『よぉ』
トレセン学園屋上。雲一つ無い快晴。心地良い風が吹く初夏。シリウスシンボリは一人の男を訪ねた。
『んー?』
硬いコンクリートに寝そべり、日光を遮るためか顔に本を被せていたが、シリウスに話しかけられた彼は気だるそうに顔を持ち上げる。
顔色は悪いが端正な顔立ちをしていた。切れ長の目に長い睫毛、眠気眼のせいか目付きが非常に悪い。対してシリウスは美しいニヒルな笑みを浮かべており、そんな男に全く動じることなく頭上から見下ろしていた。
『誰?』
逆光でシリウスの顔がよく見えないらしい。眩しそうに目を細める顔はたださえ死人のような血色だというのに、更に死顔に拍車をかける。
『これ、お前が組んだメニューだろ』
寝そべっていた彼の胸にファイルがドサリと音を立てて投げつけられた。そこそこの厚みを持つそれは重量もあり、突然の衝撃に男は呻き声を上げたが、シリウスに渡されたそれを見て溜め息をつく。
『ああ、これね…。これ俺じゃないよ』
学園の先輩トレーナーに"適当に処理"してくれと頼まれたモノだ。基本的にウマ娘のトレーニングメニューを組むのは担当トレーナーと決まっている。だが、中には未だに契約していないウマ娘はゴロゴロと転がっており、自身でトレーニングメニューを組むことがある。それはさして珍しいことではない。
しかし、学園側としては無茶苦茶なメニューを行わないか目を光らせる必要があり、アスリートとしての身を守るためにも未契約ウマ娘達が使用しているメニューを提出させ、トレーナー達が分担して修正や改善をしなければならなかった。
当然、それを行うのは彼が今しがた話した先輩トレーナーなのだが、トレーナーではないこの男に雑用として押し付けたのである。だが、それを馬鹿正直に答えることはしない彼。偽りの答えを出した。
『あ? 息を吐くように嘘をつくんじゃねぇよ』
が、アッサリと見破られる。男は改めて相手の顔をよく見て、それが良い意味でも悪い意味でも学園内で有名である、あのシリウスシンボリだとわかると厄介な相手に捕まったと嫌そうな顔をした。
『わかるんだよ。大抵のヤツは担当以外手を抜くからな』
誰だって自分が目をつけた担当ウマ娘が一番可愛い。将来性の無い子や未だに担当を見つけられない厄介なタイプのウマ娘などに、己の労力を割きたくないのだ。それならば担当を大事にしたいだろう。
このトレーニングメニューにしても学園が強制しているモノで誰もがやりたがらない。勘の良い子は自分がどのような扱いを受けているか気づいてしまう。
シリウスもいつも通り適当に書かれたメニューを渡されるかと思ったが今回だけは違った。
内容がかなり事細かに記載されていたのである。しかもシリウスだけではない。他の凡庸なウマ娘達のメニューも質を高めており、そのような取り巻きを持つ耳聰いシリウスには多数の情報が入った。1日の摂取カロリー、目標肺活量、何が余計で何が足りないのか。こんなこと、いつも渡してくるヤツがやるわけがない、大体適当なテンプレートを用意するだけ。しかし。
『そのメニューにはそれがない』
さも自分がやりましたと言わんばかりに渡してきたトレーナーを締め上げて吐かせた。この男の存在を。
シリウスは一度も興味を持たなかったが、学園の間ではわりと有名な男だったらしい。やる気は人一倍無く、担当を持たずにフラフラ雑務をこなしているだけのサラリーマンで言えば窓際係。しかし、若いくせにやたら優秀なようでベテラントレーナーの手伝いもそつなくこなせば、新人の相談事にも乗るようで学園内での立場はしっかりとしており、その容姿と影のある雰囲気が相まってか異性に好まれているようだ。
『ハァ…。―――――俺に何して欲しいの?』
確信をついた彼女の言葉を聞いて男は漸く重い腰を上げる。気だるそうにする態度は変わらないが、視線は相手の出方を伺うように細められた。
『お前に私の試験を受ける権利をやる』
『は?』
彼はてっきり担当契約を申し込まれると思っていたのだが、まさかの此方を下手に出させるとは。
『そいつの出来映えは、まぁ…七十点といったところか』
男としては会心の出来だったが、シリウスとしてはギリギリ合格ラインの内容だったらしい。かなり厳しい気がするが、努力家で妥協を許さない彼女からしてこの点は破格の評価である。では残りの三十点は何か。
『だが、少し脚質差しに特化している。それが気に入らねぇ』
彼女の得意な中距離は文句無しだったが、脚質は先行である。内容は何処と無く、同期のミスターシービー、そして同じくシンボリの名を持つクリスエス、ルドルフにピッタリのメニュー。それを使用することにシリウスのプライドが許さなかった。
『まぁ、俺は差しの子しか見たことないからね。状況に応じて、追込や先行には対応していたけど』
『お前担当を持っていたのか? 話しでは一度も無かったと聞いたが』
『うん、いないよ』
まるでトレーナーをやっていた時期があるような言い方に引っ掛かりを感じたが、シリウスはそれをスルーして本題に入る。
『一週間やる。それまでに私専用のメニューを組んでこい。満足のいくモノが出来たらお前を飼ってやるよ』
『飼ってやるって人をペットみたいに…。あのねぇ、君何か勘違いしているようだけど、別に俺は担当持つ気は無いの。このメニューも頼まれた仕事だからやっただけ』
馬鹿馬鹿しい、付き合ってられないと苛立ち気に吐き捨て 、その場を後にしようとしたがシリウスに阻まれる。
『シリウスシンボリである私を知らないようだな』
実際、彼女は多数のトレーナーからスカウトを受けている。しかし、凱旋門を狙うシリウスにとって納得いく者は未だに出てこず、どうしたものかと考えていた其処に白羽の矢がたったのがこの男だった。他のトレーナーならば二つ返事で答える実力者のところを何故か断られてしまい、彼女は疑問に思う。
『君を知らないヤツなんてこの学園にいるわけないだろ。裏の生徒会長。シンボリ家。そしてその名にそぐわぬ強さを持つウマ娘』
『ほう。なんだ、知っていたのか。それでその生意気な態度、ますます面白いな』
感嘆の息を吐いて僅かに口角が上がるシリウス。調教のしがいがあると顎を手で持ち上げるが、男は鬱陶しそうに払い除ける。
『残念だけど、こんなやる気の無いヤツよりもっと真面目な人を選んで。俺、忙しいから失礼するよ』
捨て台詞を吐いて逃げるように去る男。誰もいない屋上に残されたシリウスは、彼が置いていったファイルと分厚い本を拾い上げた。
『何が忙しいだ。さっきまで寝てただろ―――ん?』
ふと。足元に何か落ちているのに気付く。透明な小さなケースに小分けされた錠剤が見えた。
『これは…』
―――――
『やぁ、シリウス。珍しいな』
数日後。ターフを駆けているシンボリルドルフとシンボリクリスエスのもとにシリウスが訪ねる。彼女達はこの時間帯に使用許可をよく取っているため、シリウスはあまり姿を見せないようにしていたが、この日は珍しく二人の前に現れた。
『どうだい。たまには一緒に並走してくれると刺激になる』
『―――脚質の違う相手との経験は、活きる』
実力者の彼女達に付き合えるウマ娘はそうそういない。その点で言えばシリウスはピッタリの相手だが、彼女は別の用事で此処を訪れたにすぎない。
『皇帝様直々に指名して頂けるとはな。だが今回はお前達が目的じゃない』
シリウスは周りをぐるりと確認する。目当ての相手は―――いた。グラウンド前の登り階段。そこにボーッと座り込んでいる一人の男。
前回トレーナー候補として上げた彼が、缶コーヒーをチビチビ飲みながら此方を眺めている。噂は本当だったようだ。
あの男。雑用係としてあちこちにふらついており、見つけるのが困難だったが、とある話しで彼はシンボリルドルフと、シンボリクリスエス、そしてミスターシービーが走る時、必ず何処かに現れるというのだ。
『成る程、目的は彼か』
ルドルフはシリウスの探し物が彼と気付いて面白いことになりそうだと笑みを浮かべる。
『知っているのか』
『直接話をしたことはない。近づくと逃げられてしまうんだ』
『なに?』
『学園内でも絶対に鉢合わない。私…というよりも私達を避けているように思える』
おかしな男だと思っていたがますます妙な男。先生達に訪ねたこともある。一度頼んで呼び出したが、彼が来ることは一度もなかった。
『よくそんなヤツを学園に置いておけるな』
『実力はかなりのモノらしい。頼み事や問題が発生した時、全て自身で解決してしまううえに、相談事にも応じてくれる』
良く言えば便利。悪く言えば厄介事を押し付けられる故に関係者からはいなくなると困るというのだ。
シリウスはあの男にプライドは無いのかと呆れた表情をする。あれだけの知識を持っておきながらトレーナーにとって第一であるウマ娘の担当を持たない。飼い殺しにされている状態だ。
『相互扶助。どうだろう、彼を君のトレーナーには。実際君のお眼鏡に敵うと思うのだが』
『さぁな』
それを決めるのはこれからだ。シリウスはルドルフとの会話を止めると、未だにボーッとしている男のもとへ走り出す。彼方も此方に気付き、マズイと顔を歪めているのが見えた。急いでその場から離れようとしたが、シリウスの方が流石に速い。
飛び掛かり、壁に押しつける形で拘束した。
『また君か。随分乱暴だね』
『お前が逃げるからだろ』
観念したと両手を上げる彼。相変わらずふざけた男だが、話しは聞いてくれるらしい。しかし。
『ここは場所が悪い。屋上に行こう』
チラリと、シリウスの後方を確認する。ルドルフ達がいる方向だ。やはり彼女達と接触することに何か問題があるらしい。長い階段を昇る間、シリウスは男に訪ねる。
『お前、なんでルドルフを見ている』
『別に珍しいことじゃないでしょ』
彼女はトレセン学園の現生徒会長であり、実力者でもある。シリウスと同じく有名なシンボリ家のウマ娘。その道に詳しくない者でも名を知らぬ者はいない。
敵情視察。参考資料作成。単なるファン。実際にルドルフの走りを見る人間は多く、理由などいくらでも出てくる。
『なら別に避ける必要はないだろ』
『………』
『嘘の次は逃亡。その次は黙りか』
どこまでも自分のことを語ろうとしない男だった。噛みついてくればまだ対処のしようがあるが、これでは張り合いもない。弱味も一つでも握りたいがなかなかに厄介な男であった。
『んで、今度は何?』
屋上にたどり着いて誰もいないことを確認した彼は苛立ち気に言う。
『これ、お前のだろ』
シリウスがニヤリと笑いながら取り出したのは、数日前に彼が落としたとされるモノ。小分けの敷居がされた小さなケースに、更に小さな錠剤がいくつも収められている。
『君が持ってたのか…』
しまったと、溜め息を吐く。大事なモノを厄介な相手に渡ったと思っているのだろう。
『こりゃなんだ?』
シリウスは伺うように彼の表情を逐一見逃さないように訪ねた。
『ただのビタミン剤だよ』
『だから嘘つくんじゃねぇ。ビタミン剤がこんな風に小分けされているか』
男の表情は気だるそうでやはり真意が見えない。だが、シリウスはそんな適当に考えた嘘に騙される程、愚かではなかった。薬の破損による分量を狂わせない為に敷居がされているのだ。栄養補給の為ではなく、病気に使用される薬だと一目でわかった。
『…それは安定剤だ、別に大した薬じゃない』
『安定剤?』
『そう。俺、心が繊細だからさ』
ダブルピースで人差し指と中指をクイクイ動かす。とても繊細には見えない陽気な彼にシリウスは頭が痛くなった。こんな変な男が学園で一番マシだということに、そしてそんな彼に頼ろうとする自分自身に。
『で、そいつを返すから担当になれとか言いたいわけ?』
『いや。それじゃあつまらない。これは貸しにしておく。担当の件は逆にお前が頭を下げて頼み込むようにしてやる』
『残念だけど、そんなことは絶対にない。俺担当持つ気無いから』
『ならなんでトレーナーなんて仕事選んだ』
エリート中のエリートが集うトレセン学園。誰しもが夢見る狭き門。そこに入るには相当な努力をしなければならない。トレーナーになりながら担当を持たないなどあり得ないことだった。
『そりゃ勿論、モテるから』
『は?』
シリウスの目が冷ややかなモノに変わる。コイツは何を言っているのだと。
『エリートでお給料も最高。異性にモテるのも当然でしょ? だけど担当を持つとそうはいかない。仕事は定時に帰れないし、家に帰っても仕事は残って自由がない。そして何より他人の人生を背負わないといけないなんて―――いてッ』
男の顔面に錠剤が入ったケースが直撃した。ウマ娘が本気で投げれば痣が出来るが加減をしたらしい。乾いた音を発ててケースが床に落ちる。
『どうやら私の目は節穴だったようだ。テメェみたいなグズに期待したのが馬鹿だったよ』
『はは、そう言ってもらえると助かる』
虚しい笑い声を上げて、男はゆっくりと腰を降ろす。罵倒すれば何かしらの反撃が来るかと思ったがそれすらない。心も死んでいるようなヤツだった。
これ以上関わっても意味の無い。シリウスは軽蔑の眼差しを向けると何も言わずに去ってしまった。
『はぁ、良かった…』
―――――
彼と別れてから一週間程だろうか。ここ暫くあの男とは一切顔を合わせることがない。向こうから避けているのだろう。
もう終わったことだと、いつも通りにトレーニングルームに向かう。時間はとっくに門限を過ぎており、本来ならば誰一人として入れない場所だが、この日に限っては別だった。
シリウスの他にウマ娘達が十数人程。
いずれもシリウスの舎弟であり、皆家庭に事情を抱えまともにトレーニングを行う時間も余裕も取れない子達ばかり。こうして密かに集まっては静かに、無許可でトレーニング器具を使用しているが、残念ながらいつまでもそれが許されることはない。
『お前達!こんな時間に何をやっている!』
初老の男性が怒鳴り声を上げて扉を勢い良く開く。舎弟達は驚き身体が跳ね上がるが、シリウスは面倒なことになったと舌打ちをした。
学園トレーナーの副主任だった。強面の体育会系で非常に厳しいタイプの男。責任感があるせいか、シリウス達を毎回目の敵にしている最悪の相手である。
『副主任様がなんのようだ』
『シリウス!またそんな口を!』
『ハッ! きゃんきゃん吠えるだけの犬が。喧しいんだよ』
『お前達また無許可で器具を使用していたな!これで何度目だ!』
前々から学園側から厳重注意は受けていた。しかし、だからといってどうすれば良いのか。バイト代を稼ぎながら学園に通う者もいる。勉学の時間も含めて、己の夢のため時間を割く余裕すらない。
トレーニング器具だけではない。グラウンドの使用にも許可を取る必要があるが、門限を過ぎてからでは不可能である。
『ならどうすれば良い。許可を取ろうにも却下されちまうだろうが』
『だが、きちんと許可を取っている子もいるんだぞ!お前達だけ特別扱いするわけにもいかない!』
このまま同じことを繰り返せば退学も視野に入ると脅しにも似たことを言われてしまう。シリウス共々白熱してしまう言い合いになり、舎弟達もどうすれば良いか困り顔をしていたが。
『ちょっと君達ー、うるさいんだけどー』
気の抜けた声が廊下から放たれる。その場にいた全員が新たな第三者に誰かと目を向けると、あの担当を持たずにフラフラしているサブトレーナーが、げんなりした表情で立っていた。
『お前は…』
シリウスと副主任が全く同じような顔をする。驚きと警戒するような強ばった表情。
男は室内を一度見渡して状況を確認する。中には泣きそうになっている女子生徒もおり、成る程と小さく呟いた。
『何しにきた』
シリウスが睨み付けてくるが彼は無視。溜め息を吐くとそのまま中に入る。
『お前には関係の無いことだ』
副主任にも関わるなと言わんばかりに強気な言葉で突き放すが、彼はそれすらも無視してシリウスと副主任の間に立つ。
みんなが何をするのか見守っていると、やる気の無い表情が崩れ、ふやけた苦笑いに変わった。
『いやー、副主任。申し訳ありません。実は自分の方で許可を頂いていることをご報告しておりませんでした!』
『は?』
『なんだと…』
シリウスは何を言っているのだと困惑。副主任の方は厳しい顔をした。
それもそうだろう。担当を持たない彼がトレーニングルームの許可を取る理由がない。今まで一度もそんなことをしたことがない彼がここにきて急にそのようなことを言ったとしても、すぐにバレる嘘だ。
『お前が何故庇うのかは知らんが、それが通用すると思っているのか』
『副主任、今回は勘弁してくださいよ~。別に悪さはしていないんですし、此方で責任取りますから~』
男が鞄から一枚の紙切れを取り出す。若干皺がよっているそれを見た副主任は不思議そうな顔をした。
『これは…許可証か。しかも理事長直々に判が押されている…。だが、朱肉が渇ききっていないな』
『あらら』
男は苦笑して頬を掻く。図星なのだろう。
つまり、この許可証はつい先ほど作成された物となる。事前に用意してない物ならば無許可で使用していたとバラしているようなものだ。
『お前、さっき理事長から貰ったな?』
『参ったなぁ…。無駄に鋭いんだから』
伊達に副主任を任されているのではないのだろう。小細工が通じない相手だとわかり、額に手を当て頭を振る。彼は奥の手を使うしかなかった。
『―――私が知らないとでも思っているんですか』
それまで軽い口調だった男の声から抑揚が無くなる。副主任は嫌な予感がしたのか渋い顔つきに変わった。
『貴方、担当に時折無許可で外出許可与えてますよね』
『………』
室内がざわつく。反論しない様子は確信に迫るモノと理解し、シリウスは何も言わずにことの顛末を見届けることに徹すことにした。実際、今この場で立場が最悪である彼女が口を挟むのにメリットはない。逆に自身の首を絞めかねないだろう。
『指導の厳しいお方だ。甘やかしの方法を知らない貴方が担当の息抜きにしてやれるのはそれぐらいしかない』
『見逃してやると言いたいのか?』
『…勘違いしては困ります。それは私の台詞ではありません。こうして建前も用意したのです』
急遽用意したとはいえ許可証ではある。そして彼は責任は持つと発言した。何かあったとしても副主任に対する被害は少ない。状況によってはゼロもあり得なくないのだ。
だから見逃してほしいと言うべきは副主任ではなく、彼だった。
『二度と同じことはさせません。だから今回は見逃してもらえませんか』
『………』
暫く沈黙が続く。副主任は何かを考えていたが、やがて思い立ったように口を開いた。
『前に言ったことを覚えているか』
『なんでしたっけ』
『いい加減担当を持てと。お前の立ち回りの良さを無駄にするな。理事長もお前を評価しているからこそだ』
『またそれですか…』
副主任の諭すような言い方。強い口調だが、何処か優しさも込められている。
それで最後だった。
それ以上何も言わずに、一度だけシリウスと彼を交互に見ると静かにトレーニングルームから出ていった。
『おい、何のつもりだ』
シリウスは漸く口を開き、男に睨み付けながら言葉を放つ。彼はもうちょっと優しく言えないの?というように疲れきった顔をして答えた。
『これで貸し借りナシね』
シリウスの舎弟の一人が泣きそうになっていたところへ彼は歩みを進める。いつもと違う穏やかな笑顔を向けると鞄からカロリーメイトを取り出す。
『ほら、もう泣かないで。問題は解決したから。…お腹空いてない? 今朝買った物だけど、食欲なくてさ』
『私の時と態度違くないか?』
『いやだって君、俺に対する当たり強いじゃん…。…それにシンボリの名を持つ子と関わるわけにもいかないし。…落ち着いた? うんうん』
泣きじゃくる子を慰め、安心した様子を確認すると満足そうにうなずいた。
用事が済んだため、許可証をその辺にあったテーブルの上に置こうとしたが、シリウスの手に掴まれる。
『今度はなに?』
『さっきの話は本当か』
副主任が無断で担当に外出許可を与えている件だ。自分達にはあれほど騒ぎ立てておいて、自分も同じ穴の狢なのが腹立だしくて仕方ない。
『まぁね』
男が苦笑する。シリウスはふざけやがってと小さく呟いたが、彼は宥めようとした。
『そう言わないでよ。厳しいところも身内に甘いのもあの人の良さなんだから』
『お偉いさんがそれをやってちゃ堪らないだろ』
鼻で笑い、副主任が出ていった扉を睨み付ける。憤っている彼女の様子を見て、彼は意外そうに話した。
『君。意外と純粋なんだね』
『は?』
『人間なんだから二面性持ってて当たり前でしょ。良いだけの人なんていない。悪いだけの人なんていない』
斜に構えたシリウスならばわかっていると思っていたが、上に立つ者は清廉潔白が当然と考えているのか。
『それより手を離して? 定時とっくに過ぎてるし、いい加減帰りたいんだけど』
『いや、まだだ。お前にはまだ聞きたいことが―――』
聞きたいことが山ほどある。副主任との最後の会話。何故担当を持たないのか。本当に面倒なだけなのか。何故助けたのか。そして、シリウスは一つ気付いたことがある。ルドルフのことだ。彼女は幼なじみであり、常に傍にいた。だからこそ、周りの者達のルドルフに対する千差万別な目を見てきたのだ。嫉妬。敬愛。尊敬。憤怒。そして何故お前はルドルフ達を見ているのか。
『察言観色。成る程、君はそういう人だったのか』
背後から涼しげで凛とした言葉がかけられる。トレーニングルームに再び静寂が起きた。
シリウスはまた厄介なヤツが現れたと苦い顔をしたが、彼は副主任の時とは打って代わり、元々悪かった顔色が真っ青になり、切ない表情をすると小さく呟いた。
『ルナ…』
シンボリルドルフ。トレセン学園の生徒会長が腕を組みながら勝ち気そうな笑みを浮かべて立っていたのである。
次回の更新は10月14日の予定です