気付いている方はいると思いますが、私はほぼ時系列をバラバラにしております。ご注意ください。
トレーナー試験終了後、メジロラモーヌに拐われ―――もとい彼女の屋敷にお邪魔することになったのだが、そこは想像の遥か上を行く豪邸だった。もうひとつのトレセン学園ではないかと思う程に広大な敷地、見上げる程高く、視界に収まり切らない程長い屋敷。なんなんだこれは。
この光景を目の当たりにして最初の感性が驚愕なのだから、記憶喪失である自分は庶民的な男だったようだ。少し安心する。
「何を突っ立っているのかしら」
「いや、俺を此処に住まわせるって君…本気で言ってる?」
俺の住みかだった(多分)ボロアパートを見て彼女に無理矢理連れて来られたが、こんなモノを見せられては脚がすくんでしまう。
「右も左もわからない俺としては助かるけど、まず君の御家族が許さないでしょ。こんな何処の誰とも知らない男を住まわせるなんて」
「問題なくてよ。この家で私に口を出せるのはお婆様くらいだわ」
未成年で逆らう者が一人しかいないなど、それはそれで恐ろしい話である。メジロラモーヌ、見た目は確かに大人びており容姿だけでなく漂うオーラだろうか、見る者を圧倒するような存在感がある。そのせいだろうか。
「じゃあそのお婆様にどうやって説得するのさ。もしかしたら悪人かもしれないんだぞ。泥棒したり…」
「貴方はそんなことしないわ」
即答だった。メジロラモーヌはまっすぐ俺を見つめ、全く疑っている様子がない。絶対的な信用を向ける彼女のアメジスト色の瞳に、何とも言えない気恥ずかしさで目を逸らす。全身が熱くなるのを感じた。彼女が傍にいると心がフワフワする。
「本当に変な子だね。君は…」
そんなこと言われたのは二回目だと肩をすくめる。いや、どう考えても変わった子でしょ。俺と同じ感性したヤツに是非とも会ってみたいものだ。
「貴方のことよ。どうせすぐに馴れるわ」
「馴れる!?」
十年此処に住んだとしても馴れる気がしないのだが。御嬢様の感覚はよくわからない。
「ラモーヌ様、お帰りなさいませ」
めっちゃ長い…恐らく一キロはあろうかという前庭を車で越え、これまたバカデカイ玄関に辿り着くと、中からメイドさんと執事が出てきた。メイドさん可愛い、後で連絡先教えてもらえないかな。
「お婆様と婆やは?」
「お二方ならシンボリ家へ向かわれました」
「…珍しいわね」
僅かに眉を潜めるラモーヌだが、執事の視線が此方に向くと俺のことを紹介してくれた。今日から暫く此処に住まわせなさい、たったそれだけを告げると執事は全く動揺せずに了承してくれる。嘘でしょ…。
「君、何者なの?」
「さぁ」
軽く微笑んで躱される。妙に楽しそうだ。その後、長ーい廊下を延々と歩き続け、一つの部屋に辿り着く。それまでに階段を何度も登り、右や左に行ったりで複雑な道筋だ。これ迷子になりそう。
「貴方の部屋よ好きに使いなさいな」
「えー!?」
中は凡そ二十畳はあろうかという広さを持つ豪華な部屋。床はシックな絨毯が敷かれ、踏めば心地好い柔かさが伝わる。クローゼットも机もテーブルもキャビネットもソファもベッドも、何もかもがデカイ。
「いいよこんな凄い部屋!俺は六畳くらいの広さで可愛いメイドさんがついていれば充分だから!」
「相変わらず妙なところで図々しいわね、貴方…」
半分は冗談だが、こんな部屋では休むモノも休まらない。居候にはそれにふさわしい扱いをしてほしい。
「六畳の広さであれば物置き部屋ぐらいかしら…」
「丁度良い!それぐらいの扱いで!」
別段、長居をするつもりはないのだ。学園の寮に入りさえすれば出ていくつもりである。
「それでは先程のアパートと何も変わらないわ。人の好意は黙って受け取るモノよ。大人しくなさいな」
そのままドンッと背中を押され、無理矢理中に入れ込まれた。そしてあろうことか彼女は扉を閉めると、何も言わずに外から鍵を掛けたのである。
「え? なんで?」
「屋敷をウロウロされて迷子になられたら困るわ。食事の用意が出来たら迎えに行くから、それまで大人しくしてなさい」
確かに迷子になるとは思ったが。何か監禁されている気がするのは気のせいだろうか。しかもこの部屋、元々客室用なのか此方からは鍵が開けられないようになっている。
流石はお金持ち。屋敷全体にセキュリティがなされているなら、最も警戒するのは中に招く者だ。閉じ込めておける客室部屋は自分達の身を守ることにも繋がる。
俺を物置きよりも此処に置いておく方が御家族としては安心出来るのだろう。多分。
「あ、そういえば…着替えも何も持ってきてない」
アパートに入る前に連れて来られた。彼処には俺の所持品があるだろうし、明日にでも取りに行かなければ。
―――――
あの男用に用意した部屋の鍵を掛けて、一安心する。長かった、漸く閉じ込めることが出来た。目を離すとすぐにいなくなる彼だ。また何処かで死なれでもしたら堪ったものではない。
再会した時に備えて屋敷に招く準備は前からしていた。此処は外からの侵入は不可能だが、同時に中から脱け出すのも許可が無ければほぼ不可能である。
あとは此処の生活に馴れてもらい、永住するよう仕向けなければならない。お婆様を含め、屋敷の者達は妙な男を連れ込んだと思うだろうが、そこは問題視していない。前回の時もあの男をトレーナーに選んだ時、周りは同じような反応だった。メジロ家に相応しくない、下品な男だと。
しかし、あの男は周りの評価など全く気にしない人間だった。というよりも自分という存在に興味を抱かない。
更に実力もあり、私の脚を治しただけに留まらずあの若さで私に数多くの重賞を与えた。中にはメジロラモーヌの実力故の勝利と揶揄する者もいたが、実際にその気持ちもわからないわけでもない。だが彼は、何も語らずただ行動で示し、認めさせたのだ。
以前、一度だけ良かったわね。と口にした時、彼は一言。
『ふーん』
とだけ返事をして、ずっと私のレース映像を眺めるだけだった。この男にとってウマ娘しか興味ないのだと改めて気付かされ、知らず胸が踊っていたのを思い出す。
「姉様、お帰りになさいましたか」
自室へ戻る途中、妹のアルダンと出くわす。心なしか嬉しそうに見える。
「賑やかな方ですわね」
「あれはまだ静かな方よ」
容赦のない言葉にクスクスと笑った。
「宜しかったのですか、御伝えしなくても」
メジロラモーヌの秘密はアルダンにしか話していない。自分に前世の記憶があることを、あの男と婚約者同士だったことを。だが話してどうなるというのか。不審がられて離れていくのが目に見えている。
「貴女は信じているのね。私の世迷い言を」
「だって妹だもん」
幼い頃みたいに甘えた声だった。愛らしい妹の頬にキスをする。
「さぁ、あとはあの男をどうやって留まらせようかしら」
監禁も時間稼ぎにしかならないだろう。彼のことである、トレーナー試験に合格したと知ればさっさと此処から出ていくのが目に見えていた。金を積んでも興味を持たない。となるとやはり―――。
「既成事実…」
「そ、それはやめておいたほうが宜しいかと…」
―――――
「何を見ているのかしら」
夕食の準備が整い扉を開けると、彼が真剣な眼差しでテレビの画面を見つめていた。
「ん? あぁ…ゴメンゴメン。暇だったから何か無いかと探していたらさ」
テーブルの上には大量のビデオテープにDVD、USBメモリが積まれておりテレビの画面にはウマ娘のレース映像が流れていた。年代物の映像もあれば最近のものまで、どのレースにも出走者に必ずメジロのウマ娘が映っている。
客人にメジロのプロデュースも兼ねて、これまでのレース映像をいつでも見れるよう戸棚に備え付けていたが、それを見つけたようだ。
「面白い?」
「勿論!」
子供のようにキラキラした目で此方を見る彼。そういえば昔からそうだった。普段は陰気臭い表情だが、レースを見つめるその目は純粋で綺麗。横顔を見ているだけで愛おしさが込み上げる。
ウマ娘を深く愛している貴方はあの頃と何一つ変わらない。
「メジロ家って本当に凄いウマ娘が沢山いるんだね」
「そうね。でもそれだけに挫折した先人達も多く存在するわ」
中には新バ戦ですら入賞出来なかった者もいた。メジロ家だけではない。シンボリ家やサトノ家、一般家庭だろうと。数多くのウマ娘を押し退けて手に入るのが栄光なのだから。
「ちなみに今走っているのはお婆様よ」
「え、この可愛い女の子!? 君と同レベルの強さじゃない?」
最後にボソリと会ってみたいな…と呟くのが聞こえた。節操のない男である。まさか軟派するつもりではなかろうか。
「あ、そういえばもう食事の時間だったね」
「構わないわ。待たせておきましょう」
「そういうわけにはいかないよ。続きは後で」
映像を停止させ、画面の電源を切る。
久しぶりに彼の隣でレース観戦をゆっくり楽しみたかったが、仕方ない。
「食事が済んだら私もお邪魔しても宜しいかしら。是非見せたいレースがあるわ」
「そりゃ良い。何せ記憶が無いからさ、出来れば出走ウマ娘の解説も入れてくれると助かる」
「まぁ。欲張りな人」
冗談交じりに言ったつもりだが、彼は当然と言わんばかりに頷く。
「活躍することが出来なかったウマ娘も覚えておきたいんだ」
彼は言う。古いウマ娘の中には子供を産み、孫を育て、その子達が重賞を手にするレースが数多く存在していると。出走者の背景を調べるのも楽しいようである。
構わない。これから私達は末永く共にいるのだから、ゆっくりと時を刻んでいくのを楽しみましょう。
―――――
翌朝。窓に掛けられたカーテンの隙間から光が射し込み、眩さで目を覚ました。バカデカイベッドは硬すぎず柔らかすぎず、丁度良い反発。シーツも軽いというのに保温性に優れるのだから春先の寒さをまるで感じない。そもそも部屋そのものがこの広さでぬくぬくしているので、断熱性は完璧なのだろう。
昨晩の食事は豪勢だった。出来ればしっかりと味わいたかったが、やたら周りから目線が痛かったのである。ご両親は海外に出張中で御当主は留守、ラモーヌ、妹のアルダン、俺のみの食事であったがメイドさんと執事さんからチラチラ見られていた。おかしい、テーブルマナーは完璧だった筈だが何か間違えていただろうか。
朝食では粗相がないよう、ラモーヌに聞いておいたほうが良さそうだ。
食事と部屋の浴室でシャワーを済ませた後、ラモーヌと共にレース観戦をした。彼女は相変わらず無表情で何を考えているかわかりにくいが、解説をする口調は流暢であったため楽しんでいたと思いたい。
古い映像を順に見ていき夜も深けた頃、丁度二十年以上前に存在した一人のウマ娘の映像が何処にも見つからず、探すのを諦め今日はこの辺で御開きにしようかと互いに眠りについたが…。
「今何時だろう。―――――ん?」
起き上がろうとしたら柔らかいモノに触れた。横を見るとシーツが盛り上がっており、何事かと捲ると。
「んっ」
真っ裸のメジロラモーヌが眠っていた。
「どわあああああ!?」
おかしい!昨日の夜解散した後、一人でベッドに潜り込んだのは覚えている。彼女が最後に扉の鍵を閉めたから誰も入れるわけがないと思ったが、そもそも鍵持ってるのこの子だったー!
慌てて自分の格好を見るが、メイドさんが用意した寝巻き姿である。ベッドにそれらしき行為の痕跡もなし。つまり未成年である彼女に手を出していない。
「危ない危ない!危うく犯罪者になるところだった!」
「煩いわね…」
俺の大声に目を覚ましたラモーヌは苛立ち気に起き上がるが色々と見えてしまうので、急いでシーツを被せた。
「なんでここにいるの!?」
「私の家なのだから何処で寝ようと問題なくてよ」
確かに。それはそうだ―――――って!
「んなわけあるかーい!だいたいなんで裸なの!?服は着ないと!」
「私、寝るときはクリードのカーミーナ オーデパルファムを二滴しか身に纏わないわ」
ラモーヌから強い官能的な香りが漂う。これはピンクペッパーにブラックチェリー、サフランだろうか。流石お嬢様、寝巻きに香水を持ち込むとは予想出来ん。
「とりあえず何か着てくれ、こんなところ誰かに見られ―――「ラモーヌ様、御当主が御呼びです」―――終わった」
メイドさんが部屋に入ってきて膝をつく。最早言い逃れ出来ないこの状況だが、何故かメイドさんは顔色一つ変えない。ラモーヌが「そう」とだけ返事を返すと彼女は何も言わずに頭を下げ、出ていった。
「嘘でしょ…」
この屋敷では見慣れた光景だとでもいうのか。
「お婆様と顔を合わせる前にシャワー浴びてくるわ。………一緒に入る?」
「行きません!」
―――――
「立派な扉だなー」
お婆様が待っている部屋に辿り着いた時の彼の第一声は何とも呑気なモノだった。ポカンと口をあけて装飾が施された扉を眺める。そういえば、前回の時も全く同じようなことを言っていた気がする。
お婆様に彼をトレーナーとして紹介した際に訪れたが、彼を見た第一声が『この男性は止めておきなさい』だった。メジロ家に相応しくないと思ったのだろうと考えたが、お婆様は他の方と違う物言いをしたのである。
『この方は貴女を苦しめるでしょう』
不出来な方でも不埒な方でも、貴女は完璧なのだからどんなトレーナーだろうと構わない。しかし、この男だけは止めなさいと強く言われた。
私が何故と訪ねるとお婆様は、この男は貴女に地獄の苦しみを与えるとだけ。それ以上は何も語らなかった。だが今にしてわかる。お婆様は一目彼を見て全て悟ったのだと。私自身気付かなかった、彼に惹かれていることを。愛に全てを捧げる女が愛する者を失った時、どのような末路を辿るかを垣間見たのだ。恐ろしい人である。
「お婆様、ラモーヌです」
扉をノックすると向こう側から入りなさいと返事がきた。中にはあの時と同じ景色、お婆様が値踏みするように彼を見つめ、目を見開く。
「またとんでもない者を連れ込みましたね。ラモーヌさん」
これも前回と全く同じことを言われた。だが問題はない。同じならば此方の対応も前回通り同じことを辿れば良い、無理矢理にでも納得させることが出来る。
唯一違うとすれば、この男とまだトレーナーとして契約を結んでいないことだが。
「お婆様、遂に見つけました。私を完璧にする色を」
「やめておきなさい」
部屋の空気が張りつめる。お婆様の有無を言わせぬ強い否定に肌がピリついた。やはりお婆様には見えているのだろう、私が迎える憐れな末路を。しかし、今度はそういかない。同じようなことを起こさせるつもりはない。前回と違い私には記憶あるのだから。
「ご心配ありません。お婆様の杞憂も全て乗り越えてみせますわ」
「何を勘違いなさっているのですか」
「―――」
前回と少し違う。
「不出来な方でも不埒な方でも構いません、貴女の完全性は喪われないのですから。しかし、彼だけは止めておきなさい」
お婆様の物言いに妙な違和感を覚えた。
「それが貴女にとっても彼にとっても最良なのです」
いや、どうやら自分は勘違いをしていたらしい。お婆様は私の末路を垣間見たのではない、文字通り彼を見て私には相応しくないと確信しているのである。
では一体何を見て?
女好きなところか実力不足なのか。しかし、それでは不埒な者や不出来な者でも構わないと言った理由にはならない。
黙り込んでしまった私を見て、彼が控えめに挙手をした。
「話の流れを遮り申し訳ありません、御当主。私には話の内容がよくわからないのですが」
これまでの経緯を説明していない彼には訳がわからぬ状況だろう。しかし、口調はいつもの砕けたモノではなく落ち着いた様子だ。
「貴方を私の担当トレーナーにする話よ」
「………」
表情を変えず、目で冗談だろう?と訴えてくる。相変わらず外面を取り繕うのが上手い男だ。
「ラモーヌ、君の気持ちは有難いが俺は君のトレーナーになるつもりはない」
そう。この男は前回も同じこと言った。私の脚が治せるとわかり、契約を迫ったが全く相手をせず、それどころか誰とも契約を結ぼうともしなかったのだ。故にあの時は強行策に出たのだが、やはり同じ手を使わなければならないようである。あれは三日間激痛に苛まれたため、あまりやりたくはないが。
「…ラモーヌさんのトレーナーをやるつもりはない、と。面白いことを言いますね」
お婆様は彼に興味を持ち、私を通してではなく彼自身に話し掛けた。
「御当主には信じがたいことかもしれませんが…」
彼は語る。自分がトレセン学園試験当日に名前を含めた記憶を全て失っていること、そこへラモーヌに拾われ学園への移住までの間にご厄介させてもらうことを、そして今日はそのご挨拶に伺っただけに過ぎないことを。
「なるほど、つまり貴方は"此処"がどのような場所か理解していないということですか」
「…世間知らずで無礼な私を御許しください。まさかメジロ家がこれ程の大家とは思わず。御当主の気分を害するようならばすぐにでも荷物を纏める所存です」
このままではこの屋敷から出ていってしまう。それだけは何としても避けなければならない。此処に匿っておかなければ彼はやがて事故死する可能性がある。
「待ちなさい。誰も迷惑だと思ってないわ」
「それは君だけだ。君の優しさは有難いけど、俺のせいで君達の関係がギクシャクするのは本意じゃない」
ここまで良くしてくれた私だからこそ、迷惑を掛けたくないと付け足した。
どうすれば良い。思いきって前世のことを話せば納得してくれるだろうか。いや…それは危険な賭けだ。
彼が私から離れていく要素をなるだけ出したくはない。どうすれば。
「―――いいでしょう」
彼を注視し続けていたお婆様が口を開く。何かを考え込むように目を閉じると、まさかの了承が降りた。
「貴方の記憶喪失、嘘ではなさそうです」
「信じてくれるのですか?」
「これでも嘘を見抜く目はあります」
メジロという巨大な財閥のトップに君臨するお方。優れたウマ娘であると同時に、観察眼も持ち合わせている。だからこそ偽りと真実もわかるが、彼を私に近づけさせたくない何かが見えているのもまた同じなのだろう。
「ですが長居は許しません。自らの状況に落ち着きが出来たのなら…わかりますね?」
「はい。ご厚意に感謝致します」
最後にお婆様は彼に此処へいるべきではないと突き放す。
確かにお婆様は厳しい方だ。しかし、それにしても彼に対する対応があまりにも冷たすぎる気がしたのである。客人に対する態度ではない。
いつものお婆様ならばそもそも眼中に無く、迷惑さえかけなれば自由にして構わないと言う程、見ず知らずの他人に関心を持たないというのに。
「あ、御当主。最後に一つ宜しいですか?」
さっさと部屋を出ていきたかったが、彼は扉の前で振り返ると明るい顔つきに変わり、人差し指を一本立てた。
「…なんでしょう」
「勝手ながら御当主のレース映像を拝見致しました!素晴らしい走りでした!こうしてお会い出来て光栄です!」
「―――――」
彼の興奮した様子で語る、お婆様のレース映像による感想。冷遇な対応を取られたというのに彼の善性は全く雲っていなかった。
お婆様はそんな彼を見て、一瞬言葉を失うが。すぐに目付きが冷ややかなモノに変わり。
「言いたいことはそれだけですか」
「はい!」
無情にも切り捨てられた。あまりの態度に流石の私も全身の毛が逆立つのを感じたが、彼は私の腕を強く掴むと元気良く退出の挨拶をして扉を閉めた。
「離しなさい。お婆様に言いたいことがあるわ」
「ちょっと…!ちょっと…!駄目だって…!」
焦った様子で引き留める。彼や私のことをとやかく言われるのはまだ良い。だが、彼のレースやウマ娘に対する愛情を一言で切り捨てられたのは我慢ならなかった。
「あれだけ言われたまま。プライドは無いのかしら」
「君は誤解している。御当主はそんな人じゃないよ」
妙に落ち着いた様子。優しい口調で此方を宥めようと彼は私の両手を握り締めた。
「あの人、何処か君に似ている。言葉が足りないだけで本心は優しい人だ」
お人好しは其方である。これでは業腹な自分の格好がつかないではないか。
一つ、深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。無駄に冷静な彼のせいで折角の怒りも鎮まってしまう。
「それよりさ、昨日の続き。一緒にレース観戦しよう? …君と話もしないといけないし」
恐らく、先程話した私とトレーナー契約を結ぶ話しだろう。彼としては寝耳に水のことだ。あの様子だと契約を断りそうな雰囲気だが、果たしてどのように落としてやるべきか。悩みの種は尽きない。
「でも御当主のオーラ凄かったね。若い頃映像でも強者の空気を纏っていたけど現役より劣ってないというか、なんというか…」
「あれでも引退後より大分弱々しくなったそうよ」
「あれでも!?」
四十代の頃に大病を患ったそうだ。メラノーマ。悪性黒色腫。所謂皮膚癌だったらしい。
遺伝的なモノで発症したようだが、体力が衰えた頃の癌は進行が遅く、まだ充分な治療を受けるだけの資金と医者を用意出来たおかげで完治に至ったようだ。私がまだ産まれてすらいない時代の話しである。
「そういえば貴方。私のことをお婆様に似ていると言っていたわね」
「うん」
「それは私の見た目が怖いって意味と捉えても宜しいかしら」
「あ、あははは!ままままさかそんなわけないじゃない!」
冷や汗をダラダラ流しながら挙動不審になる。さっきまでの外面が破壊されて気分が良い。私に見せてくれる素の姿。
「ふぅん。まぁいいわ、部屋に戻った時に詳しく話しましょう」
「ひぇ…」
意地悪に笑う私を見て固まってしまう。お婆様には物怖じする態度を見せないのに可愛らしいものだ。
次回の更新は11月25日を予定しておりますが、繁盛期に入りましたので更新が遅れる可能性があります。
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