『ご当主…』
助けに入った意外な人物に驚いてしまう。それは初老の男性も同じ…どころかメジロアサマの顔を見た瞬間、それはもう真っ青に顔色を変えたのである。
『…見かけないお顔ですね。招待状を送ってもいない部外者を招き入れるとは、あの人もつくづく甘い』
嗄れて抑揚の無い言葉。まるで薄汚い者を見るかのように侮蔑の眼差しを男性に向けるメジロアサマだったが、それが男性の堪に触ったのだろう。怒りで顔を赤く染めると小馬鹿にしたように吐き捨てる。
『これはこれは…。相も変わらずお元気そうで何よりです』
『前置きは結構。私の目の届かないところへ疾く失せなさい』
男はお元気そうでと、強調したように言う。それがメジロアサマにとって何か燗に触ることなのだろうか。しかし、全く効果がないようで彼女の強気な姿勢は変わらない。
『ご当主!』
終わりの見えない睨み合いが続くかと思われたが、すぐに別の者が助太刀に入った。それも二人の男性。いずれも相手をしていた男と同年代のようで、片方はあのサトノダイヤモンドの父親ともう片方は初対面ではあったが、かつてクリスエスにより見せてもらった写真で見覚えがある。そう、シンボリクリスエスの師匠だ。
二人は険しい表情のまま男とメジロアサマの間に割って入ると守るように立ちはだかる。
『さぁ、君はこっちへ…』
『し、しかしご当主が…』
クリスエスの師匠はトレーナーの背を押し、この場からすぐに立ち去らせようとした。当然ながら自分を助けようとしたメジロアサマを置いて行くのは心苦しい。妙な男が何か仕出かさないか心配だったが…。
『大丈夫。あの二人に任せなさい』
『……』
耳元でそう小さく囁かれ、仕方なくその場を後にするのだった。
『随分と大事になさるのですな。やはり彼はリスボンの息子ですか』
トレーナーがいなくなり、一部の者しか知らないその名を口にした時、サトノダイヤモンドの父親は顔を強ばらせるが、メジロアサマの方は素知らぬ顔。全く表情を変えることなく、ただ相手を見据えるだけだった。
―――――
『申し訳ありません…。妙なことに巻き込んでしまい』
『いや、あれは巻き込んだというより巻き込ませてしまったというべきか…』
トレーナーは自分のせいだと頭を下げるがクリスエスの師匠は難しい顔でブツブツと呟く。トレーナーは改めて師匠の顔を見た。浅黒く肌は焼けており、小皺がハッキリとしないせいか実年齢よりも若く見える。海外に滞在することが多く、その日焼けも世界を飛び回った証なのだろう。
ふと、トレーナーはクリスエスの師匠が自分と同じようにジッと顔を見つめていることに気付く。
『あの…何か…』
『あ、あぁ。すまない、君が昔の知り合いに似ていてね』
普通であれば、その言葉を聞くと大抵の者は気にはなる。が、何故か彼は『そうでしたか』とまるで興味なさそうに話しを区切った。それよりも未だに戻ってこないメジロアサマ達を気にしているようで外の方をソワソワと見つめている。
『それだけかい?』
『えぇ。それよりお二人が心配です…』
『……』
クリスエスの師匠は昔からシンボリの名を持つ者と長い間共にしていたが、その姿にシンボリ家特有の自身より他者を重んじる姿勢が見られ、やはり血筋なのだと理解してしまう。
『戻ってきました…!』
安心したように歓喜の声を上げ、室内に戻ってきたメジロアサマとサトノダイヤモンドの父親に駆け寄るトレーナー。
『ご当主、大丈夫でしたか―――』
『……』
しかし、メジロアサマは声を掛けた彼の脇を通り抜けるとそのまま何も答えず奥の方へと消えていく。サトノダイヤモンドの父親はその姿に苦し気な表情で押し黙り、冷たいその態度に落ち込んだトレーナーだったが、彼の肩を慰めるように叩くクリスエスの師匠。
『私が言うのもなんだが、あのお方は"自分"に厳しい人なんだ…。あまり気にしないでほしい』
此方こそ、気にしないでほしいと頭を振るトレーナー。ふと、向こうからクリスエスがやって来るのが見える。トレーナーの姿を探していたのか、その足はちょっとだけ早い。
『―――トレーナー。それに…師匠…』
『やぁクリスエス、久しぶりだね。随分と大きくなったじゃないか』
嘗ての恩師を見て目を見開くクリスエス。師匠も嬉しそうに微笑むと懐かしむように目を細める。あの頃のクリスエスは身体が細く、壊れてしまいそうな肉体だったというのに今目の前にいる彼女の身体はまるで違う。高身長、しなやかな筋肉、鋼鉄のごとき固い骨を作り上げ、見るものを圧倒する強者だった。
『―――っ』
胸がいっぱいなのだろう。言葉に出来ない想いが溢れ、その目尻からは僅かに涙が見える。
トレーナーは気持ちを切り替えた。折角の恩師との再会。先ほどの出来事を引きずり、この瞬間に水を差したくない。
『そこまで辿り着くのに私の想像を絶する努力を重ねたに違いない』
『―――NO.私一人のチカラではありません。共に支えてくれた人がいたから…』
傍に寄り添うトレーナーを見て、静かに語るクリスエス。彼女の肉体作りは確かに彼女自身の実直さが生み出した者だ。きっとトレーナーが居らずとも可能ではあった。しかし、あくまでもそれはクリスエスの夢のスタートラインに立つ為の物。デビューしてから痛感した。
己と同じ、それ以上の実力を持つウマ娘達はごまんといたことに。
だからこそより強くなれた。友人、ライバル、そしてパートナー。多くの者達との関わりで此処まで辿り着いたとクリスエスは語る。
『…そうか。そうだったか…』
師匠の噛み締める物言い。友人であった彼の息子と自身のクリスエス、二人のおかげでまたこうして繋がりが出来たことに喜びを感じる。それまで黙っていたサトノダイヤモンドの父親も嬉しそうに頷くと近くへ寄ってきた。
『向こうのテーブルで腰を落ち着かせて話そう。まだまだ話したいことが沢山あるんだ』
彼らに促されて空いたテーブルに向かう。これまでに何があったのか、今何をしているのか、これから何をしたいのか。尽きることのない会話をトレーナーとクリスエス、そして師匠とサトノダイヤモンドの父親は夢中で話す。
そもそもこの二人は昔からの友人だったようだ。あと一人親友がいたようだが、その者もトレーナーだったらしい。
クリスエスのトレーナーと同じく、脚質差しと先行を得意とする指導者だったと。しかし、担当したウマ娘の脚質が"逃げ適正"であったため、良い結果は残せなかった。
そんな。若者が聞いたところで取るに足らない昔話。
だが、この二人にとってそれは二十年以上経った今でも忘れることの出来ない、大切な思い出だった。
―――――
『……』
クリスエスの師匠達と話を咲かせた後、パーティーも御開きとなりトレーナーはシンボリ家の当主と顔を合わせることに。理由は勿論、クリスエスとの交際のことである。サトノダイヤモンドの父親とはここで別れ、クリスエスとその師匠、そしてトレーナーは赴きのある扉の前に集まり、クリスエスの師匠を先導にして尋ねる。
『入りたまえ』
低い厳格な声がドア越しに伝わる。緊張に身体を強ばらせてクリスエスの師匠の後に続くと、其処には切れ長の目をした重苦しい雰囲気を纏う老紳士が一人。年を重ねている筈なのに衰えている様子を見せないその姿勢は獅子にも思える。
そしてその横には先ほどのメジロアサマまで座っているではないか。二代大家の現当主。クリスエスとの交際の報告にまさかの展開。思わず息を飲んでしまった。
『座りなさい』
堂々としたクリスエスやこの場に慣れている師匠とは違い、緊張でぎこちないトレーナー。なんとも情けないと自分が嫌になるが、そんな彼を見て何故かメジロアサマとシンボリの当主は目を丸くする。
『―――お久しぶりです。当主』
『あ、あぁ。久しぶりだなクリスエス。こうして顔を見せるのはいつぶりだったか。海外でも君の活躍は聞いているよ』
海外を巡り屋敷に不在が多い当主だ。タイミングが合わなければクリスエスですら会う機会が少ない。
当主は彼女を労い、これまでの重賞に対する称賛を贈る。師匠からも直々に話しは聞いていたようで重苦しい空気の中でも会話に花を咲かせた。
『―――ですが、此処まで辿り着くには彼のチカラがなければ不可能でした』
『…ふむ』
途中まで見守っていたトレーナーだったが、クリスエスからまさかのパスを渡され当主は一言唸ると、彼にその視線を真っ直ぐ向ける。相手を値踏みするかのような目は非常に恐ろしい。
『いえ、私が居らずともクリスエスは初めから完成されたウマ娘でした。叶えたい夢の為に目先のことではなく、もっと大きな物の為にずっと先を見据えて…』
彼女はけして焦らないウマ娘だった。デビューが遅くなろうとも完璧を目指し、地道なトレーニングを欠かさない。それが一番の近道だと信じて。
クリスエスはトレーナーが必要だったといつも言ってくれるが、これだけは否定しなければならなかった。
『……』
そんな彼をメジロアサマはジッと見つめる。まるであのメジロラモーヌのように。
『そう謙遜することはないさ』
クリスエスの師匠はトレーナーの肩に手を力強く乗せる。
『聞けばレース展開の作戦は全て君に任せていたとクリスエスから教えられていたよ』
元からウマ娘の観察が好きなトレーナーだ。相手の癖や傾向などレースプランナーとしての実力は間違いないと太鼓判を押す。特にタニノギムレット。あの自らを破壊者と名乗る彼女は毎度狙いが読めず、堅物なクリスエスにとって最大の強敵だったが彼女の肉体とトレーナーの頭脳により勝利をもぎ取っている。
『…しかし』
それでも何か言いかけた時、メジロアサマが溜め息を吐く。
『卑下も過ぎれば嫌みですよ。もっと堂々となさい』
呆れた言い様だが、諭すようにも聞こえる。そんなアサマにシンボリの当主は、ほぅと意外な者を見るように目を細めると顎を撫でた。
『…その目はなんです』
『いや何も』
そんな視線に気づいたのだろう。アサマがジロリと睨むと当主は渇いた笑い声を上げるとわざとらしく目を逸らした。
『それよりもこうして話す場を用意したのです。何か言いたいことがあるのではないのですか』
メジロアサマは咳払いをすると、何故かトレーナーを見つめる。それにシンボリの当主も厳しい顔をすると彼もまたトレーナーを見つめるのだ。
そんな二人を見て、あっ…と思い出す。
そうメジロアサマは予定になかったが、そもそも忙しい身である当主へ会いに来たのはクリスエスとの関係性について報告しなければならなかったことに。
『実はそうなんです…』
『やはりそうか…』
シンボリの当主は何故か悲しそうな顔をすると静かに言葉を吐く。既にバレていたようだ。表情から察するにあまり良い返事は貰えなさそうだが、それで諦めるわけにはいかない。なんとしても交際を許してもらうつもりでトレーナーは身を乗り出した。
『単刀直入に言わせてください。クリスエスと、いえ…クリスと結婚を前提にお付き合いさせていただいてます。どうか交際を許してもらえないでしょうか…!』
頭を下げたトレーナーに続いてクリスエスも頭を下げた。師匠はまさか付き合っているとは思ってなかったようで大きく驚きの声をあげた。
『…え?』
しかし、叱責の声が放たれると思っていたシンボリの当主からは不思議なことに間抜けな声が漏れる。何事かと顔を上げたトレーナーだったが、其処には厳しい顔をしたシンボリの当主とメジロアサマは居らず、代わりにポカーンと口を開けた二人がいた。
『トレーナー失格だとは重々理解しております。ですが…』
『あ、いや…その…なんだ』
ちょっと待ってほしいと一度ストップをかける当主。何故かメジロアサマの肩を掴むと二人で小さくゴニョゴニョと何かを話す。
『おい、アサマ…話しが違うじゃないか…!』
『いえ、まさかそんな…私はてっきり…』
あーでもない、こーでもないと三人を置いてけぼりに暫く話す現当主達。クリスエスとトレーナーは首を傾げるが、師匠の方は状況を理解したのか大声を上げて笑い出す。
『あはは!なるほど、そういうことか!』
『あの…どういうことですか?』
『二人はもっと悪い話しかと思ったのさ。気にしなくて良い』
涙目になりながらトレーナーの背中を叩くと今度は小さく笑い声を出した。
『―――トレーナー。これが肩透かし、というものだろうか』
『どうなんだろうね…』
クリスエスは難しい日本語の勉強になったと嬉しそうに頷く。この状況で別のことを考えられる彼女は流石である。これくらいの重圧などクリスエスにとってなんてことないのだろう。
―――――
『すまない』
メジロアサマとの話しが終わり、中断してしまった報告に詫びを入れる当主。トレーナーとクリスエスは頭を振るが、またしても当主は小さくブツブツと呟き出す。
『しっかし、クリスエスと婚姻か…いや待てよ…ルドルフではなく…婿養子扱いなら…そうかその手があったか…そうすれば丸く…遺骨もこっちで…』
それを聞いていたメジロアサマはジト目を当主に向けた。心なしか当主の方は嬉しそうである。呟きを止めた当主は手をポンと叩くとトレーナーに笑顔を向けた。
『良いぞ。クリスエスとの交際は一向に構わん。むしろ嬉しい限りだ』
あっさりと許可がおりて今度はクリスエスとトレーナーがポカーンとしてしまう。一体これはどういうことなのか。
『よ、宜しいのですか。私自身が言うのも酷い話しなのですが、シンボリ家の名に傷がつくのでは…』
『この程度で傷はつかん。まぁ、暫くは話題になるだろうがな』
其処は正直に答える当主。トレーナーと教え子の男女関係など世間的にはあまり良い目で見られない。それも大家のウマ娘となると、色々と問題がある筈だ。
しかし、当主はそれ以上にメリットがあまりにも大きいと言う。
『まず君はとても若い。クリスエスと其処まで年が離れていない。世間からもあまり違和感に見えないだろう』
二回りも離れていれば流石に宜しくないが、今時は一回り離れての結婚も珍しいことではない。彼は学園のトレーナー達の中でもかなり年下である。
『それと私は君をシンボリ家の婿養子として迎えたいと思う』
『わ、私をシンボリ家にですか!?』
シンボリ家は優秀なウマ娘を排出することで有名だが、代わりに優秀なトレーナーをそれ程抱えていない。クリスエスの師匠も一度は養子として迎えようと考えていたが本人に断られた。
『しかし私のような孤児にそのような…。シンボリ家に御迷惑が…』
『―――いや、トレーナー。そうでもない』
同じ養子であるクリスエスが教えてくれた。シンボリ家が優秀な人材を養子に迎えることそれ自体珍しいことではないのだと。例を上げるならば、目の前のクリスエスの存在がある。そしてこの場にはもう一人いた。
『シンボリ家は"メジロ家からも養子"を貰うこともある。実は此処にいるアサマも幼い頃はシンボリ家で育ったのだ。シンボリアサマとしてな』
『そうだったのですか…!』
当主とメジロアサマの仲がやたら近いのも、二人が幼い頃から共に過ごしていた義理の兄妹だった頃によるものだった。
メジロ家とシンボリ家の、血を超えた繋がりを強くするために必要なことで、シンボリ家に引き取られたウマ娘は其処で英才教育を受けられるらしい。そしてアサマが次期当主に選ばれた際、再びメジロ家のウマ娘として戻ったのである。
『君は中々優秀なようだ。出来ることなら婿養子として迎えたい…。クリスエスのバックにも色々と都合がつく筈だ』
天涯孤独である彼だ。クリスエスがこれから活躍するためにも繋がりは非常に重要となる。それがまさか此処に来て親戚が出来るなど思っても見なかったことだろう。
『それにだな。トレーナーとウマ娘の恋愛関係などそう珍しいことでもないのだ』
三年間も付きっきりで過ごす。必然的に契約を結ぶ相手はほぼ相性が良い人物であり、卒業後そういう話しはよく聞いてはいる。
『実は私も君ぐらい若いトレーナーの頃、一人の担当に恋をしてしまっ……痛い!?』
えへへと恥ずかしそう鼻を擦りながら語ろうとしたシンボリの当主だが、突然悶え叫び声を上げる。トレーナー達側からは見えていないが、この時メジロアサマが彼の足をヒールでグリグリと踏んづけていた。
『そ、その辺りの細かいところはとりあえず置いといて…私から反対する理由はない。むしろ喜ばしい限りだ』
『ありがとうございます!』
当初の予想とは違い、まさかの前向きどころか祝福してくれる。クリスエスと目を合わせると思わず笑顔になり、彼女の手を小さく握っていた。
『良かったね…』
『―――あぁ』
『あ、でも君の実の両親にも報告しなきゃ』
『―――そうだな。だがそう焦ることもない』
堅苦しい雰囲気が無くなり、気さくに話す両者。そんな二人を満足そうに見守る当主。いずれ彼には本当のことを全て話さないといけないが、それは今ではない。シンボリ家、そしてメジロ家と関係を構築してから少しずつ語るべきである。多くの真実は彼を混乱させるだけにしかならない。もしかしたら怨まれるだろうが、今この時だけは何も考えずに二人の幸せを心から祝福したいと。
『今日はもう遅い。此処に泊まっていきなさい』
送りの車は出せるが既に二人はバテている。屋敷は使いきれない程の客間もあり、其処へ二人とも寝かせるのも良かろうとゲスいことを考えた。
使用人を呼び出し、二人を案内するよう指示を出す。トレーナーとクリスエスは再び頭を下げると仲睦まじく部屋を出て行こうとした。
『お待ちなさい』
退出しようとした時、メジロアサマに呼び止められる。所作のある歩み寄りでトレーナーのもとへ近づくと、彼の服装の襟元へ手をかけた。
『乱れてますよ。もっと身嗜みに気をつけなさい』
あの怪しい男に捕まれた際、形が崩れたのだろう。メジロアサマは厳しい言葉ながらどこか穏やかに彼の服装を整える。
『あ、ありがとうございます…』
『いつ何処で誰が見ているかわかりません。常に見縊られるようなことがないように』
『はい…』
シンボリ家の婿養子となるのだ。メジロアサマの言うことは正しい。己だけが馬鹿にされるのはまだ良い、しかしクリスエスや彼女の関係者に迷惑がかかるなどあってはならない。ひいてはそれが自分の為になる。トレーナーは静かに、それで力強く答えた。
『良い返事です』
それまで厳しい顔つきだったメジロアサマは一瞬だけ穏やかにトレーナーを見つめると優しく胸を叩く。
『幸せになるのですよ…』
彼の両親は自分の力不足と不甲斐なさで守ってあげることが出来なかったと悔やむ、両家の当主達。辛い境遇に置かれながらも真っ直ぐさと誠実さを失わなかった彼には、幸せな未来を歩んでほしいと誰よりも願った。
―――――
メジロの屋敷に戻ったアサマ。深夜、時計の短い針は既に頂点を通り過ぎており、珍しく夜更かし。使用人の殆ども眠りについていることだろう。
『……』
メジロアサマは机の一つ、鍵のかかった引き出しを解錠すると中から古びた写真を取り出す。引き出しの中には他にも万年筆や子供が描いたような絵。折り紙、何れも年期の入った小物が納められていた。
メジロアサマの取り出した写真には若い頃のメジロアサマと彼女にそっくりな薄紫の髪色をした可愛らしいウマ娘、年齢は十代後半だろうか。その隣にはメジロラモーヌの母親、メジロヒリュウが小等部時代の姿が写っている。
彼女が愛おしそうに写真を撫でていると、こんな深夜だというのに部屋にノック音が。
『…っ。誰です、こんな夜遅く』
急いで写真を引き出しに戻すと鍵をかける。焦りからか口調が思わず強い物になってしまった。
『お婆様、私です。ラモーヌですわ』
『…入りなさい』
許可を出すと、際どいネグリジェ姿で現れるラモーヌ。年頃の淑女がはしたない姿で思わず頭が痛くなったアサマ。それにラモーヌの表情が心なしか紅潮しているように見える。
『まさか…アルコールの類いを口にしたのではありませんよね』
先程のパーティーが終わったばかりだ。ラモーヌは未成年だが、そのまさかということもある。アサマの目付きは更に鋭い物に変わったがラモーヌは素知らぬ顔。
『いいえ。ただ、疼きを静めていただけですわ』
ラモーヌが言うには、あのパーティーの時、レースやウマ娘のことを一際熱く語る殿方がいたらしい。その彼の語りを耳にしながら情景を思い浮かべると思わず胸が高鳴ったと。既に夜遅く、走りたいというウマ娘の本能を消費出来ないことに悶々としてしまったようだ。
『お婆様、彼を私にご紹介して頂けません?』
『彼?』
ラモーヌの言う彼とはその熱く語る殿方のことだろう。しかし、名前も知らないようでそれだけでは誰のことかわからないと首を傾げるアサマだったが、ラモーヌが『知らないとは言わせない』と言わんばかりに見つめ、それが誰のことを差しているのか理解してしまった。
『まさか…彼を…っ』
背中に冷たい物が走るがすぐさま冷静を取り戻すアサマ。
『何故私に頼むのです。彼と私は今日初めて顔を合わせたばかりですよ。ご紹介など出来ません』
嘘は言ってない。
『あら、お婆様が真っ先に助けたのでてっきりお知り合いかと…』
『……』
どうやらあの時、ラモーヌは見ていたようだ。ラモーヌが言うには他人との過干渉を嫌がる自分の祖母が危険を省みず彼を助けたことに不思議でならないと。
『珍しいですね。貴女がレース以外の…それも殿方に興味を持つなど』
アサマは少しでも話しを逸らそうと尤もらしいことを尋ねた。実際、身内以外他人の顔を録に覚えないラモーヌだ。そんな彼女が彼に興味を持つ理由も知りたい。
『そうですわね…』
ラモーヌは学園でもクリスエスのトレーナーと顔を合わせたことはあるが、それまで一度も彼の存在を認識したことがない。取るに足らないただの人。たったそれだけでしかなかったが、あの時彼がウマ娘について楽しそうに語るその姿と目が脳裏に焼き付いたのである。大人びた風格かと思えば子供のようにキラキラとした目がとても美しく思えた。
『ただの。一目惚れ、ですわ』
恍惚そうに呟くラモーヌにこれは不味いとメジロアサマは焦る。浮いた話が全くない次期当主のラモーヌに漸くそういう相手が出来たとはいえ、彼は非常に宜しくない。仕方ないと無理やりでも諦めてもらうほか無かった。
『残念ですが、既に彼には交際相手がいらっしゃいます』
『まぁ、そうでしたの』
これで諦めるかと思いきや、あっけらかんに答えるラモーヌ。まるでそれがどうしたと言わんばかりでアサマの出鼻を挫いた。まさかこの子…奪うつもりでは無かろうかと。
メジロ家でそんなことをされては堪った物ではないが、ラモーヌの性格を考えると何を仕出かすかわからないのも事実だった。
『それで、その交際相手は誰です?』
『シンボリ家の養子、シンボリクリスエスさんです。彼は彼女のトレーナーですよ』
『―――――』
シンボリクリスエスの名を聞いた瞬間、ラモーヌの目が丸くなった。先程までの獣のような積極性が霧散し、急に言葉を失う。
『そう。あの子の…』
ラモーヌはいつの日だったか。あの固い鋼のようなクリスエスがある日を境にしなやかな竹のような雰囲気へと変貌したのを覚えている。ひたすら前を見るクリスエスも好みだったが、トレーナー契約をしてから周りに目を向けるようになり、自分に関わる全てに理解を深めようとしていたあの姿が特にお気にいりだった。
互いに足りない物を補おうとしていた二人が惹かれあったというのに、其処へ横槍を入れるのは無粋というもの。
『お婆様、先程の話しは忘れてくださる?』
『え、ええ…』
突然の変わりように戸惑いながらもわかってくれたラモーヌにホッと胸を撫で下ろす。血縁者同士の交際など、御家騒動になりかねない故に許すことなどとても出来なかった。これ以上彼をメジロ家の問題に縛りたくない。
ラモーヌは乱れたネグリジェを整えると静かに退出する。その際、微かに彼女がポツリと悲しげに呟いたことが耳から離れなかった。
『もっとお早く、御逢いしたかったわ…』
本当はここでクリスエス編を終わらせるつもりでしたが無理でした。次でクリスエス編が終わらせます。
メジロアサマのシンボリ家育ちというのは、実馬のシンボリ牧場が元ネタです。
両家当主はトレーナーの両親が家から逃げた原因が自分達のせいだと思っており、彼に恨まれていると誤解しています。しかし彼は本当に何も知らないので肩透かしを喰らいました。
現在ルートでもメジロアサマが彼に厳しく当たるのは自分を存分に恨んでほしいという思いがあります。しかし彼はご当主大好き大好きなので困惑している。いけないとは思いつつも可愛がらずにはいられないのです。