「金が無い」
日本ウマ娘トレーニングセンター学園、通称トレセン学園。学園内にあるターフ前。校舎から通じる登り階段に座り込んでいる男が1人。端正な顔立ちだが、目が死んでいる。たださえ不吉そうな表情だというのに腹から音が鳴り響き、更に悲壮感を漂わせていた。昨日から何も食べていないが給料日まではあと3日ある。職業はトレセン学園のトレーナーであり専属ウマ娘を持つエリートではあったが、彼の収入の殆どはある事情により消えていた。
「ほりゃまぁ、すんごい音だねぇ」
背後からのんびりと年寄りめいた声が聞こえた。振り返ると灰色のウルフヘアー、雰囲気は故郷にいる優しいお婆ちゃんのような、しかしてその姿は麗しい美少女が驚いた様子で立っていた。
ワンダーアキュート。トレセン学園が生徒の1人であるウマ娘。
「おはようアキュート。今はトレーナーさんと一緒じゃないんだね」
「これからだよぉ。先にジョギングの準備をしてもらっていてねぇ」
両手で握り拳を作り、むんっ!と気合いを入れる。ポワポワした雰囲気と違い彼女のトレーニングは非常にストイックであり、さながらボクサーのような過酷なやり方で己を追い込む姿はまさにスポーツマンある。
「それよりもお腹が空いているんじゃないのかい」
「恥ずかしい話、愛バに有り金全部取られてしまってね。缶コーヒーぐらいしか胃に入れてない」
「おんやまぁ」
口に手を当ててクスクスと笑う。おかしい、担当も同じ仕草をするというのにこの安心感は何だろう。ラモーヌがやろうものなら何か悪巧みしているのではないかと胃が痛くなる。
「そんなウマ娘想いのトレーナーさんには、大した物じゃないけどこれをあげようかねぇ」
アキュートが取り出したのはポリ袋に詰められた親指大の焦茶色をしたお菓子、花林糖だった。優しい黒糖の香りが漂い、更に空腹を刺激する。
「え、いいのかい?」
未成年の女の子から食べ物恵まれるなど情けないことこのうえないが、今の彼にはあまりにも有難い天からの恵みであった。
「十時のオヤツに食べようと持ってきたんだけどねぇ。あたしも担当のトレーナーさんにご馳走して貰いたくなってねぇ」
そりゃいい。アキュートのトレーナーは彼女から甘えられることにとても喜ぶ。側から見てもかなり大切にしているというかなんというか…非常に担当に対して湿度が高い男だった。アキュートがおねだりを言ったとなれば二つ返事で返すに違いない。
「ありがとう。助かるよ」
糖分は高いカロリーを持つ、これならばギリギリ生きられるだろう。多分。
アキュートと別れ、花林糖を一つ齧り腹に収める。腹の虫が鳴くことを止め、調子も戻ってきた。これからラモーヌとトレーニングのミーティングがある。確かその前に地元のボランティアと撮影があった筈だ、保護犬に関するポスターか何かでブランドがあるメジロ家に協力を依頼したそうだが、よりにもよってあのラモーヌが引き受けるとは思わなかった。
子供好きだと思わせる言動は前々から見られた、動物も好きなのだろう。
そんなことを思っていたら前方に見覚えのある二人。
水色の絹の如き柔らかそうな長髪を靡かせ、落ち着きのある佇まい。優しげな眼差しと雪のように白い肌。儚さを持つ華奢な身体。まさに令嬢。その言葉を体現したような美少女。メジロアルダン。
そしてもう一人。黒の長髪を纏め、頭頂部から左方向に流れる白メッシュのあるシニヨンの髪型。アルダンと同じく落ち着きのある佇まいだが、彼方が儚さを体現した容姿ならば此方まさに妖艶。右目下の泣きぼくろがよりそれを強調している。更に性格は優しいアルダンとは違い、ドS。我が儘、気まぐれ、魔王、ラスボス、戦闘狂、鬼、悪魔、債権回収者という恐ろしい存在。
その名はメジロラモーヌ。彼の担当のウマ娘の一人である。
二人がチワワをリードに繋げたまま此方に歩いてきた。
「おはよう。朝早くから大変だね」
アルダンは此方に気付いて身体の軸を揺らさず小さく腰を折る。洗礼された完璧な仕草だ。
問題はもう一人。アルダンは真っ先に挨拶を返してきたが、ラモーヌはまるで此方に気づいていないかと思う程、コンパクトで自分の髪型を確認して整えている。ひ、酷い…と思わず心で悪態ついた。
「撮影がひと段落しましたので、散歩させて頂きました。私達の屋敷ではペットを飼っておりませんでしたので」
撮影に連れてこられたチワワはアルダンにメロメロなのか、さっきからクンクン鳴いている。チワワって確か体が小さい割に獰猛だった気がするが、上手く躾られているようだ。あまりの可愛らしさに頭を撫でようと手を伸ばしたが。
「ガルルル!!!グゥルル!!!ガアアアア!!!ウウウ!!!オアアアアア!!!」
メチャクチャ獰猛やんけ、と心の中で呟く。
牙を剥き出しにして歯茎がやばい。顔がクシャクシャになるくらい睨みつけてきやがる生意気なワンコ。
「フフッ…」
髪を弄ることに満足したのか、先程まで此方の存在など認識してなかったようなラモーヌは鼻で笑いながらコンパクトをしまう。
「ハハッ、まるでどっかの誰かさんみたいな犬だね」
「………」
仕返しと言わんばかりに嘲笑い返した彼にラモーヌは無言で睨む。大人ですら萎縮する鋭い眼光だが、言い返せないあたり自分でも自覚しているらしい。思わず心の中で高笑いをした。
「あの…その…」
アルダンにとってラモーヌは憧れの存在であると同時に恐ろしい存在なので、両者の不穏な空気にオロオロしている。
「それは何かしら」
不意にラモーヌが怒りを霧散させ、トレーナーが手にぶら下げている物に目がいく。先程アキュートから貰った花林糖だ。
「花林糖だよ。どっかの誰かに給料殆ど持ってかれて金欠のとこを、優しい優しーいウマ娘さんに恵んでもらった」
「あら、私はこれでも優しいつもりだったのだけど」
「誰も君とは言ってないだろ」
ふぅん…と疑うような目で見てくる。そのままジッと見ていたが何か思いついたかのように口角が僅かに上がるのが見えた。嫌な予感がする。
「私達、少し着替えたいから代わりにこの子を散歩してくれないかしら」
「姉様?」
嫌な予感が外れた。ラモーヌにどんな無理難題を言われるかと思ったが、意外にも普通のことでアルダンすらも何事かと首を傾げる。
アルダンから代わりにリードを預かると、案の定チワワは凄まじい勢いで威嚇する。チビに威嚇されても怖くもなんともないと思っていたが、ガジガジとあらんかぎりに噛みついていた。
「あっ!」
アルダンが急に驚いた声をあげる。チワワが噛み付いたことに驚いたかと思ったがそうではないらしい。何か言いたげだが、ラモーヌが威圧して口封じをし顔は青ざめている。
「いえ、その…申し訳ありません…」
「なんで謝るの!?」
悲痛な叫びを上げたがアルダンは答えてくれなかった。やはり姉が怖いのだろう。
「なんか知らないけど嫌だな…」
「来月の返済を50%にするわ」
「やります!!!」
おのれ、金のチカラで言うこと聞かせるなんて卑怯な。アルダン、君は悪くない、悪いのは隣のドSだ。理由はわからないがきっとそうなのだろう。しかし口に出せばすぐさまお仕置きが飛んでくるため、絶対に言わない。
「フッ…」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…!」
花林糖食べた俺を見てラモーヌは満足そうに鼻で笑い、アルダンは何度も何度も謝罪していた。
―――――
同日。鼻歌混じりに一階の渡り廊下を歩いていたマルゼンスキー。ボリュームの栗毛を揺らしながら早朝のトレーナー室に向かうところだったが、丁度外を歩いている自身のトレーナーを見つける。
離れている彼に見つけてもらうよう、大きな声をかけ手を振ると此方に寄ってきた。何故かわからないが可愛いチワワを連れており、散歩の途中なのだろう。左手にリード、右手には糞を始末するためのポリ袋が握られている。
「やぁ、おはようマルゼンスキー。まだ君の担当時間には早かった筈だけど」
マルゼンスキーを見つめる彼の頭は、まだ髪型がセット出来ていないのかチラホラ寝癖が見え、背が高い彼が小さな犬と散歩している姿は中々絵になる。早朝からいい物が見れたと喜んだ。
「おはようトレーナーくん。ちょっと天気が良いから走りたくなっちゃって」
両手でカメラを模した長方形を型取り、彼を収める。はにかんでピースしてくれるその姿を叶うならインスタントカメラに撮りたかった。
すると彼のお腹から爆音が。空腹の音である。
「もう、またお腹空いてるの?」
「今月もお嬢様の催促が厳しくてね」
苦笑して明るく答えるがマルゼンスキーとしては笑って受け流すことは出来ない。頬を軽く膨らませ、ジト目を向けた。
「前にも言ったけど、私の家に来ればご飯幾らでも食べさせてあげるのに」
「いや、担当に食わせてもらうのは流石に情けなさすぎる」
そう言うが、彼は相手によって甘える態度と甘やかす態度を使い分ける。普段から周りに頼られている者程甘やかし、自分は其方のタイプだった。部屋の掃除を嫌な顔一つせず手伝ってくれるし、食事の話もマルゼンスキーが材料を用意して料理が得意な彼が作ってくれるのである。
「あーあ、誰か美味しいご飯作ってくれないかしら。美味しいご飯食べたいなぁー」
「いや、参ったな…」
わざとらしくチラチラとトレーナーを目配せしながら彼の逃げ道を塞ぐ。優しいからこのような言い方をされると、とても弱い。仕方無さそうに頬を掻き、何が食べたいか聞いてくる。
「やったぁ!じゃあイタめしが良い!」
マルゼンスキーが言うイタめしとは炒飯ではなく、イタリア料理のことである。前にマルゼンスキーのイメージカラーである赤にちなんで、トマト系の料理を作った。カッペリーニにピザ、フリットなど。彼女はその味を忘れないでいる。
「承知しましたお嬢様」
チワワに足を噛まれながら背筋を伸ばして腰を折る。いまいち締まらないその姿に思わず声をあげて笑った。
「その子はどうしたの?」
学園がボランティアとして受けた仕事をメジロ家に頼んだと説明される。それに自分が巻き込まれたと言っているが、大方ラモーヌがトレーナーにちょっかいをかけたかっただけかもしれない。
再び彼のお腹から爆音がなり、クスリと笑った。しかし次の瞬間、マルゼンスキーの笑顔は凍りつくことになる。
「流石に空きっ腹は堪えるな」
そう言うと何を思ったのか、彼は親指大の犬の糞が入ったポリ袋を開くと中から直で摘み取り、口に放り込んだのである!
「―――――え?」
「いやー、やっぱり美味しいな」
「え? え?」
笑顔のまま目から光を失うマルゼンスキー。本来、ウマ娘の嗅覚ならば花林糖の甘い香りですぐにわかる筈だが、想い人が犬のウンコを食っているという衝撃的な光景を目にしたせいで完全に脳が混乱しているのである。
「と、トレーナーくん…それ…好きなの?」
「ん? 好きか嫌いかで言えばまぁ好きかな」
「そ、そうなんだ…」
至極当然と言わんばかりにだが、聞いた自分が馬鹿だった。これではどう返事を返してあげればいいかわからない。
「マルゼンスキーも食べる?」
「え、遠慮しておく!苦手だし…」
「そうなんだ。てっきり君は(甘い物)好きだと思っていたんだけど」
「えええー!私、トレーナーくんにそう思われていたの!?」
「だってこの前、料理した時も(デザート)食べてたから」
「えええ!私食べてたの!?」
「そんなに驚くことかな。普通にみんな食べる筈だけど」
「みんな食べるの!?」
流石都会である。性の事情はかなり爛れているようだ。しかもまさか彼がそのような特殊性癖を持っていることにショックを受けたが、ここで普通ならしょうがない。もしかするとその特殊な環境にいたせいで当たり前という認識なのかもしれないのだ。
「すまないマルゼンスキー、まさか君がそこまで嫌っているとは思わなくて…」
深刻な表情をしている彼女を見てトレーナーは悲しそうな顔をする。その様子からハッとするマルゼンスキー。いや、想い人が特殊性癖を持っているからといって自身の好意が消えるわけではないと奮起する。
実際は、愛バが甘い物苦手なのに我慢して美味しそうに食っていてくれたのだと勘違いしているだけだが。
「いいえ!トレーナーくん、あたし覚悟を決めるわ。トレーナーくん性癖にも応えてあげる…のはまだ無理だけど、理解はしてあげるから!」
「性癖?」
泣きそうな顔をしているマルゼンスキーを見て漸く何か違和感を感じたトレーナー。
「ちょ!あの人ワンコの糞食べてるんですけどー!草!」
遠くから中等部のウマ娘達が爆笑しているのが聞こえた。まさか自分のことかと思い窓に映った姿を見ると、明らかに誰が見ても犬の糞を食ってるようにしか見えないのである。
一瞬でこれまでの経緯全てを理解。窓ガラスの顔は引き攣り、悪魔のような所業を下すあのドSの化身に彼は天高く咆哮した。
「ラモーヌーーーーー!!!」
ウマ娘を生み出してくれた方々に感謝を
追記。次の更新は8月11日0時です。