メジロラモーヌ「面白くない男」   作:お話下手

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トリトマ

 

 

 それから三週間過ぎた時だった。シリウスシンボリが昼間廊下を歩いていると見知らぬ男に話しかけられる。

 癖毛を後ろで一つ結びに束ねており、左側頭部を刈り上げた特徴的な髪型。顎周りには無精ヒゲがちらほら見え、バ蹄柄の棒つきキャンディーを咥えている。歳は二十代くらいだろうか。最近一緒にいる彼とあまり歳が変わらない気がした。

 

 『お前さんがアイツとつるんでるってのは本当か?』

 

 『誰だ、お前』

 

 『俺は沖野。トウカイテイオーのトレーナーって言えばわかるか?』

 

 あの辛気臭い彼と違い、明るい雰囲気を纏う男だった。トウカイテイオーといえば最近自分とルドルフの周りをうろちょろする、あの中等部しかいないためすぐにわかる。

 この沖野というトレーナー。どうやら彼の学生時代からの先輩らしく、可愛い後輩が遂に担当を見つけたのかと気になりこうして話しかけたようだ。

 

 『私とアイツは契約してねぇ。どいつもコイツもお節介が多いな、アイツの周りには』

 

 苛立ち気に突き放すが沖野は意に介さず、ニヤッと口の端を上げると飴を取り出した。

 

 『お前さんもその一人ってことだよ。こっちとして感謝してるんだ』

 

 『何?』

 

 『アイツをやる気にさせようと色々試したんだがな。悔しいがやっぱ、ウマ娘には敵わない。お前さんが契約していないとか以前に、アイツにトレーナー業をやらせてんのが嬉しいのさ』

 

 『……』

 

 シリウスは一つ考えた。沖野に彼の過去について聞いてみるべきだと。幸いにも彼方も用事はないらしく、このままカフェテリアに向かい腰を落ち着かせてゆっくり話をすることにした。

 シリウスは紅茶、沖野は緑茶をそれぞれ用意して互いに向き合う。開口一番に口を開いたのはシリウスだった。

 

 『アイツは何なんだ』

 

 『いきなり意味不明なことを聞いてきたな…』

 

 呆れた沖野だが、彼女の言いたいこともわからないわけではない。沖野が知ってる彼は元々ウマ娘が大好きな熱血漢だった。卒業して別れる時、泣きながら絶対トレーナーになるって叫んでいたアイツがトレセン学園の試験当日で再開した時、いきなり『自分は誰なんでしょう?』…と記憶喪失なっていたものだから大変だった。

 

 『おいちょっと待て。記憶喪失ってどういうことだ…!』

 

 『なんだ、知らなかったのか』

 

 シリウスは衝撃の事実に椅子から思わず立ち上がってしまう。沖野はまぁ、落ち着けと着席を促し、話を続けた。

 最初はイタズラか何かと思ったらしい。ボーッと突っ立ている彼を無理矢理引っ張ってトレセン学園の試験会場に連れていき、何とか受けさせることは出来た。

 

 その後、話をよく聞けば本当に記憶が無く試験結果も悲惨なことになったのではと思ったが、何故か筆記、技術、全てにおいてトップとはいかないものの非常に優秀な成績を修めた。学生の頃はあまり勉強が得意ではなかったが、相当努力したのだろう。無事に合格出来、沖野としても安心することが出来た。

 

 『あの野郎…私には一言も』

 

 『アイツのことだ。別に必要ないと思ったんだろ、実際すぐに記憶は戻ったしな』

 

 が。その戻った方法にかなり問題があった。

 

 『赴任初日に学園前で車に轢かれちまってな』

 

 『…は?』

 

 『いきなりビックリした。目の前でアイツがぶっ飛んだ時はな。道路に叩きつけられて頭から血を流してよ、流石に死んだかと思ったが打ち所が良かったのか、三日後には包帯まみれで挨拶しにきて思わず笑っちまったよ』

 

 それが原因で記憶が戻ったらしく、沖野も最初はそれを喜んだが、今度はまるで人が変わったかのように無気力になってしまったという。

 先輩として色々助言をしたり、良さげなウマ娘を紹介したが全て断られ、最近は避けられていると。優秀である故に上の人間も扱いに困っていた。

 

 『しかも、アイツ。車に轢かれたのもそうだが、やたら運が無くてな。よく怪我をするんだよ』

 

 『…?』

 

 シリウスとしてはよくわからない。暫く彼と一緒に過ごしていたが、未だに彼が怪我をしているところを見たことがないのだ。

 

 『外を歩いていたら頭上から物が降ってきたり、階段を踏み外したり、高いところから落ちたり、火傷したり』

 

 頻繁に起こっていたが、ある日突然。彼が怪我をすることが全く無くなったのだ。沖野は何かあったのかと探りを入れたところ、周りから聞いた話が最近とある一人のウマ娘と四六時中共にいるということ。それがシリウスシンボリだった。

 

 『まぁ…アイツの運が悪いって言うよりも、お前さんがそれだけしっかりしてるってことだ。その点でも感謝してる』

 

 沖野は残り少ない緑茶を一気に流し込むと席を立つ。

 

 『悪かったな。休み時間の邪魔して』

 

 『いや。アイツに関しては私も聞きたかった』

 

 シリウスの何気無い一言に沖野はうんうんと二回満足そうに頷き、その場を後にしようとしたが、もう一つ。彼女にはどうしても聞きたい、確かめたいことがあった。

 

 『最後に一つ聞かせろ』

 

 『あぁ、なんだ?』

 

 『アイツに女はいたか? それも三人』

 

 突然、後輩の女性関係を聞かれ、目を丸くする沖野。一瞬固まってしまったが堰を切ったように笑い出す。

 

 『ないない!アイツに女なんて!グラビア雑誌や漫画よりレースやウマ娘の本を読むヤツだ』

 

 顔が良いせいかそれなりにモテてはしていたようだが、生粋のウマ娘オタクでそういう雰囲気は全く無かったらしい。そもそもあまり興味がなかったようで、放課後は沖野や他にレースオタク達と一緒に観戦したり資料を漁っていたようだ。

 

 『―――そうか』

 

 

 

 

―――――

 

 

 

 

 

 『彼女が出来ない…』

 

 『またそれか…』

 

 更に四週間が経った。未だに二人は契約を結ばず、今まで通り付かず離れずの関係。本人達はほぼ、トレーナーとウマ娘の関係に近いだけに周りの者達はヤキモキしていた。

 

 『少し前、変な夢見たから何かの予兆だと思ったのに…』

 

 『夢?』

 

 『めちゃくちゃ綺麗なウマ娘三人が出てきてさ。赤と青と黄色の姿した。あと二回しかないとか早く壊せとか』

 

 『信号機か何かか? 前々から変な夢見るとは聞いていたが、本当に変な夢だな…』

 

 今日も男がくだらないことを呟いて、シリウスが呆れる。そんな毎日を過ごしていた。

 特に最近は昔の彼女を忘れる為に彼は必死で恋人を探しに奔放していたが、これがなかなか上手くいかない。原因は色々あるがその一つが…。

 

 『大体、お前の誘い方が下手なんだよ。女の扱いがなってねぇ』

 

 『き、君に言われると説得力あるな』

 

 シリウスは老若男女問わず惹かれさせる美しい容姿だ。おまけに口説くのが上手い。是非指南してほしいと頼み込む。

 

 『先ずは学を身に付けろ。トレーナーの知識ばかり頭に詰め込んでんじゃない。手始めに芸術、映画、ファッションの勉強だ』

 

 話題作りの為に雑学も必要らしい。お前は顔が良いからお洒落に気を遣えばファーストコンタクトは問題ないと。

 

 『よし、シリウス。今度の休み、出掛けよう。俺にお洒落を教えてくれ!』

 

 初めは嫌そうなシリウスだったが、面倒見の良い彼女である。嫌々ながらも付き合いが良く、普段学園内だけでなく、とうとう外でも行動を共にするようになった。

 

 買い物しながら服のセンスを磨き、映画を見て、美術館を練り歩く。

 

 いいか、此処では派手な服はやめろ。足音を発てるな、消音性の高い靴を選べ。雰囲気をぶち壊すな。何? 何れが良い絵かわからない? ただ綺麗な物だけじゃない、色の組み合わせを見ろ。等々。

 

 食事に誘う際の店選びで居酒屋を出したら、こっぴどく叱られた。シリウスが用意した、如何にも上級階級が利用してそうなレストランに連れていかれた時は内心ヒヤヒヤである。しかし、幸いにも彼はテーブルマナーを身に付けていたので、シリウスに恥をかかせるようなことはなかった。

 

 『ん? お前、一通りは出来るのか』

 

 『あぁ。昔、ルナ―――ゲフンゲフン!昔の恋人に教えられてね。色々お偉いさんとの接する機会も多かったから』

 

 『―――お偉いさん…?』

 

 『どうかした?』

 

 『いや、何でもない。それよりもここまで勉強したが、お前に一番大事な事を伝える』

 

 『一番大事なこと?』

 

 『知識を引け散らかすな』

 

 『え?』

 

 これまで色んなことをシリウスから教わったが、それを周りに見せていけないという。ある意味本末転倒な言葉だった。

 

 『話題作りの為に知識を得たが、話が上手い人間は喋ることが得意な奴じゃない。聞き上手な奴だ』

 

 悲しいかな。人は自分が思っている以上に相手の話題に興味を持たない。どれだけ面白い話でも飽いてしまう。

 人が会話を楽しむのは、自分のことを喋っている時だけである。相手の話に興味を持つフリをする。相手が話しやすい状況を作り出す。それが好印象を持たれるコツだと。

 

 『相手が喋っている時に遮るのは論外だ。これまで得た知識は相手の話にブーストをかける、スパイスと思え。そして相手が話題に困った時はきっかけを作ることが出来る。相手の好きそうな話をしっかりと吟味してな』

 

 気持ち良く、お喋りをしような。そう、含みある言い方でニヤリと悪そうな笑みを浮かべる。

 

 『成る程、俺がシリウスと話しやすいのはそういうことか』

 

 『それは違う。私は別にお前に好印象を持たれるために会話していない。単純に興味があっただけだ』

 

 彼は自分の過去をこれまで誰一人として教えたことがない。ルドルフ達に対する想いも墓場まで持っていくつもりだったが、強引なシリウスのせいか知らず知らずの内に昔のこと口走ることがある。

 シリウスに遠慮はない。壁を取っ払った関係性が逆に、一人を貫こうとした彼にとって心地が良かった。

 

 『なら俺と一緒だ。俺も君の話聞くの好き』

 

 『―――そうかい』

 

 口説き文句を言う相手が違うだろうと、呆れながら溜め息を吐き、グラスに注がれた水を静かに口に含んだ。

 

 その後、食事が済み店を出て夜の歩道を並んで歩く二人。特に大した話しはない。最初はシリウスからデートにオススメのお店や施設を教えてもらってはいたが、職業柄途中からトレーニングやレースの話しに変わってしまう。

 

 彼女は世界一のウマ娘を決める凱旋門を狙っており、近々プロジェクトL'Arc(仮)と呼ばれる大規模な計画が動き出していると。

 

 あとはそう…共に面倒を見ているウマ娘達の話だろうか。最近は彼女達からも、シリウスと契約を結んでほしいと押されるが全て肯定することはなかった。それならばと、自分と契約を結んでほしいと遂には彼女達からも迫られていたが、やはり彼は全て断ってしまう。

 

 『ほう。面白い…』

 

 とうとう舎弟達が動き出したことが嬉しいのか、シリウスは口の端を歪めて悪そうな笑みを浮かべた。

 

 『笑ってる場合じゃないんですけど。彼女達も随分チカラを付けてきたし、他のところからスカウトされる可能性も出てきた。もっと良い人を選んでほしいんだよ』

 

 『はぁ、本当にコイツは…』

 

 ウマ娘にとってトレーナー選びは最大の転機だ。能力で選ぶのも勿論だが、一番大きな要素はキチンと支えてくれる相手かどうかが大事になる。この男はもっと良い人を探せと言うが、彼女達が苦しい時、泣いている時、不安な時、一番傍に居てくれたのは―――果たして誰だったのか。

 

 あの副主任も理事長も周りの関係者が、この男に担当を持てとしつこく言っていたようだが今なら彼らの気持ちがよくわかる気がした。

 

 『あれ? もしかしてシリウス?』

 

 丁度コンビニ前を通った時。両者聞き覚えのある声に呼び止められた。

 

 『…シービーか』

 

 サイドを外巻きにしたロングの茶髪。少年のような可愛らしい顔立ちながらも女性を感じられる美しさも兼ね備えた美少女。ミスターシービー。

 タイミング的にコンビニから出てきたところだろうか。片手にはミネラルウォーターとお菓子が入った袋を下げており、白いYシャツにデニムの短パンとラフな格好だった。

 

 『飲み物切らしてさ。買いに来たんだけど二人は―――もしかしてお邪魔だった?』

 

 たははと渇いた笑い声をあげる。今のシリウスと彼はしっかりと正装をしており、こんな時間に二人っきりで歩いているのだ。端から見ればそれこそデートに見えるだろう。

 

 『違う。勘違いしてんじゃねぇ』

 

 悪態をつくシリウスの脇を猫のようにスルリと抜け、男の前に立つシービー。

 興味津々といった様子で彼を見つめる。ルドルフで慣れたかと思ったが、彼は少したじろいでしまった。

 

 『へー、君がシリウスのお気に入りかー。てっきり私達三人の中から選ぶかと思っていたんだけど』

 

 『選ぶ?』

 

 『うん。ずっと見ていたのは知っていたし、スカウトするのかなーって』

 

 『それはないよ…』

 

 男の言葉は弱々しいがハッキリと否定した。

 

 『ねっ。私のトレーナーになってみない?』

 

 突然シービーから逆スカウトされ、シリウスと彼は目を見開いた。

 

 『お前こういう奴が好みなのか…』

 

 シリウスは呆れたように頭を振る。

 

 『私もデビューしないといけないんだけど、まだ見つからなくてさ。レースに出るにはデビューする必要があって、デビューするにはトレーナーが必要とか面倒だよね。君はわりと融通利くらしいし、相性も悪くないと思うんだけど?』

 

 シービーは気まぐれで頑固者。自分が納得出来なければ梃子でも訊かない。

 

 誤解されやすいが、その彼女の気まぐれにも彼女なりの拘りによるモノが殆どで、真意は誰よりも真摯。それは彼が一番理解しており、最も尊敬しているところだった。

 

 嘗ての想い人が、あの頃と全く同じ顔で自分を選んでくれる。それはとてつもなく喜ばしい。しかし。

 

 『俺は―――誰とも契約しないよ…』

 

 頭が激しく痛み出した。また、あの光景が目に浮かぶのである。血にまみれた彼女を。脚を失って泣きじゃくる彼女を。

 

 クリスエスとの出来事で漸く気づいた。シービーは自分と出会わなければこの先ずっと走れることに。

 そして代わりに自分と契約したクリスが事故に巻き込まれる。それがもう、嫌で仕方ない。

 

 『そっか』

 

 シービーはいつものように軽く返事を返す。彼の思いなど知らずに。だがそれで良いのだ。知らないことは重荷を背負わないこと。幸せなことに不必要だと彼自身が一番わかっていた。

 

 『だってさ、シリウス。なかなか難しそうだけど君は彼をどうやって落とすのかな?』

 

 『……』

 

 答えることが出来なかった。始めは簡単だと思っていた。この男を知れば弱みや、何が欲しいのかわかると。だがこの男の過去を知れば知る程わからなくなる。

 今対峙しているシービーを見て、複雑な表情をする彼。喜んだかと思えば苦しそうだ。何でもないと装いながら思い詰める。

 

 『ミスターシービー』

 

 『うん?』

 

 男は意を決したように話を続けた。

 

 『―――――走るのは楽しいかい?』

 

 『勿論っ!』

 

 彼女の屈託の無い無邪気な笑顔。あまりの眩しさに彼の目が細められる。ずっと、ずっとその笑顔を間近で見たかったのだ。ミスターシービーはもうその場に居ない。

 ポツンと残された二人。何も語らず真っ暗の道をジッと眺めていたが、シリウスが静かに尋ねた。

 

 『泣いてるのか…』

 

 『そう見える?』

 

 男は無表情だった。無理矢理、自分の心を押さえつけて。それでも、その頬に流れるモノだけは止めることが出来なかったのだろう。下手な演技はシリウスに見破られ、彼は自分の顔を手で覆うと涙ながらに呟いた。

 

 『俺は…間違ってなかった…ッ!』

 

 『……』

 

 縋るような安堵した声。彼女はその言葉を聞いて、一つの確信を得た。最初はそんなわけがないと思っていた。そんなことはあり得ないのだと。実際、彼の説明にも辻褄が合い、納得した。納得したつもりだった。

 だが、それでも。彼と過ごすうちに違和感を感じずにはいられない。

 

 昔の恋人に似ている? そんなわけがあるものか。その黒く淀んだ目が何よりも真実を語っている。理屈など関係ない、私の直感が告げているのだ。

 

 お前はルドルフ達と共に生きてきた、と。

 

 

 

 

 

―――――

 

 

 

 

 

 『お、戻ったか』

 

 『………………なんでいるの?』

 

 翌日。仕事からトレーナー寮に帰宅した彼。鍵を開けようとしたが、何故か既に開けられた形跡があり、セキュリティが厳しいトレセン学園でまさか泥棒かと思い焦ったが、其処にはベッドに横たわっているシリウスシンボリがいた。

 

 『ん…』

 

 ポケットから何も装飾されていない新品の鍵を見せつける。おかしい、既に自分の手には鍵が握られている筈だが…まさか。

 

 『作ったの?』

 

 『そうだが?』

 

 そうだがではない。さも当たり前のように、合鍵を用意したと言われて頭が痛くなる。

 

 『お前が昨晩の礼をするって言うから、わざわざこっちから来てやったんだ』

 

 ニヤニヤと笑うシリウス。いつもヘラヘラしている彼の困り顔を見て満足そうだ。単純に驚かせたかったのだろう。しかし、女の子が一人で成人男性の部屋に上がり込むのは宜しくない。もしも他の人に見つかれば大変なことになる。本人はそんなヘマはしないと自信ありげに言い、実際そうなのだろうが彼としては胃が痛かった。

 

 シリウスが言う昨晩の礼。それは彼女からレストランにて色々指導と助言を受けたので、せめて何かしてあげたかったのだが…。別に部屋で待っておけなど、一言も言っていない。

 

 『しかし、この部屋何もないな』

 

 シリウスが部屋を見渡すと無機質。その言葉が似合う内装だった。部屋は清潔に保たれており、本棚にはウマ娘やレースに関する本ばかり、テレビなどはなく写真やポスターなどもない。古びた目覚まし時計に簡素なベッドだけ。カーペットも観葉植物もない。

 凡そ趣味と呼べる物が何一つなかった。

 

 『あぁ、ちゃんと部屋の鍵は閉めろよ。いきなり他のヤツがきたらマズイからな』

 

 『鍵を閉めろって、それはそれでどうなの…』

 

 人によっては誤解を招き兼ねない発言である。美少女である彼女、勘違いをさせる態度もあるため、これまでに多くの人間が彼女に翻弄されたに違いない。罪作りなウマ娘である。

 

 『んで? お前が用意したお礼っての何なんだ?』

 

 にこやかに訪ねる。ワクワクしたその様子に、もしや楽しみで仕方なく待ちきれないのでこうして来たのではなかろうか。

 お礼と言ってもほんの気持ちである。別に大した物ではなかった。

 

 彼は台所の戸棚に向かうと新品未開封の紅茶葉と珈琲豆を取り出した。

 

 『シンボリルドルフから聞いたけど。君、紅茶と珈琲を飲むんだよね』

 

 『ああん?』

 

 ルドルフの名を聞いた瞬間、先程まで上機嫌だったシリウスの顔が一気に不機嫌へと。彼としては渡す物に失敗したくないので、一番好みをわかっていそうな相手に相談したのだが、この男の過去を理解してしまった今の彼女としては最悪地雷に等しい。

 昔の元恋人、そして自身の幼なじみである。複雑な心境は当然だった。

 

 『昔の恋人はディンブラを好んで飲んでいたんだけど、まさか君がルフナが好みだったなんてね。意外と甘口だった―――どうしたの?』

 

 『なんでもねぇ』

 

 眉を寄せ、明らかに不快感を滲ませるシリウス。彼は因縁のあるルドルフの名を出したことが失敗だと思い、話題を変えることにした。

 

 『茶の淹れ方には心得がある。君さえ良ければ今お湯を沸かそうか?』

 

 『あぁ』

 

 その返事を聞き、戸棚から新品のポット、カップ、ソーサーを取り出す。いつか使うかもしれない、そんな淡い期待を込めて購入した物だが、残念ながらそんなことはもう二度無い。

 

 久しぶりの作業に戸惑いがあるかと思ったが意外にも身体は覚えていたようで、スムーズに事が進む。

 

 『慣れてるな…』

 

 『昔、よくやってたからね』

 

 『健気なことだ』

 

 そう、俺実は尽くすタイプなんだよ!と豪語するが、シリウスは今までそんな扱いをされた覚えがない。この男、私に対してだけは扱いが雑ではないかと疑う。

 

 ルフナティーの甘い香りが部屋に充満した。彼はソーサーに乗せたカップを二つ用意し、質素な小さいテーブルに置く。クッションすらない部屋だ。硬い床にシリウスを座らせるのはどうかと思ったが本人は気にするなと言ってくれる。

 

 温かいうちに紅茶を口に含むシリウス。ただ一言、上手い…と言ってくれた。

 

 『ミルクは入れないの? 一滴だけ入れるとは聞いたけど』

 

 『ガキの頃だ。今じゃやらねぇよ…』

 

 彼もシリウスに真似て敢えてルフナにミルクを入れないで飲んでみた。想像より良い。昔は王道のディンブラばかりだったが、こうして別の味を楽しむのも悪くない。

 

 『俺は身体に入りさえすれば何でもなヤツだから』

 

 『そういや、缶コーヒーしか飲まないくせに珈琲も淹れられるのか』

 

 『うん。三人目の彼女が珈琲好きでね。普段は水しか飲まないんだけど、たまにこうして―――』

 

 最後まで続くことが出来なかった。シリウスが突然、カップを強くソーサーに置いたからである。ガシャンとけたたましい音を発てビックリしてしまう。

 

 『いい加減昔の女の話はやめろ』

 

 彼女から今まで聞いたことがない低い声で静止される。その表情は無、だった。

 

 『いや、君。俺の恋人の話、ずっと聞きたがっていたじゃん』

 

 確かにその通り、これまでずっとシリウスは愉しそうに話を聞いてくれたのである。愉悦を楽しむためだったのだろうが、最近は彼も誰にも話せなかった己の胸の内、その想いを聞かせれるのは精神的ストレスを軽減させてくれたのだが…。

 

 『それは…』

 

 上手く言葉に出来ない感情に口ごもる。自分が何をしたいのかわからなくなり、唇を噛み締めていた。

 彼はそんな彼女を見て目を丸くするが、何かを察して困ったように笑うと肩を竦める。

 

 『そうだね、もう昔の話をやめようか。俺もいい加減疲れちゃったよ…』

 

 紅茶の水面には死んだ目をした自分が映る。泥のように濁りきった黒い瞳、いつまでもこのままではいけないと考えていた。

 

 『だから、君の話をしたい』

 

 互いに顔を伏せていたが、その言葉と共に二人は再び見つめ合う。彼は再び紅茶の香りを嗅ぐと口に含む。

 

 『これが君の好きな味か…。ミルクティーに使用されるお茶を敢えてストレートで飲む、通で拘りが強い君らしい味だ』

 

 微笑みながらシリウスを見た。その目は濁ったモノではなく黒曜石のようにキラキラとした、今までルドルフ達に向けられていた、これまでずっとシリウスが欲しかった目。

 

 それが腹が立つくらい嬉しかった。

 

 『忘れるな』

 

 『忘れないさ。知ってる? 人は聴覚・視覚・触覚・味覚・嗅覚の順で忘れていくと。逆を言えば嗅覚と味覚はそう簡単に忘れない…俺がそうだったように。だからこの香りは絶対に忘れないよ』

 

 その後も二人でずっと話をした。内容は勿論シリウスのことだけ。彼女が凱旋門を狙っていること、世界一のウマ娘になること。幼い頃からそのための努力を惜しまず、あらゆる研鑽を続けていることを。

 

 そして彼は密かに彼女へ感謝していた。燻っていた自分を無理矢理にでも引っ張ってくれたことに。

 

 『君には感謝してる。君にとって俺はただ利用するためだったかもしれない。でも君と出逢わなければ今でも恋人の影を追ったままだった』

 

 『ただの偶然だろ』

 

 確かに偶然だ。それでも親身になって聞いてくれた。嘘つきで軽薄で死人のような男に興味を持ち、傍にいてくれた。

 

 最近は安定剤も服用していない。毎晩悪夢を見た。彼女達が傷付く光景。そして何度も何度も何度も自分が死ぬ夢。

 フラッシュバックのように死ぬ時の苦しみと激痛が襲うのだ。滅多刺しにされ、内臓が破裂し、全身を焼かれる。頭がどうにかなりそうだった。

 

 でも今は違う。今は夢にシリウスが出てくる。夢の中で彼女がターフを駆ける美しい光景。力強い走り。素晴らしい物だった。

 いつかきっと、彼女は世界に挑むのだろう。これから見る夢はきっとそんな光景を妄想した物に違いない。こんなに幸せなことが他にあるだろうか。

 

 『ありがとう』

 

 『―――――』

 

 彼の噛み締めるような声にシリウスは言葉を失った。カップをソーサーに置くと立ち上がり、近づいてくる。何事かと彼はキョトンとしていたが、シリウスは乱暴に持ち上げるとベッドへ投げ飛ばした。

 大きく弾むマットレス。上手く受け身を取れなかった彼にシリウスは覆い被さる。

 

 『シリウス…?』

 

 彼女の長髪が上半身に降り注ぎ、絡み付く。突然のことに困惑する彼だがシリウスは鼻先が触れる程、顔を近づけた。

 その表情は真剣である。

 

 『ルドルフ、シービー、クリスエス。この三人はお前の恋人の影なんかじゃない。本当にお前の恋人だったんだろ』

 

 核心をついた彼女の言葉に目を見開いた。

 

 『だがそんなことは最早どうでも良い…』

 

 理屈はわからない、ただの勘だ。どういう現象なのか説明も出来ないが、もう彼女にとっては些末なことである。

 横たわる彼の上半身に自身を重ね、耳元で囁いた。

 

 『私と共に来い。私が全て忘れさせてやるよ』

 

 

  

 




シリウス編は本当は1万字で納めたかったのですが、長くなってしまいました。
恐らく次で最後です。

次回の更新は10月29日の予定です。
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