「……っ!」
まだ早朝にも早い薄暗い中、彼はベッドから飛び起きた。倦怠感が襲い、全身は冷や汗で濡れ、肩で息をしている。
「うっ…」
酷い吐き気と身体に激痛が走った。これは耐えきれないと悟った彼は急いで立ち上がり、すぐさま棚に仕舞っていた薬を取り出すと水も無しに呑み込む。
「…うぅぅ」
薬の効果が出るまで歯を食い縛り、耐え忍ぶ。
脳裏にフラッシュバックする腹部を滅多刺しされた感覚、高所から飛び降りて骨が砕け、肉が弾ける感覚、全身に火傷を負いベッドのシーツに皮下部分が張り付いては激痛に悶え、そして。
「うぅぅ…」
部屋にいっぱいの恐ろしい何かに襲われ恐怖の中、息絶える自分。
あまりにも鮮明な絶命の瞬間、日に日にその光景はハッキリとしていき恐ろしさのあまり身体の震えが止まらなかった。誰よりも死の感覚がある。だがそれに慣れることはない。寧ろ味わったことがあるからこそ死の恐怖は人一倍大きかった。
「死にたくない…」
―――――
「ははは!遂に、遂に完成した!」
「おおお!」
理科室。白衣を身に纏うマッドサイエンティストウマ娘、アグネスタキオンと共に人類の夢を作成していた。テーブルには訳のわからない薬品や草花が散らばっており、両者共に疲労で顔が窶れている。
完成した薬品は飲み物ではなく今回はお菓子タイプであり、グミを模した物だった。前回と同じ飲み薬の場合、マンハッタンカフェに見つかった時に破壊される恐れがあったからだ。
「ちなみに今回は何味なの?」
「何を言っているんだい。私は服薬しないのだから味付けはしていないよ」
急に飲むのが嫌になる。
今回アグネスタキオンが完成させたのは肉体が強化される薬。何とこれを飲むだけでヒトのチカラがウマ娘と同等になるというのだ。ただ効果時間があり、たった三時間しかない。
しかし、これを使えばラモーヌやシリウスに反撃を喰らったとしても防ぐことが出来る。あの二人、妙なところで似ているのが不思議だ。
「流石にアスリートである私はドーピングをしない。あくまでも実験として作成したものだからねぇ」
「だったら俺じゃなくてモルモット君に頼めば…」
「彼は実験台としては素晴らしい肉体の持ち主だが、今回は相性が悪い」
タキオンのトレーナーであるモルモット君。彼は見た目は普通なのだが、とんでもなく強い。ヒトのくせにウマ娘並みのパワーと身体能力を持っている。一般的なヒトのチカラを強化する為の薬であるので今回は意味をなさないのだろう。
「まぁ、タキオンの薬は前回の惚れ薬で効果実証済みだし、今回も大丈夫でしょ」
味わっては呑み込めなくなる可能性がある。前に激マズお粥を食した時、身体が拒否反応を起こして吹き出した。それがないよう一気に飲み込んだのだが…。
「イチゴ味がする。旨い…」
「ふむ。身体の調子はどうだい」
「よくわからないけど、なんかチカラが漲ってくる感覚が…」
「おお!初期反応は良い感じじゃないか!…ん?」
その時、アグネスタキオンは目の錯覚を感じた。気のせいだろうか、目の前にいる彼の姿が小さくなっているように。
「あれ? 何かドンドン小さくなってる!?」
―――――
トレーナー室。学業を終えたメンバー達がトレーナーが戻ってくるまで待機していたのだが、いつまで経ってもやって来る様子がない。
「遅いな…」
ルドルフのポツリと呟いた言葉に皆、無言になる。ラモーヌはそれまで読んでいた小説を閉じると、眼鏡を外して立ち上がる。
「探しに行くわ…」
「トレーナー君を待ってなくて良いの?」
マルゼンスキーの言う通り、入れ違いになる可能性がある。しかし。
「最近の彼、何だか様子がおかしいですもの。それにこの前のこともあるわ」
危なっかしい男だ。目を離しているといつの間にかくたばっているかもしれない。いつも通りの足取りだが、その表情は微かに険しかった。トレーナー室から出ていこうと扉に手をかけた時、逆に向こう側から扉が開かれる。
「…すみません」
其処にはマンハッタンカフェと頭に巨大なたんこぶを生やしたアグネスタキオンが現れた。
「やぁやぁ皆々様、失礼するよ」
「珍しいな君達二人が此処に来るとは…」
ルドルフがたじろいでいるのを無視して入り込むタキオン。カフェも彼女に続いてトレーナー室へと入室したが、何故その手には小さい男の子の手が握られていた。
「ん? 何だその子供は…」
五歳くらいだろうか。尋ねたシリウスと同じ切れ長の目と黒髪をしており、男子にしては綺麗な顔立ちでメンバーを視界に入れた瞬間、恥ずかしそうにカフェの後ろに隠れる。
「やだー!可愛いじゃなーい!」
マルゼンスキーに好みの容姿だったようだ。一瞬で魅了されて抱き締めようと駆け寄るがカフェにより静止させられる。
「あの…後々の為に止めといた方が良いかと」
「あら、どうして?」
「この子は貴女方のトレーナーさんです」
皆、一斉に、は?…と気の抜けた言葉が洩れた。
かくかく、しかじか。カフェとタキオンにより事情を説明され、子供が薬の影響で幼くなってしまったトレーナーだというのだ。
「コイツ、また変な薬飲んだのか…」
シリウスが呆れる。前にもタキオンの惚れ薬で一悶着があったというのに懲りない物だと。対する本人はマルゼンスキーの膝の上に座り、足をプラプラ揺らしながら彼女からお菓子を貰っていた。
「おねーさん、これなに?」
「これはティラミス。最近ブームのナウいスイーツよ」
小さいカップをこれまた小さい手で持ちながら美味しそうに頂く少年。この間、母親とデパ地下に行った時に購入した物らしい。初めは恥ずかしがってマルゼンスキーに近寄らなかった少年だが、人当たりの良い彼女の雰囲気もあってかすぐに慣れたようで落ち着いた様子である。
「―――柔らかい、な」
クリスエスは壊してしまいそうと思っているのか、おずおずと手を伸ばして少年の頬肉をつつく。
ルドルフはスマホを取り出してずっと黙々と写真を撮っていた。
「何やってんだ…」
「い、いや…!これは…」
シリウスの呆れた顔にハッとして手を止めるが、昔の写真を殆ど持っていない彼のこともあり残しておきたいと思ったのだろう。
「だいたい、見た目が子供になっただけじゃないのか。記憶は残っているんだろ」
「どうだろうねぇ。元々は身体能力を上げる薬だったのだが…」
シリウスの言う通り、最初はトレーナーとしての人格が残っていたらしいが、ドンドン幼くなっていくごとに精神が肉体に引っ張られているのか、はたまた時間が巻き戻っているのか。人格がこの通り少年そのもので、記憶も当時の物を呼び覚ましているのだ。
「人格が変わってから頻りに"お母さんは何処?"と探していました。恐らくトレーナーさんとしての記憶と人格も昔の物に変わっている可能性が高いでしょう」
カフェが"お母さん"と言った時、少年は何かを思い出したようにハッとすると、マルゼンスキーの膝から飛び降りてシリウスに近づいてきた。
「なんだ」
「お母さん知りませんか?」
「はぁ?」
「僕、お母さん探しているんです」
目の前の子をトレーナーとして認識しているシリウス。思わずいつもの態度で返事をしたが、少年が不安そうな顔で両手で拳を作り、詰め寄って来るせいで言葉に詰まる。
タキオンとカフェの言う通り、トレーナーが子供のふりをしているとはとても思えない。
「なぁ、トレーナーさんの母親って…」
カツラギエースはどうしようと隣にいたシービーに訪ねるが、彼女も黙り込んでしまいどう答えるべきか迷っている。
トレーナーの母親は幼い頃に病気で亡くなっていると皆、聞いていた。大人の本人ならまだしも、子供の状態で記憶が過去の物になっているならば、まだこの時点で母親は生きていたのだろう。それを正直に君のお母さんはもう死んでるよ、などと口が裂けても言えない。
「お母さん、何処? お母さん病気なんです。早く探さないと」
ギョッとしてしまう。どうしたものかと悩んでいたらラモーヌが少年と目線を合わせるように腰をおろすと、安心させるよう優しく微笑む。
「貴方のお母様は今休んでいますわ。御安心なさいね」
「っ!?」
ラモーヌに見つめられて少年は顔を真っ赤にすると今度はシリウスの後ろに逃げるよう隠れた。
「お、おい…!」
「懐かれやすいのね」
「ガキに好かれても嬉しくねぇよ」
逃げられたことにラモーヌは残念そうだ。シリウスも口では勘弁してほしいとは言うが、僅かに耳が忙しなく動いている。満更でもないようだ。
「アグネスタキオン、この薬は何れくらい効果が残っているのだろうか」
ルドルフは撮影を止めるとタキオンに近づく。
「効果時間は個人差があるからねぇ。例えば彼の場合二十近く若返っているならば一日か二日といったところか」
効果が大きいと時間は短くなるらしい。例えばお年寄りが一気に二十代になったりすると数時間しかもたない。
「―――明日は休日、か」
クリスエスの言う通り、幸いにも今日は金曜日。学園に妙な噂が流れることはないだろう。しかし、代わりに別の問題がある。
「どうしようか。この子をトレーナー寮に置いておくわけにはいかないし。誰かが面倒見るとか?」
幼い子供を一人野放しには出来ない、寮住まいではないシービーとしては連れて帰りたいと楽しそうに挙手をするが…。
「いやお前じゃ不安だ、コイツはシンボリ家で預かる」
シリウスは守るように少年を背中に隠す。ルドルフとクリスエスも賛同なのか両者うなずいてはいるが、そこに待ったをかけるのが三人。
「えー、あたしもトレーナー君の面倒見たいわ!家はマンションだし、問題ないでしょう?」
「いーや!シービーが不安なら泊まり込みであたしも一緒に面倒見てやる。トレーナーさんには世話になってるからな!」
マルゼンスキーとカツラギエースならば確かに安心ではあるが、二人とも大事なことを忘れている。
「風呂の世話とかどうするんだ」
子供とはいえ、中身はトレーナーだ。途中で元に戻ったりすれば目も当てられないことになるだろう。エースは気づいたようで、しまったと顔を歪めたがマルゼンスキーは特に気にした様子がない。シンボリ家ならば使用人がいるため問題になるようなことは起こらないだろう。
「なら、私も構わないわね」
最後に挙手をしたのがラモーヌ。確かにメジロ家ならば同じように使用人がいるので世話をしてくれそうではあるが…。
「ラモーヌ、お前はお前で信用ならないんだよ…」
「心外ね」
目を離せばすぐにトレーナーとスキンシップを図ろうとする彼女だ。流石に子供には手を出さないだろうが、万が一ということがある。
「信用ならないと言えばルドルフや貴女にも同じことが言えてよ」
シービーとマルゼンスキーがそうだそうだと野次を飛ばす。生真面目なクリスエスはまだしも、ラモーヌと同じくらい執着を見せるルドルフと、なんだかんだトレーナーをほっとけないシリウス。前者は置いておき、後者の"心の奥底"を見破っているラモーヌからしてみれば大した違いはないと考えていた。
「わ、私が駄目犬に好意持っているわけないだろ」
「ならどうするというのかしら、このままでは平行線よ」
「あの、私達もう帰って良いですか?」
いつまで経っても終わりが見えない話しにマンハッタンカフェは退場を願う。別に帰っても問題はないのだが、此処まできたからには最後に彼女には手を貸して欲しかった。
「こうなったらクジで決めようぜ!」
エースの一喝により、シンボリ組を除いたメンバーが頷く。自分達が連れて帰る流れが無くなったのが残念そうだ。しかし、このままシービーやマルゼンスキー、ラモーヌが大人しく引き下がる様子もないので引き受けることにした。
「仕方ない。マンハッタンカフェ、アグネスタキオン。すまないが君達二人がクジを作ってくれないだろうか」
ルドルフに頼まれ、気の抜けた返事をする二人。メンバーの誰かが作れば何れが当たりでハズレなのかわかってしまう。偶然にも部外者である彼女達が用意をすれば公平的な結果が出るだろう。
タキオンとカフェは適当な紙を四本になるよう切り、当たりを一本だけ作る。見えないよう、当たりの部分をカフェが握り締め、メンバーからシービー、マルゼンスキー、ラモーヌ、ルドルフがクジの先端を掴んだ。
「いいか、みんな。清濁併呑。どんな結果になっても恨みっこ無しだ」
ルドルフの最終確認に頷く三人。
「では。せーのっ―――」
掛け声と共に引き抜かれるクジ。その結果は。
―――――
「さぁ、お入りなさい」
「はーい!」
メジロ家の屋敷。リムジンから降りたラモーヌの後に続いた少年。出迎えた使用人達が何事かとどよめく。
「この子はトレーナーの親戚の子よ。面倒を見てあげて」
「お世話になります」
小さい身体いっぱいに頭を下げる少年。そして堂々の嘘を言うラモーヌ。当然彼女の言葉に疑いを持つ者はいない。ある二人を除いて。
「あの、姉様…」
「何かしらアルダン」
先に帰宅していた妹のアルダンが何とも言えない表情でラモーヌに近づいて耳打ちをする。
「この子もしかしてですが…」
「あら、よくわかったわね」
楽しそうに笑うラモーヌ。苦笑するアルダンだが、この少年、トレーナーの周りではいつも騒がしいことが起きる。加えて彼女はラモーヌからトレーナーが天涯孤独の身だと聞いていた。親戚の子などいる筈もないとなれば大方の予想はついた。出来ればハズレて欲しかったのだが。
「まさかと思いますが寝るときは…」
「私と一緒よ」
一人目を離すわけにもいかず、他の者と寝ており途中で元に戻れば大変なことになる。言ってることは正しいのだが、当たり前のように答える姉に不安を覚えるのはシリウスだけではなかったようだ。
「何事ですか、騒がしい」
その時、廊下の奥からメジロ家の当主。メジロアサマが現れた。
「お婆様、只今帰りましたわ」
ラモーヌの挨拶に答えるメジロアサマ。しかし、その視線はやはりと言うべきか背後にいた少年。元トレーナーだった者に注がれた。
「…その子はなんですか」
「"彼の親戚"の子です。二日程面倒を見ますわ」
「彼の?」
彼女の説明に首を傾げる。まさかそんな筈はないと一瞬だけ眉を潜めているが、ラモーヌはそれを見逃していなかった。そしてメジロアサマはトレーナーの姿が無いことに気付き、薬のことを全く話していないにも関わらず…。
「はぁ…成る程、そういうことなのですね」
答えにたどり着いたらしい。ラモーヌに全くこの娘は…と言わんばかりにジト目を向ける。
「何か問題があります。お婆様?」
メジロアサマが少年の正体がトレーナーである見抜き、ラモーヌはこれ以上は何も言わせないと釘を刺した。
「好きになさい」
肩を竦めてその場を去ろうとしたメジロアサマだったが、いつの間にか目の前に少年が近寄っており、ジッと此方を見ていることに気づく。
「なんでしょう」
突き放すように冷たい言葉だったが、少年は何故かメジロアサマの顔を見るとパァアと笑顔を輝かせ、ポケットから何かを取り出す。
「おばあちゃん、これあげるー!」
「―――」
少年が差し出したのはお菓子のグミだった。ずっとポケットに入れていたせいか、体温で少し溶けているように見えたがメジロアサマは嫌な顔はせず静かに受け取る。
その目には何故か僅かに動揺が見られた。
「お婆様?」
「い、いえ…なんでもありません。坊や、これは頂きましょう」
「うん!」
ラモーヌに声をかけられ正気を取り戻すメジロアサマ。すぐに顔を厳しい物に戻すと、少年に向かってお礼を告げて、対する少年も嬉しそうに返事をした。
「では私は自室に戻ります」
「……」
そそくさとその場から去ろうとする。その後ろ姿をラモーヌは無表情で眺めるだけで引き留めるようなことは敢えてしないのだった。
―――――
『おばあちゃん、これあげるー!』
「おばあちゃん、ですか…」
自室に戻ったメジロアサマ。掌に転がっているグミを眺めて独りごちる。昔のマックイーンやラモーヌ達の幼い孫達は自身のことを御婆ちゃまなどと可愛らしく呼んでくれた物だが、最近メジロ家の者としての自覚が付いてからは堅苦しい関係性になってしまった。
久方振りに愛らしく呼んで思わず頬が緩みそうになったが、まさかおばちゃんと呼ばれるとは。
「全く、誰に似たのか…」
もう叶わないと思っていた、消えた娘の子をこの目で見ることになるとは。少年としてはそのつもりではなかったにしろ、初めて祖母のように呼んでくれたことに胸がいっぱいになりそう。
「さて、これはどうしましょう…」
掌に転がるグミ。少々溶けており、妙な生暖かさがあったが、流石に捨てるなどという考えはアサマにはなかった。夕食前に一粒のお菓子。大して腹の足しにもならず、料理長にもバチは当たるまい。そう思い、少年から貰ったグミをそのまま口に含むのだった。