もあえて追及はせずに、緩く首を振った。

 

「……んーん。名無ちゃんが乗れないいなら良いよ。二人で無理なく楽しもっ」

「……天理さん……」

「あっ、見て見て。これなんてどう? この――」

 

 天理はここからそう離れていないアトラクションを指さして名無へ見せた。

 

「『フリーフォール』ってやつ!」

「結局絶叫マシンじゃないですかーっ!!」

 

 

 

 楽しい時間はあっという間に過ぎていった。

 青い空はいつの間にか茜色に染まっていて、地平線の向こうに沈む夕日が見える。遊園地のベンチに座りながら、天理はぼーっとその空を眺めていた。

 

「天理さん」

 

 背後から声をかけられた。振り向こうとすると、頬にぴとっと冷たい感触が走る。手にスムージーを二つ抱えた名無が、にっといたずらっぽく笑った。

 

「引っかかった〜っ。さっきの仕返しです!!」

「もう」

 

 天理もくすりと苦笑いして、頼んだスムージーを受け取る。名無がベンチの隣に腰掛けた。手が触れるほど近い距離の、その隙間に夕陽がある。

 遊園地の人通りも、少しずつまばらになり始めていた。

 

「楽しかったですか?」

「うんっ。すっごく!」

「そっか。なら、良かったです」

 

 二人して、同じタイミングで、ストローを口に含んだ。

 

「ありがとう、名無ちゃん」

「なにがです?」

「あたしに、思い出をくれたんだよね?」

 

 首をかたむけ、隣の名無の顔を覗き込むように見上げる。名無は少しだけ頬を赤くして目を逸らした。

 

「そんな、お礼を言われるほどのことじゃないですよ」

 

 ちゅー、と名無のスムージーのかさが減る。

 

「天理さん」

「なあに?」

「お誕生日、おめでとうございます」

「えへへ。ありがとう」

 

 卒業式を終え、四月も少し過ぎたこの日。天理は十三歳になった。

 ふと、名無が呟く。

 

「……ひとつだけ、」

 

 そっと、耳を傾けた。

 

「帰ったら。最後にもうひとつだけ、聞いてほしいお願いがあるんです」

「あたしに?」

 

 こくりと頷く名無に、微笑みかける。

 

「良いよ。あたしにできることなら、なんでも」

「即答ですね!?」

「だって、こんなに楽しい一日もらっちゃったし」

 

 両親が亡くなったあの日――。

 心の底から笑える瞬間なんて、これからもう二度と来ないんじゃないかと思った。

 いつまでも涙が止まらなくて、眉間の強ばりが取れなくて、ずっと戻らないんじゃないかと思った。

 胸から込み上げる波は、しばらくすれば止んだけれど。その代わり、心の底に穴が空いてしまったみたいに、いろんなものが零れ落ちて、なにもかもがどうでも良くなっていた。

 いや、今でもそうだ。

 自分はここにいるべきじゃない。龍の頭の彼と話をしたあとも、なぜだかこびり付いたその考えが落ちることはなかった。

 泥の中にいるみたいだった。

 陸の生き物が、水中で息をすることができないのと同じで。音がなにもかもくぐもって聞こえるのと同じで。視界がぼやけて目さえ開けていられないのと同じで。

 ――それは、これからもずっと変わらないのだろう。

 ――でも。

 ――今日だけは。

 

「だから、名無ちゃんにあげる。あたしの全部」

 

 少しは、ちゃんと笑えていた気がするから。

 それだけで、もう思い残すことなんてなにもないのだ。

 ――という意味だったのだが、なんだか名無は能面みたいな顔をしていた。

 

「……。…………。……………………情緒がおかしくなるのでやめてくださいホントに」

「あれっあたしそんなに変なこと言った!?」

「言いました!! そのセリフは重すぎます!! どういう意図で言ったんですか!?」

「いや、言葉通りだけど……その、命とか」

「めちゃくちゃ重い!!」

 

 悲鳴みたいに叫ぶ名無の姿が面白くて、また、思わずくすりと笑みがこぼれる。

 

「むう……。最後の最後までホントに……」

 

 名無が、唇を尖らせた。

 

「この二ヶ月間。ずっと、そうでした。わたしばっかり振り回されてて、なのに肝心なとこは無関心で」

「そうかな」

「ですです。あーあ」

 

 少なくとも振り回した自覚はないし、なんなら振り回される側だったような気もするが――。

 あるいは、そういう関係が『友達』らしいのだろうか。

 足をぱたぱたと振り、名無が赤い空を見上げる。

 

「もう少し、別の言葉を言ってくれればな」

「え?」

「なんでも良かったのに。どうして、よりによって『それ』なんですか」

 

 拗ねたように彼女は続けた。

 

「楽しいって思ってくれたなら。どうして、わたしを嫌ってくれなかったんですか」

 

 その言葉が、夕焼けに溶けていく。

 

「この一日だけじゃ嫌だって。もっといたいって、」

 

 なんの意味もない言葉が、

 

「――どうして、『生きたい』って……」

 

 二人の隙間を、通り抜けていく。

 何秒か、何十秒か、それとも何分か。もしかしたら一瞬だったのかもしれない永遠が流れて、

 

「それは、やだ」

 

 天理は、呟いた。

 視線をおろす。三割ほど中身が減ったスムージーカップの、ひんやりとした冷たさが、手のひらを通って胸の奥に心地良く刺さる。

 天理の笑みの形がへにゃりと崩れた。

 

「……なんでです?」

「こんなに楽しかったのにさ。あたしは、もう明日のことを考えちゃってるんだ」

「それは普通のことです。だったら、その明日を続けていけば、」

「違うの。違うんだよ」

 

 気付けばそれは笑顔ではなく。

 泣き顔でもなく。

 ただ、全部が嫌になったみたいに、瞳の奥が昏く渦を巻いて、

 

「――『あそこで終わりにしておけば良かった』って、あたしはいつか思っちゃうんだよ」

 

 名無が息を飲む音が、しんと響いた。

 こんなに楽しかった一日が、やがて呪いになってしまう日が来る。

 そんな確信めいた予感があった。

 

「だから、良いの」

 

 言い聞かせるように、言葉を重ねる。

 

「だから……あたしは、ここにいるんだよ」

 

 きっと、他にも道はあったのだろう。

 本当に形振り構わなければ、名無から逃げ出すことだってできたかもしれない。名無もそれを追わなかったかもしれない。いや、それこそ、たった一言『生きたい』と言えば、もしかすれば別の形で天理は明日へと向かえたのかもしれない。

 だけど、その明日になんの意味があるのだろう。

 もらった明日を、天理は『そういう風』にしか過ごせないのに。

 楽しかった思い出を穢してしまうくらいなら。

 祈りを呪いに変えてしまうくらいなら。

 いっそ――。

 天理は、自分でこの結末を選んだ。

 今この瞬間に、この場にいることを、選んだ。

 だから、

 

「だから。お話は、これでおしまい」

 

 また、笑みの形を戻した。

 

「それで? あたしにお願いってなあに?」

 

 努めて明るく顔を上げる。半分だけ夕陽の光に照らされた名無の表情は、ひどくなにかを悔いるようだった。

 しかしそれは、夕焼けの幻だったのではないかと思えるほど一瞬で溶けて、

 

「……大したことじゃないですよ」

 

 くしゃりと、名無が飲み干したスムージーカップを潰す音が聞こえた。

 彼女もいつの間にか、寂しげに微笑んでいた。

 

「天理さんの、制服姿が見たいなって」

 

 

 

 自分でも律儀というべきかなんというべきか、中学校に進学するための準備だけはしっかりと行っていた。

 スクールバッグも既に用意してあるし、制服だってとっくに採寸を済ませて現物が届いている。

 使わないものを用意することに思うところがなかったと言うと嘘になってしまうが、かといってなんの準備もしないのもそれはそれで抵抗がある。結局周りと同じように準備を進めて、誰も天理が今夜いなくなるなんて夢にも思っていないのだろう。

 天理自身にも、未だに実感の湧かない部分はある。

 しかし、現実にピントが合わないのは今更な話でもあった。

 袖を通すことはないと思っていた制服を、不慣れな手つきで着る。オーソドックスなセーラー服とスカートを身に纏えば、少しだけ大人になったような気がした。鏡の前で確認する。サイズはピッタリ。だけど、まだ『着られている』感が拭えないのは不慣れさゆえだろう。夏になる頃には体に馴染んでいるに違いない。もっとも、その夏が自分に来ることはないのだけれど。

 部屋から出る。遊園地から屋敷へと戻る頃には、既に夜の帳が降りきっていた。

 天理の誕生日も、終わりが近付いている。

 自分がいなくなった後のことを、ふと考えた。遺書のひとつも書いていない。というのも、表向き自殺ということにしてしまえば、クラスメイトや先生があらぬ負担や誤解を与えてしまうかもしれないからだった。そのくらいなら不審死ということにしておいた方がまだ良いのかもしれないと考えたのだが、とはいえそれはそれで細かな不都合は生じてしまうのだろう。

 もっとも、どうやったとしてもある程度の騒ぎは免れない。

 せめて少しでも誰かの負担を減らせれば良いなと思って、なんとなく屋敷の掃除を始めた。

 時間もあまり遺されていないし、普段の掃除とそう変わらない簡単なものだが、お世話になった屋敷への礼も兼ねて、ひとつひとつできる限り丁寧にやっていく。

 一通りの準備と整理を終えると仏間に向かった。襖の前に立つと、なぜだか少しだけ緊張した。

 しばらくしてから、意を決したように中へと足を踏み入れる。

 広々とした仏間の中には、仏壇と両親の遺影があった。二人の遺影の前に立つ。

 

「……どうかな」

 

 照れくさそうに、二人へはにかむ。

 スカートを翻し、その場でひらりとゆっくり、一回転した。

 遺影でまで狐面を被っている父の姿は、改めて見ると少しおかしかった。

 母に至っては満面の笑顔でピースを浮かべている。

 今更ながら、もうちょっと他の写真はなかったんだろうか。なかったんだろうなあ、二人らしいなあ、なんて、ちょっと苦笑いする。

 その写真に――。

 どれだけ、心を締め付けられただろう。

 だが、それももう終わりだ。

 仏壇へと近寄り、手を合わせる。

 

「ごめん。あたし、やっぱりダメだった」

 

 呟く。

 

「もう少ししたら、そっちに行くよ。それとも、あたしは地獄行きかな」

 

 苦笑いした。

 

「……じゃあ」

 

 ゆっくりと、立ち上がる。

 しんとした静寂だけが満ちていた。ここに名無はいない。別の場所で、待っている。

 

「いってきます」

 

 天理はそう言い残し、仏間を後にした。

 向かう。

 

 この屋敷から、少し離れた神社。忍花屋敷と同じく山の近くに位置するそこでは、月と共に町を見下ろせる。

『お狐様』の伝承が伝わる神社である。

 

 天理が最期の場所として選んだのは、そこだった。

 

 

 あ、この人忍者には向いてないな。

 

 忍花天理という少女に対してはじめに抱いた印象は、たしかそれだった。

 その予感が正しいものだと確信したのは、両親から忍びのことを一切聞いていないと知った時である。

 

 ――天理の『それ』を才能と呼んで良いものなのか、正直なところ名無にはわからない。

 

 それは多分、天理に幸せをもたらすものではないし、ともすれば周囲さえをも災厄に巻き込んでしまう可能性すらあるからだ。

『呪い』とでも表現した方が、少なくとも才という響きよりは正鵠を射るのではないかとすら思う。

 天理の両親も、それはわかっていたのだろう。

 だから、忍びのことを話さなかった。

 もしなにかの拍子で彼女がそちらの世界に足を踏み入れれば――。

 きっと本人も周りも、不幸になってしまうから。

 ただひとつ確かなことは、天理の潜在能力は名無など優に凌ぎ、下手をすれば彼女の両親以上であるという事実だ。

 天から授かった異能。正しく、天稟。

 その力を、天理は未だほとんど使いこなせていない。

 しかし、それで良かったのだろうとも、思う。

 

 神社の屋根に座って、名無は月を眺めていた。彼女には一足先に待っていると告げてある。

 懐から短刀を取り出す。月光を浴びて妖しく輝く刃は、人ならざる忍びが鍛えたものだ。

 夜風と共にどこかから流れてきた桜の花びらが、刀に触れるなり、それだけで二つに裂けた。

 表の世界には出回らない素材と製法によって鍛錬されたそれは、子どもが振るっても鋼鉄を容易く裂くほどの斬れ味を持つ。いわんや超常の力を持つ忍びが首筋に振るえば、さしもの天理と言えど致命傷は免れない。

 

「天理さん」

 

 その名を、呟く。

 天理。天然自然が定めた道理。正しき道を指す言葉。

 

『あたしにとって正しい道を歩けるようにって、お父さんとお母さんがくれた名前』

 

 この二ヶ月、名無も天理に対して忍びの話をしたことはほとんどなかった。

 忍びどもが潜む影の世界は、この世の闇が吹き溜まる場所だ。

 ある時は権力者たちが行う代理戦争の駒となり、ある時は法では裁けぬ事柄に関わり、ある時は知るだけで正気を失うような事実に直面する。

 この世の悪意すべてが溜まる場所とさえ呼んで過言はないと名無は思っているし、少なくとも表の世界ほど平和な場所ではないというのは、忍びたち全員の共通認識だろう。

 常人が『悲惨な出来事』と聞いて想像する一通りのことくらいは、影の世界では珍しくもなんともない。そういう場所で名無たちは生きている。

 そんな世界のことを――。

 天理には、知ってほしくなかった。

 目を閉じれば、今でも昨日のことのように思い出せる。

 空腹のあまり倒れ伏していた名無に、彼女は手を差し伸べてくれた。

 自らを省みない底抜けの善意から浮かべる笑顔は、どこまでも隙だらけだった。

 

「それが、お二人が天理さんにあげたかったものなんですね」

 

 ふっと笑った。

 

「大丈夫」

 

 月に囁く。

 

「もう少しで終わりです。全部」

 

 星に嘯く。

 ひとつ、深呼吸をした。

 ふと、

 

「――良い月だな」

 

 背後から、老爺の声がした。

 

「、」

 

 予期せぬ出来事である一方、不思議なほど落ち着いてもいた。心のどこかで、このまますべてが上手くいくことはないだろうと思っていなかったのかもしれなかった。

 何者かが暗躍していたことは、名無も気付いている。

 天理自身が思っている以上に彼女を狙う忍びは多い。その目的は殺害であったり拉致であったり様々だろうが、少なくとも渡せば天理がまともな末路を迎えないことだけは確かだった。

 だが同時に、数が多すぎて個別に対策を練れないという問題もある。

 迂闊にこちらから動いて隙を晒すよりは、ひとまず向こうの出方を待つ方が賢明だろうと判断したが――。

 

「――ええ。とっても」

 

 だから名無は、取り乱すこともなく、首だけでゆっくりと振り返った。

 果たして視線の先には、月を背負うようにして二つの影があった。

 ひとりは老爺。ひとりは男。目を眇めて、その姿を見やる。

 

「出向いてくるなら、もう少し早くだと思っていましたが」

「それはこちらのセリフだ。貴様、こんなところで何をしている?」

「忍務ですよ。あなたが命じたんでしょう?」

「戯言を」

 

 老爺の――名無に忍務を命じた声は、今では吐き捨てるようだった。

 かつては鞍馬神流に属していた老剣士だ。それが抜け忍となって名無たちの流派へ合流してから、既に十年近くの歳月が経過している。

 老爺の接触自体は想定の範囲内だが、その隣にいる男の姿を見て、名無の頬に一筋の汗が伝った。

 

「……お久しぶりですねえ、龍頭さん」

 

 立ち上がりながら声をかけると、男は「はて」と息を引き、すっとぼけたように頭を撫でた。

 

「こないだ会ったばっかじゃなかったか?」

「あなたの感覚で年月を数えないでください。何年か前は人間にとってはそこそこ懐かしいです」

「そうか。やれやれ、こんな再会になっちまうとはな」

 

 龍の頭を、持つ男だった。

 両手を袖に突っ込んだ、無造作な格好で立っている。対する老爺は腰の刀の柄尻に手を置いており、すぐにでも抜刀できる姿勢である。

 肌が、粟立つ。

 ――なぜ、この人がここに?

 自答する。老爺が助っ人として引っ張り出してきた以外にありえない。

 

「『上忍頭』であるあなたまで出張ってくるとは思いませんでした」

「まあ、おれも本当は首を突っ込むつもりはなかったんだがよ」

 

 男――龍頭は気まずそうに頬を人差し指でかいた。

 

「この爺さんがどうしてもあのお嬢ちゃんを殺したいって言うんでな」

「一般人ひとりに、正気ですか?」

「違いない。が、可愛い部下が音信不通になった爺さんの気持ちも考えてやんな」

「おい」

「冗談だって、真に受けんなよ」

 

 生温く重い風が、龍の頭を持つ男を中心に吹いているようだった。

 なんのことはない。男は何もしていない。そこに佇んでいるだけだ。

 にもかかわらず、名無の本能が全力で警鐘を鳴らしている。何もかもを擲って逃げの一手に努めるべしと献策する。

 

「……ふん。やはりこの町は何も変わっておらぬな。奴らの葬儀の時と」

 

 老爺が呟く。どっ、どっ、と心臓が鳴る。

 口調こそ穏やかだが、それは男が友好的であることを意味しているわけではないのは嫌でもわかった。

 

「悪いね、こんな綺麗な月の夜分に。おれもこういうのはあまり気が乗らないんだが」

 

 男は名無から視線を外し、月を見上げた。

 

「お前さんが何を考えてるのか、ちっと聞かせてはくれんかね?」

「……やり方は、わたしに一任していただけるはずだったのでは?」

 

 ぐらり、とバランスを崩す。なぜだか体の右側が重くなった。慌てて屋根に手をつく。月光に紛れて、視界に赤い飛沫が、

 

「――ッ!?」

「お前さんも、わかってるんだろう?」

 

 そこで初めて、名無は気付いた。

 右半身が重くなったのではない。

『左半身が軽くなった』のだ。

 ぼとり、と境内に肉の塊が落ちる。名無の左腕だった。夜に血飛沫が舞う。遅れてじわりと痛みが走り、無尽蔵に膨れ上がる。留まることのない激痛は、すなわちそのまま傷の深さを表していた。

 男がなにかした様子はない。ただ月を見上げている。声音もあくまで穏やかだった。幼子へ言い聞かせるように。

 

「ぐ……ぁっ……!?」

「このおれが、ここに来ちまってることの重みがよ」

 

 攻撃をされた、のだと思う。

 言い切れないのは、その攻撃の種類はおろかタイミングさえまったく掴めなかったからだ。

 どこから。どうやって。なにをされたのか。

 そのすべてが、理解できない。

 

「常人ならともかく、忍びなら腕一本はかすり傷みたいなもんだ。だがおれもあんまり痛めつけるような真似はしたくない」

 

 ――そうだ。

 ――わかっていたはずだ。

 ――覚悟も、していた。

 

「次は片足を斬る。次はもう片腕。その次はもう片足」

 

 逃走は不可能。撃退など以ての外。

 

「悪趣味、ですねッ……!」

「だから気が乗らないって言ってんだろ。おれに子どもを斬って喜ぶ趣味はねえよ」

 

 頬をかく男の仕草はあまりにも無造作で、だからこそ理解してしまった。

 彼は、戦う姿勢すら見せていない。

 その上で名無を殺しきれるのだ。

 

「お前さんも、二度(・・)は死にたくないだろう。お前さんがなにを企んでるのか、早めに吐いてくれるとお互い楽に話が進められる」

 

 ならば――。

 

「……命の使いどころを間違えんなよ。『蛭子(・・)』」

 

 歯を食い縛る。

 妖力を練り上げる。

 

「その名前で、」

 

 月に、吠える。

 

「呼ばないで、くれますかねぇ――!!」

 

 名無ができることは、ひとつだけだった。

 

 

 

『それ』は、ふとした違和感だった。

 どう表現すればわからない、今まで感じたことのないような感覚。

 誰かに体を押されているような。

 ここにいちゃいけないと、言われているような。

 ――逃げろと、言われているような。

 尻尾の毛がピンと逆立つ。うなじにビリビリとした感覚が走る。

 

「――ッ、」

 

 何かに駆り立てられるように、天理は屋敷から飛び出た。『それ』がさらに強くなる。町から出なければいけないと、誰かに言われている。警告されている。根拠はない。でも、間違いないと思った。

 目を閉じる。感覚を集中させる。

 神社から、ひどく、嫌な気配がした。

 だが今この瞬間だけは、その『嫌な気配』に向かわねばならない気がする。

 迷いは、一瞬。

 直感に背を押され、悪寒を感じながら、一陣の風と化す。

 誰も出歩かない夜の山だ。力を抑える必要もなく、神社へとたどり着くまではたった数秒だった。

 参道を駆け上がった天理の、闇を見通す目が、鳥居の向こうにある『それ』を捉えた。

 

「よう。遅かったな、お嬢ちゃん」

 

 賽銭箱の前に、どこかで見たような気がする男が二人立っていた。

 だがそれよりも――。

 懐かしい香りがする(・・・・・・・・・)。刺さるような鉄っぽさと、べっとりとまとわりつく匂いには覚えがあった。

 ――血の匂いだ。

 広がる景色も、あの時(・・・)と似ている。

 二人の向こう側に、赤い水溜まりがある。それが夥しい量の血であると気付くまで、しばし時間がかかった。

 血溜まりの中に、人が、沈んでいる。

 

「『こいつ』といいお前さんといい、思ったより後味の悪い再会になっちまったもんだ。なあ?」

 

 左腕と右足を失った、小さな体が、転がっている。

 白い髪はべっとりと血に濡れ、もはや見る影もない。

 それは。

 さっきまで。

 一緒に、笑っていた、

 

 

「――名無、ちゃん?」

 

 

 変わり果てた彼女が返事をすることは、なかった。




次回ちょっと更新遅れそうです!すみません!!
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