戴天 作:灰汁
「お前に名を与えよう」
どことも知れぬ深い闇から、誰かの声を聞こえる。
「誰からも命を認められることのなかった神の名を」
わたしの、一番古い記憶。
「棄てられた不具の神の名を」
父は知らない。
母も知らない。
知る意味もない。
この体も魂も、世の理に反する外法によって造られたものだから。仮に彼らを知ることができたとしても、文字通り肉の親以上の意味を見出せはしないだろう。
だから同じように、
「『蛭子』。私とお揃いだ」
わたしの生にも、きっとなんの意味もないのだと思っていた。
「――私を、失望させないでおくれよ」
名を奪われるあの日まで。
本当の命をもらった日まで。
◇
目を覚ますと、視界に広がっていたのは知らない天井だった。
質の良い畳と薬の匂い。遠くから鳥のさえずりと、草葉の擦れる音がする。
「気が付いたかい」
声と共に、ひょっこりと視界に狐面が現れた。
首元に真紅のマフラーを巻いた、細身の男である。ゆらゆらと流れる赤いそれに、白銀の尾が交差した。
ふと、散り散りにたゆたっていたすべての記憶が繋がる。体が跳ね、
「お前……ッ!」
首の付け根から、反対側の腰周りまでを激痛が駆け抜けた。「つぅ……」と声を上げる。忍びと言えど、体が散り散りになるような苦痛には耐え難い。
「起きるなり元気が良いね。どうやら山は越えたようだが……無理はしないことだ。なにせ体がほとんど真っ二つになってたんだからね」
「……どうりで痛えわけだ」
「痛み止めは大量に使ってるんだけどねえ。無理してショック死なんてことになれば目も当てられない。まあ、とりあえず安静にすることだね」
男がくつくつと己に笑いかける。
わずかに浮いた上体を、わざと音を立てて布団に落とす。大した音はしなかった。悔し紛れに呟く。
「なんの真似だ」
「そう聞かれたら、医者の真似と答えるのが一番近いかね。つまるところ看病だ」
男をギロリと睨みつけると、肩を竦められた。今の己は、男にとってその程度の脅威でしかないということなのだろう。
「手当てはしたし薬も飲ませたけど、熱が下がるまでもう少しかかりそうだね」
己の枕元に置かれた桶には、水がなみなみと満たされている。男はそこに布巾を泳がせてから水気を絞り、己の額に乗せた。大変癪だが、ひんやりとしていて心地が良い。
「……お前らは――」
男を見るのがなんとなく気に入らなかったので、ぼんやりと天井へ目をやった。
「なんなんだ」
「ただの忍びだよ。僕と、変な龍の頭をしたのは隠忍で、お前を斬ったアレは鞍馬」
ゆらりとまた、男の背後で尻尾が揺らめく。白とも銀とも、あるいはまさしく白銀とも取れる毛並みだ。くすみのない輝きは、さながら夜闇に浮かぶ月に似ている。男の髪と同じ色合いだった。
「『ヒノキミ教団』の連中も惨いことをする」
なにも言わない己を見て、男がぽつりと呟いた。
「お前、水子だね。その白い髪と青い目……体に無理やり魂を結び付けたな。軽い拒絶反応みたいなものが出てる。雑な術だ」
「知ったような口を」
「知ってるからね。僕も、他者の魂と肉体を繋げたことがある。お前とは少し事情が違うけれど……なんにせよ、高位の術が用いられていることは疑う余地がない」
「なにが言いたい?」
「【反魂】だろう?」
目を見開いた。それは、『隠忍の血統』に伝わる秘奥中の秘奥の忍法である。
「本来は死者蘇生のために編み出された禁術だけど、それの応用かな。無数の水子の魂を混ぜ合わせ、繋ぎ止め、お前という存在を生み出している」
「……なんでお前がその忍法を知ってる。【反魂】は『あの方』にしか使えない術のはずだ」
「使えないわけじゃない。だがなんの前準備もなく使いこなせる忍者となれば、今の世ではお前の言う通り隠忍の頭領――ヒノキミ教団の教祖くらいなのも確かだろうね」
男は己の質問には答えずに話を進めた。
「どちらにせよ、それほどの術者が拒絶反応を計算に入れないはずがないんだ」
少し沈黙があって、
「思うにそれこそがお前を生んだやつの狙いなんじゃないかと考えたんだが、どうだい?」
ちょっとした謎かけの答えをねだる子どものように、男は問うた。
答えずにいると、再び降りた沈黙の隙間を縫うように、遠くからチチチと山鳥の囀りが聞こえた。男が言葉を重ねる。
「肉体が消耗すれば、お前の魂は拒絶反応を抑えきれなくなる。当然お前は死ぬ。だけど、それが霞むくらいの数の人間も巻き込まれて死ぬ。自動で戦う爆弾みたいなものか? タチの悪さでは比べ物にならないが……」
「――そうだとも。己は呪いだ。望まれず生まれ、だからこそ強力な呪詛になる」
「『蛭子』か」
静かに呟く男へ顔を向ける。そこまで調べがついていたのは予想外だったが、そも【反魂】の存在を知っている忍びだ。元より己の尺度ごときで測れる忍者ではないのだろう。
「それが、お前に与えられた名前というわけだ」
「殺せ。こうなった以上、戻る場所もない」
「だろうねえ」
男は微笑んで、その細い顎を人差し指と親指でそっと撫でた。
「だから、そうさせてもらったよ」
「何?」
眉を顰める。意味がわからない。真意を問うべく口を開いた途端、男の背にある襖がすぱーんっと真横にすっ飛んだ。
女がいた。
「あーっ起きてる!! お父さん先に話しちゃったんですか!?」
『ずるい』と顔にはっきり書かれている。黙っていてもうるさいんだろうなと、ひと目でわかるほど表情の豊かな女だった。ともすれば己の少し上程度の歳にしか見えない。長く伸ばした黒髪は艶やかで、瞳は青く透き通っている。目の色こそ同じだが、己の濁ったそれとはまるで似ても似つかなかった。
簡素な着物の上から、桜を編み織ったような羽織を被っている。
見覚えがあった。今度はすぐに思い出した。
己を斬った女である。
「病人の前だよ、お母さん。静かに」
女はどこ吹く風とばかりに気にした様子もなく、己が寝かされている布団へ歩み寄ってきた。足音も気配もまるでしない。目の前にいるはずなのに、見失ってしまいそうな。
ゆっくりとかがみ込んだ女は、己の顔を覗き込むなり、にぱーっと笑った。
「はじめまして――ではないかっ。さっき会ってますもんね! あ、覚えてます? 記憶とか大丈夫ですか? 体の調子は?」
「……忘れる方が難しい。体を真っ二つにされてる」
「えへへ、ごめんなさい。でも、そんなに痛くなかったでしょう?」
女は、笑ったまますっと目を細めた。
「そういう風に斬りましたから。あと、真っ二つじゃありません。ちょっとだけ残しました」
片目を瞑り、人差し指と親指でごくごくわずかな空間を摘んだ女の仕草は、言われなければ鞍馬の忍剣士とはわからないほどに毒気が薄い。
なるほど、斬られたことに気付くまで時間がかかるわけだ。
「あ、その時ついでに殺させてもらいました」
「そうか。……。…………なんて?」
「殺しました。あなたのことを」
こいつ、頭がおかしいのだろうか。
男の方へ視線をやると、頷きを返された。やっぱりおかしいんだ。
「すまない。彼女は脳みそまで筋肉でできているから、会話が噛み合わないことがあるんだ」
「お父さん???」
「……大変だな」
「なに、もう慣れたさ」
「あれっもしかしなくてもわたしめちゃくちゃバカにされてます!?」
先程の意趣返しのように男は女を無視すると、ひとつ咳払いをした。
「――名前は、もっとも古い呪いのひとつだ」
ぽつりと、男が呟く。
「そうあれかしと願われたものは、大なり小なりその影響を受ける。お前がそうであったように」
あまりにも唐突にそう言うものだから、話の流れを見失う。
そんな己をよそに、男は変にイタズラっけのある笑みを浮かべ、懐から一枚の紙を取り出した。
墨で『白』とだけ書かれている。
「この字、何色だい?」
「……馬鹿にしてるのか。『白』と書いてある。白だ」
「ハズレだ。僕は『何と書いてある?』と聞いたんじゃない。『何色?』と聞いたよ。墨で書いてあるんだからどう見ても黒だろう」
「は?」
「『名前』にはそれだけの力があるということさ」
男は笑って、紙をくしゃくしゃに丸めた。
「この世界は『名前を付けられる前のもの』で満ちている。御釘衆の忍びや魔法使いは、それをざっくり『魔素』と呼んだりするけどね。ともあれ、名を付けられた途端に『それ』は世界から切り離され、そう認識され、そういうものだと定義される。生まれる、と言い換えても構わない」
「……だから、なんの話をしてるんだ」
「裏を返そう。名前を奪えば『それ』は死ぬ。正確には名前という呪いが解けて、個を失うわけだ。さらに裏を返せば、殺すという行為は名前を奪うことにも似ている――とも取れる」
「もっともこれは詭弁や屁理屈みたいなもので、厳密にはまるで異なるんだけど、まさしくそういうものをごちゃ混ぜにするのが僕たち妖狐の得意分野でね」男はそう補足して、肩を竦めた。
「僕たちはお前から『名前』を奪った。かつてお前の中にあった力はもうない」
そんな馬鹿な、と目を見開く。
だがいつの間にか男の言う通り、己の内側にあった、血と共に巡る『何か』がたしかに消えている。
「それを『殺した』と表現するのは、まあ、あながち間違ってもいない。その上で、今はお前を『別のもの』で繋ぎ止めている」
「……できる、のか。そんなことが」
「あなたはもう、『蛭子』じゃないんですよ」
女が薄く唇に三日月を浮かべた。細めたその目に宿る感情は、己が知識としてしか知らないものだった。
「だから、良いんです。もう、誰も傷付けなくて良い。その呪いに縛られる必要はありません」
「――……」
まさか、そのためだけにわけのわからない手段を取ったのだろうか。
「『貌無しの
男が、己の額に乗った布巾を再び桶へ沈ませた。
「土蜘蛛はヒノキミ教団とは協力関係にあるが、一方で思うところもあるようだ。お前はもしかすると彼らに対する切り札ともなり得るかもしれない。向こうにも面倒を見る利はあるだろう」
「……。あの、お父さん。やっぱりこの子もお迎えしちゃいません?」
「馬鹿、それは無理だって言っただろう」
「きしょい。己を置いて話を進めるな」
「きしょい!?!?」
ギロリと二人を睨めつけると、女の方がわざとらしく「よよよ」と床に手を置いた。男は慣れた様子で肩を竦めている。まったくもって調子が狂う。
思考を戻す。
こうして力を失った実感を伴ってなお、二人の言葉には半信半疑という有様だ。わかるようなわからないような、ピンと来ないと表現した方が正鵠を射ているのかもしれない。
だが少なくとも、ただ殺すより遥かに手間のかかるやり方であることは間違いないだろう。
ふと、思考が行き着く。
名前を奪う行為が、すなわち己を殺すことと同義ならば。
己は、死の彼岸から舞い戻ったということでもあるのではないか。
それは、その所業こそはまさしく、隠忍の禁術である【反魂】に等しいのでは――。
「と、とにかくっ。あなたはもう自由です! わたしたちがお迎えする……っていうのは残念ながらダメそうですけど!!」
わたわたと手を振る女を見て、いや、と内心でかぶりを振る。
何を今更。仮にそうだったとして、こいつらが何者であったとして、己になんの関係があろうか。
なにもない。
今の己には、なにも。
「なんで、そうまでする必要がある?」
別に、惜しかったわけではないが。
蛭子としての力を持たない己が、自分の想像以上に空っぽであることに、今さらながら気付く。
薄々思ってはいた。当たり前の話なのだ。だって、己はそう在るべきとだけ呪われて生まれたのだから。
今、その名前さえ失ったというのなら。
己は。
これじゃあ――。
「己に、なんの価値があるんだ」
生きている意味なんて、なんにもない。
「あなたが生きていること。それそのものが、かけがえのない価値なんですよ」
生まれてから一度も聞いたことのない類の、穏やかな声だった。思わず女を見る。
「なにかをしてもらうためにあなたを助けたわけじゃありません。でも強いて言うなら、生きていてほしいかな」
「……意味がわからん」
「そっか。それじゃあ、せめてそれがわかるようになるまでは死なないでください」
「そんな戯言のために、どれだけの手間を己に使ったんだ」
「たしかに面倒ではあったけどね」
男が軽い調子で答えた。
「それでも『娘』の協力のおかげで、本来ほど手間はかからなかった」
「……子がいるのか」
「お前と同い歳くらいの、ね。実を言うと、はてどこから聞きつけたものか、お前を助けてほしいと娘に頼まれたのもある」
「そんな奴、己は知らんぞ」
「あの子も知らないよ。いや、そもそも忍びのことすら伝えていないはずなんだが……何分、以前から不思議な力を持った子でね。時折、何もかもを見通したようなことを言う。そのくせ、後から聞くとなにも覚えていないんだ」
はてさて困ったものだ、と、欠片も困ってなさそうな声で男は笑った。
「その、変な娘が、なんで己を助ける」
「僕たちの娘だからさ」
答える気はない、ということなのだろう。ため息を吐く。まともに聞くだけ無駄だ。
「大層なことだ。そいつは今どこに?」
「隣の部屋。お前から見て、ちょうど僕たちの反対側かな」
深い意図はなかった。
ただなんとなく尋ねて、そう答えられたから、あまり考えずにそちらへ視線をやった。
『やろうとした』。
正確には、意識を向けただけ程度のものだろう。女が入ってきた方向とは真逆の、閉じられたままの襖を意識した。それだけだ。視界にすら入れていない。
己の首が斬り落とされた。
「、」
「ダメだよ」
視界が闇に閉ざされる。男が、己よりふた周りは大きい手を、目元に被せたのだと気付く。
なにかいる。
「見ちゃダメだ」
向こうの部屋に。
「聞いちゃダメだ」
呼吸が浅くなる。
己の首が落ちている。
いや、首だけではない。腕が。足が。体すべてが、
すべての細胞が、
己の魂の一欠片に至るまでが、
なにもかもが、生きることを赦されていないような。
「……お父さん」
「まだ戻ってこられないんだろう。お母さん、悪いが」
「ええ、わたしが行ってきます。その子をお願いしますね」
「ああ」
それは、
『笑っていた』。
「――しっかりしなさい」
男の声が、脳の奥に響いた。
「大丈夫。落ち着いて。お前は生きているよ」
一言一言が体の奥に染み込む。
「すまない、びっくりさせてしまったね。だけど、必要なことだった。僕たちが傍にいれば、少なくとも『あの子』もこちらへは入ってこられない」
呼吸が戻らない。息の仕方を思い出せない。
「それでもこのままこの屋敷に居れば、いつかお前は『あの子』に殺されるだろう。だからそうなる前に、土蜘蛛に預けてみようというわけだ」
全身から吹き出す冷や汗を拭うことすらできない。耳から心臓が飛び出てしまったのではないかとさえ思うほどに、世界には男の声と心音だけが響いている。
「あれ、は――」
視界はまだ戻らない。まぶたの向こうから、じんわりと熱を感じる。触れているはずの男の手の輪郭さえ掴めない。
自分の首が繋がっていない気がする。
たとえ己の目を男が覆っていなくとも、きっとまぶたを開けることはできなかっただろう。
かろうじて、
「――お前たちは、『何』を、飼ってるんだ」
そんな声だけを、己は、震え落とした。
「勘違いしないであげてくれ。『あの子』は、本当にお前を助けたかっただけなんだ。だが今の『あの子』はまだ、こういう風にしか生きられない。普段はもっと優しい子なんだが……無理に力を使った反動みたいなものかな」
男が小さく笑う音が聞こえた。
「いつか、お前の気が向いた時で構わない。娘と会ってみてくれると嬉しいね」
意識がふっと、
「きっと、仲良くなれると思うから」
途切れた。
◇
それから、己の生は色を変えた。
呪われ、呪い、傷付けられ、傷付く――ただそれだけだった『生きる』という行為が、まったく別の意味を帯びるようになった。
土蜘蛛の里へ遣わされた後も、二人には時折顔を見せていた。当時はなぜ彼らに会いたいのか上手く言語化できなかったが、多分、恩義を感じていたのだと思う。表向きは、たしか復讐だとかお礼参りだとか適当な理由を付けていた気がする。
それもしばらく経てば理由すらいらなくなって、我ながら言葉から棘が抜けていくのを自覚していた。むしろ昔の己は少し尖り過ぎていたのだろう。当時を思い出すのは照れくさくもあるのだが、そう感じることができるのも、なんだかんだ生きているおかげだ。
だが、二人の娘に会おうとは思わなかった。むしろ避けてすらいた。おかげで、彼女は己のことを知りもしないでいる。
初めて見た時が『アレ』だったというのもあるが、直接的な理由は少し違う。
彼女は、忍者とはまったく無縁の生活を送っていた。それに己のような者が関わってはロクなことにならないと思ったのだ。
――それでも。
二人と、彼女への恩は、ひと時たりとも忘れたことはない。
だから繰り返し会ううち、話し方とかそういうのがいろいろ影響されて変わってしまうのも、仕方のない話だと思うのだ。だって昔のわたし、まともに教育らしい教育も受けてなければ人と会話したこともほとんどなかったし。今もないけど。なので仕方ない。仕方ないということにします。
一人称も『わたし』に変えました。さすがにお父さんの方を真似するとこう……ちょっとキャラ付けっぽくて嫌だったので。そうですよお母さんの真似ですよ悪いですか好きなんですもん。
こんなことができるのも、二人と――あなたのおかげなんですよ。天理さん。
こうすることは、元々決めてたんです。ずっとずっと昔から。
……お二人は、最後まで良い顔をしてくれませんでしたけれど。
でもそれが、わたしなんかにできる、数少ない恩返しだと思うから。
それが、わたしの命の使い道だって――。
わたしの、【使命】だって、思うから。
◇
「――名無ちゃんッ!!」
口から飛び出た言葉は、ほとんど悲鳴に近かった。
石畳を踏み砕く。空気が爆ぜる。踏み込んだ衝撃で土埃と石片が舞い上がった。スローモーションでそれらが視界の端を流れていく。
音の速度。駆ける。立ち塞がる者があった。流線型のフォルムはさながらSF映画から飛び出たような趣きで、きっとこんな場所でなければ面食らっていたであろう、人に似た異形。
『対象確認』
何もかもがゆっくりと流れていく世界の中で、無機質な機械音声が不思議と鮮明に聞こえた。
『無力化を開始します』
機械忍者という四文字がしっくり来るそれが、背負った刀に手をかける。
歯を食い縛る。
眦が吊り上がる。
牙を剥く。
「……邪魔……!」
天理の真紅の瞳に、視線だけで人を射殺すばかりの殺気が宿った。
「――そこを、どけえええッ!!」
機械忍者が、背負い刀を抜くと同時に横一文字で斬り払う。狙いは天理の首筋である。常人であれば目で追うことさえ叶わない一閃は、恐るべき正確さを以て首を落とすことだろう。
相手が、天理でさえなかったならば。
獣めいて姿勢を下げる。地面に顎を掠めるほどにまで重心を落とす。刀身をネオン色に輝かせた刃が、天理の髪を数束斬り裂いた。それだけだった。
鉄がひしゃげる音が響く。特殊な合金で製造された胴体に、天理の手が食い込んでいる。
『腹部、破損』
機械忍者が声を絞り出す。合金の体内を駆け巡るチューブと、その中に流れていたオイルが、ボトリと地面にこぼれ落ちる。
一撃で勝敗は決した。
駆ける勢いを利用して大地に機械忍者を叩きつける。石畳が蜘蛛の巣状にひび割れる。機械忍者の上半身と下半身が、万力で無理やり破ったように泣き別れる。
そして、二度と動かなかった。
それに一瞥すらくれることなく、天理は名無へと駆け寄った。
本来名無の傍にいた二人の忍びが、刀に手を添えわずかに空間を開けたことなど、意識にも上らない。
再びその名を呼び、血溜まりに沈んだ小さな体を抱き抱える。手のひらを通じて、今まさに名無の命の熱が失われていくことを理解する。喉の奥から、引き攣った声が漏れた。
直感する。
してしまう。
――助からない。
名無の体は天理の想像よりずっと軽かった。
左腕と右足が根元から断たれている。そこから夥しい量の血が流れていた。この傷では、適切な治療設備があったとしても血を止められるかどうかわからない。そもそも止血をしたところで、もう。
心のどこかで静かに理解する自分を、必死に見ないようにして、天理は名無を揺さぶった。
「名無ちゃん! 起きて、名無ちゃんっ!!」
何度も名を呼ぶ。それでも、名無が返事をすることも、目を開けることもなかった。
一緒に過ごした二ヶ月の間に見せてくれた笑顔も。
声も。
なにも。
彼女はもう、天理に見せてはくれない。
どうして。
だって、さっきまで。
夕方まで、遊園地で。
嘘だ。
なんで。
なんで――。
「驚いたぞ」
背後からしわがれた声が飛ぶ。
「あくまで数合わせといえ、下忍相当の機械忍者をああも一方的に打ち倒すとはな。曲がりなりにもあの二人の娘ということか」
どこかで聞いたことがある声なような気がした。
どうでも良かった。
「……なんで」
視界が滲むと、ぽたりと名無の頬に雫が落ちた。ぐちゃぐちゃになった胸の奥底が、瞳から溢れている。
同じ言葉を、何度も呟く。天理にできることは、それしかなかった。
「それに比べて、そやつのなんと貧弱なことか」
「、」
老爺が、嘲笑った。
嗚咽を漏らしていた天理の肩が、跳ねる。
「たかが腕と足を斬ったくらいで死におるとは。おかげで、なにも聞き出せなんだわ」
「、」
世界が、凍てつく。
熱と共に、瞳から心が流れ出ていく。
後に残った心の空洞は、瞼を閉じた時に見えるソレよりもなお深く、昏い。底のない穴めいた虚空だけがある。
その虚空から、声がする。
――。
濁流のように。
――。
天理を生温く、包み込む。
――せ。
何もかもが、遠くなっていく。
――せ。
世界が、どうでも良くなっていく。
虚空から。深い虚無の底から。果てのない地獄から。
『それ』はずっと。
ずっとずっと、昔から。
天理の中に、
「忍びであるならばもう少し耐えるものかと思っていたが、」
「黙れ」
それが自分の声だと気付くまで、天理ですら、しばらくの時間が必要だった。
地の底から響くようなそれは、声というよりも、音の形をした殺意そのものと表現した方が近い。
そっと、名無の体を降ろす。
風ですら音を立てることを躊躇っているのか、しんと静寂が舞い降りる。代わりに、なにかが、ぱちりと燃えて弾けた。
天理の体から、炎のような妖気が立ち昇っている。
黒く燃える陽炎をゆらりと纏い、
「あなたが」
立ち上がる。
「やったの?」
老爺の答えは端的だった。
「だと言えば、どうする?」
老爺が見下すように笑うのに対して、天理の返答もまた静かだった。
「そう」
天理の手のひらから、つと腕に赤い雫が伝った。拳を強く握りしめるがあまり、指がその皮を突き破っている。
痛みすら塗りつぶすように。
体中を血が駆け巡る。
視界が赤く染まる。
腹の底から真っ黒ななにかが暴れ出て、体中をのたうち回る。
心の中の、人間のかたちをした自分が、なにかを叫ぶ。
『それ』を、言ってはいけない。
「なにか言いたげな顔だな?」
とぐろを巻いたなにかが胸の奥をのたうち回る。
ずっと自分の中に棲んでいた、ドロドロとしたなにかが、天理の喉元をせり上がる。
言えばもう、戻れなくなる。
「良いぞ。言ってみろ」
――それが、どうした。
あいつは。
あたしの友達を。
名無ちゃんを。
「そっか」
稲妻。赤と黒。体を裂いて、軛を解いて、弾ける。
自分の底のさらに底にある何かが、真っ黒に、澱んでいく。
魂の色が、変わっていく。
全部が解けて、
「わかった」
だから。
見える世界が研ぎ澄まされていく。
あいつも。
余計なものが削ぎ落とされていく。
もうひとりも。
頭が真っ黒く塗り潰されていく。
なにもかも。
全部。
全部――。
たったひとつ残ったのは、
「 ――――殺す 」
殺意。
◇
大地が揺れた。
視界が赤黒い焔と共に爆ぜる。石畳が粉々に砕け散り、音も光も置き去りにして、一閃の稲妻が老爺へと迫る。
瞬きの何千分の一にも満たない時間で、その雷撃が老爺の首を落とす、
「その辺にしときな」
直前に、老爺と雷撃を青い結界が分断した。
「龍頭か」
雷撃は、輪郭が掴めないほどの大量の妖気を纏った天理本人である。全身から溢れる赤黒い妖力が、天理自身の殺意に呼応して見果てぬほどにその勢いを増していた。
結界を挟んで相対している老爺が鼻を鳴らす。
「未だ『蛹』と言うに、ここまでとはな……」
今でこそ結界と力を均衡させているが、それが破られるまでそう猶予はない。急ごしらえのものとはいえ、忍びですらない者に龍頭の結界が破られるなど本来有り得ざることだ。
だが、その有り得ざることを起こすだけの力が、今のこの少女にはある。
「よう。随分『らしくなった』な」
人間が浴びるには強力すぎる殺気は、もはや現世と隠世の法則を書き換え、物理的な影響力を持つに至っている。
目に見えない巨大な万力で押し潰されているかのような、途方もない殺意。
しかもそれは、今もなお加速度的な速度で増大を続けていた。
「……どうして――」
彼女の真紅の双眸が龍頭を射抜いた。比喩ではない。常人ならば、殺気を当てられただけで死んでいる。
「忍者にとって忍務は絶対だ。あいつはそれを破っちまった」
「――あたしは! 名無ちゃんになら殺されても良かったんだっ!!」
「生まれてもないやつを、どうやって殺すんだ」
返す言葉は、静かだった。
天理の目がわずかに見開かれる。結界を押し込む力がほんの少しだけ緩む。その隙を見逃す龍頭ではなかった。
結界を解く。同時に、結界術の構築と維持に回していた力をすべて外向きに転じさせる。
「ッ……!」
天理の矮躯が弾丸めいた速度で吹き飛んだかと思うと、空中で受身を取って片膝の姿勢で石畳に着地する。
油断なく龍頭を見上げる眼差しに宿る殺意には、些かの陰りもない。
――初見だよな? 普通怯むくらいはするだろ。
頬をかく。結界を転じた衝撃波は、範囲こそ広いが威力はほとんどない。
目の前の少女はそれを即座に判断し、自分から跳んで勢いを殺したのだ。
「お前さんを殺すってのは、『手段』であって『目的』じゃないんだよな」
――覚醒からは程遠いといえ、力に振り回される様子もない。
「例えばさ、卵を食うとするだろ。お前さん殻ごと食う? 食わないよな? 殻を割ってから中を使うと思うんだけどさ。お前さんは、さしずめその殻ってところだ」
――ビビって殺気を緩め、おれに先手を取らせるヘマもしない。
本能か。意識してか。あるいは、彼女の生まれが為せる技か。
「用があるのはお前さんの『中身』だ。『
追撃がないと判断したのか、天理の体が再び動いた。
「話の途中だぜ」
月光に紛れるようにしてひとつの影が飛んだ。
天理の頭上で、刀を逆手に持ち落ちるソレは、先程まで龍頭の背後にいた老爺である。
老いたりと言えど、腕は往時からわずかに見劣りする程度。その速度は未だなお天理を凌駕する。
加えて、ちょうど天理が動き出したその瞬間を狙っている。まさしく意識の隙間を縫うような一撃へ対処することは、熟達の忍びでも困難である。
駆け出した天理の右腕を、老爺の刀が貫き、地面に縫い止めた。
「ッ――!」
激痛に顔を顰める天理の体を、流れるような動きで老爺が押さえ込む。
「さて、話を続けよう」
さすがに元鞍馬というだけあって、体術の腕は龍頭をして目を見張るものがある。アレばかりは、人体を熟知した鞍馬の剣士ならではであろう。最小限の動きで天理の行動をほとんど封じている。
「おれたちが殺したいのは、正確にはお前さんの『中にあるモノ』だ。ただお前さんを殺しても意味がない。殻を破って『中身』が孵るようなことになればもう最悪だ。だが、名無は逆のことをしようとした」
殺意の籠った眼差しを浴びながら、龍頭は続けた。
「お前さんの中身を孵らせようとしたんだ。もちろん、完全にじゃない。『殻のくっ付いたひよこ』なんて表現があるが、まさしくアレを想像してくれればわかりやすい。『忍花天理』という器の、影響のない一部だけを壊して『中身』と共存させ、ひとつの存在として確立する――」
名無の気持ちは、わからないでもない。
龍頭個人としては、できることならそれを汲んでやりたいとも思う。
子どもはいつまでも遊びたがる。いつまでも遊ばせてやりたい。いつまでも見守ってやりたい。
それでも、いつか日は暮れるのだ。
状況は、既に変わっている。
「だが、名無にもひとつ誤算があった。お前さんという殻が不安定すぎて、中身に対して『忍花天理』の人格が耐えきれないことだ」
だから、名無は春まで待たなければならなかった。忍花天理という少女がひとつの人格として、本当の意味でこの天の下に生まれ落ちるための時間が必要だった。
結果的に、その時間が龍頭の介入を許す形となる。
「――さっきから、なんの話をしてるんだって顔だな」
思わず苦笑いする。やはり、あの二人も、名無も、天理にはなんの真実も伝えていないらしい。
それならそれで良いのかもしれない、と思った。彼らの気持ちもわからないではないし、知らない仲でもない。
「ま、知る必要も……」
ふと、気付く。
天理の目が、死んでいないことに。
背筋に嫌なものが走る。
反射的に叫んでいた。
「――ジジイ!」
彼女の唯一自由な左手が動く。天理自身の右腕目掛けて。
甲高く澄んだ、金属音のようなものが響く。
「退がれ!」
「何!?」
天理が、まるで自らを封ずるものなどなにもないかのように体を転じ、真上の老爺の首を左腕で掴む。即座に老爺も掴み手を解きにかかる。だが間に合わず、瞬きひとつの間に老爺が放り投げられていた。
尋常ならざる怪力によって投げ飛ばされた老爺が、水切りの小石めいて何度も地面を跳ねる。ひとつ跳ねる度に石畳が抉れ、並の人間ならば間違いなく挽肉と化しているだろう。
「マジかよ」
立ち上がる天理には、右腕の半ばから先がなかった。断面から血が何本もの筋を引いて滴り落ちる。すぐ側に、縫い止めた刀ごと人の腕が転がっていた。
体の動きだけでは振りほどけないと見るや、邪魔になる四肢を自分で斬り落とし、不意をついて脱出。同時に老爺を投げ飛ばしたのだ。
言葉にすれば単純だが、実行する覚悟と狂気は並大抵のものではない。
常人と比較すれば頑丈な体と言えど、傷を負えば痛むものは痛む。手を貫かれた時の反応から見て、天理も例外ではない。
常人から超常の力に目覚めた者などこの世には腐るほどいるが、いかに才を持とうとも、大半は戦いの中で経験する苦痛に耐えられず心を折る。幼少の頃より忍びとしての訓練を積んできた者ですら、苦痛に抗うことは難しい。
四肢を斬り落とすとなれば想像を絶する激痛であろうし、それを己の手で成すとなれば尚更だ。
だが――。
些かの迷いも躊躇いも恐怖も、今の天理には存在しない。
精神力か。狂気か。その両方か。いずれにせよ、
「はあっ……はあっ……!!」
既に彼女は、彼岸の域に在る。覚醒は遠くない。
投げ飛ばされた老爺は、しかし受身を取って後方に着地していた。
「化け物め」
老爺が忌々しげに天理の背を見て吐き捨てる。
眼前の少女の姿には鬼気迫るものがあった。片腕を失い、だがなおその殺気は萎む兆しをまるで見せない。それどころか、血と共に殺意を撒き散らすかのごとく際限なく勢いを増し続けている。
「なぜ貴様という器の人格が不安定なのか、教えてやろうか」
老爺が呟いた。
「不思議に思ったことはないか? なぜ、自分だけがこんなにも生きづらいのだろうと」
天理が、光が失われつつある瞳で老爺を睨みつけた。
「ヒトの世。妖の世。現世。幽世。そのいずれにも、漠然とした居心地の悪さを感じたことは、ないか」
「……だったら」
天理の殺意は、いささかも衰えなかった。
「だったら、何。名無ちゃんをこんな風にしたことと、なんの関係があるの!?」
「陸の生き物は海では生きてゆけぬ。逆も然り。激昴するフリはやめることだ」
頬をかく。
どうやら、仕掛けるつもりらしい。
「その顔を見るに、本当に『覚えていない』らしいな」
老爺が静かに印を結ぶ。
「本来は、こういう風に使う忍法ではないが」
ふと、雲が月を覆い隠した。
「覚えておらぬなら、思い出させてやろう。貴様の本性を」
夜の闇が濃くなる。それに紛れて濃度を増した妖気が、目に視える色を持って辺りを包む。にわかに金色を帯びた妖気だった。月光と見紛うかすかな輝きが境内に満ちる。
天理と老爺の輪郭が薄くぼやける。
言霊がひとつ、
「――【魔界転生】」
解けて、消えた。
◇
――雨が降る神社だった。
つかの間、一瞬にして天候が変わったのかと思う。
だが、違う。
誰かが笑っている。
世界の輪郭はどこかふわふわとぼやけていて、目に見えないはずの空気さえ霞んでいるように感じられる。雨が土を打つ音は遠く、湿った地面の匂いはひどく薄い。
誰かが笑っている。
どこか分厚い膜の向こうから世界を見ているような感覚。
それでいて、いやに、懐かしいような。
「ここは、貴様の記憶の中だ」
「ッ……」
傍に、音もなく老爺が現れた。龍頭の姿はない。
誰かが笑っている。
「記憶……?」
「そう構えるな。ここでは儂が直接貴様に危害を加えることは叶わん」
吐き捨てる老爺は、なるほど確かにどこか希薄である。なんとなくだが、天理も彼に干渉することはできない気がした。
誰かが笑っている。
「目に焼き付けろ」
老爺は天理ではなく、拝殿の方を見ていた。
彼の視線を追うようにして、天理もそちらを見やる。
――現実で見たそれよりも、遥かに広く濃い血の海がぶちまけられていた。
誰かが笑っている。
強かに打ちつける雨に流されることもなく、石畳に染み付いたソレを見て、天理の心臓がドクリと一際強く脈打つ。
息が、止まる。
ぐらりと、世界が、揺れる。
真っ赤な海の中に、
誰かが笑っている。
ひとが、ふたり。
いや、
「裏切り者の抜け忍には、もったいない死に様よな」
ひとであったものが、ふたつ。
それは、天理がよく知る姿だった。
その向こうに、小さな影が、ひとつ。
「互いに、せめて
その影が。
誰かが。
二人の――『両親』の返り血を浴びて、
「、」
笑っている。
「――あた、し?」
父と母の亡骸を、嘲るように。
◇
――███年██月█日。
――『██町』にて強力な妖魔の反応を確認。
雨の降る夜だった。
轟く雷が、闇の中を照らし出す。
――現地の『忍び』が対応にあたり、封印に成功。
血が飛び散っている。
――常人の被害はなし。
死体が転がっている。
――忍びの死者、『二』名。
その傍で、立っている。
人を殺した。
自分は、笑っていた。