薄っすらと山の向こう側の空が白んで来る時間帯、近衛家に隣接した道場の中。
振り上げられた一本の竹刀が、軽快な音を立てて振り下ろされる。同時にきゅっと踏みしめられた道場の床が鳴り、時折それに合わせて玉のような汗が宙を舞った。
その様子を眺めるように、道場の窓の外には小鳥が止まっている。
素振りが終わり、次に形稽古が始まる。竹刀を使って、徒手で、決められた動きをより洗練するよう丁寧に何度も繰り返す。何度も、何度も。やがて太陽が顔を完全に覗かせるまで、それは絶え間なく続けられた。
とんとんと軽快な音がキッチンの中に響き渡る。
窓から差し込む朝日に照らされた少女の名は松江優希だ。彼女は慣れた手つきで大根などの野菜を切ると、それらを先に出汁だけ取っておいた鍋の中にいれ、ひと煮立ちさせてから味噌を追加して混ぜる。そして鍋の火を止めてからソーセージ、ベーコンに卵をフライパンで焼きつつ、並行して軽く茹でて醤油にひたしておいたほうれん草を取り出して小鉢に盛っていく。
優希がこうして料理をしている理由については、つい昨日の夜まで時間は遡る。
昨夜、優希が風呂に入っていると日向の母親である楓が当然の様に乱入してきた訳だが、その際に優希がこのまま世話になっているのだからと自分も料理をすると買って出たのだ。
『そんな気にしなくても良いのに…、でも優希ちゃんがそう言うのならお願いしようかしら』
そう言って一瞬だけ複雑そうな顔をしながらも楓は快諾し、優希は近衛家のキッチンを使う許可を得たのである。
そんな経緯もあり、今朝から早速優希はキッチンに立っていた。やがて炊飯器から米の炊けた音が鳴り、そうして出来上がったのは、ほうれん草のお浸し、ソーセージ、ベーコンエッグ、味噌汁に白米という和洋折衷な朝食だった。
完成したそれらを眺めながら優希は一人はてと腕を組んで唸り声を上げる。
「んー、早く作りすぎたかな…。でも、昨日は俺が起きた時には日向も美鈴ちゃんも起きてたし…」
優希が悩んでいたのは朝食を食べるであろう近衛家の面々についてだ。付き合いは長いと言えども、流石に起床時間までは把握していない。現在の時刻は少なくとも昨日優希が起きた時間よりはかなり早いため待ちぼうけにする事は無いだろうが、すると今度はいつ温め直せば良いのかという問題が出てくる。
続けていれば丁度良い時間帯が分かるのだろうが、こればかりはどうしようもない。
「…あれ、優希?」
優希が唸っていた所、不意に後ろからそんな声がかかる。聞き馴染みのある声に優希が振り返ると、そこには微かに髪を湿らせた近衛日向の姿があった。
「日向…。おはよ、お風呂にでも入ってたの?」
彼の髪、そして肩に掛けられたタオルを見ながら優希が問うと、日向はぎくりと顔を強張らせた。
「あ、あぁ、おはよう。そうそう、最近朝風呂にハマってんだよ。…それよりなんか良い匂いがするけど、優希は何してたんだよ」
「?何って、朝ごはん作ってた。今丁度出来上がった所」
変に焦っている日向に首を傾げつつ、優希はつい先ほど完成したばかりの料理たちを手で指す。すると、日向は『おぉ…』と低い歓声を上げて軽い足取りで優希の下へと近づいて、ぱちぱちとその目を瞬かせた。。
「美味そう。優希の料理なんて久しぶりだよな、いつぶりだっけ」
「んー、それこそ春くらいじゃない?ほら、お花見したでしょ」
春というとおおよそ4か月程前、日向の急な思い付きで美鈴も加えた三人は花見に赴いたことがあった。その際に料理を担当したのが優希で、美鈴が優希に対して負けられないと料理をし始めたのはこれが原因である。
「あったな、そんな事。あの時の弁当も最高だったよな…、なぁ優希、またあの弁当作ってくれよ」
「ん、良いよ。…って言っても、大したものは作ってないんだけどね。何なら今日のお昼に作ろうか?」
「マジ!?よし決まりな。絶対だぞ、絶対だからな」
当時の事を思い返した日向の頼みを優希が快諾した途端、日向は子供のように目を輝かせながら念押しして、そんな彼を見た優希は思わず苦笑いを浮かべる。
「そんなに喜ばなくても…」
「いやいや、喜ぶって。そのくらいあの時の弁当は美味かったんだ」
「そう?それは…ありがと」
混じりけの無い称賛に、照れたように優希がはにかんだ。日向はこういう時に世辞を言わない。それが分かっているだけに尚更であった。
「あ、そうだ。日向の家だといつも何時くらいに朝ごはん食べるの?」
照れを隠すついでに、優希は先ほどから気になっていたことを日向に聞く。本人に聞くのが一番早い、そう考えて聞いた筈だったが、しかし優希の質問を受けた日向は何故か首を傾げてしまう。
「え、どうしたの?」
あまりに予想外の反応に優希が驚いていると、やがて日向は話しづらそうに口を開いた。
「いや、答えに迷ってさ。うちは基本的に夕飯は一緒だけど朝と昼は日によりけりなんだ。朝なんかは特にバラバラで、早めに起きた時は俺が作ったり、美鈴やお袋、親父が作ってたりして、それを各々の時間で食べる」
「そうなんだ。じゃあ、食べる時間は決まってないんだね」
「そゆこと。だから優希も時間とかはあんまり気にしなくても良いからな」
堅苦しい武家である近衛家だが、こういった点では基本的に奔放な面がある。これが近衛家に合った形なのだと理解すると共に、優希の胸にちくりとした痛みが走った。
「優希?」
心配そうな声音で呼びかけてくる日向に、両手を振って何でもないと優希はアピールする。
「あ、ううん。でも、それなら俺ももうちょっと早く作った方が良いのかな。日向もお風呂入ってたのならもっと早起きって事だし」
「え…、いや、この時間で丁度良いんじゃね?俺もただ風呂に入るだけだし、美鈴や親父もあったとして稽古で早起きするくらいだしさ。なんなら遅くても良いくらいだって」
「…」
やけに焦っっている様に見える日向を優希が無言のままじっと見つめる。
「日向、何か隠しごとしてない?」
「…よし優希、配膳手伝うぜ。美鈴もそろそろ起き出す頃だから三人分だな。いやー、相変わらず優希は料理が上手いなー!」
誤魔化すように大声を出しながら、てきぱきと普段はあまり見せない俊敏な動きで皿に盛り付け盆にのせる日向。
「あ、もう…」
尚も声を掛けようとする優希を置いて日向は逃げる様に出て行ってしまい、置いて行かれた優希はむっとした顔で小さくぼやいた。
「あ、優希さんおはようございます!」
「おはよ、美鈴ちゃん」
優希が二つに分けたもう一つの盆を持って日向の後を追っていると、丁度二階から降りて来た美鈴と鉢合わせた。美鈴は寝起きという訳ではなく、しっかりと身支度を整えた万全の状態だ。
「あれ、それって優希さんが作ったんですか?」
優希の持つ湯気を立てている三人分のソーセージとベーコンエッグを目ざとく見つけた美鈴が、パッと笑顔になって無邪気に問いかける。
「うん、そうだよ。美鈴ちゃん、朝早いだね」
「それはもう、早起きは三文の得ですから。優希さんだって、今日もばっちり決めてるじゃないですか、可愛いですよ」
「ありがとう…決まってる服しかないから、割と必然なんだけどね」
先日まで男性で、特に女性服でのファッションに興味も無かった優希に知識がある筈もなく。基本的に買った際に美鈴の選んだ組み合わせをそのまま着ているのだ。
その為、現在の優希の服装としてはかなり気合の入っているモノとなっていた。そんな優希の姿を見て、美鈴は満足そうに頷いている。
「良いですね、やっぱり優希さんにはその系統の服が似合うんですよ」
「あはは、そうかな…。でも、美鈴ちゃんにも似合いそうだけど」
優希がそう口にした途端、ぴたりと美鈴の動きが止まった。
「…優希さん、今のはずるいですよ」
拗ねる様に言う美鈴の顔はほんのりと赤らんでいて、それを受けた優希はキョトンとした顔で首を傾げる。
「え、何が?」
「何でもないです。それよりアタシ早く優希さんの料理食べたいです、早く居間に行きましょ!」
美鈴に背中を押され催促されてながら二人は揃って廊下を歩いた。
そうしてたどり着いた居間では日向が白米と味噌汁を並べていて、襖の開いた音に優希たちの方へ振り返る。
「なんだよ、美鈴も一緒だったのかよ。聞いて驚け、今日の朝飯は何と優希手作りだ」
「さっき聞いたー。それより兄貴、今日は寝不足になってない?」
「当然だ、俺を誰だと思っている。まぁお前のおかげで危なかったけどな」
と日向が言うのも、昨夜の優希の服の整理が熾烈を極めたのだ。かなりの量を買っていたこともあり、それらを荷解きしてクローゼットに仕舞うまでで相応の時間を要し、結局それらが完了したのは日を跨いでからであった。
日向に揶揄される美鈴だったが、しかし彼女は涼しい顔でそっぽを向く。
「おかげで可愛い服着た優希さんが見れるんだから安いでしょ」
「確かに」
「あの、そこで結託されると気まずいんだけど」
変な所で気の合う兄妹を前にして、居心地悪そうにしながら優希はテーブルの上に皿を並べていく。そうして全員分の料理が揃ったところで、三人は座布団の上に座ると手を合わせて箸を取る。
「…」
しかし、久しぶりに誰かに料理を振舞うため、優希は箸を取れども進めることは無く、緊張した面持ちで控え気味に二人の様子を伺っていた。
そんな彼女の視線に気づいた素振りもなく日向と美鈴は箸を進めていき、優希の懸念とは裏腹にその顔を輝かせた。
「あ、美味しい。優希さん、このお味噌汁の出汁どうやって取ってるんですか。アタシこんなに上手く取れたことないですよ」
「あれだよな、優希は多分然るべき道に進めば五つ星の料理人になれる人材だな」
「良かった。美鈴ちゃんにも後で教えてあげるね、日向は言い過ぎ」
何ともなしに平然として答える優希であったが、しかしその内心は安堵に満ちていた。いくら腕に自信が有ろうと、他人に料理を振舞うとは不安になるものである。
特に優希の場合はその機会自体が極端に少ない事が不安を助長していたのだ。
安心した事で、優希もまた止めていた箸を再開させ、しばしの間その場に沈黙が流れる。
「けど、本当に優希の作る料理って美味いんだよな…。丁寧で、味付けしっかりしてて。俺は多分お袋の料理よりも好きだな」
黙々と食べていた日向が味噌汁を飲み終えて、ふとしみじみとそう呟く。それを受けた優希はピクリと震えて箸を止めるとジトリと日向を見やった。
「それ、絶対楓さんの前で言ったら駄目だからな。…でも、ありがと。ウインナー一本あげる」
「マジでか、やりぃ!」
そっと自らの更に移されたウインナーに日向が歓声を上げつつ、優希はほころびそうになる顔を必死に保っていた。
「…そう言えば、楓さんと竜司さんは?いつも朝ごはんどうしてるんだろ」
ふと、話題を切り替える様に姿を見せない二人について優希が言及する。日向と美鈴は優希が起きた時から家にいたが、この二人については朝には見かけていなかった。
「お母さんとお父さんが朝ごはんを食べるのは、いつもでしたらもう少し後ですね。朝は毎日出かけてるみたいなので」
「出かけてる?」
「あぁ、大事な日課なんだと。帰ってきたら勝手に食べるから、優希はあんまり気にしなくて良いぞ」
米を大きな口で頬張りながら言う日向に『そうなんだ』とだけ返して、優希も目玉焼きを一かけら口に運ぶ。
「しっかし、優希の料理が昼も食えると思うと一日の楽しみが倍増するな」
それは何の意図も無いただの感想、ポロリと零れ落ちた日向の本音。しかしそれを聞いた瞬間美鈴はぎょっと目を丸くして優希を見る。
「え、何それ初耳。優希さん、お昼も作ってくれるんですか!?」
「うん、お世話になってるしこのくらいは…」
「やったー!」
優希が肯定した途端、飛び跳ねる勢いで美鈴が歓声を上げた。
「因みに、品目は花見の時と同じものらしいぞ。これは俺のリクエストだ」
「最高…。兄貴、グッジョブ」
美鈴にとっては料理を始めるきっかけになった出来事だ。その分も相まって、美鈴は喜色満面な笑みで日向に向かって親指を立てている。
「けど、少し材料が足りないから、食べ終わったら買い物に出掛けようかな」
朝食を作る際に、優希は冷蔵庫の中身を把握していた。そして、昼の事を考えるといくつか足りない食材があったのだ。
「当然俺は行くとして、美鈴は?」
優希が出掛けるのであれば日向もついて行く。先日の通りなら美鈴もついて行く流れだが、しかし美鈴は首を横に振った。
「アタシも行きたいけど…この後、お父さんが帰ってきたら午前の稽古があるから行けない。すみません優希さん、兄貴には十分気を付けて下さいね」
「分かった、気を付けるね」
「美鈴、優希?お前らは俺の心はガラスだという事を覚えておけ」
美鈴の真摯な心配を真正面から受け止める優希に、槍玉に挙げられた日向は真顔のまま抗議の声を上げる。無論優希とて信頼していない訳ではないが、ここはもう彼の日ごろの行いである。
「あ、でも買い物するなら先にお金下ろさないと…。コンビニに寄ろうかな…」
大量に服を購入した事もあり、現在の優希の手持ちでは少々心もとなくなっていた。その為朝でも下ろせるコンビニのATMに向かおうとするも、そこは日向が待ったをかけた。
「いや、今回は俺が出すからそのまま行こうぜ。あとで親父に請求しとく」
「良いの?なら…お願いするね」
手数料も手痛いものだ。優希も素直に甘えることにして、話も纏まったところで三人は改めて朝食に舌鼓を打ち、朝の穏やかな時間がその場に流れた。
日向達の住む上藁町の最北端、街の中心から進むにつれて人気の無くなっていくその山々の麓には共同墓地が存在している。
家から少し離れたそこに、近衛竜司と近衛楓の二名は毎朝欠かさずに赴いていた。
何をしに行くのか、とは墓地なのだから明らかだ。桶に水を汲んだ二人は目的の墓石の場所まで進んで行くと、水をかけ墓石の表面を磨き、週に一度の頻度で備えている花の水を入れ替え、新しいものに変える。
かれこれ十五年程も続けられていることもあり、二人は手際よく掃除を済ませると、佇まいを直してからしゃがんで墓に線香をあげる。
暫く無言で拝んだのち、ゆっくりと楓が口を開いた。
「…昨日ね、優希ちゃんが自分が料理を作るって買って出てくれたのよ。なんでも世話になってばかりだと心苦しい、ですって。誰に似たのかしらね、あんなに礼儀正しく育って」
その口調は親しい誰かに現状を報告するようで、ただ目の前の墓石に向かって彼女は話し続ける。
「気にする必要なんてないのに。だって、私たちはあの子に何も、してあげられていないのだから」
「…不甲斐ない限りだ。それでもあの日誓った通り、私達に出来る精一杯を、これからも続けよう」
そう話す二人は悔やむ様に顔を暗くしていて、聞いている側すら心苦しそうになる程に沈痛に満ちていた。
しかし、それでもと決意を新たにした二人は顔を上げて立ち上がる。
「話し足りないけれど、今日はこのくらいにしましょうか。またね、『希』」
「変わらず、あの子を見守っていてくれ、『希』君」
それだけ言い残すと、二人は踵を返してその場を後にする。
白い雲を浮かべて広がる青空の下、蝉の音の鳴り響く山々。ひゅるりと吹いた風は木々を騒めかせ、道の上では木漏れ日が揺れていた。