「脚が痛むかい」
ターフを駆けた後、ベンチに腰掛けているとトレーナーが話しかけてきた。まだ痛みは無く、どちらかと言えば違和感を感じる程度だが相変わらず勘が良い男である。
「このくらいなら平気よ」
「君の脚はパワーに対して頑丈さがない。非常に繊細だ」
腰掛ける此方に目線を合わせるようしゃがみこむ。突き放す言葉を投げ掛けても、彼は優しく語りかけ、しかしながら引き下がるつもりはないと強い意思を感じた。
「君はこんな俺をトレーナーに選んだんだ。ならこっちだって黙っちゃいない。触るよ?」
靴を脱がそうとした手を避けようと座ったまま横移動する。そんな私の抵抗にジト目を向けてきたが、少しだけ待ってほしいものである。この男を信頼していないわけではないが、先程走ったばかりで靴の中は自身の汗で濡れているのだ。これが前の時ならば何も感じなかったが、今は愛した人に不潔な部分を見られるのは淑女として如何なものか。
「待ちなさい。今タオルを…」
「君に汚いところなんてない」
この男は普段ふざけているくせに突然臭い台詞を言うのだから心臓に悪い。特にトレーナー業として営んでいる時は真剣である。自分はやる気が無いなどと口にしていたが、やはり今この時は生き生きとしており目の光が戻っているように見える。
「…好きになさい」
溜め息と折れた言葉に苦笑をする彼。その顔はかつて見たかったものだった。硝子物を扱うかのように丁寧に履き物を脱がしていく。露になった脚はやはり汗でぐっしょりと濡れており、当然恥ずかしいものだ。流石にこのままでは汗疹が出来ていけないと思ったのかタオルで拭き取り清感シートで湿らせる。
男の筋張った筋肉質の大きな手が脚の筋肉をマッサージし始めた。優しく、力強く。あのへし折りたくて堪らなかった彼の指が自分の脚に触れている。
「…んっ…あっ」
「あの…変な声出さないでくれる?」
赤面したトレーナーが申し訳なさそうに小さく呟く。こっちの気も知らないで無茶なこと言う。嬌声など出したくて出しているわけではない。無理矢理触ろうとした其方が悪い。
「こ、これぐらいにして横になろうか」
マッサージは程々に。やはり続けることが難しくなったようだ。靴の中身はまだ濡れているため彼は私をそのまま抱える。所謂お姫様抱っこと呼ばれる抱え方だ。
「あら。女を抱えて何処に連れて行こうというのかしら」
「トレーナー室だよ!変な言い回しやめて!」
残念。此方としては全然構わないのだが、これ以上下手に誘うのも癪である。この男も女好きの割には奥手であり、今は教え子という立場上あの頃のような関係性に進めるのは中々難解であろう。
到着したトレーナー室には珍しく誰もいない。私を簡易ベッドに座らせると紅茶の準備を始めた。
「こんな固くて狭いの寝られないわ」
「文句なら学園に言ってくれ、お嬢様」
一回此方に向き直り、あっかんべーをして戸棚を漁るトレーナー。全く言葉の意味を理解していないようだ。
彼が入れた紅茶で軽く喉を潤し、言われた通り横になる。一度この男によって自身の脚を治してもらっている以上言うことを聞かないわけにはいかない。だがそれでも。
「やっぱり寝られないわね」
「なら俺が横で羊でも数えてあげようか」
ニヤリと下品な笑みを浮かべて枕元に近づく。
「悪夢を見そうだわ」
「ははは、そりゃ良いこと聞いた」
止めなさいと睨んでもトレーナーには通用しない。相変わらず私に対する嫌がらせが好きな男だ。
「羊が一匹~羊が二匹~」
気が抜ける声で鬱陶しい数えが始まる。脳内に憎たらしいこの男の顔をした羊が柵を飛び越えるのが浮かぶ。ホントにこれで眠れるのだろうか。
「羊が八匹~羊が九匹~羊が一匹逃げました~羊が二匹逃げました~」
「ちょっと」
「さて、羊は今何匹でしょうか~」
腹立たしくて可愛らしい唇を指で摘まむ。痛い痛いと泣きべそかくが自業自得だ。
「煩いわね。九匹の後に一匹と二匹だから合計三匹逃げて正解は六匹よ」
「流石。正解正解」
褒美のつもりだろうか、此方の頭を撫でようとした手を掴んで頬に当てる。彼の温もりを感じられた。幸せな、下らない日常である。ずっと欲しかったモノ。
トレーナーは一瞬驚いた顔をしたが、私の安らかな表情を見て優しく微笑み返す。互いに何も言わないでただ見つめ合うだけ。彼はどうかわからないが私は幸せで堪らない。
彼が冷たくなる悪夢も喪失感による激情もない。
あぁ、久しぶりにゆっくり眠れそうだ。
―――――
十五年前の話。
自らの死を体験し、目が覚めると自分の姿が小さくなっていることに気づいた。痩せ細っていた筈の手はクリームパンのように健康的な肉付きをしており、血色も桃色で生命力に満ち溢れている。始めは理解出来なかった。
若々しい母親とお婆様が目に入った時、まだ夢を見ているだけかと思ったが、これが現実であると気づくのにそう時間は掛からなかった。若返っている。いや、それよりも生まれ変わったと言った方が正しいだろうか。己だけではなく周り全てが時を遡ったのである。
歓喜した。自分の未練を晴らせる、最期まで後悔した彼に想いを告げられなかったこと。いや、それどころか彼の命を救うことが出来るのを。
もう一度、彼の笑顔を見ることが出来るのを。
赤子であった自分はあまりにも退屈で仕方なかった。食事も生理現象も全て他人任せ。会話も出来ず走ることも出来ない。赤ん坊のくせに不機嫌な時が多く使用人と母親は心配をさせてしまったが、意思表示がはっきり出来る五歳の年齢になった時は躾られずとも品性とマナーを身に付けており、周りからはメジロ家を体現したようなウマ娘だと言われた。…前の時も同じようなことを言われていたため大した違いではないが。
妹のアルダンが産まれたのは大きかった。普通の赤子として笑い、泣き、純真無垢。使用人達や母親からは自分よりも妹の方が遥かに可愛がられた。別段それに不満などない、むしろ自分へ向けられる目が減ったのは助かり、また可愛い妹が蝶よ花よと愛でられて悪い気はしない。実際、前の時はアルダンに恐れられていたのもあり、こうして改めて可愛がれるのは嬉しかった。
小等部にまで成長し、思い切りターフをかけられるようになったのは堪らなかった。若々しい身体は羽のように軽く無限に感じられる体力。おまけにかつてトレーナー…あの男から叩き込まれた技術、ウェーブ走、ストライド、ピッチ、ビルドアップ走等などは全て覚えている。メジロ家で用意したトレーナー達がこれでは教えることが何も無い究極の天才だと舌を巻く評価を受け、自分自身もトレーナー達が役に立たないと突き放し、そんな私を恐れてか誰しも離れていく。
その方が良かった。己にとってのトレーナーはあの男ただ一人。それ以外はお断りだった。
「今の私を見たら、貴方は何て言ってくれるのかしら」
誰もいない所で小さな女の子が一人愚痴る。案外、他のトレーナー達と同じように教えることが無いと離れていきそうではある。まぁ、元より逃すつもり等無いのだから別の手段を使えば良い。何故だか少し脚が痛む。前の時は彼が故障した脚を治したのを思い出した。あぁ、早く逢いたい。
小等部、高学年になってからメジロ家の次期当主として期待される存在となったが、やはり前の自分も同じような扱いをされていた為、全く問題は無かった。事実、自分には当主たる覚悟と能力、品格を持っているのを自覚していた為継ぐ気はあった。
話し相手もアルダンがしてくれたが流石に経済や政治の話しをしてもまだ幼いあの子に話しが通じず、申し訳なさそうな顔をさせてしまったのは反省しないといけない。オロオロした様子が可愛らしくてつい、意地悪したくなるが。
代わりに現れたのはシンボリ家のウマ娘達。シリウスシンボリ、シンボリルドルフの二人。まともに会話が通じる相手が漸く出てきた。
前からそうだが、二人は幼い頃からラモーヌと同じようにまるで成長した大人のような子供だったらしい。物心ついた時からレースとトレーニング技術を身に着けており、シンボリ家が用意したトレーナーが次々と退散。
同年代の子からは近寄り難い存在として扱われていた。
「やぁ、ラモーヌ。今日もせいが出るな。天気も良いし、気温も心地よい。こういう日はトレーニングに限る」
中等部中頃。ターフを走っているとルドルフが話しかけてきた。
「回りくどい挨拶はやめて用件だけ言いなさい」
ルドルフは用も無く誰かを訪ねるようなことはしない。更に遠回りな言い方は録な内容ではないと感じられる。
「参ったな。君には敵わないよ」
やはりただ挨拶にきたのではなく、来年開催される自分達の選抜レースについてのこと。
中等部二年経つと周りはその話題で持ちきりになる。学園にいるウマ娘にとって人生が左右されると言っても過言ではない。非常に大事なレース。
「メジロ家の御当主から相談されてね。君のトレーナーに関することだ」
お婆様は私がメジロ家のトレーナー達全てを突っぱねていることに不満らしい。選抜レースでスカウトしてくるであろう何処の誰とも知らぬ無名のトレーナーと契約するのでないか懸念しているようだ。
「トレーナーなら既に決めている。お婆様には私から伝えるわ。安心なさい」
私にはあの男以外いらない。そんな下らないことに付き合うなら並走に付き合ってほしい。もうすぐ、もうすぐなのだ。
新学期、彼がトレセン学園にやってくる情報は既に掴んでいる。逢いたくて逢いたくて堪らない。身体の疼きを静めるのは走ることで発散させるしかなかった。
「他人の心配より自分の心配をしたらどうかしら? 暇なら並走に付き合いなさいな」
ルドルフであろうとトレーナー選びが重要なのは同じである。全てのウマ娘を幸福へと導く存在となる。そんなつまらない夢に付き合える物好きが見つかるのか。
「では、君と同じだな。実は既に目をつけている人物はいる。問題は契約を結んでくれるかだが、まぁ…彼なら快く引き受けてくれるに違いない」
驚いた。王道をその身で体現したような彼女である。選抜レースに挑み、スカウトしてきたトレーナー達を吟味してから決めると思っていたのだが。
「ふぅん」
このルドルフが選んだ相手、僅かながら興味が湧いた。
「さぞかし優秀なんでしょうね」
「…いや、正直に言ってしまえば優れたトレーナーではないだろう」
非常に言葉にしずらそうなルドルフ。他人の長所しか口にしない彼女にしては珍しい態度である。その人物は新人トレーナーらしく技量でいえば並、平凡らしい。
「だが彼は私が持っていないモノを持っている。採長補短、そして何より私と同じ夢を抱いてくれた」
成る程。ルドルフは自身でトレーニングメニューを組むことも体調管理も出来る。優秀なウマ娘に優秀なトレーナーが付く必要は無いと考えているのだ。ウマ娘ではなく、シンボリルドルフとして必要な存在がその男らしい。その考えは同意出来る。
「それに昨日も君の並走に付き合ったが、飢えた猛獣のごとき走りは更に鋭さを増している。此方の身体が持たないよ」
白々しい。此方の並走に付き合えるのは限られている。その僅かな一人だと自覚していながらこれなのだから救えない。シリウスが最近不機嫌なのも見てみぬフリである。
「ならもう用事は無いわ。さよなら」
さっさと帰宅の準備を進める私にルドルフは困った笑顔を見せたが、それ以上何も言うことはなかった。私自身も。
―――――
メジロアルダンにとって姉のラモーヌは絶対的存在だった。物心ついた時から勉学、教養、品格、あらゆる物を瞬時に、まるで渇いた砂漠に水を流したかのように呑み込んでいく姉はメジロ家最高傑作と言われ、その美貌故に性別問わず思慕されるのは当然だった。
成人の男性すらも魅力する妖艶さに浮いた話の一つでもと親族から言われていたが、そのような気配を見せることはなく、中には姉を見て、怖い、不気味など言う者もいた。
その理由が度々行われる重鎮達との招宴。メジロ家にとって重要な存在がいれば逆に仇なす者が紛れ込んでいることもある。
姉は直接何かすることは無かったが、会話や態度、目配せに僅かな違いを親族達に見せつけ警報を伝えていた。それが外れたことは一度も無く。まさに慧眼。
姉の持つ、あの本質を見抜く目が、全てを見透かすような目が不気味と感じられずにはいられないのだろう。自身、私も姉に見つめられると怖じ気付いてしまい萎縮してしまう。
そんな私を見て周りの人達も出来すぎた姉、底が見えない風格、メジロアルダンにとって重圧な存在ではないかと不安を抱いていた。確かに姉は絶対的存在ではあったが、それが重りになったことは一度も無い。私にとって姉は絶対であったが憧れであり越えたい壁であった。
当然。メジロ家ではなく、一人のウマ娘として。
いつかあの走りを手にしたい。己のモノにしたい。
それに姉は自分の身内には甘いところがある。大人びていると言われるが、性格はどちらかと言うと子供っぽい。面白いモノが好きで負けず嫌いでイタズラ好き。よく私もからかわれている。私はそんな姉が好きだ。
姉に異性の話が無いのはメジロラモーヌを見ていながら誰も彼女の本質を見ていないからではないかと思った。常につまらない、退屈と呟いている姉に想い人が出来るのは遠い未来の話だと。
が、それが間違いだと知ったのは私が中等部に進学したばかりの頃。食事の用意が出来、自室で休んでいた姉を呼びに行った時のこと。
ノックしても返事が無く、中を覗けば机へうつ伏せになっており確認すると何か書き物をして疲れたのか、珍しくベッドに入らず居眠りしている姿だった。
起こしてあげようと手を伸ばした時、その目に涙の後が見える。姉が泣いているところなど一度も見たことが無かった故に衝撃だった。
だがそれ以上に驚きだったのが書き物。申し訳ないと思いつつも好奇心が勝ってしまい、勝手ながら読んでしまったのである。
「これは…」
内容は一言で言うと難しい言い回しが多い、と言った方が良いだろうか。幼い私では内容の半分も理解出来ないような表現と漢字、言葉使いで手紙なのは間違いないようだが…。
ただ、相手に対して恐らく罵倒するような言葉が並べ立てており姉は誰かに訴訟したいのかと冷や汗をかいたが、どうやらそうではないらしい。
『貴方に逢いたい』
その一言が最後の最後に書き記されていた。これは恐らく…恋文だ。
姉はずっと昔から誰かに恋をしていたらしい。それが一体いつなのかわからないが、罵倒をこれだけ並べ立てた内容。並々ならぬ想いが込められているのは最後の一言でわかる。
「覗き見なんて、らしくないわね。アルダン」
「姉様…!?」
手紙に夢中になっていたせいか、姉が起きていることに気づかなかった。血の気が引いていく感覚が襲ってくるが、不思議と姉は怒っている様子がない。
「幼い貴女に強く咎めることは出来ないわ。でも、次からは気を付けなさい」
「はい、申し訳ありません…」
椅子から立ち上がり、頭を下げる私を優しく撫でる。これが大人や赤の他人であればこうはいかない。落ち着いた言葉の中に淑女として矯正しようとする含みがある。
姉を先導にしダイニングへ向かい食事を行う。姉はいつも通りの様子だが、自身は先程の手紙の内容が気になってしまいあまり味を感じられなかった。あの姉にあれほど想われている男性が一体どんな人物なのか…いやそもそも成人なのか同年代なのか、はたまた性別が女性の可能性もある。考えれば考える程思考が低迷し、それはベッドに潜っても収まることはない。このままでは眠ることが出来ないと思い、尊敬する姉に対して恋路を覗くなど非常に無作法ながら聞かずにはいられなかった。
「姉様。まだ起きていらっしゃいますか?」
「ええ」
薄暗い廊下を進み、姉の部屋へ再度訪れる。ノックをすると今度は返事が返ってきた。どうやらまだ起きていたらしく、何やら読み物をしていたのか眼鏡をかけていた。
「怖い夢でも見たのかしら」
「いえ、そのようなわけではなく…」
くすりと笑みを浮かべる姉。機嫌は良いらしい。幼い頃は広い屋敷の薄暗さが怖くてよく御手水についてくれた。そのことが少し恥ずかしくて顔が赤くなる。
夕方の想い人への恋文の件が気になり許されるなら少し話をしたいと口にすると、姉は蟀谷に指を当て何か考え始める。私に言うべきか迷っているのだろうか。
「そういうわけではないわ。ただ…眉唾な内容を上手く説明出来ないと言えば良いかしら」
「眉唾?」
「まぁ…良いでしょう。貴女は聡い子だし、教えてあげても良いわ」
ただし、これから語ることは全て他言無用。絶対に誰にも言ってはいけないメジロラモーヌにとって最大の秘密であると釘を刺された。例えそれがお婆様であろうと、姉の想い人であろうと絶対に口にしてはいけないと。
そう言いながら姉は手元にある書物。果たして一体何処で手に入れたのか、学園の新任リストに載せられていた名前の一つを愛おしそうに撫でる。
「貴女、生まれ変わりってわかるかしら」
次回の更新は8月27日を予定しております