机が勢いよく叩かれて、震動が空気に伝わり音になって響いた。
叩いたのは二本の手の平。この部屋の主の両手。
「こんなっ、また性懲りもなく、こんなものを……!」
秋日は机の上を叩いた両手をわなわなと震わせて、携帯のディスプレイを睨み付ける。
今朝方、匿名で送られてきたメールの内容は、寝起きの秋日の顔を顰めさせるのに十分以上のものだった。
「
『神庭の一年生、塩崎鈴夢は行く先々にヒュージを呼び寄せる疫病神。不幸は伝染する。逃れる術は無い。彼女が居座るガーデンには、いずれ必ず破滅の時が訪れるだろう』
◇
校長室。簡素だが年季の入ったビンテージの執務机の向こう側に、感情の起伏を読み取らせない平生通りの顔をした校長が座っている。
今朝の件を受けて緊急で集められたのは秋日、藤乃、悠夏の三人。渦中の鈴夢を除く生徒会メンバーだ。三人は小さなローテーブルを囲む形で革張りの椅子に腰掛け、校長の顔を注視している。
「件のメールは本校の生徒から無作為で選ばれたと思われる数十名だけでなく、近隣ガーデンの生徒にまで送信されていたことが判明しました」
校長の言葉に秋日は眉をぴくりと動かし、悠夏は口を丸くして驚き、藤乃は大して変わらぬ微笑のまま。
「前回のメールは極一部の人間に宛てられたものでした。その意図は恐らく、鈴夢さんを追い込んで彼女自身の足で神庭から離れさせること。それに比べて、今回は規模が大きい。本格的に神庭内外の不和を狙っているのでしょう」
メールの発信元は特定できていないが、秋日の中では確定している。
多国籍企業G.E.H.E.N.A.
マギやチャーム、ヒュージ関連の研究機関を擁する巨大企業で、鈴夢を拐かして強化リリィに仕立てた張本人である。
「新型ヒュージが現れて、直後にこれ。偶然にしては出来過ぎてますね~」
「あの新型、あいつらの実験の産物ってことでしょう。実戦テストに、あわよくば鈴夢をどうにかできると思って。ゲヘナっ、どこまでも卑劣な……!」
藤乃も、いつになく口調の荒い秋日も、裏で糸を引いている存在を疑っていない。
ところがもう一人、悠夏だけは腑に落ちないような顔をする。
「んーっ、でもこのメール、本当にゲヘナが出したんでしょうか?」
「……悠夏さん、どういうことですか?」
校長に問われた悠夏は戸惑い気味に眉を下げながら答える。
「前回のメールを見せてもらったんですけど、あっちは文面が事務的と言うかさっぱりと言うか、最低限のことしか書かれていなかったじゃないですか。いかにも『頭のお固い研究者が書きましたよ~』って感じで。だけど今回のメールは長いし、気取ってるし、拗らせた感じがして……。これって本当に同じゲヘナが書いたんでしょうか?」
悠夏の疑問を理解した一同は少しの間沈黙した。
「それは、単に文章を考える担当者が変わっただけではないかしら」
「で、ですよねー! なんか、詰まらないこと聞いちゃってすみません……」
「いいえ、詰まらなくなんてないわ。鈴夢のために真剣に考えてくれて、ありがとう」
秋日はわざわざ席を立ち、横から悠夏の体を抱き締めた。彼女がスキンシップを好むことを知っているからだ。
抱き締められた悠夏は照れながらも満面の笑みを浮かべる。
「メールの差出人やゲヘナの真意はともかくとして、これだけではさしたる問題にはならないでしょう。少なくとも神庭は、今更匿名の怪メール一つで動じたりはしません」
校長は「ですが」と話を続ける。
「このメール騒動を受けて、政府機関が調査を名目に鈴夢さんの引き渡しを要求してきました。メールの送信が本日早朝ということを考えれば、あまりに早い対応です。神庭に干渉する機会を窺っていたのでしょう」
「その政府機関とは、何なのですか?」
「特別監察本部。秋日さんはご存知かと思いますが」
「……人並み程度には」
秋日がそう答えたのは、あくまで公表されている情報しか知らないため。それ以上は推察することはできても限度がある。生徒会長とは言え、神庭の一リリィでしかないのだ。
「あのー、あたし、あまり詳しくないんですけど。そんなに凄い機関なんです?」
悠夏が申し訳なさそうにおずおずと右手を小さく上げた。アメリカに居た期間が長いため、国内事情に疎い面があった。
すると校長は彼女を責めるでもなく、頷いてゆっくりと口を開く。
「帰国子女の悠夏さんは勿論のこと、秋日さんと藤乃さんにも改めてお話ししましょうか。特別監察本部、その前身に当たる安全保障審査委員会も含めて」
対ヒュージ軍事育成機関であるガーデン。そのガーデンを、日本国は米英に倣って私立機関として設置する政治決断を下していた。
とは言え完全にフリーというわけではなく、平素から防衛省または文科省の監督下に置かれ、政治的案件が発生した場合は内閣府設置の審議会たる安全保障審査委員会の干渉を受けた。
審議会でありながら、安保審査委の影響力は大きい。彼らの提言を受けた政府が防衛軍を出撃させたケースも実際にある。
しかしその影響力は、安保審査委の長を国務大臣が兼任してきた慣例によるものだ。即ち、政情によって左右され得る不安定な力でもあった。
「――――そんな安保審査委に代わって設置されたのが、特別監察本部。名前こそ防衛省の防衛監察本部に類似していますが、中身は別物です。審議会から『特別の機関』に格上げされており、独自の諜報組織や戦力を有するとされています。更に、特別監察本部の監察官は状況に応じて現場の防衛軍部隊の指揮権を一時的に得られるとも」
「……まるで、憲兵隊か政治将校ですね」
秋日は改めてその認識を強くする。
「そんなところに呼び出されたら……鈴夢はどうなっちゃうんですか?」
「字面通りのまともな調査が為されるとは考え難いでしょう。と言うのも、彼ら特別監察本部にしろ安保審査委にしろ、国内の違法な強化実験の存在を否定してきたのです。鎌倉の一件を例外として」
恐る恐る呈された悠夏の疑問に校長が答えた。
鎌倉の一件とは、ゲヘナによる人造リリィ製造計画のこと。この件でゲヘナは極秘実験の詳細を形振り構わず自ら公表したため、国連も日本政府も動くことになったのだ。
「二十年ほど前に『遺伝子的にヒトと認められた者は由来の如何を問わず人とみなす』国際条約が採択されましたが、日本は国内の反対勢力が根強く、批准したのはごく最近の話です。反対者曰く『我が国は欧米と違って倫理的かつ道徳的なのでそのような非人道的な実験は起こり得ない』と」
「よくも抜け抜けと……!」
秋日は握り拳を固めて憤る。鈴夢の受けてきた苦しみを無かったことにする外道な言い草に。
「特別監察本部はそう言った法規制不要論や被験者保護不要論を踏襲しています。なので彼らの言い分通りに鈴夢さんが調査を受ければ、彼ら自身の主張が崩れる事態に陥るはず」
「だとしたら、適当に形だけの調査をやっちゃって、あとは鈴夢ちゃんのお口を封じる線が濃厚ですかねえ」
藤乃がとんでもないことを、いつの通りの軽い口調で言う。ただしその目は笑っていない。
「神庭の理事会はこの引き渡し要求を拒否する方針です。現状では特別監察本部の言い分は筋が通りません」
「それはっ、状況によっては鈴夢を引き渡すかもしれないということですか!?」
秋日は語気を強くする。
しかし以前の余裕の無い彼女ならばともかく、今は立ち止まって思い直すことができた。
「……申し訳ありません。取り乱しました」
「いえ、貴方の怒りも悲しみも正当なものです。どうかその気持ちを忘れないでください」
その後、校長室での会議はガーデン内と周辺ガーデンの動静を注視する方針で纏まった。
◇
その日の放課後。
鈴夢に関する怪メールは早速神庭の生徒たちの中で話題になっていた。
ただ大方の反応は前回と大きく異なっている。
「こんなの今更誰が信じると思ってんの?」
「キモーイ」
「デマをデマと見抜けぬ者にリリィは難しい」
呆れ返る者が居れば、当然憤慨する者も居る。
「ひめひめ、このメール……」
「ひめひめ! 何なのよこのふざけたメールは!」
「これってただの憶測ですよね? 何かヒュージ呼び寄せるってデータでもあるんですか?」
校内でも有名人の姫歌は詰め寄るクラスメイトたちを宥めようとする。
「皆、落ち着いて。そもそもマギ自体がヒュージを引き寄せるって言われているけど、そんなの関係無しに街にもヒュージはやって来るでしょ? だからあたしたちと何も変わらないの。今まで通り鈴夢に接してあげてね。それからもし万が一、他のガーデンの子に何か言われても、喧嘩腰になっちゃ駄目よ? 冷静に説明してちょうだい。こんな訳の分からないメールに振り回されるの、馬鹿馬鹿しいでしょ。
地底湖ネスト攻略戦の時からそうだが、今や姫歌は神庭にとって本来の意味での
姫歌本人としてはそこまで大層な思惑は無く、ただ一生懸命語り掛けているだけなのだが。
何はともあれ、姫歌はクラスメイトの輪を抜け出してグラン・エプレの控室へと急ぐ。
扉を開けて出入口をくぐった。
目に映るのは見慣れたテーブルにソファにクッション、清潔感ある純白のカーテンレース。
ほとんどのメンバーはまだ来ていない。鈴夢もだ。
姫歌は膝を折り曲げて右足を持ち上げると、思い切り下に向かって叩き付けた。
「っざっけんじゃないわよぉ! 陰でコソコソ匿名じゃないと喧嘩売れない卑怯者っ! ヒュージ以下よ!」
フローリングの床を姫歌の上履きが何度も踏み付ける。
そんな彼女の傍へ、先に控室に来ていた灯莉と紅巴が歩み寄る。
「定盛ぃ……」
「姫歌ちゃん……」
二人はそれ以上何も言わず、心配そうに寄り添ってきただけだった。
その内、姫歌は息を荒げながらも落ち着きを取り戻してきた。
「はぁ、はぁ……大丈夫、分かってる。こんなんじゃ鈴夢が余計に居心地悪いだけよね」
首を左右に振って、深呼吸して息を整える。
「アイドルはっ、どんな時でも笑顔!」
「そうそう。定盛は笑顔の方が可愛いよ~」
「ふん、当たり前のことを言うんじゃないわよ」
形だけでもいつもの調子を取り戻す。何だかんだ言って、姫歌もいつものグラン・エプレが好きだった。
無論、形だけでは十分ではない。中身も伴っていなければ。
グラン・エプレの日常を取り戻すため、姫歌は今自分にできることを考える。
◇
「はい! というわけで、ひめひめのアイドルお料理教室開催~~~!」
「お~、パチパチパチ!」
「どういうわけ?」
ノリノリで盛り上げる灯莉と首を傾げる悠夏の横で、姫歌が高らかに宣言した。
場所はガーデン本校舎の調理室。エプロンと三角巾を装備したグラン・エプレ一年組が揃い踏み。
学生寮の各部屋にも簡易のキッチンはあるが、大人数で本格的な料理を作るならやはりこちらの方が良い。
「ほら、この前、鈴夢に料理を教えてあげるって約束したじゃない。それを果たす時が来たというわけ」
こんな時に、と突っ込む者は誰も居なかった。こんな時だからこそ何か明るいイベントを開こうという姫歌の意図に誰もが気付いていたのだろう。無論、当事者である鈴夢も。
「じゃあ鈴夢、まずはどんな料理が作りたいの?」
「えっと、お昼に、どこでも食べられるような料理がいいです」
「ふむ、ならお弁当ね。奇を衒わずオーソドックスなものにしましょう」
鈴夢の大まかな要望を聞いただけで、姫歌はパパっと方針を決定する。
その様を見ていた紅巴は感嘆の声を上げていた。
「まずは使う弁当箱を見繕って……。調理室に丁度いいのがあるわね。これ借りましょう。あ、勿論本番では鈴夢が自分で用意するのよ? 今日はあくまで練習だから」
「は、はい」
プラスチック製の長方形をした赤い弁当箱。デザイン自体は何の変哲も無いが、サイズがでかい。重箱の一段を一回りも二回りも大きくしたような箱だった。カロリー消費が多いリリィにとってはこれぐらいが通常サイズなのである。
「次に中身だけど……最初はご飯からね。既に炊けてるお米を用意しているわ」
「何だが料理番組みたいです」
紅巴の感想通り、料理番組の如くテキパキと進めていく姫歌。
炊飯器の蓋を開くと、しゃもじで中の白米を数回軽く掻き混ぜる。
「普通にご飯を詰めるのもいいんだけど、折角だから俵のプチおにぎりを作りましょう。鈴夢、そっちのボウルにご飯を入れて、塩と
「はい」
「あまり力を入れ過ぎないように。こぼさないようにね」
鈴夢に指示を出す間にも、姫歌は次の作業に備えて
「ねえねえ、デザートにフルーツ入れましょうよ! フルーツ!」
「僕、お肉がいいー! お肉ー!」
「ちょっと、茶々入れるんじゃないの!」
途中、悠夏と灯莉のガヤを斬り捨てながら、姫歌は鈴夢の隣で指導を続けていく。
「ご飯をちょっとずつサランラップの上に載せていって、軽く丸めて、それからこの巻きすで丸めていって」
「……んしょっ、んしょっ」
「そしたらほら、俵おにぎりの完成よ」
「小さくて、可愛いです」
「そうでしょう?」
米俵の形をしたプチサイズのおにぎりが出来上がった。あとはお好みで海苔を巻くなりすればいい。
「えーっ、ハートの形にしましょうよー。もっと可愛いわよ」
「定盛! 僕、もっとでっかいおにぎりがいいー!」
「ええいっ、素人は黙っとれ!」
ご飯ができたら次はオカズ。恐らく多くの人が取捨選択に頭を悩ませるところだろう。
「お弁当のオカズはついつい好き嫌いで決めがちだけど、そこは栄養バランスや彩りも考えるのよ。勿論、考え過ぎてガチガチになるのも良くないけど」
「難しいです……」
「大雑把に入れるものを考えていきましょう。卵焼きにブロッコリーに人参のグラッセに、それから唐揚げ」
「あ……エビフライも、入れたいです」
「勿論よ。自分の好きなものは、好きな人にも食べてもらいたいわよね」
「~~~っ」
頬を染める鈴夢を微笑ましく思いながら、姫歌は挙げていったメニューを一緒に作っていく。
自分たちで持ち込んだ食材、調理室に元々置いてある食材を使い、無いなら無いでメニューを切り替えていって。
そうして窓の外の夕焼けが色濃くなってきた頃に、姫歌監修のお弁当が完成するのだった。
「でき、ました……」
「う~ん、流石ひめひめ、中々の出来栄えね。鈴夢もよく頑張ったわ」
出来上がったものに胸を張る姫歌だが、鈴夢の方は何故か微妙な面持ちをしていた。
「どうしたの? 何か気になる?」
「その、オカズ、結構冷凍食品が多くて。良かったんでしょうか」
「ああ、そのことね。全てを一から作るなんて土台無理な話だし、ある程度は仕方ないわよ。ひめかたちリリィの場合は尚更。それに大切なのは気持ちよ」
ここでは敢えて口にはしなかったが、コストの問題もある。ヒュージとの戦いでインフラや物流に打撃を受けた昨今、どうしても生鮮食品は手に入り辛くなっていた。
「そうです。それに最近は冷凍食品だって、美味しいものは沢山ありますよ。ニチ〇イさまさまです」
紅巴もフォローを入れて、鈴夢の不安を払拭させた。
「コホン……。とにかく、あとは本番、鈴夢次第よ。『秋日様なら鈴夢の作ってくれた物なら何でも喜んでくれる』なんて野暮なことは言わないわ。今日の経験を活かしてしっかりやりなさいよね」
「はい。姫歌さん、ありがとうございました」
「それとさっきも言ったけど、大切なのは気持ち! 愛よ!」
「あ、愛……?」
「愛よ、愛情! 食べてくれる人の顔を思い浮かべながら、愛情を込めて作るの! そしたらきっと上手くいくわ! 愛情こそ最大のスパイスなのよ!」
一生懸命料理を教えていく内にテンションが上がったのか、姫歌はアイドル活動時並みに熱くなっていた。
その言葉を前に、鈴夢は一旦考え込んだ後、やがて俯き白い肌を赤くする。彼女が何を思ったのか、周りの者たちにとっても想像に難くない。
「きゃーーーっ! 鈴夢ったら、か~わ~い~い~!」
「ひゃっ」
興奮した悠夏が鈴夢の小さな体に抱き付いて頬ずりを始めた。
「ビュオオオオオオッ! はぁ、はぁ、はぁ、はっ……!」
「とっきー、ご飯の前で鼻血は駄目だよう」
時を同じくして、奇声を発していつもの過呼吸を引き起こした紅巴の鼻を灯莉が押さえる。
「ええいっ、人が良いこと言ってんのに邪魔するんじゃあない!」
結局相変わらずの、はちゃめちゃぐだぐだグラン・エプレであった。
◇
調理室の外。廊下に立ち尽くしていた秋日はくるりと踵を返した。
一年生たちが揃って調理室を借りるというので様子を窺いに来たところ、顔を出す必要は無かったと察してこのまま立ち去ることにしたのだ。
「いい子たちですねえ。素敵な後輩を持てて、わたくしたち幸せ者なのでは?」
「そうね。これなら鈴夢のことも安心できるわ」
共に調理室の前まで来ていた藤乃の言葉に、秋日も背を向けた状態で同意した。
「勿論一年生だけに任せたりしませんよね? 秋日さん」
「ええ。当然あとで私からもフォローを入れるから」
そう答えたものの、藤乃の反応は芳しくない。目を細め、顎の下に右手を添えて考え込む仕草をする。
「んーーーっ、違うんです。そうじゃないんですよね」
「……何が?」
「あの子たちみたいにフォローするんじゃなくて、秋日さんだけの、秋日さんにしかできないことがあるはずなのでは? 鈴夢ちゃんはそれを一番望んでいるんだと思いますよ」
意味深な微笑を浮かべた藤乃に対し、彼女の言外の主張を察した秋日が左右に首を振る。
「そこまでは、踏み込むつもりは無いわ。踏み込むべきではない。私の立場では」
「立場ですか……」
まだ何か言いたそうな藤乃だが、秋日はそれに気付かない振りをして廊下の上を歩き始めた。