モンドを統治する西風騎士団、その本部である城館は西風大聖堂のすぐそばに位置している。シンプルながらも厳かな城館の一角には一般人も利用可能な図書館があり、私はその片隅で黙々と読書に勤しんでいた。
傍らの本の山は軒並みモンドの歴史書であり、どれも辞書のように分厚い。到底、日が暮れるまでに読み切れる量ではないが、貸し出しも可能らしいので残った本は持ち帰るとしよう。
(モンドに来てはや三日か……思ったより自由に過ごせるのは嬉しい誤算といったところか。これも全てアルベドの采配のおかげだな)
モンドの正式な賓客として認可された私は、西風騎士たちの怪しげな視線に晒されることもなく、大袖を振って街中を歩き回れるようになった。
それに、私は研究室に一日中縛り付けられるような窮屈な日々を想定していたのだが、アルベドは自身が研究に目一杯打ち込めるほど余裕がないらしい。今日も午後から外せない急用ができたらしく、私は明日までは暇となってしまったのだ。
それでこの図書館に来て読書を楽しんでいたわけだが、この場には私以外にも暇を持て余している者がいる。いや、正確には持て余しているのではなく、目一杯暇を楽しんでいるのだが……
「うーん……やはりモンドの歴史を学ぶのなら、烈風の神デカラビアンの話抜きには何も始まらないわね。この一冊もおすすめよ」
横に積まれた本の山をまた一段高くするその女性は、この図書館の唯一の司書であり、ここに所蔵された知識たちの主人だ。
紫のドレスと先の折れ曲がったとんがり帽子、時折感じさせる蠱惑的な女性の色香と思慮深い知性、そしてそれらと相反するやや気怠げな雰囲気。彼女の名はリサ・ミンツ、アルベドと並ぶほどの才女である。
リサはお世辞にも働き者とは言えず、面倒な仕事には気乗りしないみたいだ。しかし、私のモンドの歴史を学びたいという要望に快く応えてくれた。勉学や研究には熱心になる性格なようで、そういうところもアルベドと似ているかもしれない。
かれこれ二時間はずっと私の横で本を選んでくれているのだが、他の仕事は放っておいてよいのだろうか。どうにも私をサボる口実に使ってる様な気もしなくはないが、世話になってるのは事実なので何も言うまい。
「あら、もうこんな時間……ねえ貴方、アフタヌーンティーでもどう? 美味しい紅茶をご馳走するわ」
「ふむ、君のような麗しい女性からお誘いを受けるとはな、思ってもみなかった……で、本音はなんだ? 何が知りたい? 私とお茶をしても面白くはないぞ」
「面白くないなんて、そんなことないわ。貴方みたいなミステリアスな人はきっと色んな摩訶不思議を抱えてるものでしょう? 貴方のことならどんな話でも興味がそそられるわ。自分のことを語りたくないのなら……アルベドと取り組んでいる貴方の、黒い神の目の実験の話でもいいわよ」
「聞きたいのはそっちか。まだそれほど多くのことが解明できたわけではないんだが……」
「その方がお姉さんも考察の余地があって楽しめるわ。貴方に付けてあげた名前のお礼だと思って、ね? いいでしょ、リダラちゃん?」
「むむっ……」
アルベドが私をモンドの賓客として滞在許可証を申請する際、どうしても私に名前を付ける必要があった。そこで私は渡鴉を由来する名前を付けてくれてとアルベドに頼んだのだが、最終的にはリサが名前を考えてくれたらしい。
リダラ・グライスウォルツ、それが私に付けられた新しい名前だ。人に名を呼ばれることが久方ぶりすぎてその感覚に戸惑うばかりだ、一向に慣れない。特にちゃん付けで呼ばれるのは無性にこそばゆくなる。
「分かった、ご馳走になるよ。名前の礼としては釣り合わんだろうが、アルベドとの実験の結果も少し共有しよう。しかし、ちゃん付けで呼ぶのはやめてくれ、私はこう見えていい歳をしたジジイなんだ」
「ふぅん、そんな歳には見えないわね。あの子と同じで可愛い顔をしてるのよ、貴方。ついからかいたくなっちゃうわ♪」
「一体誰と比べてるのか……可愛いと言うのなら、それは君には及ばないだろう、お嬢さん」
「あら……うふふっ、嬉しいことを言ってくれるのね」
リサに誘われるがままについて行くと、図書館の2階、一番奥にある小さな窓に置かれた簡素なテーブルに案内される。今の時間なら程よく陽の光が差し込むため、ゆったりと茶を楽しむにはうってつけの場所なのだそうだ。
先に席に着いて待っていると、ほどなくしてリサが芳しい香りを漂わせて戻ってきた。勿論それは、彼女の運んできたトレーに乗せられたカップの紅茶から香るものである。
「はい、召し上がれ。お菓子はまだ沢山あるから、好きなものを食べていいわよ」
「ありがたくいただこう」
芳醇で豊かで、なおかつ渋みも含んだ香りを楽しみつつ、カップの紅茶を口に含む。コーヒーと同じで紅茶も嗜好品、その味わいは奥深く種類も多岐に渡るという。こういった嗜好品には疎いのだが、思わず癖になりそうだ。
「うむ……美味だ」
「そう? それはよかったわ。私もこれがお気に入りなの。スメールから取り寄せた茶葉だから、モンドのお店では口にできない一品よ」
私と同じく紅茶の香りを堪能するリサだったが、その視線は何かを期待するように私に注がれている。その意味を理解した私は、仕方なく首にチェーンで吊り下げていたタリスマンを取り出す。
「君が気になっているのはこれだろう。手に取って見てみるといい」
「……! これが例の……」
無骨な鉄の装飾にはめ込まれた真っ黒な神の目。それをリサに手渡すと、彼女はアルベドと同じように信じられないといったように目を見開く。
「……彼との研究でこれが八つ目の元素を生み出すことは証明できたのかしら」
「そうだな……結果としては、その神の目から発現する黒い粒子は間違いなく『元素』だそうだ。決め手となったのは、他の元素と結びつくことで起こる『元素反応』が確認できたことだな」
この世に存在する七つの元素はそれぞれ独自の特性がある。加えて二つの元素が結びつくと、その組み合わせによって異なる『元素反応』が起こる。炎元素と水元素であれば『蒸発』、風と他の元素であれば『拡散』とその種類は多岐にわたる。
私の黒い神の目から生み出された粒子も、確認できた限りでは炎、水、氷、雷と四つの元素と反応を起こした。しかも、それぞれバラバラの反応ではなく、黒い粒子の持つ特性を付与するような反応であり、ある程度の統一性が見られた。風元素や岩元素による元素反応と酷似しているというのがアルベドの見解だ。
「まだ元素本来の特性や反応によって引き起こされる効果は研究中だが……黒い粒子という呼び方では味気なかったからか、アルベドはその黒い元素に『闇元素』と名付けた」
「闇、ね。あまり良い響きには聞こえないけど……」
闇元素、その名に懸念を感じるのも無理はない。人は明かり一つない荒野にでも放り出されれば、夜の闇に恐怖を覚えるだろう。しかし、我が家の暖かいベッドの上でならどうだ? 多くの人は暗闇と安堵の中で微睡むに違いない。人は根源的に闇を恐れる一方で、また惹かれるものだ──そして、私の生きた世界では闇こそが人の本質だった。
「闇元素の特徴はいくつかあるが、最たるは生命に悪影響を及ぼすということだ。『侵蝕』と呼ばれる現象に近いらしく、他の生命を蝕む毒のような性質を持っているそうだ」
「それは中々尖った性質ね。あ、この神の目は返すわね」
「そう腫れ物扱いをするな。元素力、特に神の目の持ち主ならさほど影響はない」
リサから神の目を返してもらいながら、私はアルベドとの研究の内容をつらつらと述べていく。正直なところ、分かったことより分からないことが多すぎるのが現状だ、先の浸食に近い性質を持っているというのもとりあえずの仮説で説明しているにすぎない。そんな曖昧な話ばかりになってしまったのだが、それでもリサは興味津々といったふうに耳を傾けていた。
「闇元素の粒子は他のそれよりもずっと重たく、アルベド曰く重力の影響を強く受けているのだとか。だからか、風元素によって起きる『拡散』の反応も……いや、これ以上はやめておこう。ただ起きた現象を羅列してもつまらんだろう。続きは研究に進展があってからにしよう──どうした、何か気になることでも?」
「……いえ、その神の目は本当に吸い込まれてしまうような……奈落のような黒だ、と思ったのよ。貴方に付けた名前、その由来に黒は大きく関わるものだから」
「私の名前の? ふむ、ただ渡鴉を意味するだけではないのか?」
多くの名前には由来があり、そこに何か意味が込められているものだ。私の新しい名前は渡鴉を表す言葉だと思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。
「このテイワットのいくつかの地域では、渡鴉を凶兆とする風習が残っているわ。それはかつて存在した渡鴉の名を持つ戦士を由来としているの。アイザックの血塗れ鴉、全てを焼き尽くす『黒い鳥』。その戦士はそんな風に呼ばれ、畏怖されていたそうよ」
「……君には私がそのような恐ろしいものに見えたかね。まあ、否定はせぬが」
「もう、そう慌てないで。渡鴉を恐れるのはいつだって支配者たちよ。そして、王や貴族たちが恐れるのは自らの権力が失われること。彼らにとって黒い鳥は秩序を破壊する者であり、玉座の簒奪者だったのよ」
かつてモンドの民には、貴族の圧政に耐え忍ぶ時代があった。故に、モンドの民は黒い鳥の伝説を肯定的に捉えた。黒い鳥は歪んだ支配から人々を解き放ち、『自由』へと導いてくれる風神の使いであると信じる者もいたらしい。実際に貴族の支配からモンドを解き放った『獅牙騎士』と呼ばれた剣闘士、当時の人々はその姿に黒い鳥を重ねたのかもしれない。
しかし、この逸話が信じられていたのはもう何百年も昔のことらしい。今やすっかり忘れ去られたグライスウォルツという名、それは黒い鳥の起源である地底の底にある古い国の言葉で『灰に塗れた黒い羽』を意味する。そこから転じて、渡鴉を指す名となったそうだ。そしてリダラとは、その国の騎士階級を表す。つまり私の名を西風騎士団のように呼ぶなら、『黒羽騎士』といったところか。
「少なくとも、このモンドでは鴉は縁起物のようなものよ。だから貴方の名を忌み嫌う者はいないと思うわ……貴族の末裔を除けば、だけど」
「なるほど。黒い鳥は畏怖される一方で、英雄のような側面もあるのだな……ふふん、私もそうなると? 闇元素の様な禍々しい力を振るう英雄など、ロクなものではあるまいよ」
「それを決めるのは貴方ではないでしょう。英雄なんて自ら望んで成るものではないわ。大衆、運命、あるいは神に認められ、求められたものが成る。王も同じこと、成るべくして成るものじゃないかしら」
「ふむ……」
成るべくして成る、まさにそれが運命というものだろう。ウェンティもまた、神や王は求められて存在するものだと述べていた。そしてこのテイワットでは、運命とは夜空に浮かぶ星々のことである。
だが、私の命ノ星座たる渡鴉座は無数の選択肢を持ち、時には他者の運命にすら干渉する力があるという。黒い鳥と呼ばれたその人も、私と同じ星座を背負って生きたのではないか。一個人が己の意思で、思うままに好きに生きた結果、黒い鳥となったのではないか。運命にすら支配されぬ者、それはまさにテイワットの
(私もあの旅人もある意味テイワットの例外のようなものか……しかし、ウェンティは私の名や星座のことを知ったらどんな顔をするだろうか)
自由をこよなく愛する彼のことだ、私の名を知れば手放しで賞賛してくれるだろう。しかし同時に、その私に誓約という枷をかけてしまっていることに苦い顔をするに違いない。
「……はい、これを貸してあげるわ」
「うん? これは……随分と古い本だな」
ウェンティから貰った翠珀の指輪を眺めながら物思いに耽っていると、リサがボロボロになった一冊の本を差し出してくる。私はすぐにもバラバラになりそうなその本を受け取り、表紙に視線を落とす。
「……題名も読めないが著者は……スメール教令院、明論派、……ウィレーム? これを書いたのはスメールの学者か?」
「ええ。私が学生時代にお世話になった先生の一人よ。彼は天文、そして占星術の研究を専門としていたけど、テイワット全土に広がる地下遺跡の調査も行っていた。その過程で黒い鳥の伝説に関する古文書を発見してるの」
「では、この本はもしや……」
「そう、黒い鳥と彼が生まれた地底の国に関する研究成果と論説をまとめたものよ。気になるでしょ?」
「ああ、気になって仕方がないな。是非とも熟読させてくれ。この礼は近いうちに必ずする」
「そんなの気にしなくていいわ。あ、でも……また私とお茶してくれたら嬉しいわ、ふふっ」
そう言って微笑むリサの表情は、あの太陽の女神に負けず劣らず気品に満ち、美しかった。別に私は女好きでもなんでもないが、彼女に誘われて頬が緩まない男はいないと思う。
「では、アルベドとの研究成果を土産話に、また図書館にお邪魔するとしよう」
「楽しみにしてるわね。あとは今日借りる本を必ず期限までに返却するよう心掛けてくれると嬉しいわ」
「ああ、必ず期限は守る」
「それと……ウィレーム先生の著書はスメールでは禁書とされてるの。だから、それは今はもう手に入ることのない貴重な書物よ。手荒に扱ったりしたら……お仕置きよ?」
「……っ!」
一瞬、リサの指先に紫電が走ったかのような錯覚が──いや、錯覚ではない。実際に彼女の指先には、微かに雷元素が滞留している。リサの笑顔は先程と何も変わらないはずなのに、その雷光のせいで印象が昼夜のように逆転してしまうのだった。
「あ……ああ、丁重に扱うよ」
「うん、そうしてちょうだい。約束よ?」
私の返答にリサは満足そうに頷くと、本を持ち帰るための手提げ鞄まで貸してくれた。私は楔石の原盤を扱う時と同じくらいの慎重さで本をしまいながら、リサの前では絶対に本のページを折ったりしないと心に誓うのだった。