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――2007年 9月末
深夜未明――
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じめじめと薄ら寒いわびしい雨。
夏から秋に移り変わるこの時期の雨粒は吃驚するほど冷たく、肌に落ちる度に体温が下がっていく。
冷えきった体、濡れた制服。
"彼女"の感情を表したかのような冷酷な空模様――
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「……ッ!!」
"嫌な予感がした"
任務明けで疲れ果てた体。
だが、今そんなことを言っている場合じゃない。
必死に四肢を動かし、"彼女"の気配を追いかける。
「………………」
視線の先で光る微かな白銀。
高専入口の威厳ある木造の門構の前に傘もささず、ぐっしょりと水分を含んだ部屋着姿の彼女が居た。
雨に濡れた彼女の後姿。それはまるで亡霊のようだった。
痩せ、窶れ、溌剌とした以前の様子は皆無。全てに絶望し、弾力を失った彼女の心――
「――洸さん!」
今にでも倒れてしまいそうだった。疲れで両脚は縺れそうになり、ただただ呼び止めることしか出来ない。
必死に、必死に手を伸ばす――
「……くっ!…………はぁ……はぁ…………」
「………」
何とか門の手前で彼女の左腕を掴む。
しかし彼女は振り向くことなく、その場に立ち止まるだけ。
「……何故……ッ………"何も言ってくれなかった"んですか!?」
「………」
「何か言ってください!」
「………」
「"洸"――!!」
彼らしくない。怒号に近い大声。
しかし相変わらず彼女は背を向けたままだ。
「……ッはぁ……はぁ………」
「………建人…」
「何処に行くつもりですか……っ」
「…………」
七海の問いかけに対し、ゆっくりと彼女は振り向いた。
彼女は笑顔をつくる。精一杯自然に。でも、精一杯やることで、既にもう自然ではなかった。
気のない微笑。芝居がかった引き攣った頬。
雨に濡れた彼女の顔は泣いているようにも見えた。
「……"ごめんね"」
「………………」
「"もう傍に居られない"―――」
その言葉に、表情に。自分の中で何かが壊れていく。
一気に闇に突き落とされるような、悪夢に堕とされるような。
七海の体に負の感情が襲いかかる――
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夢ならばどれほどよかったでしょう
未だにあなたのことを夢にみる
忘れた物を取りに帰るように
古びた思い出の埃を払う
戻らない幸せがあることを
最後にあなたが教えてくれた
言えずに隠してた昏い過去も
あなたがいなきゃ永遠に昏いまま
――米津玄師 "lemon"
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2006年 6月8日 木曜日――
――午後18時49分
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バタバタと近づく足音――
「建人ー」
適当で雑なリズムのノック音と共に部屋の扉が開かれると部屋着姿の彼女がひょっこりと顔を覗かせる。すっかり名前で呼ばれることも慣れてきた今日この頃。"七海健人"
は作業の手を止め彼女に視線を向ける。
「洸様、特製激ウマ火鍋完成〜。早く部屋来てよ?」
「……もうそんな時間でしたか。」
「もしかして間悪かった…?あ、昨日の報告書……」
「もう書き終わるので大丈夫です。直ぐに向かいます。」
「うん!待ってるね。」
ニコッと天真爛漫な笑顔を向けたと思えばその瞬間、再び慌ただしく姿を消す"五条洸"――
そんな彼女の忙しない子供っぽさを感じる行動に、七海は密かに笑みをこぼすのであった。
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「――正気ですか…?」
洸の部屋に入った途端、鋭い臭いが鼻を刺す。そういえば以前、ここまで酷くは無いがコレに近い臭いが漂う飛んでもない火鍋専門店に連れて行かれた記憶が……
「そ、なにか不都合でも?」
「いや、現実的にどう考えても2人分じゃない。5,6人がたべる量ですよ。」
ローテーブルにセットされていたガスコンロ、そして大きな土鍋。グツグツと煮込まれる鍋の中には明らかに2人では食べきれない量の具材。傍らの皿には丁寧にカットされた野菜や肉類が待機していた。
「そりゃあだって…ほら。本当は硝子先輩も来る予定だったでしょ?だから多めに用意しておいたんだけど急遽夜蛾先生に連れていかれちゃったし……」
「……にしても3人分でこの量――」
せめて灰原が居れば……いや、そもそもこの真っ赤に染った鍋を食べ切れるのか?どうにか味変をして、少しでも胃へのダメージを軽減させなければ……
最悪、米を入れて卵で閉じれば多少は甘く――
「心配しなくても大丈夫大丈夫。私が余裕で食べ切れるから。」
「……やはり貴女に夕飯を頼むのは間違いでした。」
「は?」
「……」
「"何でもいい"って言ったのは健人だよ?」
眉を顰めながら嘲笑う。まるで小馬鹿にするようなその表情は――やはら五条妹。
そういえばこの人の兄は"あの人"だった。冷ややかな意地の悪い微笑みは瓜二つ……
「食べますよ。……食べます。」
「今回のはそんなに辛くないから絶対大丈夫だって。あとこれ、レモンも用意したから。」
「レモン?」
「辛い時に直で齧ると辛くなくなるんだって。」
「絶対迷信でしょう。たかがレモンひとかじりで……」
「大丈夫大丈夫!」
雑に背中を叩かれると不思議と腹立たしさが消えていく。いや、恐らくもう諦めているという感情に近い。
灰原はともかく……なぜ自分の同期生はこんなにも"滅茶苦茶"なのか。それに1学年上の先輩に至っても、いい意味でも悪い意味でも滅茶苦茶だ。自分の事を正反対な"理路整然"な人物とは例えられるかは分からないが少なくともまともな方だとは思う。恐らく。
「…鍋奉行は洸さんで。」
「了解〜」
「常識の範囲内でこの器に盛り付けてください。」
「何その言い方。まるで私が非常識みたいな。」
「近しいものはあります。特に食に関しては。」
「あっそーですか〜……((後で辛さ増し増しにしてやるんだから))」
七海の物言いに不服そうな表情をする洸。そんな一瞬の表情の変化を直ぐに見透かす七海。呆れたように息を吐くと右隣に座る洸の耳元でボソッと言葉を呟いた。
「――こっそり辛さ増し増しにしようとしても無駄です。」
「ひぃいい!!!!」
「…なんですかその間抜けな声は……」
洸は左耳を押さえ小さく体を身震いさせた。七海の色気さえ感じる低い声に背中がゾクリと反応する。
「…………」
「鍋、煮えてますよ。」
「……無駄に声だけは良いのやめて。」
「…はい?」
「器ちょーだい。特別に特盛にしてあげる。」
「…………((無駄……))」
なんとなく引っかかるものはあるが七海は大人しく器を差し出したのだった。
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"五条洸"――彼女と出会って約2ヶ月が経過した。
寮生活という事もあり、泊まりの任務がない限り毎日顔を合わせる関係。それに同期生はたった3人。必然的に距離感が近くなるのは当たり前の事だった。
最初の頃は分厚い壁で塞がれていた彼女との"間"。それは気がつけばあっという間にそれは消えて無くなっていた。まあ、それは殆ど灰原の力ではあるのだが――
彼女は元々猫を被るのが得意なのだろう。だがしかし、だからこそ未だに"今の彼女が本当の五条洸なのだろうか?"と自身に問いかけることがある。
時たま見せる虚ろな緋眼。
何か重いものを背負っていて、それをやむなく受け入れている――そういう"シリアス"さを感じた。それをどうして自分が感じるのかわからない。でもそういうところに何故か"惹かれている自分がいた"。
"建人ー!任務お疲れ様!"
"怪我。治してあげるから後で部屋来なよ?"
"今回の任務。呪霊倒した数が多い方が勝ち。負けたら昼ごはん奢りね。"
"ねぇ、建人。雄がね―――"
"―――建人……"
コロコロと変わる表情、声色、吸い込まれそうになる不思議な緋色の瞳。
彼女はぱっと、花のように笑う人だった。その笑顔の分だけ、心が閉じているような印象がいつもあった――
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「……ッ……やっぱり迷信じゃないですか。」
「嘘ー。硝子先輩が"レモンは効く"って言ってたんだけどなあ」
カットされた1口サイズのレモンに齧り付く七海。辛さがマシになるとはなんとなく聞いたことがある気がするが全く効果はなかった。この火鍋の辛さが尋常ではないのか……慣れてしまった自分が恐ろしい。
幸いにも辛いだけでなく、味がある辛さなのはマシだった。しかし"辛すぎる"。食べ進める度に舌が痺れ、味覚が狂っていく。
「雄は辛いもの慣れてきたみたいなんだけどね。……建人はまだまだかな。」
「まるで実験してるような言い方ですね。」
「だって辛いもの得意な人少なすぎるんだもん。」
洸も何となく傍らのカットレモンを口に含む。
果肉が弾ける音、ほんのりと鼻を掠めるレモンの匂いが心地良い。
「――雄、任務大丈夫かなー」
不意に呟かれた台詞。
3角座りをして若干俯き、彼の名前を呼んだ洸の様子は今まで何度も見てきたものだ。
「五条さんと夏油さんがついてますから、問題ないでしょう。」
「いや、あの2人だから心配なんだよ。……まあ、雄はそういう耐性はあるから大丈夫か。」
「いい意味で灰原は天然ですからね。」
「……そうだね。天然…」
目を細めて手元のレモンを見つめながら、夢見るような表情を浮かべている。いつもは鋭い緋色の瞳も今は何故か惚れるような艶を放っていた。
七海は"灰原を想う"洸の気持ちに微かに気づいていたのだった。
「……聞いてもいいですか?」
「ん?何?」
雰囲気を遮るように七海は言葉を発した。隣の洸に視線を向けることなく、同じくレモンを片手に―――
「呪術界では知らぬ者はいない"御三家"……そして貴女はその名門五条家で生まれ育った人。」
「うん?」
「この2ヶ月間、任務や授業などで洸さんの身体能力には度々驚かされていますが……並々ならぬ相当な努力を……」
「長いよ建人。ハッキリ聞きたいことがあるなら聞いたらいいじゃない。」
遠回しに聞こうとする長台詞に困惑の笑みを零す洸。
「五条家でどんな訓練を受けてきたのか?何で反転術式が使えるのか?……あとは何だろうなー……"兄との関係性とか私の過去"……とか?」
「…………」
「やっぱりビンゴ。"そういう系"だと思った。」
「どういう事ですか。」
「だって、建人の顔見てたら分かるもん。多分気になってるんだろうな〜って。」
パクっとレモンに齧り付き、酸っぱい果汁を吸い込む。一瞬酸っぱそうに口をすぼめ眉を寄せると果肉を失ったレモンをそっと皿に置く。
「今日はせっかく2人っきりだし。こうやって鍋囲んでゆっくりご飯食べる時間もあるし……」
七海を見上げる洸―――
「ちょっとだけ、私の昔の話をしてあげる。」
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「洸ー、兄様が来てやったぞー。」
ドタバタと雑な足音。
呑気な声が部屋に飛び込むと"兄様"を睨みつける妹。
「……悟兄また来たの?怒られるってば……」
「うるせー。つーか意味分かんなくね?同じ屋敷に住んでる兄妹なのに会いに来たら怒られる理由が分かんねー。」
「ちょっと!雑に触んないでよ!折れる!」
「また生け花やってんの?何が面白いの?コレ。」
「うるさいなあ。茶化しに来たなら帰って。」
――悟 10歳
洸 9歳――
和装姿の少年少女。腹違いの兄妹。青と赤の瞳。同じ髪色、白銀の2人。"黙っていれば"気品漂う兄妹、なんて密かに女中たちに言われているのは分かっている事だが、やはり腹違いと言えど血は争えない。
美しい風貌に達者な口。小生意気な"餓鬼"だなんて言われても実力は本物だった。
「洸さ、反転術式使えるようになったんだろ?」
「…………」
「やり方教えろ。」
「やっぱり本題はそれか……」
「んだよ、そのバカにした顔。」
「別にー。"六眼"持ちの悟兄なら直ぐにできるよ。」
兄が遊び半分で引っこ抜いた花を奪い取り、それを杖に見立てて目の前で振るう。
「"ひゅー"って……あとは"ひょい"って感じ……」
「……はぁ?」
「だから…難しいんだよ……なんて言えばいいのか……」
反転術式の使い方を教えろだなんて無理難題だ。自分だって感覚でやってるものだから具体的に教えることなどできない。
……そもそも六眼という最強のオプションを身につけている兄にとって反転術式なんて要らないに決まってるのに。
「…なら実戦だ!実戦!」
「えぇ!?嫌だよ!!」
「実戦の中でお前の呪力の流れを"見る"。それで反転術式のヒントを掴めればいい。」
「そんな簡単に無理だよ!それに悟兄、私の呪力見たことないって……」
「イイから相手になれ。」
「嫌だ。」
「…………」
「早く戻りなよ。私はお花を……」
刹那、生けていた綺麗な花々が目の前で無惨に散った。剣山はひっくり返り、畳に水が零れシミを作っていく。
「…………」
「最低。何してくれるの"悟兄"」
強い呪力を感じる。目の前の兄の青い瞳がいつにも増してギラギラと光っていた。
「"六眼"を持たないお前はどうせ俺には勝てっこない。ビビってんのはお前だろ?洸。」
「…………」
「久しぶりにお前の体術も見てやるよ。花弄りばっかりで体が訛ってねぇか……」
「…………」
「兄ちゃんが鍛えてやるよ、箱入り娘。」
皮肉めいた、生意気な兄の台詞に洸の緋色の瞳が揺れた。
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たった数分後―――
中庭の木々は倒れ、手入れされていた花々は焼け落ち、そこはまるで地獄絵図。
離れの屋敷は一部消滅し
"子供の喧嘩"で起こったこととは考えられにくい状況だった。
「悟様!」
「直ぐに術師を呼んで!」
「血を―――」
慌てふためく五条家の女中達。
血塗れの兄はあっという間に取り囲まれ、どこかへと運ばれていく。
そして洸の傍には黒装束の男が2人。
まるで罪人を見張るかのような物々しい雰囲気を醸し出していた。
「((……私……何をしたの…?))」
鞠の模様が散りばめられた薄紅色の着物に真っ赤な鮮血が染み込んでいた。生暖かい血の感触が両手にべったりと張り付き、洸は手を震わせながら地面に座り込む。
「((……ッ……どうしよう。……どうしよう!私何も覚えて――))」
「―――洸。」
背後から聞こえる自分の名前を呼ぶ男の声。
不機嫌さを凝縮して、すごみさえ感じる低音。
『洸。お前は……』
『悟の"盾にも矛にも"唯一成れる存在。』
『その為にお前は在る。』
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"赫い瞳―――"
父親の声が脳内で響く。
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「―――ッはぁ!!」
バネに弾かれるように飛び起きる。激しく呼吸は乱れ、相変わらず嫌な汗が背中を滑り落ちていた。
「((……嫌な夢、まただ。最近落ち着いてきたと思ったのに―――))」
ベッドのシーツを無意識に掴み疲れたため息を漏らす。発作のような息切れを落ち着かせようと何度か深呼吸するといつも通り落ち着きを取り戻す―――
……そういえば、私は何を―――
「洸さん。……大丈夫ですか。」
刹那、七海の声が洸の鼓膜を叩く。
声のする方へ視線をずらすと部屋に備え付けられているキッチンに彼の姿があった。
部屋の電気も最小限に暗くなっており、彼の優しさと気遣いを感じるのだった。
「……あ……建人。……私…」
「こちらには構わず。横になっていてください。」
「…………私…」
"記憶が無い"
恐らく状況を察するに七海が自分をベッドまで運んでくれたのだろう。なんとなく2人で語らっていた事は覚えているのだが殆ど何も覚えてないのだ。
「残った具材はラップして冷蔵庫に。鍋も洗ってしまっておきました。」
「本当にごめん、健人。……あとは私がやるから、建人も休ん―――」
ベッドから脚を下ろし、立ち上がろうとした時。微かに頭と目に響く鈍痛。
グラりと大きく視界が歪む。まるで高所から一気に落ちていくような気持ち悪い感覚に体がふらつくと咄嗟に七海が彼女を支えた。
「大丈夫……じゃないですね。」
「……ごめ、…ん…」
「謝る理由が分かりません。」
ゆっくりと彼女を支え、ベッドに腰を下ろす2人。
七海は無意識に洸の背中に手を添え、優しく擦る。
「……建人。」
消えそうな細い声で名前を呼ぶ。身を丸く屈ませ、酷く困惑や疲れ、動揺……様々な負の感情が彼女から湧き出ていた。
正直、彼女か今何を考えているのかが一切分からない。どんな言葉を投げかければ良いのかも分からない。
だが一つだけ、間違いのない言葉があった。
「大丈夫です。貴女はひとりじゃない。」
「…………」
「私も灰原も、高専の皆がいます。」
「……」
「"何も言わなくていい"……傍に居るだけでも救われるなら―――」
優しい抱擁、柔い体温。
声、心音、呼吸のリズム。
「洸さん―――」
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胸に残り離れない 苦いレモンの匂い―――
自分が思うより
恋をしていた "あなた"に
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―――2015年
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高専を出て4年 寝ても醒めても
金のことだけを考えている。
呪いも他人も金さえあれば無縁でいられる。
金 金 金 金 金 金 金 金 金 金―――
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「………………」
昼下がりのとある日。
昼休憩に訪れたのはいつものパン屋。
決まって"いつものカスクート"を購入するのだが――
「……期間限定……」
可愛らしいデザインの販促に書かれている"期間限定"という文字。見た目の美しい期間限定のカスクートは出来たてなのか所狭しと陳列されており、もう少し時間が過ぎれば恐らく売り切れてしまうだろう。
レモンクリームチーズの酸味と甘み。洋梨のコンポートが中に挟まれており、いかにも"甘党"の為に作られたカスクート。しかし七海の目的はこのカスクートではない。
表面にゴマをのせて焼かれたフランスパンの中に、カマンベールチーズやハム、そしてレタスが挟んである"いつもの"。
どうやらそれは売り切れたらしい。まだ大量に残っている期間限定カスクートの隣に陳列されていたようなのだが既に空っぽだったのだ。
「((……仕方ない。))」
仕方なく期間限定のものをトングで挟み、レジへと持っていく。するといつもの女性スタッフがこちらに気づくと穏やかな笑みを覗かせる。
「いらっしゃいませ。今日もありがとうございます!」
「……はい。」
あまりにも通いすぎて女性スタッフには毎度毎度声をかけられるような仲になっていた
「"いつもの"が無かったのですが。」
「今日はひと足遅かったですね?」
「遅かった?」
「はい。実はついさっき大量にカスクートを買っていってくれた方がいて……」
「あの量を?」
「はい!"今日は天気も良いから外で皆で食べるんです"って――」
陳列していたものだけでも相当な数だ。一体どんな大食いなのか……いや、みんなで食べるというのだからどこかの会社員が買いに来たのか……
…なんて、大量のカスクートを買って行った人物を考えるなんとなく想像していたその時、ふと目の前の女性スタッフの変化に敏感に気づくのだった。
「……((彼女に憑いていた"蠅頭"が消えている――))」
通い始めた頃から女性に"憑いていた"蠅頭"。
蠅頭とは、4級にも満たない雑魚の呪い。踏み潰すなり、手で払うなり、簡単に祓うことができる雑魚キャラに過ぎない。
"下手に処理してヘンテコ霊媒師だなんて思われたくない"―――と考えていた七海は危害がないと分かった上で長らく放置していたのだが……
"何者かが善意で祓った"可能性―――
「そういえば、以前貴女は"夜も眠れず肩が重い"と言っていましたよね?」
「ああ!ソレなんですけど!不思議なことがあって―――」
女性スタッフはカスクートを包みながら嬉しそうに声を弾ませる。
「カスクートを買ってくれたお客さんが"霊媒師"なんだって言って……まあ、たまたまなのかよくわからないですけど"手で祓う仕草"をした瞬間ビックリするくらい軽くなって―――」
先程までこの場所にいた術師の存在。
「それがまた綺麗な"銀髪の女性"で……せっかくなら限定のレモンのカスクートも食べて欲しかったんですけど"甘いのは苦手"って言うものですから――」
綺麗、銀髪、女性
"甘いのは苦手"
「…………」
微かに感じる
"彼女"の気配
「……って!えっ、あっ!ちょっと!!」
七海はその場から踵を返し、店を飛び出した。
「………((まさか……いや、そんな訳が無い))…」
辺りを見回すも人気は疎ら、それらしき姿もない。
……彼女なのだろうか。
消えた彼女を本能的に"追いたい"衝動に駆られる、……が。
自分は呪術師を辞めた身だ。
今更彼女を追う理由はない。そんな権利もなければ……
だが……
あの彼女の台詞の意味は――
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"――ごめんね"
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七海の右手がポケットに差し込まれるとスマートフォンを取り出し"ある人物"へと電話をかける。
相手の名前は"五条悟"。
かつての高専での先輩であり、"彼女の兄"。
「―――もしもし七海です。お話があります。」
もし、許されるなら―――
「ええ、明日にでも高専に伺い……何笑ってるんですか?」
―――忘れられない貴女の面影を
もう一度―――
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"今でもあなたはわたしの光"
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