「ん? あれ?」
此処は何処だろう。ふと気が付いたら見覚えの無い場所に居た。目の前に正門だろうか、やけにデカイ。表札には日本ウマ娘トレーニングセンター学園と刻まれており、周りの桜並木は葉が全て散って、冷たい風が吹き荒れる。
季節は冬だろうか。
正門前にはこれまた大きく『日本ウマ娘トレーニングセンター学園試験会場』の看板が建てられており、周りの若い男女は次々と中へ吸い込まれていく。自分の手元には筆記用具や書類が入った鞄。格好はスーツ姿とこれまた周りと同じような格好だ。
どうやって此処に来たのか、何しに此処に居るのか全くわからん。なのに不思議と心は落ち着いている。一体これはどういう事なのか。
「よお! 早いな!」
後ろから見覚えの無い男性に話しかけられた。癖毛を後ろで一つ結びに束ねており、左側頭部を刈り上げた特徴的な髪型をしている。顎周りには無精ヒゲがちらほら見え、バ蹄柄の棒つきキャンディーを咥えている。歳は二十代くらいだろうか。そう俺と変わらない気がする。
「?」
「なんだよ、そんな不思議そうな顔して。可愛い後輩の様子を見に来たっていうのに」
「えっと…すいません。どちら様でしようか?」
「―――はぁ?」
怪訝そうな顔をする男。どうやら俺の知り合いらしいが全く覚えがない。というよりも。
「俺―――誰なんですかね?」
相手がお前は一体何を言ってるんだと、更に顔を歪ませて近づいてくる。自分の記憶が全く無い。名前もどんな人間なのかわからないのだ。
「…寝不足か? 目が死んでるぞ。試験前に緊張するのはわかるけどしっかりしてくれよな」
思いっきり背中を叩かれ鑪を踏む。これ以上此方の冗談に付き合ってられないと無理矢理腕を引っ張られ、学園内に入れられた。
中々強引で話を聞かないタイプだったが、面倒見は凄く良い人だった。わけがわからない此方の為に試験会場へ連れてくれて、手続きの指示を細かくしてくれる。
どうやら俺はこの学園のウマ娘トレーナー認定試験を受けに来たようだ。確信が得られないのは記憶が無いこともそうだが、何故か此処にいてはいけないと自分の何かが教えているような気がする。うおー、なんだこの感覚。
「最初は筆記試験。次に技術試験。最後に面接がある。名前は此処の欄に書け―――何? わからない? 学生の頃から世話をかかせる奴だったが仕様がないなー! 資料にお前の名前があるかもしれないから見てみろ」
確かに。試験会場の案内書封筒に自身の名前が書かれていた。この親切な人は恐らくプロのウマ娘のトレーナーだと思うが、俺が緊張のあまりパニックになっていると勘違いしているらしい。記憶喪失という非現実な状態を全く信じていない。
「お前の夢への第一歩だ。くれぐれも後悔しないようにしろよ」
「はい。ここまで親切にしていただき、有り難う御座います」
丁寧にお辞儀をしたら、またしても怪訝そうな顔をされた。様子から見てこのようなことをする間柄でもなかったかもしれない。
試験所にはまだまばらながら既に準備が整っている人達がいる。とりあえず自分の席を探し、筆記用具を出して待機していると程なく試験が始まった。
第一問は…レース日、天候は雨。前日まで快晴であったが直前にゲリラ豪雨発生。重バ場。三番人気まで先行ウマ娘。担当ウマ娘の脚質は追込。対策とその理由を答えよ。
また難しいのがきたな。
ゲリラ豪雨ということはターフの泥濘は恐らくない。だが芝が雨に濡れているせいで滑りの危険性があるな。特にコーナリングの加速はやめた方が良い。体勢を整えるせいで余計な体力は消費したくない。ペースを上げるとしたら直線。コーナーは大きく開いてでも余裕を持たせる。担当の脚質は追込だ。大外から最後の直線でも充分勝機は狙えるだろう。
よし、次。意外にも難なく解けているのが気持ち悪いが、まぁ…問題ないか。
筆記試験が終わると次は技術試験。指示された場所に向かう途中、同じく試験を受けていた可愛い子がいたので連絡先貰おうとしたら逃げられた。
三回失敗した辺りで、今日一番可愛い子と話をすることが出来た。黒髪のボブカットに短めのポニーテール。スレンダーな子で名前は桐生院葵さんというらしい。
なんか良いとこのお嬢様みたいな名前だと思ったら、今朝親切にしてくれたトレーナーが飛んできて拳骨された。
本物の御嬢様だったようだ。おかげでタイミングが無くなり連絡先は貰えていない。
試験会場でも軟派してんじゃねぇ!と叱られたが、なるほど次は試験が終わった後にしよう。みんなピリピリしてますしって言ったらまた拳骨喰らった。なんで…。
技術試験はウマ娘の道具整備が多かった。学園で遣い古された蹄鉄を各々綺麗に整えていく作業や怪我による応急処置が主だ。これも問題なくクリアしてしまい拍子抜けしてしまう。
二つの試験が終わり、一息ついていると今朝のトレーナーがまたしても話しかけてくれた。本当にこの人面倒見が良いな。このまま誤解されるわけにもいかないので記憶喪失であると改めて伝えたらまだ疑いながらも驚愕していた。
「はぁ!? お前本当に記憶喪失なの!?」
「それすらどうなんでしょうね。記憶が無いんで状況がわからなくて」
「てことは俺のことも忘れているのか…」
あからさまにショックなようで肩を落としている。この親切な人、名前は沖野というらしい。高校からの先輩らしくトレセン学園のトレーナーをやっているが後輩である俺が来るとわかってわざわざ尋ねたようだ。
急いで病院に行った方が良いのだろうかと沖野さんに聞いてみたが、渋い顔をする。
「病院に行くべきだが、試験当日に抜け出すのは審査委員に良い印象を与えない。残りはあと面接で終わる。やっとお前の夢だったトレーナーになれるかもしれないんだ。ここでその努力を無駄にしたくない」
自分は女好きのわりに努力家のようで、試験問題の何れも問題なく解くことが出来る。技術面でも遺憾なく能力を発揮出来たし、ウマ娘のトレーナーになるため必死だったのは自分でもよくわかった。
一時的なモノかもしれない記憶喪失ごときに人生の最大転機を不意にするのは確かにあまりにも馬鹿げている。
その筈なんだけど、此処にいると不快感があるのは何故だろうか…。胸の奥がざわつくというか。喪失感というか。吐きそう。
「ほら、見ろよあのウマ娘。とんでもなく速いぞ。あの姿を見るとやっぱりトレーナーになって良かったと思うな」
沖野さんが指を差した方向には一人のウマ娘がターフを駆けていた。
その時、衝撃が走る。それはまさに閃光だった。
絹のごとき艶やかな黒髪。束ねたシニヨンから横髪が揺れ顔はよく見えないが、彼女の細足からは信じられないほどのチカラで大地を踏み締めており、獣のような激しい爆発的な加速を載せる。それなのに身体の軸は全くブレていない。流れるようなコーナリング。
一目惚れしてしまった。
手当たり次第に女性へ声をかけるようなモノではない。あのウマ娘から目が離せない。沖野さんが話しかけている気がするが頭の中に入らなかった。もっと、彼女の走りを見たい。永遠に見続けたい。
そんなあり得ない願望に支配されたが、不意に彼女の走りに違和感を覚えた。微妙に片脚を庇っているように見える。
そう思った瞬間、走り出してしまった。あのウマ娘のもとへ。
丁度休憩に入るところだったのだろう。駆けるのをやめ、一人のウマ娘がタオルを持って彼女に歩み寄る。綺麗な水色のロングヘアーをしたウマ娘だ。
近寄る俺の気配に気づいた。淡いアメジストのような彼女の双眼が此方を捉える。警戒されないように優しく話し掛けた。
「君、凄いね」
「―――っ!?」
これでもかと見開かれる彼女の目。突然見知らぬ奴が話しかけたせいだろうか、きっと怖がらせてしまったに違いない。言葉を失ったかのように固まっているのだ。
「ゴメン、驚かせちゃったね。君の走りに違和感を覚えてさ。話し掛けずにはいられなくて」
「姉様の走りに?」
水色のロングヘアーの子と姉妹らしい。目的の姉は俺の言葉に返事をしてくれないが、彼女は特に何も驚かず答えてくれる。
「もしかして脚が痛いんじゃないのかな」
「…そうなのですか、姉様?」
両者が話し掛けても彼女は中々答えてくれない。額に手を当て思案しているようだ。何か言おうと口を開いてもすぐに閉じてしまいそれを何度か繰り返す。…なんか金魚みたいで面白いな。
「貴方、今笑った…?」
ついおかしくて顔がニヤついてしまったようだ。厳しい顔をしていた彼女は更に目を細目怖い顔つきになる。もしかしたらかなり気難しいタイプだったかもしれん。やってしまった。
「いや。そういうつもりじゃなかったんだ」
状況がちょいと宜しくない。とりあえず軽く謝罪してその場から逃げることにする。
「待ちなさい」
沖野さんの元に戻ろうとしたら肩を捕まえられてしまう。ってメッチャ力強い!なんかメキメキいってるんだけど!痛い痛い!なんだこの子!?
「人を呼び止めたのよ。最後まで聞いてあげるわ」
やたら上から目線の言葉使いだ。見た目は胡蝶蘭のような美しさなのに態度と雰囲気、声質は百獣の王である。そういや走る姿も激しかったし、元来の性格はそちらなのだろう。
「あの…その…多分重心のバランス的に右脚の土踏まず辺りかな? でも無理に庇っているから他の場所も傷つけている可能性がある」
「…ふぅん」
心当たりがあるのか、此方の指摘に彼女は否定しなかった。隣の妹さんも何か考えているようだが―――なんか凄い俺のこと見てる!?
昼食に食べたゴルシ焼き蕎麦なるモノを食べたせいだろうか、もしかしたら口に青海苔ついていたかもしれん。穴が空くほど美人に見られるのは嬉しいがあと七年…いや五年歳を重ねていれば声をかけていたものを。
「そういうところも変わらないのね」
姉の方が呆れた目で見てくる。鋭いな、此方が妹さんに熱い視線を送っていたのがバレた。…あれ? そういうところ?
「貴方、今日試験受けにきたのよね。合格したら私の元に来なさい」
「え。なんで」
「わからない? 貴方をト―――「こらー! 待ちなさーい!」
何か言おうとしたら突然大きな声に阻まれる。何事かと見ればターフを駆け回っているウマ娘を一人の女性が追いかけまわしていたのだ。緑の制服に身を包み、二股のポニーテール、優しげなとんでもない美人! しかもメチャクチャ脚が速い!
バカな! ウマ娘じゃないのにタイトスカートであのスピードだと!? 信じられねぇ!
ウマ娘姉妹をそのまま放ったらかして、急いで先回りし前に立つ。女性はちょっと驚いて首をかしげながらも立ち止まってくれた。
「お姉さん。貴女の美しさに一目惚れしてしまいました。失礼でなければお名前をお教え戴けませんか」
「え? え?」
困ったようにオロオロしている。その姿も凄く可愛い。
「よければこの後お食事でも行きません?」
記憶喪失で良い店なんぞわからんがこんなチャンスを逃してたまるか。女性は愛想笑いというか、困ったような笑みを浮かべている。あまり手応えはない。マズイ、変な人だと思われたかもしれん。
「あ」
愛想笑いをしていた女性は突然、声をあげる。その瞬間背後から冷たい殺気を感じた。腰に細い腕がガッチリと回され拘束される。全く動けん。何事かと振り向けば"無表情"の先程のウマ娘(姉)がいた。
あっ…と思ったら視界が逆さに変わる。俺はそのまま海老反りになった彼女にターフへ思いっきり叩きつけられ意識を失った。
「姉様ーーーーー!?」
―――――
目が覚めると夕方だった。真っ白なベッドで寝かされており、目線だけで周りの状況を確認しようとしたら、何故かあのウマ娘が椅子に腰掛けて無表情のまま俺をジーッと見ている。超怖い。
「そんなに見られると照れるな」
「開口一番に減らず口が叩けるようなら大丈夫ね」
皮肉を言われたけど、何かそれがおかしくて笑ってしまう。起き上がると枕の後頭部辺りに氷袋があり、寝ていた時間の割にはまだ真新しさがあった。彼女が小まめに変えてくれていたのだろうか。
「今は君、一人だけ?」
「えぇ。残念ながら貴方が遊蕩に誘った人は此処にいないわ」
人聞きの悪い。此方は本気で交際したいと思っているというのに。
「その割には手当たり次第に見えたのは気のせいかしら」
いやいや、そんなまさかまさか。俺はビビッときた人にしか声をかけていない。事実、君の妹には手を出してないし。
「そういえば、私の時も話し掛けてきたわね。私にも交際を申し込む気だったのかしら」
「いやそれはないよ」
流石に未成年は手を出さない。彼女の走る姿に今までと違う衝撃を受け見惚れたが、一時の迷いと思っておこう。
「面白くない男」
自分が女性として魅力がないと勘違いさせてしまったのだろうか。不機嫌そうにそっぽ向いてしまう。見た目や雰囲気は大人びているのに結構子供っぽいとこもある。
「逆に君は面白いね」
初対面の相手にジャーマンスープレックス決めるウマ娘なんて見たことも聞いたこともない。よく生きていたな、俺。
「名前。なんていうの」
「―――――」
このままお互いに名前を知らないのも座りが悪い。彼女は口を真一文字に結んでいるが別に俺は邪な気持ちはない。軟派とかしないから教えて欲しかった。
「ラモーヌ。メジロラモーヌよ、ジェントルマン」
ラモーヌ。アルプス山脈か。メジロに聞き覚えがないが良い名前だ。
「俺の名前は…「知ってるわ」…え?」
彼女の噛み締めるような声に言葉が詰まる。見ればラモーヌの手には俺の名前が書かれた封筒を持っており、なるほどそれで知ったのかと理解した。
「…って! そういえば試験だった!」
あの後すぐに面接だったはず。時刻は既に学園の下校時間だ。完全に遅刻である。恐らくトレーナー試験は失格になってしまっただろう。
「まぁ…でもいっか」
なんか、不思議と安堵している俺がいる。もうあんな思いするくらいならと自分であって自分ではない何かがそう言っているのだ。
「何か勘違いしているようね。貴方の試験はまだ終わっていないわよ」
「はい?」
―――――
ラモーヌに連れて来られたのは理事長室。彼女がノックすると中の方から幼い声で「許可っ!」と大きく返事がかえってきた。疑問に思いながらも中に入ると厳かな内装とは違い、場の雰囲気は和やか。
「お、きたな」
そこには沖野さんと、ホワイトのメッシュが入ったオレンジ色の長髪。ツバが広い大きな帽子を被った小学生くらいの小さな子供が腰掛けて談笑していた。ついでにあの連絡先を貰おうとした緑の制服の美人さんが少女の傍らに佇んでおり、同じように会話を楽しんでいる。
「歓迎! たづな、二人にもお茶の用意を」
あの美人さんはたづなという名前らしい。女の子は元気良く手にしていた扇子を開くとラモーヌと俺にソファへ座るよう促した。丁度、俺が沖野さんの横でラモーヌが女の子の横に座る対面式。
「君がメジロ家のご令嬢が言っていた試験生だな。話に聞いた通り…いやそれ以上に目が…うむ…」
目が死んでいることに驚いているのだろう。まぁ自分自身も驚いたのだから無理もない。それよりメジロ家のご令嬢という単語が気になる。この場でメジロという名前はラモーヌだけだと思うがまさか彼女はどっかの御嬢様だったのだろうか。
「彼女から直々に失格を待ってほしいとお願いされた時は本当に驚いた」
まさか意外なことにラモーヌは俺の失格について取り合ってくれたようだ。本人が俺を気絶させたことに罪悪感を持ったからだろうか。だが、いくら相手が良いとこの子であろうとそのような特別視はいけない気がする。
たづなさんがお茶の用意をしてくれて俺とラモーヌの前にそれぞれ紅茶を並べた。
「本来このようなことは私自身あまり好ましくない。しかし、君の筆記試験、技術試験共にその結果は見事!と言わざる得ないっ!」
まだ正確な集計は完了していないが、俺の評価は他の試験者に比べて群を抜いていたらしい。ラモーヌによる事故さえなければほぼ合格していてもおかしくないようで、学園としても期待の新星をこのような形で潰したくないと。
なるほど。俺の現在状況は理解出来た。だが一つだけどうしてもわからないことがある。
それはこの場の状況だ。
みんな当たり前みたいな態度で進めているから此方としてはひたすら頭にハテナが出て混乱している。
ラモーヌに叩きつけられた時に周りと見ている者が違ってしまったのかと思い言い出せなかったが、失礼にあたる可能性があるため、周りには聞こえないよう隣にいた沖野さんに小さく囁いた。
「沖野さん沖野さん…」
「な、なんだよ。急に…」
俺の声は本当に小さく言った。沖野さんにしか聞こえないように。ウマ娘であるラモーヌになら流石に聞こえるだろうと思っていたが―――。
「なんで此処にちっちゃい女の子がいるんですかね…?」
理事長室が一瞬で静まりかえり、何故か皆が石のように固まるなか。ラモーヌだけは口に含んだ紅茶を、霧雨の如く盛大に吹き出した。
次回の更新は9月8日0時の予定です