———碧い瞳が開いた。
少女は、朝の光を浴びて起き上がる。
「████?」
████の名を呼んだ。
そうすれば、いつものように「おはよう」といって頭を撫でてくれる。けれども、待てど待てど現れない。
食事でも作っているのだろうか、と天幕を出て姿を探す。
居ない。
どこにも居なかった。
少女は山中を駆け回った。入り江、頂上、木の上、麓の村。その全てを駆け回っても、痕跡一つすら見つからない。
どこかへ出掛けたのか。それならば一言自分に残すはずだ。
何度も何度も名を叫んだ。
それでも答えてくれない。どこにも居ない。まるで最初から、存在しなかったかのように。
・・・いや、そもそも。
「わたしは誰を探しているのだろう」
そう口にして、思わず手を当てた。
違う、思い出せ。
『アタランテ』
頭を叩いて、必死に思い出す。あの瞳の色も、髪の色も、声も、笑みも、まだ覚えているのに。
「・・・どうして!」
名前だけが思い出せない。
嫌だ、嫌だと少女は喚いた。
少女にとって、『ソレ』は家族であり、身近な異性でもあり、理想でもあった。
「████!!」
もう一度叫んだ。
答えはない。
何がいけなかったのか、捨てられてしまったのか。考えても、考えても答えは出ず。
夜が来て、朝が来て、陽が落ちて、月が登って、何度も何度も繰り返して。
そうして名前も、顔も、声も何もかも忘れてしまった。
それでも、誰かが居た、育ててくれた、その証明を首に巻かれたチョーカーが果たしている。小さなルビーが、その記憶を押し留めていた。
「・・・つき」
あの月夜に一緒にいてくれると約束した。
けれども「ソレ」はホラを吹いたのだ。
「・・・嘘つき」
宝石を握りしめながら、少女は立ち上がる。
「嘘つき」
少女は孤独になった。
◇
———赤い瞳が開いた。
荒れた海の音が響いている。
ここはトロイア。
神々の寵愛を受ける国。そして、神の怒りを買った国。
青年は、項垂れながら海の上に浮かび、神からの試練を待つ。
『随分とまあ、アルテミスの試練に手間取ったね』
その様子を一柱の神が面白おかしそうに眺めていた。
試練はこの神が与えたものではない。
『内容は知らないが、随分とやつれた。そんなにまで苦しいものだったのかい?』
青年は「さあ」と短く答えた。
試練はあったのだろう。しかし、何を為したのかまでは覚えがない。必要ないと、忘却したのだろう。
けれども、ぽっかりと胸に穴が空いてしまったように何かを失っている。それがなにかは分からない。
どうでもいいことではあるが。
『まあいいさ。ワタシは君を見届けるだけだからね。今回も身体を張って貰うよ。』
トロイアの国の人々は、神々———アポロンとポセイドン———に願い、城壁を築かせたのにもかかわらず、なにも支払わなかった。これによりトロイアはポセイドン神の怒りに触れた。そこで、送り込まれたのが青年———メラニオン———である。
『これじゃあペルセウスの再演に過ぎないがね。まったく、「ヘラクレス」という新たな英雄を売り出すのには些か味が薄い。いいかい、君の立ち回りにかかってるんだ。派手に・・・死なないぐらいに足掻くんだ。ここで、終わるにはいかないんだろう?』
メラニオンは、身体を変化させる。
何者でもない。何にもなれない、彼だからこその擬態能力である。
胴体は生々しい魚のようになり、頭部は犬のような怪物となった。怪物はグルグルと喉を鳴らし、崖上を見上げた。そこには哀れな生贄である、王女が縛り付けられている。
怪物は海上から飛び上がり、生贄の前に躍り出た。
今にも噛みちぎってやろうと、襲いかかった瞬間。
———それは現れた。
その体躯からして人の域を超えており、神が彫り上げた彫像とでもいうべき外観だ。筋骨隆々とした伊丈夫ではあるが、その筋肉繊維の一つ一つに、神気ともいうべきものが満たされているようだ。
怪物は確信する。これが、ヘラクレス。偉大なる大英雄になる男。
自然と後ずさってしまう。
嗚呼、勝てない。
この男に牙を剥けば殺されるのは自分であり、この男が何をしようと、その行いはきっと正しいことなので受け入れるしかない。
それでも、と。
怪物は唸り声を開け、英雄と対峙することを選ぶ。
———私には為すべきことがある。
ヘラクレスは剣を構え、怪物に挑む。
・・・結果は言うまでもない。
次回はアルゴー船の冒険。