『貴方、本当に口が上手いわね』
社交界の途中。自身のトレーナーが見当たらないと気づいたメジロラモーヌは、屋敷のバルコニーに出る。思った通り、彼は飲み物も持たずに誰もいないバルコニーで夜風に当たりながら星を眺めていた。ラモーヌが用意したシャドーストライプが施された紺色のスーツに身を包み、派手さを抑えながら場に溶け込めるようシンプルなモノ。
対してラモーヌが纏うのはレースに使用される勝負服。
漆黒のフィッシュテールスカートに胸元が開かれた純白のドレスにメジロ家の象徴である藍緑の布も含まれている。片足のみがストッキングを履いており、上品だが非常に大胆なデザインとなっている。
材質は6Aシルクやアラシャンカシミヤは勿論、御召縮緬、ウィンターキッドモヘヤなど最高級の素材が使われており、肌触りだけでなくウマ娘の走りに耐えられるよう、耐久性、伸縮性、回復性に優れ、ラモーヌのアイデアと有名なデザイナーにより洗礼されたデザインと機能。
まさに一着完成させるのに数千万の大金をかけた究極の勝負服だ。
今回の集まりは、名家のウマ娘達が互いの勝負服を御披露目する会といったところだろうか。中にはあの華麗なる一族やルドルフ家、更にはサトノ家、トレーナーとは全く交流がないマルゼンスキーの姿も見える。
その他大勢のファンである重鎮達が一堂に会していた。
『まさか。緊張して疲れちゃったよ』
気の抜けた表情でラモーヌを見る。彼女の手には水の入ったグラスが二つあり、気を利かせて持ってきてくれたのかと思い手を伸ばしたが空を切る。
『残念。これ二つ共、私のよ』
『嘘でしょ!?』
驚愕するトレーナーを尻目に慣れた様子で隣に立つラモーヌ。彼は重鎮達との人脈やアポイントメント作りに忙しく。その外面の良さを活かしてラモーヌをプロデュースするのに必死だった。そのせいで喉が若干渇いていたのだが、喉を潤すことは出来ない。
実際、彼女は黙っていても仕事が舞い込んでくる美貌と実力を兼ね備えていたが、最大の難所である気紛れさに手を焼いている者達が多いのも事実。そこが良いという狂信的な相手もいるが、次期メジロの当主たる者それではマズイということで出番となったのがトレーナーである。
トゥインクルシリーズの頃からメディアを相手することも多く、ラモーヌの気紛れや僅かな変化にも目を光らせていた彼はトレーナー業だけでなくプロデューサーとしても重宝された。
本人から言わせれば何故自分がこんなことをしなければならないのか。大体、ラモーヌが気紛れで仕事を断るのは何かしら彼女の機嫌を損ねるか、納得出来ない何かを仕出かしたからだと陰で愚痴を溢す。
その間を取り持つものまた、彼の仕事ではあるのだが。
手にした水を一気の飲み干すラモーヌ。あっという間に空になった二つのグラスを彼に渡した。
『君さぁ、俺に意地悪するの本当に好き―――』
両手がふさがり、身動きが取れない彼にラモーヌが近寄る。顔が触れそうなくらい近づいて、咄嗟に止めようとしたが今の彼にそれは叶わない。一瞬で唇が合わさり、彼女の口内に含まれていた水が注ぎ込まれた。
慌てて後退し、咳き込む。
『な、何すんの!?』
『別に婚約者なのだから、口づけくらいするんじゃないのかしら』
無表情に語るラモーヌに羞恥心は一切見られなかった。対してトレーナーは違う。いきなり彼女にキスをされた彼は見たことないくらい顔が真っ赤になっていた。
『何故顔が赤いの?』
『そりゃ急にキスされたらビックリするよ!』
『ふぅん』
相変わらず無表情でラモーヌの真意がわからないトレーナー。だが、わからないのはラモーヌもまた同じだった。
『貴方、あんなに女慣れしているくせにキスもしたことないのかしら』
『い、いや…あるよ!ありますとも!』
確かに。実際にラモーヌは頬にキスをされているのはよく見ている。外面は紳士的で色男故に生娘によくモテた。しかしキスをされてる彼は手慣れたもので特に赤面することなく、微笑み返すだけ。
ならば、とラモーヌは再び近づいて今度はトレーナーの頬にキスをした。
『ちょっ…や、やめてよ…』
やはり同じように顔を更に真っ赤にさせ、腕で表情を隠した。ラモーヌにはそれが不思議でしょうがない。不満そうに眉を潜める。
『何故、私の時だけそんなに嫌がるのかしら』
『嫌!? 君それ…本気で言ってる!?』
呆れているというか、愕然と言うべきか。目の前の少女が自分への想いに気付いていないことに安堵もあるが、己の女好きがここで弊害になっていることに頭を抱えそうになった。
というのも、高嶺の花で未成年であるラモーヌに対して一目惚れしてしまった彼。本気にならないよう今まで以上に様々な女性へアプローチをしてきたが、トレーナーは未だに彼女への想いを捨てられずにいる。
それが愛情がないとはいえ、婚約者に選ばれた時は一人で泣いて喜んだが、こうしてキスをされても顔色一つ変えないラモーヌに、やはり自分は何とも想われていないのだと落胆した。
ラモーヌからしてみれば普段ぶつかってばかりのお互い。他の女性達と違い紳士的な態度を取られないせいで、苦手意識を持たれていると勘違いしていた。
『まぁ、いいさ。こうなることぐらい覚悟したし』
だがトレーナーの本心は真逆である。ラモーヌのレースに対する思いに共感出来た。けして人間には届かない強さと美しさに、憧れにも嫉妬にも似た感情を持ち、絶対に言いたくないが心の底から尊敬したのである。
自分がただ利用されているのはわかっていた。それでも、好意以上の想いを抱いた彼女の傍にいられる。こんなに幸せなことはない。
―――――
「これで終わりだよ」
日課であるラモーヌの施術が終わり、道具を仕舞う。免許を持たぬトレーナーがこんなことをするのは違法であるため、トレーナー室のカーテンを締め切り、ドアの鍵をかけて誰にも見られないようにしなければならなかった。当然、ルドルフ達にも見られてはいけない。
「調子はどう?」
「悪くないわ」
軽くジャンプして感覚を確かめるラモーヌ。動きにぎこちなさはなく。確かに上手くいったようだ。
「これならデビュー前に間に合う。満足な走りが出来るね」
ラモーヌは無表情だが、僅かに尻尾が揺れているのがわかる。レース前に高揚感を隠せないのだろう。当然、それはトレーナーも同じであり、彼女の完璧な走りを見られると思うとワクワクして堪らなかった。
トレーナー室の鍵を開け、デスクへ向かう。ラモーヌに今日の用事は全て完了したと伝え、PCの前に座ると事務処理を始めた。いつも通り軽い挨拶を交わして彼女が出ていくと思ったが、いつまで経っても部屋から出る様子がなく、何事かと視線を彷徨らせていたがラモーヌの姿が見えなかった。
「ラモーヌ?」
「此処よ」
背後。耳元で彼女の官能的な声が聞こえた。ビックリして小さく悲鳴が出たがそれで終わりではない。ラモーヌは後ろからトレーナーの肩へ腕を回し抱き締めたのである。
「ちょっーーー」
彼女の甘い香りが鼻腔を刺激する。横目で見れば芸術的とも言えるラモーヌの整った顔がすぐ傍にあり、心臓が飛び上がりそうなくらい鼓動を始めた。
「ふふ」
何がおかしいのか。彼女は小さく笑う。楽しそうだがトレーナーとしては非常にマズイ。平常心を装いたいが、待てども心臓が落ち着くことなく鼓動はずっと速いまま。全身が熱くなり、変な汗も出てくる。
「ラモーヌ。ど、どうしたの? こんなとこ誰かに見られたらヤバいから離れて欲しいんだけど」
「私は別に構わないわ」
「俺は構わなくないけどね!?」
上擦った声。主にたづなに見られたらお仕置きされてしまう。もう少し強めに離れてほしいと言葉にしようとした。しかし、彼女があまりにも穏やかな表情をしていたせいでその言葉を呑み込んでしまう。時々ラモーヌはこんな顔をする。昔の己を知っており、二人の間に何かがあったのは明白だが、何故かそれを聞くのが凄く怖かった。
「私、今…とても幸せよ」
「そんな大袈裟な…」
まだ十代である彼女。人生はこれからだと言うのにこれ以上の幸せはないと言わんばかりに噛み締める。
「貴方。ずっとドキドキしているわね」
ウマ娘の聴覚は非常に良い。近くの内緒話など意味を成さないうえ、このように身体を密着させた状態では相手の心臓音など筒抜けである。
「私のこと、どう想っているのかしら」
「いや…普通に教え子としか見てないけど」
「ふぅん?」
疑った様子で此方に顔を向けるラモーヌ。顔が当たりそうだったので、首を無理矢理動かして触れないようにしたが、彼女の吐息が耳、首、頬に当たる。
「女好きなのに?」
「未成年は女性じゃありません!」
首まで真っ赤なトレーナーを見て、やはりとラモーヌは思う。この男、他の女性にスキンシップを受けてもケロリとしているが、自分の場合だと勝手が違う。
前の時もだったが、絶対に此方を口説こうとしないのだ。愛の言葉も最後の最期。死ぬ間際だったことを考えると彼からもう一度その言葉を聞くのはかなりの困難だと理解した。
出来れば此方も愛を囁きたかったが、今この関係性が破綻する可能性があるため決定的な言葉を口にすることは出来ない。
非常に。とても歯痒い。
だが、この歯痒さも心地好さがある。トゥインクルシリーズが終わるまではこの感覚も大切にしたいと思っていた。
後ろからの包容を解き、トレーナーは一瞬ホッとした表情をしたが、まだ終わりではない。ラモーヌは前に回り込むと彼の膝の上に腰を下ろし、胸板へ耳を押し当てたのだ。
「ストップストップ!」
「喧しいわね」
一喝されるが、トレーナーとしては気が気でない。脚に彼女の柔らかな臀部と豊満な胸が当たっているのである。男としてはかなり危険な状態だ。
ラモーヌは彼の胸、心音を聞きその命が確かなモノと感じていた。いつも死んだ目をしているのでこうして確認しないと時々不安になる。
「き、君さぁ…俺のこと好きなの?」
「さぁ、どうかしら」
イタズラっぽく笑う。明らかに確信めいた行動でトレーナー自身もその想いにほぼ気付いていたが、彼女がそれを答えることはない。自分に手を出さないという絶対的な信頼があるからこそ出来る駆け引き。
「おい、いつまでイチャついてるつもりだ」
真夏かと思うほど、熱い空間だったトレーナー室に冷たい言葉が放たれる。トレーナーはビックリして扉の方を見ると、苛立った顔をしたシリウスシンボリが立っていた。
「あら」
ラモーヌはそんな彼女に驚くことはなく、挑発的な視線を送り名残惜しそうにトレーナーの膝から降りた。余裕のあるラモーヌにシリウスは舌打ち。トレーナーとしては彼女の温もりが失くなったことで安堵したが、シリウスの鋭い視線が彼にも向けられており勘弁してほしいと思う。
基本的にメンバーはトレーナーに対して好意的だが、どういうわけかシリウスだけは目の敵にしているのである。最近は打ち解けてきたと思ったが、たまにこうして思い出したかのように憎しみの感情を向けられていた。
「じゃあ、帰るわ」
「あ、あぁ」
鞄を持ち、出口へと向かうラモーヌ。シリウスの前を何事もなく通り過ぎようとしたが、止められてしまった。
「ラモーヌ、一つ忠告しておく。コイツはやめておけ」
「………」
真剣な目で彼女を見つめる。一度、ラモーヌはその言葉に立ち止まるが、何も言わない。氷のような無表情の彼女にシリウスは畳み掛けるよう続けた。
「コイツは人畜無害な顔してチワワみたいな奴だ。忠犬だと思っていると噛みつかれるぞ」
トレーナーを駄目犬呼ばわりしているシリウス。ラモーヌは前からどんな犬のイメージなのか気になっていた。てっきり穏やかなゴールデンレトリバーかと考えていたが、まさかのチワワとは。思わず笑い声を上げそうになったが、ギリギリのところで踏みとどまる。
「チワワ、ね。でも愛玩動物のつもりはないわ」
鎖に繋いで飼うのも悪くないと思っていた時もある。しかし、この男の良さは放し飼いが一番活きることはラモーヌ自身が一番理解していた。
「執着するのはやめろって言ってんだよ」
「執着しているのはどちらかしら」
シリウスは眉を潜めた。彼女の言葉の意味を理解出来ていないようである。当然、それはトレーナーも同じだった。
「この男から酷い目にあったようだけど、何故また契約を結んだのかしらね」
「それはこの駄目犬を見張る為だと前に言っただろ」
「そう」
短く答えるだけのラモーヌ。彼女がこういう時、大概は聞きたかった答えではない時の反応である。そしてシリウスの言葉に興味を失くしたようで、そのまま何も言わずに出ていってしまった。
「…おい、駄目犬。トレーニングメニューの調整はどうだ」
「終わってるよ」
シリウスの圧のある声に静かに答える。トレーナーとしてはラモーヌの妖艶な雰囲気よりもシリウスの方が助かった。彼女のあの態度はどうにも慣れないが、今はシリウスのドライな態度が逆に落ち着く。彼女はトレーニングメニューをパラパラと捲り、素早く中身を確認した。
「チッ、相変わらず指摘するとこがねぇ…」
「それ誉めてるの? 貶してるの?」
「どっちもだ」
「俺は先行、差しのメニューは得意みたいなんだけど、逃げはどうにも苦手でさー。マルゼンスキーとエースの場合だと中々こうは上手くいかないよ」
トレーナーが再調整したメニューは暫くシリウスがトレーニングで使用したモノから無駄を省き、足りないモノを補ったモノだが、彼女自身既にイメージした通りの内容であり、此方の考えを見透かされているようで気持ちが悪かった。
だが『前回』のトレーナーはシリウスの身体能力を完全に理解していた為、昔はこれぐらい出来て当たり前であった。しかし、目の前にいる男は自身のトレーナーになってから僅か二月しか経っていない間柄であり、そこまでの関係性を築いてなかったのだが…。
「シリウス。俺が気に食わないのは構わないけど、他のメンバーとは仲良くね」
「ああ? 別に喧嘩じゃねぇ」
ソファーに座り、メニューを隅々まで確認する。変わらず圧が強いが、先程よりは落ち着きを取り戻したようだ。トレーナーは立ち上がるとシリウスに紅茶の準備した。
「前にも言ったけど、俺と契約切りたかったら何時でも良いから…」
苦笑いを浮かべて少し前にも同じようなことを言われたシリウス。元々担当を持つことに何故か"抵抗"があった彼。マルゼンスキーを除けば逆スカウトの形でメンバーみんなと契約したが、未だに迷いがあるらしい。
これを言えばルドルフ、シービー、クリスエスは悲しい顔をするため最近は口にしないようにしていたが、シリウスは違う。逆に怒りに満ちた顔をするのだ。自身を嫌っているはずなのに離れるつもりもない。記憶喪失でその理由もわからないが、何を仕出かしたのか怖くて聞けないのもまた事実だった。
シリウスの前に出来立ての紅茶を置く。香りが部屋に広がり、彼女はソーサーからカップを持ち上げると中身を口にした。味わっているのだろうか、難しい顔でカップを見つめていたが、ソーサーにゆっくり置くと不意に立ち上がり、トレーナーの元へ近づいてくる。
「これはスリランカのルフナ産茶葉だな」
たった一口で茶葉の種類を当てるシリウス。思わず感心してしまうトレーナーだが、更に彼女は近づくと壁に追い込まれてしまう。逃げ場が無くなった彼は横に逃げようとしたが、顔の傍に手で塞がれてしまい、動けなくなる。
「しかもストレートときた。渋みが少なくコクがあるこの茶葉には本来ミルクティーが合う。だがお前はミルクを敢えて入れなかった。それは何故だ」
普段、ルドルフに飲ませているディンブラはストレートで飲むのが主流だ。わざわざルフナを使う理由はただ一つしかない。それはシリウスが一番好んで飲むモノだからだ。
ルドルフもシリウスがルフナティーを好んでいるのは知っているが、幼少期のシリウスはこれにミルクを一滴入れるのが好きだった。しかし、今はストレートで飲むのが好みであり、幼なじみであるルドルフさえも知らないはずだというのに、この男だけは知っていたのだ。
「何故って言われてもーーーっ」
トレーナーは顔をしかめた。頭が酷く痛むらしい。
「何が記憶喪失だ。本当は全部覚えているんだろ」
「嘘じゃないさ。記憶は無くても文字の書き方やトイレの仕方を忘れるわけないだろう?」
にへっと間抜けな笑顔を取り繕う。痛みが引いていないのか、額にはまだ脂汗が滲んでいる。
病院に自身の記憶喪失を診てもらったが、外傷は無く原因は心理的なモノではないかと診断された。過去にトラウマを抱えそれを忘れる為にエピソード記憶が丸々消えていると。トレーナー業に問題無いのは意味記憶が無事であるおかげらしい。
トラウマとなれば録な記憶ではないのだろう。シリウスの態度を見るに余程嫌な出来事があったのか。それが怖くてトレーナー自身は記憶を取り戻すことに全く乗り気ではない。
「いいじゃない。記憶なんて無くてもさ」
今は楽しいのである。彼にとってそれで充分だった。
しかし、シリウスはそれで良しと出来ない思いがあった。
「それじゃあ、お前が何で私を裏切ったのかわからないだろうが…」
蚊の鳴くような言葉。いつもの強気な彼女から想像出来ない弱々しい声に絶句してしまう。
何と答えれば良いかわからない。グラウンドからウマ娘達の笑い声が聞こえるが、今トレーナー室は重苦しい空気で支配されている。耐えきれなくなったのはシリウスだった。
悔しげに顔を歪めると何も言わずにそのまま出ていってしまう。
「参ったな」
一人ぼっちになったトレーナー。おぼつかない足元で自分のデスクに向かうと引き出しから薬袋を取り出す。
中から錠剤を手にすると震える指で口に含んで飲み込んだ。
次回の更新は9月29日0時の予定です
元々トレーナーの名前は用意していたのですが、ボツりました。好きな名前をつけてあげてください。