「優希ー、準備出来たかー?」
「もう少しー!」
近衛家の廊下にそんな日向と優希の声が響く。
朝食を終えた二人は予定通り買い物に赴くことにして、現在はその準備の真っ最中である。当初はすぐに出発するつもりだったのだが、出発前に一つ二人には誤算が生じていた。
「ちょっと外に出るだけで大変なもんだな」
「仕方ないでしょ、美鈴ちゃんにも念押しされたんだから。もうちょっとで塗り終わるから」
部屋の中では、優希が腕や首など服から露出している部分、その付近に片っ端から日焼け止めを塗っていた。
先日の外出の際もそうであったが、肌のケアに関しては美鈴が口を酸っぱくして優希に言い含めていたのだ。夏という事で特に注意の必要な季節である事も有るが、基本的に日傘と日焼け止めが必須アイテムとされて、絶対に怠らないようにと釘を刺されている。
「それに、俺もあんまり日焼けはしたくないから。結構肌も薄いみたいだし…」
「まぁ、心配になる白さではあるよな」
日焼けを知らない優希の肌は、お世辞にも日差しに強いとは言い難い。火傷になる事も有れば皮膚癌のリスクも高まる。美容云々以前に、紫外線によるダメージは現在の彼女にとって無視する事の出来ない問題であった。
やがて、日焼け止めを塗り終えた優希が襖を開けて日向の前に姿を現す。
「お待たせ、日向」
「全然、じゃあ行こうぜ」
「うん」
軽装な日向と日傘を手に持った優希は隣立って階下に降り、途中で美鈴に声を掛けてから家を出て青空の下へと身を躍らせた。
「それで優希、スーパーで何を買う予定なんだ?」
「えっとね、まずは…。ん、日向、あそこに見えるのって」
会話を交えながら優希と日向が近衛家を出てすぐにある坂を下っていると、不意に優希が前方から近づいてくる二つの人影に気が付き、日向に声を掛けた。
そんな彼女の視線の先に日向もまた目を向けると、そこに居たのは丁度帰って来たらしい竜司と楓であった。日向がそれを認識するのと同時に、楓たちも下って来る日向と優希に気が付いたようで、二人に向かって楓が手を振る。
「あら、日向に優希ちゃん。今からお出かけ?」
「はい、買い物に行こうかと。竜司さんと楓さんは何処に行ってたんですか?」
「ちょっとしたお散歩よ、私も竜司さんも健康が気になる年になってきたから。それより優希ちゃん、その服も日傘も似合ってるわね、凄く可愛い」
「あはは、ありがとうございます…」
褒められていない為か、楓に可愛いと言われた優希が複雑そうに笑みを浮かべている。その横では竜司と日向が向かい合っていた。
「日向、午前の稽古はどうする」
竜司から率直に問いかけられ、日向は答えに言い淀む様に頭をかく。
「あー、今日もパスで」
「そうか。なら、これを持っていきなさい」
そう言って竜司が取り出したのは一つの封筒。受け取った日向が中を覗いてみると、そこには数枚の一万円札が収められていた。
「え、何だよ親父、妙に羽振り良くね?確かに後で食費を請求しようとしたけどよ…」
話もしない内から手渡されてしまった大金に日向が震えながら枚数を数えるが、しかし竜司は尚も憮然とした態度で口を開く。
「お前の向こう数年の小遣いだ」
「マジで!?」
「冗談だ。先ほど美鈴から連絡が来た。食材の買い出しに行くのだろう、それを使いなさい」
口角を緩めた竜司は日向に対してそれだけ言うと、今度は優希へとその双眸を向ける。その瞳にいつも見せる厳しさは欠片も無く、ただ穏やかであった。
「優希君、食費は日向に持たせてある。もし足りなければ、また言いなさい」
「え、あ、はい。ありがとうございます」
「なに、礼を言うのは私達の方だ。気をつけて行ってきなさい」
話終えた竜司は、そのまま踵を返して家の方へと歩いて行ってしまう。楓もまた『いってらっしゃい』と言い残すと竜司を追って日向達に背を向ける。
「行ってきまー」
「い、行ってきます」
そんな彼らの背を日向は軽く手を振って、優希は緊張気味に返しながら見送った。
竜司らと別れた日向と優希は最寄りのスーパーへと向かっていた。
その道中、日向はつい先ほど受け取った封筒に収められていた三枚のお札を並べながら、小悪党のようにほくそ笑む。
「なぁ、優希。こんだけあれば幾つ菓子が買えるだろうな…」
「こら、竜司さんはそんなつもりで渡してくれたんじゃないでしょ。大切に使わないと…」
肘を入れつつ固い表情で呟く優希。そんな妙に思いつめている彼女に、日向はにやりと笑みを浮かべてその背を叩いた。
「分かってるって。そう言う優希も、そこまで重大に捉え過ぎなくても良いだろ?多少は気楽に行こうぜ」
「わっ、もう…。日向は相変わらず能天気だよね」
「優希は真面目過ぎだな」
幾らか叩く力が強すぎたのか、驚いたように声を上げジトリと隣の日向を睨む優希。しかし、日向はそれを意にも介さず涼しい顔で言葉を返す。
悔しそうに呻く優希であったが、すぐに諦めた様に息を吐くと日傘を両手で持ち直して道の横に広がる水田に目をやった。
優希たちの向かうスーパーは以前訪れたショッピングモールの丁度半分ほどの場所に位置していた。近衛家自体が上藁町の端の方にあるため、町の真ん中に向かって進むこととなり、歩くにつれて水田は見えなくなり住宅街へと周囲の景色は移行する。
「…そう言えば日向は買い物に付き合ってくれて良かったの?さっき竜司さんに稽古に参加するか聞かれてたみたいだけど」
家を出る前はてっきり美鈴だけが参加する個人稽古の様なものと考えていた優希であるが、しかし先ほどの竜司と日向の話を聞く限り日向も参加出来るようで、彼女の顔に付き合わせてしまったと少しの罪悪感が浮かぶ。
(今、日向はどんな顔をしているだろう)
チラリと優希が伏し目がちに日向の顔を伺う。が、彼女の予想に反して日向は苦々しくその顔を歪めていた。
「えー…、お前それ俺の稽古嫌いを知ってて聞いてるのか?」
「あ、ごめん、日向はそうだったね」
うへーと声に出しそうな程本心から嫌がっている日向の様子に、完全に杞憂であったと優希は察した。
「ん?いや、というか、そもそも稽古が好きだろうと嫌いだろうと関係ないな」
優希が一人納得している中、ふと何かに気が付いたように日向が声を上げ、つい先ほどの自分の言葉を補足する。
「え、なんで?」
「そりゃ、俺にとってお前の方が稽古よりも優先だから…。…今の、やっぱ聞かなかった事にしてくんね?」
優希の疑問に反射的に答えたのも束の間、自分が何を話しているのか理解した日向は気まずそうに優希に忘れてくれと懇願するも、しかし生憎とそれは優希の耳にしかと届いて、既に脳裏に深く刻み込まれてしまっていた。
「…ふーん、そうなんだ」
「違う、いや違わないけど!今のは言葉の綾と言うか、口が滑ってだな…!なぁ、優希?聞いてる?」
柄にもない事をよりによって本人の前で口にしてしまい、羞恥から顔に熱を帯びさせる日向が何とか訂正しようと躍起になって優希に話しかける。だが、優希は日傘を器用に使って彼との間を遮り取り合おうとしない。
そうして、日向も理解したのだろう。もう訂正は不可能だと。いや、最初から気付いていたのだ、こんなことは。彼は意味不明な唸り声を発して何とか羞恥を逃そうとするが、それも焼け石に水であった。
すると、不意に日向の周囲に影が差し、思わず顔を上げた彼の腕はとんと軽い衝撃を受ける。
「あんまり熱くなると熱中症になるよ。俺の事が最優先な日向くん?」
腕に触れたものの正体は優希の肩であった。日向のすぐ隣にまで近づいた優希は、日傘を差しながらそう言って悪戯に笑って見せ、ここぞとばかりに痛い所を突かれた日向は顔を引きつらせる。
「この…それ以上言うならその胸揉みしだくぞ!?」
「うん、良いよ?日向だったら触っても」
苦し紛れにセクハラに逃げる日向であったが、しかしそれを簡単に受け入れる優希に、今度こそ二の句が継げなくなる。
「それで、どうするの?」
「どうするって…。この野郎、変に学びやがって…!」
挑発気味な優希の問いかけ。それを受けた日向は悔しさをその顔に滲ませながら、出そうにも出せない手を宙で彷徨わせる。
優希がこう言うのも、日向が本当に触らないという信頼があってこそであった。とはいえ、実際にセクハラを受けていたことにも変わりは無いため、巡って来たこの仕返しの機会は彼女にとって絶好の好機だったのだ。
「日向って、そういう事を口では言うけど実際に行動には移さないよね」
「…あぁ、はいはいそうですよ。どうせ俺はヘタレでチキンな口先男ですよ」
「そこまで言ってないよ。ごめんって、揶揄い過ぎたよね。謝るから機嫌直してよ日向」
くすくすと笑いながら放たれた優希の言葉は鋭く日向の胸に突き刺さり、完全に拗ねてしまった彼は自虐を口から垂れ流すマシンと化してしまった。
流石にやりすぎたと優希が平身低頭して謝るも、日向の機嫌は中々直らず。結局、日向が元に戻ったのはスーパーに辿り着く少し手前であった。
スーパーに到着した二人は、籠を一つ手に取ると店の中へと足を踏み入れる。
聞き馴染のあるBGMの流れる店内には、開店してそう時間も経っていない事も有りずらりと野菜など商品が並んでいて、今朝採れたてという表記の通り瑞々しいものが揃っていた。
「まずは野菜か。優希、足りないのって何だっけ」
「えっとね…」
籠を持った日向に問いかけられて、優希は出発前に作っておいたメモを取りだす。
このスーパーは優希も良く通っている店だ。どこに何が置いてあるかもあらかた把握しており、そのメモに従って二人は次々に必要な物を籠の中へと入れていく。
「…あ、日向これはこっちの方が良いかも。野菜を見る時は色と形が重要でね、鮮度とか味もものによって違ってくるから…」
「え、これ違うのかよ。全部一緒に見えるんだけど」
「んー、確かに同じ野菜ではあるし気にしないならそれで良いと思うけど…でも、出来て損は無いと思うよ」
この場においては優希は日向よりも格上であり、日向はそんな彼女に全面的に従う。日向も確かに料理は出来るが、それでも普段から料理をする彼女には遠く及ばないのである。
そうして話をしながらも、二人は効率よくメモに書かれた食材を調達していき、やがて野菜コーナーは終わり次に肉や魚へと売り場は移る。
「…あ、今日こっちの方が安い」
「優希さ、もしかしてこの店の商品の値段全部覚えてんの?」
値札を見た途端に呟く優希に、戦慄の表情で問いかける日向。それを受けた優希はキョトンと目を丸くして、すぐに手を横に振った。
「それは普通に無理。肉系とかさっきの野菜とかよく買うものだけだよ」
「覚えてるものは覚えてんのな。俺は買い物に行ってもそんなに気にして見ないな、覚えるなんざ以ての外だ」
日向が大げさに肩をすくめて見せれば、優希は小さく笑みを漏らす。
こうして、二人の買い物は順調に進められていった。
「うん、これで全部そろったかなー」
鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気で言う優希の視線の先には、籠一杯に入った食材たち。あれから数分程が経過して、メモに合った食材は全て籠の中に入っていた。
「お前、そんなに買い物好きだったっけ?」
あまりに楽しそうな優希の姿に、思わず日向は声を掛ける。するとこれは優希も無自覚だったのか、彼女は一瞬間を置いて首を傾げた。
「そう見える?」
「自覚無かったのかよ。近年稀に見る浮かれぶりだったぞ、その内スキップでもし始めそうだった」
一応前日にも二人は買い物には行ったが、あの時は基本美鈴に引っ張りまわされるといった形ではあるものの、日向の目から見ればいつも通りの優希で、少なくともこんなに楽しそうに彼女が買い物をする姿を見るのは滅多に無いことだ。
優希も日向に言われてようやく気が付いたらしく、暫く原因について考え込んでから、何か思いついたように声を上げた
「あ、もしかしたら誰かの為の買い物だからかも。今まで自分の為の買い物だったから義務感が強かったんだけど、今は日向達が食べてくれるって分かってるし」
「確かに、自分で自分に料理作るって結構味気ないよな。なる程、そう言う事だったか」
納得しつつ、日向はもやりとした感情を心の奥底に感じていた。だが、すぐに振り払って隣にいる優希へと目を向ける。
「…あれ、近衛じゃん」
必要な物も揃ったところで、会計の為レジに進もうとする二人へと後ろから不意にそんな声がかかった。二人が振り返った先にいたのは、同じ学校に通う二名のクラスメイトだった。
「ん?佐藤に山本か、お前らも買い物?」
「そらそうよ。これから俺らの長い電車ゲームが始まるから、その買い出し」
「百年はやり過ぎだと思うのだがね。てか近衛さん、その隣の子って…彼女?」
日向との話も程々に、やがて二人の視線が優希へと注がれる。友人が見知らぬ異性と共に居れば関係性も気になるというものだ。
だが、当然彼女なんてものでは無く、日向は首を横に振って訂正を入れる。
「いや、普通に親戚」
「「だよな」」
「何声揃えてんだ、ぶっ飛ばすぞ」
事実とは言え腹が立つものは腹が立つものだ。分かってました、知ってましたと言わんばかりに声を揃えて答えた二人に、日向も思わず語気が強くなる。
「けど、可愛い子だな…。初めましてー、俺山本って言うんだけど、君は?」
片方の山本が前に出て優希へと声を掛けた。
彼らは日向の友人である事も有り、少なからず優希も面識があった。とはいえ、今以前と同じように反応を返す訳にもいかず、無難に初対面の反応を返そうと優希が口を開く。
「…っ!」
不意に優希の顔から下の方へと、彼の視線が下がった。それは男子高生としては仕方のない反応ともいえるだろう。だが、それに気が付いた途端、優希の背中に怖気が走った。
「あ…」
感じたことの無い感覚に混乱しながら、思わず優希は身を隠すように日向の背に回る。
「…あれ?」
「おい山本、何してんだよ」
「いや、別に何も」
姿の見えなくなってしまった優希に目を丸くする二人。驚いていたのは日向も同じであったが、取りあえずは目の前の状況を何とかしようと二人に向き直る。
「あー、悪いな、こいつちょっと人見知りでさ。詳しい話はまた今度で良いか?」
「おうよ、こっちこそ急にごめんな」
「またなー」
それだけ言い残して、二人は店内の奥へと歩き去る。去り際に『あの子、胸デカかったなー』『それ、顔も滅茶苦茶レベルたけー』そんな会話が微かに聞こえて来た。
「優希、大丈夫か?」
二人の姿が見えなくなった辺りで、日向は後ろの優希へと心配そうに声を掛ける。すると、黙りこくっていた彼女もようやく反応を示し、その困惑に満ちた顔を上げる。
「うん、大丈夫…。普通に挨拶しようとしたんだけど、胸を見られてるって分かったらびっくりしたと言うか、上手く話せなくなっちゃって。自分でも良く分かんない…」
そう話す優希は二人への申し訳なさに少し気落ちしているようだが、特に体調が悪いでも無く、精神的に参っている風でも無い。どちらかと言うとただ困惑しているだけの様であった。それが確認出来て、日向はほっとしつつ、ふとこれまでの自らの行いを思い出して背筋を凍らせた。
「なぁ、もしかして俺のセクハラもそうだった?」
「え?ううん、特には…。日向は大丈夫みたい」
同じことでも相手によって違うのか、はたまた付き合いの長さ故なのか。いくつか候補は挙がるものの、優希自身理解できない問題を日向が理解できるはずも無かった。
「ま、今大丈夫ならそれで良いか。取り合えずレジに行こうぜ」
「…うん」
考えても仕方ないと話を打ち切って、二人は会計を済ませて店を出た。
(さっきの、何だったんだろ…)
帰り道の最中、つい先ほどの出来事を思い返した優希はふと心の内で疑問を浮かべていた。
胸を見られる程度、優希からしてみればどうということは無いと考えていたし、日向のセクハラの方がむしろ酷い程ではあった。
にも関わらず、先の彼らの視線が下に移動した瞬間に優希が感じた忌避感とでもいうべき感情は、鮮明に彼女の脳裏に刻まれている。
(…日向の時は普通に受け流せるのに。むしろ…)
「あれ、優希?聞こえてる?」
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
そこまで考えた所でふと日向から声がかかり、優希は頭を振って思考を振り払うと、隣を歩く親友の顔を見上げた。
こういう時に考えることなど、どうせろくでもない事に決まっている。