「むむむ~」
「あのー、そろそろ良いかな」
土曜日の早朝、カフェテリアで朝食を取ろうと向かっていた途中でふわふわしたブラウンのお団子結びと八重歯が特徴的なウマ娘、中等部のコパノリッキーに捕まったトレーナー。初めはすぐに用事が済むだろうと快く引き受けたが、これが中々終わりが見えない。このままではカフェテリアは閉まってしまうだろう。
「ダメ!絶対にこんなのおかしいもの!」
「うーん」
コパノリッキーは風水が趣味のウマ娘。そもそもこうなってしまったのは、彼女が風水で使用される風水羅盤が有り得ない挙動を起こしており、その原因が彼、メジロラモーヌのトレーナーだと言うのだ。
風水羅盤は世界を構成する要素、地・人・天、それぞれの方位が羅盤に刻まれており、中央の磁石で地力の流れを読み取る物アイテムらしいが…。
「やっぱり!貴方の方角が必ず鬼門になる!」
「なにそれ」
鬼門は邪気が流れ込む入り口であり、風水のみならず陰陽道においても忌むべき物だ。本来ならば地力の流れで発生源を変える物であり、個人に左右される物ではない。
「このままだといつかとんでもないことになるかも!原因を探らなきゃ!」
なんだか厄介なことになった。記憶喪失前ならまだしも今の彼はオカルトなど全く信じていない一般人であり、風水も同じくあまり良い印象はない。
「貴方、なんか変な物持ってない?」
「変な物? ネオジム磁石なら持ってるよ」
最強の磁石。僅か一グラムで一キロの鉄を持ち上げられる物だが、何かトレーニングに活用出来るかとこの前購入した。磁力を使う風水羅盤を狂わせているのも、恐らくこれが原因だろう。
コパノリッキーから少し離れ、ネオジム磁石を適当な所に置いてからその場から更に離れると、確かに風水羅盤の狂いは無くなった。
「あ、あれ? 本当だ…」
あまりにもアッサリ解決してしまい、コパノリッキーは面食らってしまう。しかし、彼女の持っている風水羅盤はその辺に売ってある安物ではない。周りの磁力に干渉しない作りになっているのだが、今回は流石にネオジム磁石が強すぎたのだろう。
「お、解決したみたいだね。じゃあ俺はこれで…」
「ダメ!」
「えー」
片手を上げてその場から去ろうとしたが、彼女から腕を掴まれてしまう。トレーナーは子供のように口を尖らせたが、対象的にコパノリッキーはしっかり者のお姉さんのように叱った。
「だって貴方、顔色悪いもの!きっと環境が良くないに決まってる!」
彼女とはほとんど面識はない。しかし、ほぼ初対面の相手にここまで心配してくれる人柄の良さを無下にするのは罰が当たるというものだろう。
「わかった。君に付き合うよ」
「うん!」
困ったように笑うトレーナーの、観念した言い様にコパノリッキーは明るく返事をする。本当に良い子だ。
「それじゃあ、先ずは何からしようか」
「まずは身嗜み! 良い運勢を呼び寄せるには周りの人に対する印象を上げるのも大事なんだ…けど…」
彼は普段学園で過ごす際、スーツ姿である。それも普通のスーツではなく、メジロラモーヌが契約祝いにとプレゼントした、ロロ・ピアーナのオーダーメイドだ。デザインのみならず、実用性を兼ね備えた耐久性と軽さ、そして断熱性と蒸発性に優れた怪物クラスの高級スーツ。
初めはこんなとんでもない物、受け取れないと断ったがメジロ家のトレーナーである以上それなりの格好はしてもらうと言い、更にはオーダーメイド製だ。彼にピッタリ合うよう採寸された物な為、他の者が着るように製作されていない。このままでは廃棄することになると聞き、申し訳なく受け取った。
何故ラモーヌが自分のスリーサイズを熟知しているか気になったが、それは考えないようにしている。
閑話休題。
「担当から受け取った物だから、それなりに良い物だと思うけど」
「た、確かに…なんか凄い光沢があるし、解れやヨレも見当たらない」
「グラウンドに出る時はジャージに着替えるからね。贈り物だし大切に扱っているつもり」
クリーニングは欠かさず、保管にも気を使っている。顔色が悪いだけで彼自身は清潔感な男だ。メジロ家の御当主やシンボリ家の御当主と顔を合わせるのも少なくない。担当を恥をかかせるようなマネはしたくなかった。
「じゃあ次は貴方の部屋ね!家具の配置なんかも風水では重要なんだよ!」
「なるほど」
早速トレーナー寮に向かった二人。コパノリッキーを連れて部屋に入ったが、これがまさかの殺風景な部屋。事務所みたいな内装に彼女の頬が引きつる。
「う、うーん。清潔で整理されているけど、無…って感じだね」
風水において絶対にやってはいけない…というよりもやらなければならないのは掃除である。あとは壊れた物や古い物は所持しているのは良くない。しかし、これならば特に問題となる要素は見当たらなかった。
「壊れた物に古い物か…一つだけあったけど」
一番記憶に新しいのは古びた目覚まし時計だろうか。しかし、一時期メジロ家のお世話になり、その内引っ越しをしなければならないと思っていたが、ルドルフ、シリウス、クリスエス、シービーにエース、マルゼンスキーと次から次へと対応負われ結局アパートの中はそのままほったらかしに寮へ棲み始めた。新しい時計を買い直しはしたのだが…。
「時計も風水では重要だよ。特に古い時計は良い物だと良い効果をもたらすけど、悪い物は本当に良くない物を呼び寄せるの」
例えば時間が狂っている場合。タイミングやチャンスを逃しやすくなる。中古の時計だった場合、前に所持していた者の運気を引き継ぐことになり、それが悪い運気だった時、悲惨なことになると。
「どうしてもその時計を使用したいなら、浄めると良いよ」
「浄めるって…そんなお化けみたいな…」
「でも今の貴方はその時計を持っていないみたいだし、あまり気にしなくても大丈夫!…あとはそうだなぁ、ぬいぐるみはあまり置かない方が良いんだけど…」
彼の部屋で唯一異彩を放っている物がある。それはデビューしたウマ娘ならば誰もが製造されるぬいぐるみ、ぱかプチだ。
彼のベッドには担当ウマ娘である、七人のぱかプチが置かれている。
「いや…その…」
いつも当たり前に置いてあるせいか、隠すのを忘れていた。羞恥心に口ごもる。
「ぬいぐるみは出来るだけ少なくした方が良いんだけど…このくらいは全然問題ないよ」
「き、気を遣わないで…」
コパノリッキーは気にしていないといった様子だが、明らかに話を逸らそうとしているのがわかる。その優しさが逆に心苦しい。
「…誰にも言わないでね?」
「勿論! でも私だったら、ぱかプチ持ってくれたことに喜ぶんだけどなぁ」
ぱかプチはその娘のファンである証みたいな物だ。確かに嬉しいだろう。しかし彼は大の大人である。特にシリウスやラモーヌにバレた場合、どのようにイジられるか想像もしたくなかった。
「これまで色々見てきたけど、あまり君の私生活で風水的にNGなところはなかったね。どうしてそんなに顔色が悪いんだろ?」
コパノリッキーは首を傾げるが、トレーナー自身は自分の顔色の悪さの原因を何となく察してはいる。しかし、あまり面白くない内容であるため、彼女にはその伝える必要性を感じなかった。
「…まぁ、生まれつきみたいなモノだから。この前、病院でも検査したけど肉体に異常はないって言われたし」
「そっかぁ。じゃあ最後に、明日の運勢を占っちゃおう!」
「へー、凄いね。そんなことも出来るんだ」
「うん。日々個人によってその日のラッキーアイテムもあるよ」
コパノリッキーは紙とペンを取り出し、彼の生年月日と血液型をメモ取る。生まれた年は二十年以上前で五月十三日だ。
風水は統計学に基づいて作られた占いらしいが果たして。
「えっと…明日の運勢は…スリリングな日になりそう」
「おっとぉ? いきなり不穏だ…」
「ラッキーカラーは深紅。ラッキーアイテムはポリ袋…? 占った私が言うのもアレだけど変な結果だね……トレーナーさん?」
「あわわ」
コパノリッキーが彼の顔を見るとガタガタ震えていた。目は白目を剥き、泣きそうな顔をしている。
今日は土曜日、そして明日も休日。明日はマルゼンスキーと大切な約束をしていたのだ。あのラモーヌやたづなさんでさえも御断りと言う程、恐ろしいイベント。
ドライブデートがあることをすっかり忘れていた。
ーーーーー
「トレーナー君、何処に逃げるつもり?」
「い、いやぁ…あはは」
翌日の早朝、トレーナー寮から逃げ出そうとしたトレーナーの背中にマルゼンスキーは待ったをかけた。前々からドライブの約束をしていた二人だが、当日になり恐怖心を抑えられなくなった彼はこっそりと学園を抜け出そうとしたが、先回りされた彼女に見つかってしまう。
可愛らしく頬を膨らませたマルゼンスキー。彼女とデートするのはとても楽しいのだが、それがドライブとなると話は変わる。速度制限ギリギリを責める急加速、急停止。内臓を揺さぶられるその荒々しい運転。この間は近場の山岳地帯まで走らせたが、急カーブが連続している道路を鮮やかなドリフトで駆け抜けた時は流石に死ぬかと思った。
ウマ娘の反射神経が成せる技なのだろう。実際彼女の運転は上手いの扱いに入るが、彼としては安全運転こそが上手な運転だと考えているため勘弁してほしいと思う。
「あたしはトレーナー君とドライブ楽しみしていたのに酷いじゃない」
「ごめん…」
普段温厚なマルゼンスキー。そんな彼女から悲しそうに言われると非常に心苦しい。
「今日は最後までちゃんと付き合うよ」
「やったぁ!」
先程まで泣きそうだった顔をケロリと変えて笑顔を見せる。自分のトレーナーが女の涙に弱いことをよく理解している。
彼の横に立つと逃げられないように腕を組むが、彼女の豊満な物の感触がモロにやってくる。マルゼンスキーの積極的なアプローチは心臓に悪かった。
「マルゼンスキー、逃げないから離れてくれると助かるんだけど…」
「ダメ♪ 今日はあたしがトレーナー君を独り占めする日なんだから」
マルゼンスキーとくっついたまま校門を抜けると、そこには真っ赤に輝くランボルギーニのカウンタック。その名もタッちゃんが鎮座していた。最高時速、二百九十五キロを記録している化物。
通りすがる通行人全てが目で追ってしまうスーパーカーだが、最初にこれを見た時は目玉が飛び出るかと思った。
何せこの車、二百四十万ユーロ…すなわち日本円にして三億を超える超超超高級車なのである。どうやら父親から譲り受けた物らしく、人当たりが良い彼女故に忘れがちだが、マルゼンスキーもとんでもないお嬢様だ。
シザードアが立ち上がり、正方形のキルトステッチシートが出迎える。フロントガラスは狭く、視界はお世辞にもよろしくないがこれでよくあれほどの運転が出来る物だ。
「ん? これはカーナビ?」
「そう! もっと色々な所にデートしたいと思って付けてもらったの!」
嬉しそうに語るマルゼンスキーだが、このカーナビ。かなり年代物に見えるのは気のせいか。常日頃道路情報は更新されている。今のカーナビはネットで新しい情報を取り入れているが、これはその機能が付いているのだろうか。
「それがよくわからないのよねー。あたし、あまり電子機器得意じゃないし。トレーナー君に教えてもらおうかなって」
「ふーむ」
見た目は八十年代物に見える丸みを帯びたシンプルなデザイン。直感的な操作が出来るよう、ボタンに刻印はされているが…。
「何か変なのよね。まるで自我を持ってるみたいで」
「ハハッ、面白い冗談だね」
とりあえず行き先を入力しよう。マルゼンスキーが指定した場所は海岸だった。トレーナーと一緒に砂浜で追いかけっこしたいらしい。まず勝てない。
【目的地を登録しました】
「大丈夫、これなら使えそうだよ」
「なら、行くわよー!」
元気よく発進の掛け声をする彼女。慣れた手つきでシフトレバーを操作するとペダルをベタ踏みした。爆音を轟かせ、全身にGが掛かる。あまりの恐怖にトレーナーは悲鳴をあげることすら出来なかった。
速度制限ギリギリを攻め、右往左往する視界。車と車の僅かな隙間を掻い潜りながらタッちゃんは爆走する。
「ヒィィィ…」
【次の信号を右です】
「了解!」
無慈悲な機械音声。誰か助けて。
【左手に見えます、ファミ○ーマートを過ぎて左です】
「?」
「どうしたのトレーナー君?」
「いや…何でもない」
最近のカーナビはこんな喋り方なのだろうか。もっと簡素な案内だったはずだが、やたら具体的である。
【三百メートル先、ファミ○ーマートを過ぎて直進です】
「ん?」
【五百メートル先、対向車線にあるファミ○ーマートを過ぎて直進です】
「そのまま直進なのにわざわざファミリーマートを挟む!?」
「え? 何か変だったかしら?」
やたらファミ○ーマートを推すカーナビ。最近はAIが発達しているが、まさかこれは最新機能が搭載されたタイプなのだろうか。
「変も何もおかしいカーナビだよ…」
【失礼な人ですね。次のファミ○ーマートを左折です】
「喋った!? いや、ファミリーマートはもういい!!!
言いたいことの渋滞で何から突っ込んで良いのかわからないトレーナー。マルゼンスキーはその様子を見て何故か目を輝かせた。
「まさか…タッちゃん!? 喋れるのね!」
「マルゼンスキー違うよ!? 喜んでいる場合じゃないよ!?」
【はい、私はタッちゃんではありません。サルタヒコです。ですが、特別にタッちゃんと命名しても許してあげましょう】
「なんだコイツ! 怖っ! 自我持ってる!」
丁寧語なのにやたら上から目線のカーナビ。おまけに名前まで持っているというおかしな存在に、トレーナーは頭が変になってしまったのかと考えてしまう。
【最近のAIは発達しているのです。頭の固い人間ですね。…次のファミ○ーマートを直進です】
「だからファミリーマートはもういい!」
【私は乳臭い○ーソンと詐欺イレブ○が嫌いです。アンチです】
やかましいわと普段ツッコミに馴れていないトレーナー。しかし、この場でシリウスとエースがいないため対応しなければならない。
「ダメよー、タッちゃん。そんな酷いこと言ったらメッだぞ!」
【申し訳ありません。マルゼンスキー】
「こ、コイツ。マルゼンスキーに対しては下手に出るな…」
最近のAIにしてはやたら人間くさい機械である。謎の存在に怪しむトレーナーだが、マルゼンスキーの大切な愛車の一部である以上、下手に手出しが出来ない。これが彼女の物でなければ今すぐにでも引き剥がして破壊するところである。
車は街を抜け、郊外に。
山岳地帯を走り緩やかなカーブが続く道になると、マルゼンスキーの運転にも落ち着きが出てきた。
【暇です】
「な、なんだコイツ…」
突然、機械音声が文句を言い出した。暇の何が悪いのか、あまりマルゼンスキーをやる気にさせるようなことを言わないで欲しい。これで彼女が再びスピード狂に発展したらどうするのか。
「あたしはこういう時間も好きよ。ただ何も言わずに好きな人と外の景色を眺めながら同じ速度を感じることを」
ウマ娘と人間では見る景色が異なる。彼女は車という物でそれを共感出来ることに幸福を感じられると言うのだ。
「おおお、俺も同じ…君と同じ速度を感じられるのは…すすす好き」
マルゼンスキーからの好意に上手く言葉に出来ないが、顔を真っ赤にして答えるトレーナー。彼女も頬を僅かに赤くしていたが、彼の照れたその様子に眩い笑顔を見せる。
【キスです。今です。マルゼンスキー。キスをするのです。ぶちゅーと、熱いキスを】
「そ、そんな恥ずかしいわ、タッちゃん…」
「タッちゃんは少し黙っていようね!?」
ふざけたカーナビのせいで雰囲気がぶち壊し。マルゼンスキーの気持ちは嬉しいが未成年の彼女に手を出すわけにはいかない彼は勿論、それに応じることはない。
【面倒な男です。マルゼンスキーは魅力的なウマ娘です。体裁を気にして我慢せず、さっさとキスして自分のモノにしないと盗られますよ】
「喧しいわ!」
そんなわけあるかい。更にそう言おうとしたが、タッちゃんの言葉に説得力がある為、言葉を呑み込み自分でもよくわからないテンションで返してしまう。己のこの優柔不断さが情けない。
【なのでセックーーーゲフンゲフン。ウマぴょいしましょう】
「お前今言い直したけど、ウマぴょいもアウトだからな!」
【画面に近場の休憩場を表示させます】
カーナビには二キロ先に"バナナとドーナツ"と書かれた、休憩場。所謂ラブホテルが表示される。
「お馬鹿ーーー!」
タッちゃんにチョップを喰らわすが、相手は機械。逆にトレーナーの指が負傷した。
「あ、あたし…子供は七人欲しいわ」
「七人!?」
【ウマぴょいウマぴょい】
「お前は黙ってろ!」
収集がつかなくなり、いよいよトレーナーの口調も粗暴なモノに変わる。最早、生意気なカーナビ相手に遠慮している必要もない。
【わかっていないようですね。私は今やこの車と一心同体。セックスしないと出られない車にだって出来るのです】
「そんな…あたし…初めてはもっと雰囲気のある場所が…」
恥ずかしそうにクネクネしながら口ごもるマルゼンスキー。しかし、その両手は思わずハンドルから離してしまう。
「うおおお!? あぶなーーーい!」
血の気が引いてハンドルを掴むトレーナー。蛇行運転をしていた車体はまっすぐ走り出す。
「ご、ごめんなさい。トレーナー君」
「いや、大丈夫。このカーナビのせいだし…」
【サルタヒコ。申し訳ありません、流石に悪ふざけがすぎました】
素直に謝罪するカーナビ。本当にこの謎の物体は何なのだろうか。
「そういえば昔お父さんに聞いたことがあるわ。古い物には変なのが宿るって。確か…えっと…つく…つくも…なんだったかしら」
【ノーノー。今の私はタッちゃん。マルゼンスキーの水先案内です】
変わらずおかしな口調のカーナビ。最初はサルタヒコと名乗っていたが、マルゼンスキーの命名が気に入ったのだろう。やたら彼女に従順である。
「嬉しいわ。タッちゃんとお話出来るようになるなんて、これからドライブが楽しくなりそう!」
「い、意外と順応性が高いね…」
器がデカイ彼女だ。オカルトな現象が起きてもネガティブに捉えるようなことはなかった。
その時、背後から爆音が轟く。直線の道路でスプリンタートレノハッチバック、通称ハチロクと呼ばれる車がカウンタックを抜き去ったのだ。
「あら?」
【鮮やかな抜き去り。ただ者ではありません】
目がないのにどうやって視認しているか謎だが、タッちゃんが言うには最小限の動きだったようだ。無駄の無い挙動、運転手はかなりの乗り手だと。
「もしかして挑まれてるかしら」
「え!?」
こちらがスポーツカーと見るやいなや、勝負を仕掛けているのいうのだ。此処は狭い道路の山岳地帯。二車線しかないこの場でレースなど初めてしまえば命が幾つあっても足りない。
「トレーナー君! しっかり掴まっててね!」
「いやあああああ!?」
アクセルを吹かし、ギアをトップからオーバートップに上げる彼女。トレーナーは恐怖により悲鳴を上げるが、マルゼンスキーの目はアスリートのモノに変わっていた。ハイパワーな加速で一気にハチロクの背中に付くカウンタック。
対向車が来ないことを確認したマルゼンスキーはすぐさま抜き去る。
「ひいいいいい!」
しかし、直後のカーブにより大きく減速し、ハチロクはその隙を逃さず見事なドリフトで再度前に出た。
「やるじゃない! 燃えてきたわ!」
「誰かー! 助けてー!」
抜いては抜き返しの攻防。どちらも互角に見えるが僅かに相手側が一枚上手らしい。マルゼンスキーの表情は苦しそうだった。
「あの人、強い! このままじゃ負けちゃうかも!」
【安心してくださいマルゼンスキー。今の貴女ならば勝率五十パーセントです。しかし、今は私がいます。私と貴女が力を合わせればーーー】
「っ!? …そうね! 私とタッちゃんが力を合わせれば!」
【勝率十パーセントになります】
「足手まといじゃねぇか!?」
何の役にも立たないカーナビだった。
結局、この勝負。ハチロクの勝利となり、その姿は何処にも見えなくなる。
「ああん! 悔しいー!」
浜辺に着いて珍しく敗北を味わった彼女は、悔しさを隠しきれなかった。対してトレーナーはタッちゃんから飛び降り、所持していたポリ袋の中にゲロを撒き散らす。
「ゲロロロロ」
土気色の顔が更に真っ青になっている。しかし、マルゼンスキーとドライブすると毎回こうなってしまうため、いつも通りのことだった。因みにあの超人であるたづなさんでさえ、同じように嘔吐している。
「ご、ごめんなさいね。トレーナー君、つい熱くなっちゃって…」
「いや、君が楽しそうで良かっーーーゲロロ」
申し訳なさそうな彼女だったが、トレーナーは気にしてほしくないため見栄を張る。もっとも、流石に吐き気を我慢出来ずに再びポリ袋へと向き合うのだが。マルゼンスキーはそんな彼の背中を優しく撫でた。
ーーーーー
「あー、美味しかった!やっぱり浜辺のレストランでの食事は良いものよね。お料理もイケイケだったし!」
トレーナーの体調が戻り、浜辺で少し散歩した後、食事を楽しんだ二人。波が揺れる景色を眺めながらの食事、普段食が細い彼でもいつもより食べる量は多くなった。
靴を脱ぎ、海水に脚をつけるマルゼンスキー。無邪気に笑うその姿をトレーナーはカメラに収めた。
「よーし! トレーナー君、あたしを捕まえてみてね!」
「え!?」
そう言うと彼女は砂浜を走り出すが、相手はウマ娘。人間である彼ではとても追い付ける筈がないのだが…。
「ちらり」
わざとらしくこちらを見るマルゼンスキー。その足取りもウマ娘らしからぬ、ゆっくりとしたものでトレーナーは余計なことを言わずとも、彼女が何を望んでいるのか察した。
「う、うおおお!待てー!」
「あはは!」
笑い声を上げる彼女を人間としては全速力で追いかけ、その背中に飛びかかり、お互い倒れ混むように砂浜へ横になる。
「捕まっちゃった!」
楽しそうなマルゼンスキーとは裏腹にトレーナーは既に息が切れている。全身汗だくでぜーぜー息をしていた。仕事モードになると達観した彼だが、こうして普段遊んでいると可愛らしい姿を見せ、そのギャップに彼女は魅了されている。しかし、マルゼンスキーが彼を好きになった理由ももっと別のところにあった。
「ねぇ、トレーナー君。変なこと聞いていいかしら」
俺で良ければ何でも答えるよ。息を整え、彼女を安心させるように返事を返してくれる。だが、それは彼にとってあまりにも答えづらい質問だった。
「ラモーヌちゃんのこと…好き?」
「ーーー」
まさかのメジロラモーヌの名前が出てきて硬直してしまう。トレーナーに好意を持っているマルゼンスキー。それはメンバーから見てもトレーナー自身から見ても明らかなことだったが、今の関係性を壊してしまう恐れがあったため深く入らないようにしていた。
「ううん、ラモーヌちゃんだけじゃない。トレーナー君は、ルドルフやシービーちゃん、クリスエスちゃんにシリウスのことも、他の女の子とは違う感情を向けているでしょう?」
「どうしてそう思うの?」
一番大きな理由は、やたら交際相手探しに躍起になっていることだろうか。彼はいつも女性に対してデートに誘ったり、告白したり好意を向けているが、マルゼンスキーはそれが建前のようにしか見えなかったのである。
自身のメンバーに向けたい感情を他の異性に向けているのだ。
「トレーナー君、本当は彼女達のことを好きなのに、好きにならないようにしてる…」
「まぁ、みんな…未成年だしね」
「ーーー本当にそれだけ?」
マルゼンスキーも未成年だが、聡い子である。トレーナーの彼女達に向ける感情がただならぬモノだと気づいており、そしてメンバーも彼に対して、明らかに普通ではない感情を抱いていることに気づいていた。
「ただ、好きってだけじゃない。上手く言えないけど、なんかもっと…」
「…俺もよくわからない。記憶が無いからだと思うんだけど、だからといって記憶を取り戻したいとも思わないんだよね」
マルゼンスキーが勇気を出して聞いてきたのだ。ならば正直に答えよう。
「俺はみんなのこと好きだよ」
勿論、それは教え子としてではない。完全に異性としてルドルフ、シービー、クリスエス、シリウス、ラモーヌに好意を向けていた。知らない筈なのに知っているような安心感、彼女達の全ての挙動に目が離せない。そして彼女達が自分に悲しげな目を向ける度に、胸が締め付けられるような苦しみがあったのだ。
「我ながら最低だと思う。教え子のしかも一度に五人も好きになるなんて酷い話」
だから一度、彼女達から離れようと学園から去ろうとしたこともあった。しかし長い話だがマルゼンスキーのこともあり、ラモーヌへの借金、彼女達から逃げられないよう捕まり、結局は学園に戻ることとなったのだが…今は急いで恋人を作り、何とかお互いに距離を取ろうと必死になっている。
「記憶を取り戻せばとも思ったけど、何だか怖くてさ。嫌なことも思い出しそうで身体が拒否を起こすんだ」
共に過ごせば過ごす程、愛おしさが込み上げて。同時にこのままではマズイという感情もある。彼女達を好きになってはいけないと。
「あたしは?」
「え?」
「あたしのことは好き?」
マルゼンスキーは不安そうな顔でトレーナーを見つめる。普段はお姉さんをしている彼女、しかし今はあの時と同じ、走ることに怖くなった始めの頃と同じ顔をしていた。強すぎるが故にトレセン学園で疎外感を感じていたあの頃に。
「俺よりもっと良い人見つけなきゃ。こんな優柔不断なヤツより」
「あたしはそんなこと聞きたくないわ。好きかどうか聞いてるの…」
マルゼンスキーから好意を向けられていたが、常日頃から申し訳ないとは思っていた。彼女と過ごす日常も楽しいモノであり、幸せな日々だ。もしもメンバーと出逢ってなければ彼女の好意に今すぐにでも答えていただろう。
「君は魅了的なウマ娘だ。明るくて優しくてしっかり者で、でも時々暴走してしまう可愛らしいところあって…何より楽しそうに走る姿が堪らなく好きだ。俺にはもったいないくらい素晴らしいウマ娘だよ」
嘗て彼女が走ることに怖くなった時、トレーナーは言ったのである。君の走る姿が好きだと。君の強さは後輩達の夢を潰すかもしれない、それでも見たいのだと。我が儘で自分勝手な願い、こんな男の為に走り続けてほしいと願った。
その為にメディアからも世間からも君を守ると、頼りにならないことを誓った。
「うん。わかったわ」
彼女にとってそれだけ聞ければ充分だった。
マルゼンスキーは上半身を起き上がらせると、トレーナーの目をしっかり見据える。
「あたしにはみんなみたいにトレーナー君との昔の思い出も無いし、ただならぬ関係性でもない。でも気持ちは誰にも負けないつもりよ」
ハッキリと強気に発言する。ウマ娘にとって走ることは大きな意味を持つ。彼が自身の走りを愛してくれるならば、こんなに嬉しいことはない。彼が私を愛しているならば、私はいつまでも楽しく走ることが出来る。
マルゼンスキーはトレーナーに覆い被さり、口づけをしようとしたがトレーナーはギリギリのところで手でガードした。
「もう。こういう時はちゃんと受け止めなきゃ!」
「いやいや!大人としてこればっかりは譲るわけにはいかないから!」
はいはいと、残念そうに溜め息を吐くマルゼンスキー。彼女もそうだが、ラモーヌやルドルフからのアプローチが過激化している今日この頃。情けない優柔不断な自分の最後の意地として、それらを受け止めるのはどうしても許せなかった。
「覚悟してね。あたしはトレーナー君を逃がすつもりはナッシング!…だから!」
「ははっ、怖い怖い…」
【ところでセックスはしないのですか】
「台無しだよッ!」
次回の更新は12月24日を予定してますが、繁盛期により遅れる可能性があります。
織葉 黎旺さん、誤字脱字報告ありがとうございます。