ある街の片隅に、緑に覆われたレンガ造りの洋風建築が1棟。
けして屋敷と言える程の大きさでは無いものの、その佇まいはかなりの年代を感じさせるものだった。ところでこの建物が面する通りは常日頃から閑散としており、お世辞にも集客が見込めるとは言い難い。ましてや地元住民でさえ化け狐が出るだの噂をして不気味がり、避けてしまう程である。
そのため、まことしやかに囁かれるものの、決して公になることは無い、そんな不思議な喫茶店があるという。
曰く、店主は幼い容姿に相反するように深い見識を持ち合わせている。
曰く、その喫茶店は何十年も続いているのに店主は老いることは無い。
曰く、提供される素朴料理は一見素朴だが、1度食べると病みつきになってまるで魔に魅入られたかのように虜にされて、遂には骨抜きにされてしまう。
先の狐の噂も相まって、いつしか喫茶店はこう呼ばれるようになった。
「狐ノ巣」と。
***
からんからん、と軒先に吊るされたベルが心地よい音を刻む。どうやら客がやってきたらしい。カウンターチェアから飛び降り、ぱたぱたと音を鳴らしながら小走りに扉へ向かう。
「いらっしゃい、なのじゃ。好きな席に座るとよい、直ぐにお冷と品書きを持っていくからの」
どうやらやって来たのは数年前からの常連となった、背広の似合う老紳士だったようだ。再び小走りにカウンターを潜ると、台座に乗って予め準備しておいた透明のグラスに氷と水を注いでやる。こちん、と氷の割れる音がして少し気持ちが良い。慣れた手つきでお盆にグラスとメニューを並べ、老紳士の元へ足を運ぶ。
「またせたのぅ、お冷と品書きじゃ。後で水差しも持ってくるからの、ゆっくり注文を考えるとよい」
老紳士の会釈を受け取ると口角を上げ、再度カウンターを潜る。初めて来店した時から彼は寡黙な男性で、時折こちらを覗いてはまるで幼子を見守るような視線で見つめてくる。それがどうにも気恥ずかしく、しかし嫌いにはなれない。
(あやつも少し饒舌になれば良いのじゃがな、もう数年来の付き合いじゃというのに)
言葉を交じわす時があるとすれば、注文や退店時の挨拶くらいだろう。そう考えると、以外にも彼の仔細について今一つ理解が及んでいない事は、少し勿体ないような気もした。
(後で注文を取る時にでも話してみるかの)
少し高めのカウンターチェアによじ登り腰掛けると、机に頬杖を付いて件の老紳士を見やる。眉間に皺を寄せて真剣に悩んでいるようだ、彼は決まって平日のお昼時にやって来てはオムライスと食後の珈琲を注文する。ところが今日は違う料理を所望らしい。品書きとにらめっこしてる様子はまるで子どもの様で、落ち着きがなく、それが何とも可笑しく感じてしまって、自然と頬がゆるむ。
(わしのことを童扱いしとる様じゃが、わしに言わせれば主もまだまだ童じゃて)
首を傾げながら今だ奮戦中の彼の元に、水差しを持って再び赴く。
「どうじゃ、注文は決まったかえ?」
「うむ……何時もはオムライスを頼むのだが、今日はこのハンバーグセットにしようかと悩んでいてね」
彼は自身の目線の高さに合わせるように品書きを見せてくると、指先がオムライスとハンバーグセットの間を行き来してして、思っていたよりも真剣に悩んでいるようであった。
「主も男なのじゃからスパッと決めぬか、と言いたいところじゃが……わしの手作りハンバーグはわれながら絶品じゃからのぅ、その気持ち分からんでもない」
再び老紳士は悩み始めると、あまり時間を掛けさせるのもどうかと感じ、変則的に折衷案を提案することにした。
「それならばオムライスハンバーグはどうじゃろうか。セットでは無くなるがゆえライスのおかわりは別料金じゃが、主の好きなオムライスとハンバーグが一緒に付いてくるぞ」
老紳士は天啓を得たように何度も頷くと、「じゃあそれにしようかな」と告げ注文が決まったらしい。「あいわかった」と返すと、踵を返して厨房へと向かう事にした。
***
それから15分ほどして、オムライスを綺麗に盛り付けた後、予め寝かせておいたタネを中に火が通るまでしっかりと焼いて横に添える。仕上げに特性のデミグラスソースを掛けてやると、香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。
「うむ、よい出来じゃな」
万が一粗相が無いようにワゴントレーに載せると、キャリキャリとリズムを鳴らしながら老紳士の元まで料理を運んでいく。
「長い時間待たせたのぅ、たんとお食べ」
料理とカトラリー一式を配膳してやると、彼は待ってましたと言わんばかりに「頂きます」と矢継ぎ早に合掌、スプーンでオムライスを掬って口いっぱいに頬張った。
「ふふ、美味いか? わしの特製料理じゃからな、しっかり味わってくりゃれ」
流れるように対面の椅子に腰掛けると、再び頬杖を付いて彼の一連の行動を観察してみることにした。ガツガツとオムライスをかっこみ、時折ハンバーグを切り分けて一緒に口に入れている。歳の割に存外落ち着きないのぅ、と改めて感じたのはここだけの話である。
それから五分程して、大盛りとは言わずともそれなりの量あった皿をペロリと平らげると、満足気な表情で「ご馳走様、美味しかったよ」と伝えてくる。思わず破顔してしまうと、「どうせ珈琲飲むじゃろ? わしの分も持ってくるから待っておれ」と一言伝えてカウンターに戻る。
焙煎してあった豆を挽いて、沸騰させたお湯をケトルと珈琲ポットの間を3往復ほどさせ、温度を少し下げる。準備が出来ると、とととと、と浮かび上がった饅頭型の膜にのの字を描くように、均一に満遍なくドリッパーでお湯を注ぐ。フィルターを通して灰汁が取り除かれ珈琲が抽出されていくので、丁度よいタイミングでドリッパーを外し、お湯を少し足してかき混ぜる。陶器の珈琲カップに出来上がりのものを注いでやると、奥深い苦味のある香りがしてくる。続けざまにカップをソーサーに載せ、机まで運んでやると、感謝の意を込めて老紳士は会釈をした。
「今日のはコロンビアという銘柄でな、奥深い味わいなんじゃそうじゃ」
カタッ、と珈琲カップを持ち上げるとこくっと珈琲を飲み込む。なるほど、確かに店の者が言っていたように言葉にし難い味わいがある。
「ぬ、そういえば珈琲に良くあうという洋菓子を貰っておったのぅ。少し待っておれ、直ぐに持ってくるわい」
それから一分と経たぬうちに再び椅子に腰掛ける。机に置いた箱から取り出したのは、近場では有名な洋菓子店のガトーショコラであった。
「これじゃこれじゃ、やはり珈琲にはチョコレイトじゃのう。主も勿論食べるじゃろう? 甘いものは別腹と言うしのぅ」
フォークで崩れぬよう切り取ると、口に運ぶ。「んんー!」と頬に両手を当て、身をよじって美味しさを表現する。甘味を摂取した事で気分が高揚したのだろう、ドロンと音を立てて自身の頭と尾てい骨辺りにに狐の証左たるお耳と尻尾が現れた。
「おっと、つい興奮して変化が解けてしもうたかぇ。わしも妖狐としてまだまだじゃのう」
老紳士はガトーショコラを食べながら、流し目に耳へと視線をやる。彼にとって自身が妖狐であることは既に周知のところで、というよりこの喫茶店の常連においては誰しもが1度は目にする様子であった。
「むぐむぐ……。そうじゃ、主は普段何をして生活しておるんじゃ? 主と話す機会全然無かったからな、わしは何も知らんのじゃ」
老紳士は告げられた事実に少し以外であったと言わんばかりに目を見開くと、そうだったと言わんばかりに一人納得顔であった。
「じゃから気になっておるんじゃ、主がどんな物を食べて、どんな考えを持って、どんな人生を送っておるのか。それが、永き時を生きるわしにとっての何よりの楽しみじゃからのぅ」
そういう事でしたら、と普段は質素な食事に努めていることや時折この店に訪れて贅沢をすること、家事をするのに身体が弱ってきたことなど食生活から抱えている悩みに至るまで広く語ってくれた。
「そうかそうか、童のような主のことじゃから色んなことに手を出しとると思ったんじゃが、存外味気無い生活しとるんじゃのう。ただでさえ齢を重ねて肉付きも悪いんじゃ、しっかりと自愛せぇ。主が顔を出さなくなったら、それはそれで寂しくなるからのぅ……」
しんみりとした心持ちになった所で、ふと彼の身内のことを思い出す。以前この店に訪れた際は仲睦まじい様子で会話を弾ませていたので、今も変わらず仲良くやっているのだろう。
「番はどうしたのじゃ、確か前に来た時は別嬪を侍らせておったじゃろう。息災にしておるか?」
そう問いかけると、老紳士は瞼を持ち上げこちらに視線を合わせてくる。少し困ったように眉を細める彼の姿はどこか寂しげで、今にも涙を零してしまいそうな面持ちをしていた。
「……そうか。それは、残念じゃったな……」
ぽつ、と呟くと彼は瞼を閉じ、首を何度か左右に振る。貴方が気に病む必要はありません、と暗に告げているのだろう。数年来のそれなり程度の付き合いではあるが、彼が不器用で誰かを思いやることの出来る優しい人間だと知っている。おそらく何の意味も無いかもしれない、自己満足かもしれない、けれど自分も少し目を瞑って故人を偲ぶことにする。立ち上る珈琲の匂いに、どこか安らぎを感じた。
***
あれからどのくらい時間が経ったのだろう。珈琲からは既に熱が失われており、外から入り込む鳥のさえずりのみが時間の流れを讃える。
先程から思案顔になっていた老紳士は、静寂を崩すように一言。
「私の身の上を、聞いて頂けますか」
そこにはどんな感情が込められていたのか、こちらを見つめているようでどこか違う方向を見ている気もする。特段断る理由もないので、軽く頷くことで肯定の意を伝えると、老紳士は重たい唇を開いた。
日頃よりお世話になっている貴方になら、と枕を置いて、ぽつりぽつり、と語り始める。つい先日、奥方に先立たれてしまったこと、友人と呼べるものは皆寿命やら病気やらで命を落としており天涯孤独の身であること、かつて一人息子がおり、たいそう可愛がっていたが流行病によって短い命に幕を閉じてしまったこと、愛する身内に先立たれ、むざむざと生き長らえてしまっている自身がなんと醜いことか。
老紳士は、ゆっくりと、懺悔するかのように胸の内を吐露し終えると、一言断って煙草に火を灯す。そして一息に吸い込むと、ふぅっ、と白煙を吐き出す。辺りに漂う煙はまるで彷徨う子どものようで、あちらこちらへと散らばって最後には空気に溶け込むように消えていった。
おそらく、彼の体験した出来事は妖狐である自身では推し量ることの出来ない気苦労や葛藤があったことだろう。もしかすれば今現在も彼の胸中は無念に苛まれているのかもしれない。常連である彼にはあまり苦しい気持ちを持って欲しくないのぅ、なんて思ってつい言葉にする。
「よく、頑張ったのぅ……」
それが彼にとってどんな意味を持ちえるのかは分からない。例えば、それは彼の良心を刺激してしまうような劇薬になっていたかもしれないし、或いは彼の心に何もさざ波を立てることも無い、ただの音の結びつきだったかもしれない。けれど、彼は再び白煙を吹くと、小さく。
「これで……良かったんでしょうか」
そう、吐き出した。
「……悠久の時を生きるわれら妖狐にとって、短命の定めにある人の子の気持ちを真に理解することは敵わん……。じゃが、それでも……故人を偲ぶ心持ちは共にあるのではないかと、そう思う……」
「……」
どこか沈痛な面持ちで、されど自身の語りに確りと耳を傾け、一言一句を聴き漏らさぬように努めている。
「愛して、おったのじゃろう」
「! …………はい……!」
「愛おしかったのじゃろう」
「……はい……!」
「苦しかったん、じゃろう」
「はい……!」
「寂しかったん、じゃろう」
「はい゛っ……!!」
せき止めていた涙が、ぼつりぽつりと裾を濡らす。
「そうか……そうかそうか……! よくぞ、よくぞ一人で、今日まで生き抜いてきた……! 辛かったじゃろう、寂しかったじゃろう……!! 」
「私は……! 妻に、息子に、何をしてあげられたでしょうか……!! 私よりも早くに亡くなり、私はのうのうと生き長らえてしまっている……! 私は……! 生きていて良かったのでしょうか……!!」
男の号哭は続く。かつての物腰柔らかな老紳士の姿はそこにはなく、ただ一人、かつての情景に身を焦がし、最愛の家族を想う男の姿があるだけだった。
***
「……少しは、落ち着いたかえ?」
「えぇ……えぇ……情けない姿をお見せして、お恥ずかしい限りです」
「何を言うか、最愛を想うのは人の子も妖狐も何一つとして違わん。普段は紳士的な主にも、実に可愛らしいところがあるではないか」
「ははは……余りからかわないでください。私も既に還暦を迎えていますから、少しお恥ずかしいのです」
「何を言うか、還暦だろうと百年生きようと、わしが生きてきた時間には適わんよ。それより、もう行ってしまうのか? 」
「はい、つい先日行ったばかりですが、やけに妻と息子に会いたくなってしまいまして……」
「そうかそうか、主にそれだけ想ってもらえる二人は幸せ者じゃのう。きっと極楽浄土から主のことを見守っておるよ」
「えぇ、そう言って頂けると嬉しい限りです。では、あまり遅くなってもいけませんので、これで」
「うむ、また近いうちに寄るといい。遅くなったが、還暦祝いに甘味でも用意しておこう」
「ありがとうございます。それでは、今度こそ。またお会い致しましょう」
「じゃあの、車には気をつけるんじゃぞー」
老紳士は手を振ると、扉を開けて出ていってしまった。からんからん、と寂しげにベルが音を告げる。また一人になってしまった店内には、しーんとした空気が広がっているが、不思議と孤独感を感じない。
「ふむ……新しい料理でも作ってみるかの? ひとまずはハンバーグオムライスにチーズでも乗せてみるか。えぇと卵卵……」
カウンターを潜り、厨房に躍り出ると、ガサゴソと冷蔵庫を開いて漁る。
「あやつチーズに好き嫌いはあるんじゃろうか。せっかくじゃし色々と試してみるかのぅ」
人の子も妖狐も誰かを偲ぶ心は変わらない。ましてや今を生きる間柄においては言うまでもないだろう。静かな店内には、午後三時を告げる時計の音が鳴った。
「あ! 今日のおやつあやつと食べてしもうたんじゃが!!」