五条兄妹   作:鈴夢

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愛憎

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″――ホンマに。お前は罪なオンナや。″

 

 

最初に見たときから、俺はお前に惚れたんや。

笑う顔も、視線をそらす癖も、無防備なところも。

全部が胸の奥に刺さって、抜けへん棘になった。

 

京都の路地みたいに、お前は細うて奥深うて、入ったら最後、戻り道が分からんくなる。

せやのに、俺は進むんをやめられへんかった。

 

他の誰かの名前を呼ぶお前を見るたび、胸の奥で何かが、ぎしぎし音立てて壊れていく。

″そやかて……洸は俺のもんや″

何度も何度もその言葉が巡っていく。

 

独り占めしたいんや。

綺麗事やのうて、ほんまの話。

あんたの時間も、声も、涙も、全部。

誰にも触れさせとうない。

 

だから虐めた。

好きな子おにちょっかい出すクソガキみたいな事をしてきた。

 

――せやけど無理に縛ったら、お前は壊れてまう。

ただでさえ″五条家″の人間なんや。

それが分かっとるから、俺は今日もお前を虐めて、笑うて引き下がる。

 

ほんまは指先ひとつで連れ去りたい思いを殺しながら。

 

 

 

 

もしお前が、道に迷うたら。

もし誰にも見つけてもらえん夜が来たら。

そのときはな、俺は躊躇わへん。

 

優しさも理性も捨てて、

この腕で包んで逃がさん。

 

それが愛やと、

俺は信じて疑わへんのやから。

 

洸は知らんでええ。

――この想いが、どれほど凶器じみとるかなんて

 

 

 

″愛に溺れて理性が壊れていく哀れな男の姿″

 

 

 

 

 

 

 

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五条兄妹 番外編

 

 

 

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7月初旬の京都駅、烏丸口。

観光客の波の中で、彼はひとりベンチに腰掛けていた。彼にしては珍しく″今日は和装ではない″。ポケットに手を入れたまま、何度目か分からないほど改札の方を見る。

 

「((あのクソ女!連絡もせんと この″直哉様″を待たせるとはええ度胸や……!))」

 

″禪院直哉″

彼は五条洸と待ち合わせをしていた。

しかし一向に現れない。

 

「((烏丸口に10時て!間違いなくそう約束したよな!?))」

 

約束の時間はもう過ぎている。しかも昨日の夜を最後に連絡がない。自分が送ったメッセージの横には間違いなく″既読″の文字がある。既読無視は日常茶飯事だが今日は困る。本当に現れなければ殺し合いにも発展しかねない。

 

 

「―――ねえ、あの人かっこいい!」

「声かけてみる?」

 

傍らでは黄色い声が飛び込む。

実はここに来て1時間以上経過していた。待っている間に何度も何度も女性陣に声をかけられては睨みつけての繰り返し。

 

「あっ、あの!」

「お兄さん、おひとりですか―――」

 

美女がふたり。髪を綺麗に巻いて細い脚をミニスカートから覗かせている。いわゆる一軍女子2人組。

そんな直哉に駆け寄って微笑みかけた瞬間。

 

「……話しかけんなブス。去ね。」

 

殺気立った目つき。ドスの効いた声。

女性達は小さく悲鳴をあげて直ぐに走り去っていった。

 

 

 

「((まあしゃーないな?このイケメン直哉くんの姿を見たら誰もが惚れるにきまっとる!))」

 

直哉はドブカスで有名だが……まあ見た目は悪くない。性格さえ良ければ最高なのにと禪院家全員が満場一致で口にするだろう。

 

陽に透けるような金髪が無造作に揺れる。作り込んだ派手さじゃないのに不思議とそこにいるだけで視線を引き寄せる。耳元にはいくつかのピアスが光り彼の存在を主張しているようだった。

 

白いTシャツは驚くほどシンプルで余計な装飾は一切ない。その分、引き締まった身体のラインがはっきりと浮かび上がり、清潔さと色気が同時に滲んでいた。細身の黒デニムは脚の長さを際立たせ、無駄のないシルエットが彼の美しさをさらに強調している。

 

そして腰元。

チェーンやリング、鍵のようなアクセサリーがジャラジャラと音を立てて揺れ静かな装いの中で唯一、奔放さを語っていた。規則正しく整えられた外見に、少しだけ混ざる″危うさ″が、彼をただのイケメンで終わらせない。

 

近寄りがたいほど整っているのに、どこか触れたら壊れそうな影もある。

その矛盾こそが、彼の一番の魅力だった。

 

「((″目立つから絶対和装で来るな″……って洸が言うもんやから急いで用意させたけど悪ないな?))」

 

自画自賛

自意識過剰

 

「((てかホンマに来おへんやん。もしかしてなんかあったんか……?))」

 

連絡もつかない。大幅に遅刻。

もしかすると″兄″に止められたのかもしれない。

 

「((でもそれなら少なからず連絡ひとつはよこすはずや。あんな女やけどそれなりに礼儀はあるからな―――))」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「″うわっ、チャラっ″」

「ん?」

 

刹那、小生意気な声と台詞が直哉におちる。

その人物は片手にキャリーケースを引き もう片方の手にはアイスコーヒーが注がれている某コーヒーショップのカップがあった。

 

遅れて登場したくせに――この女は本当に兄妹揃ってクズだ。

 

 

「おい!洸!」

「声大きいから!静かにしてよ!」

「お前どんだけ俺を待たせんねん!!」

「みんな見てるから!」

「しかも既読無視!なめとんのか!」

「ごめんって!」

「既読無視したことと遅刻してきたことを弁明せえ!」

 

人通りの多い京都駅の入口。

傍から見ればカップルの痴話喧嘩にしかみえない。がしかし、この2人は安易に人を殺せる力を持つ呪術師。もしかしたら怒り狂った直哉の懐から″得物″が出てくるかも……なんて可能性もある。

 

「分かったから!ちょっと落ち着いて!」

 

洸はキャリーケースから手を離し小さく深呼吸した。水滴に塗れたコーヒーカップを口元に当て一気に飲み干す。そして再び直哉に向き直ると真剣な顔付きで口を開いた。

 

「……既読無視はいつもの事でしょ?忙しくて返せなかったの。」

「移動中にできたやろ!ド阿呆!」

「寝てたの!ずっと!東京駅からずーーっと!」

「ええご身分やなあ?」

「ここ最近ゆっくり休む間もなく任務続きだったの!……ごめんって……」

 

洸は直哉に向けて頭を下げる。嘘ではないであろう話に直哉もムッと口を尖らせるがそれ以上突っ込むことはなかった。

 

「んなら遅刻は?」

「悟兄に捕まってたの。″京都の任務は明後日なのに何で今日向かうのか。しかも朝早く。″って。」

「……」

「ごめん。でも何とかして来たでしょ?」

「悟くんには何て言うてきたん。」

 

あの五条悟が許すはずがない。

直哉に会いにいくなど口が裂けても言えないはずだ。

 

「″直哉に会いにいく。禪院家の武器庫に用事がある。″そう伝えてきた。」

「……ほーん。」

 

驚くことにそのまま事実を伝えたらしい。直哉に会いにいくと。……まあ悟の事だ。嘘をついたところで通用するはずはない。洸が正直に言ったからこそ、あえて何もしなかったのかもしれない。

 

相も変わらず不気味な兄だ。

 

 

「…ま、しゃあないな。許したる。」

「ほんと??」

「その代わり!そのオンボロ服なんとかせえ!」

 

直哉の言う通り お世辞にも″洒落た服装″とは言えない。

 

黒いTシャツはピタッと体のラインを拾い、若干褪せているのが分かる。ローライズのスキニーパンツは、膝の部分がくすんでいて使い込まれているのがわかる。足元は華奢な黒のストラップサンダル。ヒールはなく歩きやすさを兼ね揃えているのだろう。赤いペディキュアがやけに目を引く。

 

背中にはいつもの黒い褪せたリュック。新品だった頃の面影はない。時間と一緒に歩いてきた痕跡だけが残っている。そのくたびれ具合が、彼女の生き方をそのまま映しているようで、やけに優しかった。

 

「……あんまりジロジロ見ないでよ。シャワー浴びて簡単にメイクしただけだし。」

 

白銀の長い髪は高い位置でお団子にまとめられ、光を受けると淡くきらめく。無造作なのに、どこか計算されたみたいに綺麗で、首筋の白さを際立たせていた。

風が吹くたび、ほどけそうでほどけないその髪が、彼女の内に秘めた緊張や迷いをそっと語っているように見える。

 

「…………」

 

派手さはない。

けれど目を離せない。

都会の喧騒の中に立っていても、彼女の周りだけ時間が少し遅く流れているようで褪せた色彩が不思議な静けさをつくり出していた。

 

「ま!腹出とんのは満点やな?腹筋バキバキやしエロいな〜」

 

直哉は洸の腹部に手を添えるとニヤニヤと怪しい笑みを零す。そんな相手に洸は深いため息を漏らしては拒絶する様子もないらしい。

 

「直哉の服のセンス……」

「どや?かっこええやろ?」

「……なんか和装より目立ってる……気がする。」

 

和装の方がある意味目立たなかったかもしれない。そもそも京都の街は着物の人もそれなりにいる。レンタル浴衣や着物を纏い観光する人が多いからだ。和装にさせておけば良かったと今更ながら後悔した。

 

 

「んならさっさと行くで?ほら、荷物はあの車に乗せえ。先に家に送らせる。」

 

直哉が指さす方向に禪院家所有の黒い車両が停められていた。黒塗りの怪しい車両。洸は目をぱちくりとさせると再び直哉に向き直った。

 

「え?なんで?コインロッカーに預けるし…」

「何いうてんの。そんなん手間やんけ。」

「どういうこと?」

「はあ?先に俺の家に送っとけば楽やろ?」

「……え!?禪院家(アンタの家)行くの!?」

「当たり前やろ!今日明日の計画は俺が組む言うた!ウチに泊まれ!」

「嫌だ!ホテルとってるからいい!」

「アカン!」

「キャンセル料!当日だと100%なんだけど!?」

「んなもん俺が払うからええ!!」

「とにかく嫌なの!」

 

確かに今日と明日は直哉との制約上″基本的に何でも従う″ということになっている。しかし禪院家に泊まることは聞いていない。むしろハナから言われていたら間違いなく断っている。おそらく直哉はそれを分かりきっていたからこそあえて今口にしたのだろう。

 

「お前。今回は″俺の言うこと聞く″って約束やったよな?」

 

頑なに荷物を渡さない洸の腕を引き 顔を近づけるとドスの効いた声でわざとらしく言葉を吐く。

 

「百鬼夜行の時、お前のお仲間を助けてやったのは俺やろ?筆頭の俺が″躯倶留隊″も″炳″を使わせてやったんやで?」

「……う…」

 

例のあの事件。呪詛師たちを逃がすために、そして京都に撒かれた呪霊を片付けるために直哉を脅しては躯倶留隊を呼びつけたのだ。

 

「游雲も村正も。他の呪具も使えとんのは誰のおかげや?」

「くっ……」

「今回もウチの武器庫に用あんねんやろ?従わんのなら何もやらんけど?」

「……ッ!」

釈魂刀(しゃっこんとう)……パパにお願いしよ思たんやけど……まあお前がそんな態度なら――」

 

真希に頼まれている釈魂刀。意地でも持ち帰らなければと心に決めていた。ありえないほど融通を利かせてくれている事実に洸はぐうの音も出なくなってしまった。

 

「んー?なんか言うてみい。」

「……クズ……」

「クズはどっちや!殴ってないだけ優しいと思え!」

「ドブカス…」

「あぁん!?」

 

 

 

ふたりの声が絶妙に重なる。けれど、どちらも本気で怒ってはいない。乾いた風に軽い言い合いが溶けていく。

 

「あ゛ーー!荷物貸せ!さっさと行くで!」

 

キャリーケースを容易に奪い、運転手へと委ねる。そして身軽になった洸の腕を引くと足速に歩き始めた。

 

 

 

「で?今日はどこに連れてってくれるの?」

「まずは清水寺。そんで鴨川散歩して昼飯や。」

「清水寺って…」

「なんや?つまらんのん?」

「意外だなって。普通だったから。」

「普通でええ。」

 

直哉に腕を引かれていて表情は分からない。むしろ本当に子の男はあの禪院直哉なのか?と疑念を抱くほどに気味の悪い様子だ。

横暴で、最低で、女を見下すドブカス野郎がそんなことを言うなんて意外すぎる。

 

「この時間は、俺のもんなんや。」

「……」

「俺がしたいようにする。」

 

″洸との普通の時間″―――どうやら彼はそれを求めてあるらしい。今まで味わうことの出来なかった普通のこと。普通の、彼氏彼女のような時間を。

 

「((……まがい物でもええ。それでもええから……))」

 

京都の初夏の空気は生ぬるく、ジメッと気分が悪い。しかし彼女が隣にいるだけで世界は驚くほど爽やかで涼しげだった。

 

待つ時間も、探す視線も、再会の一瞬も、すべてが恋の一部だった。

 

 

そんな彼の

″普通でなんでもない幸福の時間″

 

 

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「―――右側が″延命長寿″真ん中が″恋愛成就″……んで、左側が″学業成就″の利益があるって有名なんやで。」

 

通称″音羽の滝″

清水寺の境内にある有名な滝。清水の舞台の下に流れていて清水寺=音羽の滝と言われるほど象徴的なこの場所に洸と直哉の姿があった。

 

「そういえば昔来たかも。京都校姉妹交流会の時。」

「そん時はどれ飲んだん。」

「……どれだったっけな。」

 

″うーん″と悩む仕草を見せる洸を直哉は横目で覗く。

なんとなく、その時の″仲の良い3人組″が脳内に思い浮かんだ。金髪の青年、パッと見普通の青年、そして洸。ボコボコにされた記憶と同時に無邪気に笑う洸の表情が頭から離れなかった。

 

「とりあえず延命長寿にしようかな。直哉は?」

「そんなん全部飲むに決まっとるやろ。」

「((……カス))」

「あ゛ぁん?何やその顔。」

「絶対良くないよ。効果半減しそう。」

「あ゛」

「罰当たり」

 

そう言った瞬間、彼の手がコツンと私の肩に当たる。

どつく、というより軽く突く程度。痛くはない。

 

「……ぷは……ほら行くで。」

「待ってってば!もう…ホントに雑なんだから……」

 

そう言いながらも、私は笑っていた。彼も口元を緩めて、どこか楽しそうだった。

まるで子供みたいなやりとり。ぶつかって、拗ねて、でもすぐに笑う。

 

「すぐオラつくのやめなよ。」

「オラついてへん。」

 

彼はもう一度、軽く私の腕をどつく。

 

「ほら、歩け」

 

その仕草が不思議と優しくて、胸の奥がくすぐったくなる。乱暴なはずなのに、そこには信頼と甘えが混じっている。

 

「もう……ホント子供みたい」

 

そう言いながら、私は彼の隣に並ぶ。

肩と肩が触れ合って、歩幅が揃っていく。

 

どつかれて、文句を言って、でも笑っている。

ぶつかり合いながらも、同じ方向を向いて進んでいる。

 

その距離の近さが、

この関係の楽しさと安心を、何よりも雄弁に物語っていた。

 

 

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境内の砂利を踏む音が、しゃりっと響く。

 

「″みくじ″引くか?」

「うん。」

 

彼は相変わらず無愛想な顔で、ずんずんとおみくじの箱の前まで歩いていった。

 

「ほら、引き。はよせな並ばはるやろ」

「ちょっと、そんな急かさないでよ。」

 

そう言いながら洸がくじ箱を振ると、木の音がころん、と乾いて鳴る。一本引いて、紙を受け取る瞬間、横から覗き込む直哉。続けて直哉も同じ動作をすると紙を引き取る。

 

「清水さんのおみくじは甘ない。けどな?よう当たるし、あとで読み返すと妙に納得してまうって評判らしいで?」

「詳しいね?」

「調べてんねん。」

 

意外だった。この男が″調べている″なんて。

今日は季節外れの雪でも降るのだろうか?

 

「直哉から開けてみてよ?」

「ん。」

 

直哉は丁寧に紙を開いていく。

洸はトンッと直哉の肩に頭をぶつけるように覗き込んだ。

 

 

「凶」

 

間違いなくハッキリと記されている文字。洸は結果にゲラゲラとわざとらしく笑い始めた。

 

「はははっ!凶!本当に引く人いるんだ?」

「うっさいわ!お前も見せえ!」

「まあ私は日頃から素行いいし?神様もきっと私に――」

 

得意げに鼻歌が混じってそうな声色で洸は口にした。丁寧に紙を開くと直哉はずいっと更に近づく。

 

「……凶」

「ぶあっははははは!!!お前も凶やんけ!!」

「うるさい!重要なのは中身だから!……ほら!ちゃんと見せて!」

 

顔を真っ赤にして誤魔化す洸。直哉のみくじを奪うと一言一句読み上げていく。

 

「えーっと…願事は″縁遠し、心を改めよ″。恋愛は″相手を縛る心を捨てよ″……ふふっ…めちゃくちゃ合ってるし……っ…ぷっ…!」

「笑うなや!」

「″執着は苦しみの根なり″……大凶レベルだね?」

 

まさに直哉そのものを記しているようだ。あまりにもその通り過ぎて笑ってしまう。直哉の前情報通りここの御籤は当たっているのかもしれない。

 

「お前のも貸せ!……んー、」

 

直哉も洸から御籤を奪うと真剣に羅列された文字を目で追っていく。

 

「″思い込みは災いを呼ぶ″、″慢心すれば失う″」

「……」

 

直哉の真剣な声色と表情。洸はゴクリと息を飲む。

 

 

「″油断大敵″らしいで?普段から余裕こくなっちゅー話やな?」

「別にそんなヘマしないもん。」

「そういうとこや阿呆。」

 

″記念に持っとき″――と凶のみくじを捨てるように洸に手渡す。そして両手をパンツのポケットに突っ込んだまま先々と歩き始める直哉を洸は追いかける。

 

 

「ねえ、直哉。」

 

再び並ぶ肩と肩。

 

「なんや。」

 

洸は彼を横から見上げるも視線は合わない。

 

「連れてきてくれて、ありがとう」

「…………」

 

彼は少しだけ歩調を緩めて、ぼそっと言う。

 

「……当たり前やろ。」

 

雑でどうしようもない男。

今となっては″五条洸には力では敵わない″と理解していることもあってか昔と比べて接し方が大きく変わった。

本当にドブカス野郎なのは間違いない。禪院という血筋が、一族が、全て歪んでいる事実。

しかしほんのちょっと、彼の彼らしい本当の姿が垣間見えた気がした。

 

照れ隠しのように彼は顔を逸らす。そんな光景がおかしくてたまらない。

 

「あー……あと、清水さんの凶は不幸の宣告ちゃう。人生の軌道修正のお知らせや」

「……」

「お互いこの先、何があるかわからん。常に軌道修正していかなあかんってことや。やからさっきの結果はあんまり考えすぎん事やな。」

 

打って変わって″ええこと言うたやろ?″なんて聞こえてきそうな得意げな表情と共に視線がようやく合った。そんな相手に洸はジト目を向け、ため息を漏らす。

 

「……めちゃくちゃ結果気にしてるじゃん。」

「あーー!お前はいちいち余計な一言突っ込むんやない!悟くんとほんっっっまにそっくりやな!?」

 

直哉はそう言って、少しだけ歩く速度を上げた。

石畳を踏む足音が、わざとらしく強くなる。

 

「ちょ、待って。逃げないでよー」

「逃げてへん!先行ってるだけや!」

 

ぶっきらぼうな背中が、妙にわかりやすくて可笑しい。

洸は一歩遅れて、でもわざと距離を詰める。

 

「ホントに子供っぽいところは変わらないよね?」

「うるさい!」

 

耳が少し赤い。

それを見逃すほど、洸は鈍くない。

 

「ほら、赤くなってる。」

「みっ、見るなや!」

 

そう言いながらも、直哉は完全には振り向かない。

その不器用な照れ隠しが妙に愛おしくて、彼女は小走りになる。

 

「待ってってばー!」

 

彼の背中を追いかけると、ついに足が止まる。

 

「……しつこいな」

「だって″可愛い″んだもん」

 

一瞬だけ言葉に詰まり、直哉はそっぽを向いたまま小さく舌打ちする。

 

「……もう知らん」

 

その声は、少しだけ柔らかかった。

 

「ねえ、お腹空いた。」

「ほんまにワガママな女やな、すぐ連れてったる。」

「川床楽しみだな〜いっぱい食べていい?」

「好きなだけ食うてブクブク太れ!」

「やったー!……あ、気になってるお店があるんだけど……お昼ご飯の後……」

「ぜっっったい辛い店は行かんからな!」

「えー、ケチ。」

「お前が言う店ロクなとこないやろ!」

「大丈夫だって。慣れてない人なら半日お腹の調子が悪くなるくらいだよ?」

「イカれとんのかお前!」

 

再び2人は並んで歩き出す。

初夏の空気が漂う京都の街。清々しいほど気持ちのいい日。

 

肩が触れるほど近い距離。

不仲そうに文句を言い合うが歩幅は自然と揃っている。

 

痴話喧嘩みたいな小さなすれ違いも、

追いかけっこみたいな照れ隠しも、

すべてがこの関係の一部なのだと、背中が語っていた。

 

ふたりの後ろ姿は、喧嘩をしても笑っても、また同じ街へと並んで繰り出していく――

 

そんな確かな仲の良さを、静かに映していた。

 

 

 

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同日 18時過ぎ――

――禪院家にて

 

 

 

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″世界で一番大嫌いな場所″――禪院家

……実家である五条家も嫌いだがこの場所はもっと嫌いだ。トラウマ級に嫌な思い出しかない場所だ。

 

なのに何故私はここにいる?

 

 

屋敷の座敷には、柔らかな行灯の灯りが揺れていた。漆塗りの卓の上には徳利と盃がいくつも並び、ほのかに甘い酒の香りが広がっている。

 

「″洸!遠慮するな!飲め飲め!″」

 

当主である禪院直毘人は上機嫌。しわだらけの顔をさらにくしゃっとさせながら徳利を傾ける。

盃になみなみと注がれた酒を、洸の前にぐいっと差し出すのであった。

 

「いい飲みっぷりだな?やはりお前は禪院家の嫁に相応し……」

「嫁ぎませんって。……あ!おかわり下さーーい!」

 

直毘人の通常運転に洸は一切怯むことなく微笑み、盃を受け取る。その仕草があまりにも上品で、場の空気は一層和やかだった。

 

「ははは!相変わらずいい女じゃ!!」

「今更何言ってるんですか?」

 

豪快に笑い、また徳利を構える。

2人の空気はまるで本当の親子のようだった。互いに何も不穏な空気はない。ただただ楽しんでいた。

 

「「…………」」

 

その反面、少し後ろ。柱の陰に寄るように座るのは当主の息子である直哉。盃を持つ手を止めたまま、じっとふたりの様子を見ていた。

表情はいつもと変わらず不機嫌そのもの。そして胸の奥では何かがざわついている。

 

「((毎回思うけど何であの2人はあんなに仲ええねん!おかしいやろ!))」

 

直毘人が彼女の盃に酒を注ぐたび、心臓が小さく跳ねる。

楽しげな席なのに、そこに割って入れない自分がもどかしい。

 

 

「「……」」

 

そして、そんな空気を悟っていたのは同じ禪院家の男たち。

 

禪院甚壱

禪院長寿郎

禪院信朗

 

いずれも禪院家の人間たち。炳の構成員に躯倶留隊の隊長。

 

昔から洸のことをよく知る人物ではあるものの″なぜこの場に呼ばれたのか……″とそれぞれが酒を片手に胸中で呟いていた。

 

「ほら!お前らももっと飲まんか!」

「……ねー……蘭太くんは……?」

 

悪酔いし始める直毘人と洸。

2人は方を組んで遂には酒瓶そのものを手に取り始めていた。

 

「……蘭太は別任務で外に出ている。帰ってくるのは明後日だ。」

「…………」

「なっ、……何だ。」

 

姿勢を崩さず静かに酒と肴を嗜む甚壱をじっと見つめる洸。妙に光を放つ美しい赫眼に怯むと微かに眉を寄せた。

 

「……あの……改めて……本当に……」

「「「……」」」

 

洸は直毘人の肩に絡めていた腕を外すとゆっくりと立ち上がった。そして姿勢を整え再び座り直す。

 

座敷に静けさが戻った瞬間だった。

洸はすっと背筋を伸ばし、甚壱と長寿郎、信朗を前に正座し、両手を畳につき、深く深く頭を下げた。

 

「……本日は、このような場を設けていただき、誠にありがとうございます……」

 

声は穏やかで澄んでいて、所作は一分の隙もない。綺麗に結い上げられた髪の毛、うなじの線がほのかに覗く。

 

「″あの日″、私の家族を救ってくださり感謝しています。ありがとうございました。」

 

その姿に、男たちは思わず言葉を失った。

 

「((立派なもんだな。直哉(アレ)とは違う))」

「((礼儀が身に染みとるの))」

「((やはり五条家。育ちが良いのだろう。))」

 

感心したように頷き合い、誰もが洸の気品に心を打たれていた。場の空気はしんと引き締まり、まるで格式ある儀のようだった。

 

 

 

 

――が。

 

彼女は顔を上げた瞬間、少しふらついた。

 

「……あれ?」

 

小さく首を傾げ、視線がふわりと宙を泳ぐ。

 

「……あれぇ、畳って、こんなに近かったっけ……?」

 

次の瞬間、すとんと座り直すつもりが、体が前に崩れかける。

 

「ちょ、ちょっと待って、世界が回ってるんだけど!」

 

打って変わってキョトンとする3人。

 

「ん?」

「……」

「今の今までの完璧だった姿はどこへ……」

 

さっきまでの気品はどこへやら。

洸は徳利を掴み、ふらりと掲げる。

 

「いやぁ~、いつもお酒いっぱい飲んでも……私強いから絶対大丈夫なんだけど………私、意外と……弱いっぽい~??」

 

言葉が少し伸び、笑顔がやけに大きい。

 

「((お前!いっつも弱いって聞いとるけど!?悟くんは下戸って分かっとって飲まんのに!妹のお前はそれをわかった上でバカ飲みして自滅するんやろが!!))」

 

直哉の額に怒りマークがふつふつと現れていた。ふざけ倒す洸の姿にピクピクと眉尻か揺れる。

 

「さっきまでの礼はどこ行ったんや」

「乱心…」

「別人…だな」

 

男たちは呆然としながらも、どこか可笑しそうに彼女を見守る。

 

対して直哉は今にでも酒瓶をぶっ壊しそうだった。

 

そして洸はくるりと徳利を回しながら……

 

「でもでも~、楽しいからオッケーってことで!」

 

と、無邪気に笑う。

それぞれがガックリと肩を落とす瞬間だった。

 

気品と乱心。

静と動。

その落差があまりにも鮮やかで、座敷には絶妙な空気が漂う。

 

「……さっき感心して損した気いするわ」

「いや、むしろ得をしたのでは?」

 

3人は顔を見合わせ、苦笑しながら盃を掲げた。

その夜の席は、礼儀正しさと酔いの騒動が混ざり合う、

忘れがたい賑やかな宴となりそうだ。

 

 

 

「…トイレ!行ってきます!」

 

洸は口元を押さえながら、ふらつく足取りで廊下へ出ていった。行灯の灯りが長い影を引き、屋敷の奥へと静かに伸びていく。

 

「ちょ!洸!酔っ払って池泉(ちせん)に落ちる!俺が行く――」

「おい直哉!!お前もこっちで飲まんかい!」

「酒臭!!離せやクソジジイ!おい!」

 

直哉が追おうとしたが容赦なく直毘人の馬鹿力に抑え込まれ動くことは不可能。

それを見兼ねた3人は顔を合わせる。

 

そしてすっと立ち上がったのは甚壱だった。

 

「様子、俺が見てくるわ」

 

その声は低く、感情が読めない。

座敷に残った2人は一瞬だけ視線を交わす。

 

 

┈┈┈

 

 

廊下はひんやりと静まり返っていた。

甚壱の足音が、洸の後を追うように近づく。

 

トイレの手前、洸は壁に手をつき少しだけ肩を揺らしていた。そこへ甚壱が立つ。

 

 

「……大丈夫か」

 

背後からかけられた声に洸はゆっくりと振り向いた。

 

 

 

 

 

 

 

――その瞬間、空気が変わる。

 

「……っ」

 

男の袖の下でわずかに光るもの。

短く、鋭く、迷いのない構え。

 

″得物″だった。

 

「……ふふ。やっぱりね。」

 

洸はふらつくどころか、まっすぐに立ち上がる。

さっきまでの酔態は影も形もない。

 

「酔ってるふり、そんなに下手だった?」

 

男の目が細くなる。

 

「……気づいとったか」

 

「うん。足音が綺麗すぎる。酔った人間を心配する歩き方じゃなかった。」

 

静かな廊下に、緊張が張り詰める。

 

甚壱は得物を構え直すが洸は一歩も引かない。

むしろ、少しだけ微笑んだ。

 

「……っ……」

 

甚壱は息を飲んだ。こちらの全てを見透かすような赫眼。まるで五条悟の六眼と同じ雰囲気だったからだ。

空気雰囲気が″あの五条家″の人間であることの証明だった。

 

「残念だけど甚壱さん。私めちゃくちゃ冷静だよ。」

「……お前ひとりでか?」

「十分」

 

その視線には怯えがなく、むしろ相手を量る余裕すらあった。

 

甚壱は一瞬だけ動きを止める。

 

「……ほんま、油断ならん女だ。」

「そっちこそ。酔った女に仕掛けるほど、落ちぶれてないでしょ?」

「…………」

「昔。離れの和室で私が直哉に犯されてた時。知らんふりして逃げてったくらい臆病なのは事実だけど。」

 

ふたりの間に、鋭い静寂が落ちる。

酒宴の笑い声が遠くに霞み、ここだけが別世界のように張り詰めていた。

 

だがその緊張の中でも洸は微塵も崩れない。

 

酔って乱心したように見せかけ、すべてを見抜いたまま、余裕で立っていた。

 

 

「……で、洸。お前は何を企んでる。」

 

甚壱は得物を下ろさぬまま、低く問いただした。鋭い視線が洸を貫く。

 

洸は肩をすくめ、どこか楽しそうに笑う。

 

「そんな怖い顔しなくても、企んでるのはそっちだと思うけど?」

「はぐらかすな」

「はぐらかしてないです。ただ――先に仕掛けたほうが負けるってだけ」

 

甚壱の眉がわずかに動く。

 

「……余裕だな」

「こういう場面で焦る人ほど、だいたい詰めが甘いから」

 

洸は一歩だけ近づいた。

距離は一気に詰まり、互いの呼吸が触れそうになる。

 

「心配しなくても 今日は誰も傷つける気ないし、壊す気もない」

「……なら、何しに来た」

「本当は真希に頼まれてた呪具を貰いに来たかっただけなんだけど……直哉がホテルキャンセルしちゃうし、今日明日宿としてお借りします。」

 

洸は小さく息を吐いて、微笑んだ。

 

「それとついでに見極めに来ただけ。誰が味方で、誰が敵か。誰が信用できるか。」

 

その言葉に甚壱の目が細くなる。

 

「……それで、結果は?」

 

洸は甚壱の肩に、軽くトントンと指で触れた。

 

「うーん……どうだろう。とりあえずここは居心地悪いし最悪。味方であってほしいけど簡単に裏切られそう。」

 

そして指に力を込める。

 

「少なくとも。私の大切な生徒を傷つけようものならそれは全員総じて敵。……扇さんは来てくれなかったし。私と真希と真依のことを心底嫌ってるのは分かってるから。」

 

甚壱はゆっくりと息を吐き、得物を下ろす。

 

「……化けもんじみた女やな。相変わらず。」

 

その声には警戒よりも、どこか感心と興味が混じっていた。

 

「ひとつ聞いてええか」

「なんです?」

 

甚壱は洸に向き直る。

 

「直哉、どうするつもりや。」

「どうするって?」

「お前の行動ひとつであいつはおかしくなる。……多分それはお前が守りたい生徒やらも関わってくる。」

「……」

「やっぱり、なんか企んどるのはあっとるみたいやな。」

「……」

「うちの当主と…″なんか企んどるな″」

 

甚壱の発言に洸は一瞬目を細める。……が、それ以上何も交わすことなく男の横を通り過ぎていく。

 

 

遠くの座敷からは、まだ酒宴の笑い声が聞こえている。

だがこの廊下で交わされたやり取りを知る者は、誰もいなかった。

 

 

┈┈┈┈

 

 

 

宴が終わり、屋敷がすっかり静まり返った深夜。

 

湯上がりの洸は濡れた長い白銀の髪を緩くまとめ、縁側に腰を下ろしていた。初夏の夜の空気ははひんやりとしていて火照った体に心地よく染みる。

 

 

「――″うん大丈夫。何もなかったよ″」

 

小さく笑いながら耳元の電話にそう囁く洸。声は柔らかく、先ほどまでの緊張感など微塵も感じさせない。

 

「心配しすぎ。ちゃんと無事だって言ってるでしょ?……お酒?飲んでない飲んでない!酔っちゃうと大変だし?″建人″がいないとヘマできないし?…え?どういうこと?って……そういうことでしょ?ふふっ――」

 

電話の相手は七海だった。

その存在が、洸を少しだけ″普通の女性″に戻していた。

 

そのとき、廊下の奥から足音がした。

静かな夜に、衣擦れの音がやけに鮮明に響く。

 

現れたのは、直哉だ。

寝巻きの浴衣姿で髪は少し乱れ、眠気と何か別の感情が入り混じったような表情をしている。

 

洸は一瞬で気配に気づき、電話口に静かに言った。

 

「……ごめん、また明日ね。」

 

通話を切り携帯をショートパンツのポケットにしまう。

そして傍らに立つ直哉に笑みを向けた。

 

「お風呂。ありがとう。」

 

何事もなかったように微笑む洸に直哉は少し戸惑いながら視線を逸らした。

 

「……まだ起きとったんか。」

「うん。お風呂上がりで風に当たってただけ。」

 

縁側に流れる沈黙。

虫の音と、遠くで揺れる木々のざわめきだけがふたりを包む。

 

「……さっきの飲みの席とは、ずいぶん違う顔やな」

 

ぽつりと、彼は言った。

 

「そう?」

「なんや……今のほうが、ずっと静かで……」

 

言葉を探すように、少しだけ間を置く。

 

「……素の顔に見える」

 

洸は少しだけ目を細めた。

 

「それ、褒めてる?」

「当たり前や。」

 

照れたように視線を落とす姿に、洸は小さく微笑む。

 

宴の華やぎも、剣呑な駆け引きも去ったあと。夜更けの縁側には、ただ不器用な男と、すべてを知っている余裕ある女の静かな距離感だけが残っていた。

 

 

「あー思い出すなあ。ここの中庭であんたにボコボコにされて……真希と真依が心配してくれてたっけ。」

「なんちゅー話を掘り起こすねん。」

「よく昔の私、耐えたよね?今の私ならこの屋敷全部吹き飛ばしちゃうかも。」

 

縁側に静かな風が流れていた。

洸は夜空を見上げたまま、ふっと笑う。

 

「……本当に、あんた最悪だったよね。」

 

直哉は一瞬だけ息を止める。

 

「殴るし蹴るし、犯すし。髪の毛引っ張るし……あれ、全部″虐め″って言うんだよ?」

「……」

「でも今思うとさ、必死すぎて笑える。不器用すぎて、逆に可愛かったなって」

 

洸らくすっと声を漏らす。

過去を責めるでもなく、恨むでもなく、

まるで懐かしい思い出話のように。

 

直哉はゆっくりと彼女の隣に腰を下ろした。

少し距離を空けたまま、視線を前に向けて。

 

「……あの頃な」

「うん?」

「どう接したらええか わからんかった。近づいたら壊しそうで、離れたら失う気がして。」

「それで虐める選択肢になる?てか壊されかけてたんだけど?ズタボロに。死にかけたし。」

 

何を言っているんだこの男。

接し方が分からなかったって……分からないにも程があるだろう!と洸は怒りを何とか鎮めながらも直哉の言葉に耳を傾ける。

 

「今思えば、最低やな」

 

自嘲気味に笑いながら、直哉は続けた。

 

「でも……今も、似たようなもんや。触れたら終わる気がして、触れへんかったら一生このままな気がして」

 

遠回しで、不器用で、それでもはっきりと″まだ好きだ″と滲んだ言葉だった。

 

洸は何も言わず、そっと直哉の手に触れた。

指先が重なり熱が伝わる。

 

今日1日、ずっと手に触れてこなかった。わざと触れず我慢していたのだろう。直哉らしい。プライドが高く強情だ。

 

そんな直哉の息を呑む音が聞こえた。

洸は小さく微笑んで囁くように言った。

 

「……今日はさ」

 

一拍置いて、からかうように。

 

「好きにするんじゃないの?」

 

挑発でもあり許しでもある声だった。

直哉の手が、わずかに震える。

 

夜の縁側に残ったのは、過去と未練と、そして今この瞬間を選ぶかどうかの、静かで甘い緊張だけだった。

 

「……クソアマが」

 

刹那、乱暴に腕を引かれ、洸は一瞬だけよろめいた。

畳を踏む音が続き、障子が静かに閉まる。

外の気配は遮られ、部屋には夜の静寂だけが残った。

 

しばらく、どちらも言葉を発さなかった。

ただ、互いの呼吸の音だけが、ゆっくりと重なっていく。

 

男は彼女を離さずに立ち尽くしていた。

強く引いたはずの腕が、今は触れるだけで壊れそうなほど慎重に震えている。

 

その顔は、苦しそうで、どこか悲しげで、

長い時間を恋い焦がれてきた者の色を帯びていた。

 

「……ずっと、こうなんのが怖かった」

 

低く絞り出すような声。

 

「でも、こうならへんのも……同じくらい、怖かった」

 

洸はゆっくりと顔を上げ、直哉を見つめる。

その表情は驚くほど穏やかで、責める色はなかった。

 

「そんな顔、するんだね。ドブカス直哉くん。」

 

小さく微笑んで、洸は言う。

 

「昔も今も、あんたは変わらない。強そうで、いちばん弱いとこ隠してる」

 

直哉は目を伏せたまま、何も言えない。

洸はそっと一歩近づき、彼を見上げた。

 

「″私と一緒だよ″」

 

静かな部屋に、柔らかな時間が流れる。

荒々しさはもうなく、そこにあるのは

抑えきれなかった想いと、長い沈黙の果てにたどり着いた距離だけだった。

 

ふたりはただ、互いを見つめ合っていた。言葉よりも深く、過去も未練もすべてを抱えたまま。

 

直哉はそれ以上踏み込まなかった。

強く抱き寄せることも、奪うように触れることもせず、

ただ静かに そっと洸を抱きしめるだけだった。

 

「……なんやねん。ホンマに。」

「……」

「ボケ」

 

長い間 互いに傷つけ合うようにすれ違ってきたふたりだった。抱きしめた瞬間、その距離が音もなくほどけていく。

 

直哉の腕は最初 どこか戸惑うように宙をさまよい、けれど次の瞬間には洸の背中を確かめるように包み込んだ。強くもなく、弱くもなく、逃がさないというより″ここにいる″と伝えるための力。洸は一瞬だけ息を詰め、そしてゆっくりと肩の力を抜く。長く張りつめていた心が、静かにほどけていくのがわかった。

 

胸と胸が触れ合うと、鼓動が微かに伝わる。

ふたつのリズムはまだ揃っていないのに、不思議と拒む感じはなかった。歪んで噛み合わなかったはずの感情が、今だけは同じ方向を向いている。体温が交じり合うにつれて、冷えていた部分が少しずつ温められていくようだった。

 

洸の指先が、ためらいがちに直哉の背中の布をつかむ。

それは縋る仕草にも、確かめる仕草にも見えた。

直哉はその小さな力に応えるように、ほんの少しだけ腕に力を込める。抱きしめ合うというより、互いの存在を支え合うような形だった。

 

「((……哀れで悲しくて、血筋に縛られる私たち…))」

「((同じ苦しみを分かち合えたら……どれだけよかったか。))」

 

やがて、自然と重心が崩れ、ふたりはそのまま布団へと身を委ねる。乱暴さはなく、音を立てないように、慎重に転がる。布団の柔らかさが背中を受け止め、包み込むように沈んでいく。

 

「…………」

「…………」

 

横になっても、腕はほどけなかった。

視線は交わさずとも、呼吸の間隔が少しずつ近づいていく。夜の静けさの中で、互いの体温だけが確かな現実として残る。

 

歪み合っていたはずのふたりは、初めて同じ場所に辿り着いたような感覚を覚えながら、言葉を持たずにそこにいた。

それは約束でも、終わりでもなく、ただ″繋がった″という事実だけが、静かに布団の中で息づいていた。

 

 

「((……柔い。……んまに……こいつは……))」

 

洸の髪からほのかに甘い匂いがした。

湯上がりの石鹸と、どこか懐かしい温もりが混ざった匂い。腕の中の柔らかさが、現実だと教えてくれるのに、

それが夢のようにも思えて、直哉は小さく息を吐いた。

 

「……お前はホンマにずるいな」

 

洸の胸に顔を埋めるようにして、呟く。

 

「こうしとるだけで、全部欲しなる」

 

一瞬、言葉を探してから、低く続けた。

 

「今は無理でもええ。せやけど……いつか、最後には俺のとこに戻ってきてほしい。」

 

願いというより、祈りに近い声だった。

 

洸は少しだけ身じろぎして、直哉の腕の中でくすっと笑う。

 

「未来の話は分からないし、嫌いって言ってるでしょ。」

「はぐらかすな」

「はぐらかしてないよ。ただ……確かなことって今しかないだけ」

 

直哉の胸に手を置き、指先でとんっと軽く叩く。

 

「今こうして一緒にいる。それじゃダメ?」

「……それが一番、苦しいんや」

 

洸は意味ありげに微笑んだ。

 

「苦しいほど、覚えてくれるでしょ。忘れられないくらい。」

 

その声は甘く、優しく、どこか残酷だった。

期待させるようで、約束しない。

希望を与えるようで、縛られない。

 

直哉はそれを分かっていながら、その言葉にすがってしまう自分を止められなかった。

 

「……ほんま、騙されてる気するわ」

「騙してないよ。信じたいように信じてるだけ。」

 

洸はそう言って、再び直哉の胸に顔をうずめた。

 

静かな夜の中で、直哉は恋に苦しみながらも、その温もりを手放せず、洸さ思わせぶりなまま、何も確約しない笑みを隠したまま。

 

同じ布団の中で、同じ時間を過ごしていた。

 

「……無限。なんで解いた?」

「別に意味なんてないよ。」

「俺の事、どう思とるん。」

「うーん……少なくとも昔よりはマシかも。」

「マシて……そういうことかい。」

 

直哉は乾いた笑いを零した。

いつも自分が欲しい言葉をくれないことに怒りを通り越して呆れてしまう。

 

「今回のこと、あの男は知っとるん」

「あの男って?」

「金髪の。お前の同期や。」

「うん。知ってるよ。」

「……マジでお前……いつかバチ当たるで。」

「だろうね。」

 

直哉は再び洸を強く抱き寄せた。今度は自分の胸に収めるように、洸の頭頂部に鼻を擦る。

 

かすかな甘い匂いと、どこか懐かしい体温が胸いっぱいに広がる。香りを確かめるように、深く息を吸う仕草は、離したくないという衝動そのものだった。

 

「洸は柔いな。ええ匂いする。」

 

腕に力がこもる。

抱き締めるというより、失くしてしまいそうなものを必死で繋ぎ止めるように。

 

「なぁ……ほんま、俺、いっぱい間違えたな」

 

低く、かすれた声でそう言う。

後悔の言葉は、謝罪とも懺悔ともつかない曖昧さを帯びていた。

 

「強がって、傷つけて、遠回りして……全部、俺のせいや」

 

洸は何も言わず、ただ直哉の胸元に額を寄せる。

その沈黙が、責めるよりもずっと深く直哉の心に染み込んだ。

 

「そんでも……今こうして抱いてたら、離したないって思ってまうんや。情けないけどほんまや」

 

悲しさと後悔が混じった言葉を吐き出しながら、直哉はさらに強く洸を抱き締めた。

まるでその温もりが消えてしまうのを恐れるように。

 

洸の指先が、そっと彼の背中に触れる。

拒絶ではなく、受け止めるための静かな合図だった。

 

歪み続けた時間の重さを抱えたまま、ふたりは互いの体温に縋りつく。

笑いと後悔と悲しさが混ざり合いながら、離れたくないという想いだけが、強く、確かにそこに残っていた。

 

 

「おやすみ。直哉。」

 

小さく息に溶けるような声だった。

それでも直哉の胸には、はっきりと届いた。

 

「ッ……」

 

一瞬、言葉を返せずにいる。

今までなら、照れ隠しや冗談で流していたはずなのに、その夜は違った。胸の奥から、静かで温かい感情が滲み出してきて、自分でも驚くほど素直に洸の存在が愛おしく思えた。

 

腕の中の温もりがかけがえのないものだと、初めてはっきりと理解する。

 

「……おやすみ」

 

少しだけ震えた声で、そう返した。

強がりも、冗談もない。

ただ、洸を大切に思う気持ちが、そのまま言葉になったような響きだった。

 

洸は小さく微笑んだ気配を残して、呼吸を整えていく。直哉はその表情を確かめるように、そっと彼女を抱き寄せたまま、離さなかった。

 

夜の静けさの中で交わされたふたつの″おやすみ″は 今まで歪んできた時間を、少しだけ優しく包み直すように、布団の中で静かに溶けていった。

 

 

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

┈┈┈┈┈┈┈┈

┈┈┈┈┈┈

 

 

 

 

┈┈┈┈┈┈┈┈

 

 

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 

 

 

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 

 

 

 

″……この……裏切りもんが……″

 

 

 

 

 

┈┈┈┈┈┈

 

 

 

 

 

――そして、魔境となった東京で再開する2人。

 

 

「……見つけたで。洸。」

 

直哉の表情は、見る間に歪んだ。

奥歯を噛み締める音が聞こえそうなほど顎が強張り、こめかみには青い筋が浮かぶ。呼吸は荒く、胸が上下するたびに、抑えきれない感情が体内を叩きつけているのがわかった。

 

拳が震える。

怒りで固められているはずなのに、その奥に混ざる迷いや痛みが、さらに苛立ちを煽っていた。

 

 

 

┈┈┈┈┈

 

 

 

「″ひかる″」

 

 

洸を見つけた瞬間。

直哉の胸に最初に湧いたのは、安堵ではなかった。

 

視界に入った途端、数ヶ月前のあの和やかな感情は霧のように消え去る。

代わりに、喉の奥からせり上がってきたのは、抑え込んできた怒りだった。

 

――嘘つき

――クソ女

――裏切りもん

 

 

心の中で言葉にならない叫びが渦を巻く。

あの夜の柔らかさを知っているからこそ、今の対峙はあまりにも残酷だった。

 

洸の姿は大きく変わっていた。艶のある長い白銀の髪の毛は兄を思わせるかのように短く乱雑に切られ、目元には黒い布で覆われていた。美しい赫眼は見えない。微かに布から見えているのは深い傷跡。

 

互いに向ける視線は、もう抱き合うためのものではなく、傷つけ合うための鋭さを帯びていた。

 

 

 

「あれ?恵くんはおらんやん。俺が一番乗り?」

 

 

 

荒れた声が漏れる。

それは再会の喜びではない。

 

胸の奥で、愛おしさが微かに疼く。

だが、その感情を認める前に、怒りがそれを押し潰す。

 

「((何度も、何度も……俺を裏切る気か))」

 

 

洸を探し続けていたはずなのに、見つけた瞬間に湧いたのは責める言葉。探していたのは洸なのか、それとも過去の自分への決着なのか、直哉自身にも分からなかった。

 

あの夜、腕の中にあった温もりは、今は刃のように胸を刺す記憶に変わっている。優しさを知ってしまったからこそ、怒りはより鋭く、深くなっていた。

 

歪んだまま繋がったふたりは、再び歪んだ形で向かい合う。愛と後悔を土台にして生まれた怒りが、静かに、しかし確かに蘇っていた。

 

「久しぶりやなあ、洸。」

 

低く唸るような声。

その視線の先に、洸は静かに立っていた。

懐かしいはずの姿なのに、もう″温もり″の記憶はない。

あるのは裏切られたという事実だけだった。

 

「……直哉」

「なんやねんその目隠し。似合うとらん。」

 

 

 

 

 

 

″信じた。あの夜、お前の言葉を……全部″

 

一歩、踏み出す。

 

″せやのに、姿を消して俺を置いて、敵の側に立っとるやと?″

 

 

 

 

 

ふたりの再会は、

愛の続きを語るものではなく、

過去を断ち切るための戦いとして始まってしまうのだろうか。

 

 

 

 

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 

 

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