「ねぇ、美鈴ちゃん。少し相談したいことがあるんだけど、良いかな」
昼食後、食器を片づけるなりすぐに部屋にやって来た優希から告げられたその言葉に、美鈴の咥えていたアイスキャンディーがぱきりと音を立てて二つに割れた。
すると、アイスキャンディーの片割れは重力に引かれるがままに床に落ちる訳だが、美鈴はそんなもの気にも留めず、素早く優希へと詰め寄る。
「どうしたんですか優希さん。もしかしてまた兄貴ですか?あのクソ兄貴にまたセクハラをされたんですか」
「え?あ、いや、確かに日向にセクハラはされたけど、相談したいのは別件で…。美鈴ちゃん?顔が怖いんだけど…」
怯える様に優希は恐る恐るといった風に、目の前に座る美鈴へと声を掛ける。『セクハラはされた』、優希がそう答えた瞬間から美鈴の顔は般若の如く歪められていた。
「そうですか…優希さん、知っていますか?近衛家に伝わる護身術の中には、的確に睾丸を潰す技があるんです。話は変わりますが、アタシ少し用事を済ませてきますね」
「待って待って、絶対話変わってないよね!別件だから、日向は関係ないから!」
元男としては背筋も凍るような恐ろしい話を言い残して部屋を出て行こうとする美鈴を、優希は必死に引き留める。彼女の胸の内には、親友を守らねばならないという固い決意が灯っていた。
「なるほど、それで思わず身を隠してしまったと」
優希が何とか美鈴を引き留める成功した後、経緯を聞いた美鈴は神妙な顔で呟いて、考え込む様に顎に手を当てた。
「…優希さん、その方の名前はなんと言いましたっけ」
「そっちはただ見られただけだから落ち着いて!美鈴ちゃん、今日はやけに好戦的だね…」
考え込んだ末、気軽に男の急所を破壊しようとする美鈴を再度引き留めながら、優希は妙に荒んで見える彼女に不思議そうに首を傾げた。
日向に対しては基本こんなものだが、外部にまで矛先が向くことは珍しい。
そんな優希の思考を知ってか知らずか、美鈴は肯定するよう大仰に頷いて見せた。
「当然です。…アタシが前にお風呂で話したことを覚えていますか?」
「え、うん、自衛しないとって話だよね」
答える優希の脳裏に、先日一緒に風呂に入った際の記憶が思い起こされる。
『男は皆ケダモノなんです!』、とそんな事を言われた優希は当時、具体的にそれがどういうことなのか今一つ理解しきれぬままにいた。
すると、その答えを聞いた美鈴はその通りと言わんばかりに、真っ直ぐに伸ばした指を優希に向ける。
「正にそれです。優希さんは今日、その身体になって初めて性的な視線を受けたんですよ!向き合っているのに目ではなくその下の胸に、お尻に、二の腕に、太ももに!実際に見られると、視線の動きでハッキリとそれが分かってしまった筈です」
「確かに…」
美鈴の言う通りだった。
最初こそ目はあったものの、その後すぐにすっと下げられた目線の動きを優希はよく覚えている。優希がつい身を隠してしまったのも、クラスメイトのあの視線から逃れるためだ。そしてその際に感じた忌避感はその視線を拒絶する優希の感情の表れだったのだろう。
それらを理解した途端、氷が溶けて瓦解するするように優希の抱えていた疑問が解消された。だが同時に、新たに一つの疑問が優希の中に生じる。
「でも、それなら日向は?俺、日向と一緒にいても嫌な感じはしなかった。なんで、日向だけ平気なんだろ…」
寧ろ一番引っかかりそうな事をしているのが日向なのだ。にも拘らず彼にだけは反応せず、一応は知り合いである筈のクラスメイトには忌避感を抱く。
この間の違いが分からずに、優希は悩まし気に眉をひそめている。
「そもそも兄貴にその気がないのも有るでしょうけど。何より優希さんにとって、…兄貴が特別だからじゃないですか?」
「日向が特別…、まぁ、親友だし、そうなのかも。…ところで、美鈴ちゃんは何でそんな顔してるの?」
復唱しつつ、一先ずは納得した優希はふと気になっていたことを問いかける。彼女の視線の先、美鈴はぷくりとその頬を膨らませて、あからさまに拗ねているといった風貌であった。
「いえ、分かっていてもどうしようもない事があるだけです。自分なりに折り合いはつけてる筈なんですけど…、ぐぬぬ…!」
折り合いをつけようとして、やはり上手く呑み込めなくて。葛藤する美鈴が唸り声を上げる。
「美鈴ちゃん、それ何の話…」
「うがぁーー!!すみません優希さん、アタシちょっと体動かしてきます!」
美鈴の辿り着いた結論はシンプルであった。
モヤモヤとした感情は、他の事に没頭して発散させる。彼女の場合それは武術で、がばりと勢いよく立ち上がると、そのまま優希に一言断りを入れて部屋を出て行ってしまった。
「へ…?」
残された優希は一人、部屋の中で呆然として美鈴の開け放った襖の向こう側を見つめていた。
それから間もなくして、驚いたような顔をした日向が顔を覗かせる。
「優希?なんか今美鈴が凄い勢いで走って行ったんだけど、何があったんだよ」
「分かんない…」
日向に問われるも優希とて同じ心境で、呆けた顔でそう返すのが精いっぱいであった。
「優希、ちょっと煎餅取ってくれ」
「寝ながら食べたらベット汚れるよ?…はい」
言いながらも優希は、ごろりとベットの上に寝転がった日向に煎餅の入った器を渡してやる。
美鈴への相談も途中で頓挫してしまい、やることも無くなった優希は日向と共に彼の部屋へと移動していた。とはいえ、二人で何をするでもなく。日向はベットの上で漫画を開いていて、優希は座布団に座りスマホを弄っている。
「多少平気だって、サンキュ」
「もう…後で後悔しても知らないからな」
器を受け取り、楽観的に手を振る日向に優希は全くもう、と呆れたように息を吐く。
ボロボロと破片が落ちやすい煎餅はベットの上で食べるには適していない。そもそもベットの上でモノを食べること自体行儀の悪い行為ではあるのだが、そんな優希の心配をよそに、日向は器用に欠片も落とさずバリバリと煎餅をかじっている。
「あ、ついでにお茶も取ってくれ。あとポテチとかりんとうを下の階から」
「お茶は良いけど、それ以外は自分で取ってきて。というか、食後によくそんなに食べれるね」
まだ食後から一時間と経ってない。現に優希はまだ満腹感が残っているのだが、日向はそうでも無いようで、次から次に口の中に煎餅を運んでいる。
「なら良いや。まぁ育ち盛りだからな、運動した分すぐに腹も減るし幾らでも食えるんだ」
「だからってお菓子ばっかり食べなくても…。日向その内太りそう」
「大丈夫大丈夫、食った分動くから」
寝転がりながら言われても中々説得力が無いものである。優希はそんな日向に再度ため息をつきながら手元のスマホへと視線を落とす。
それから暫く、部屋を紙をめくる音が支配した。そん中、優希は意を決して口を開く。
「…ねぇ、日向。俺、美鈴ちゃんに何かしちゃったのかな」
「ん?美鈴に?」
それを聞いた瞬間、日向は呼んでいた漫画から顔を上げて優希を見る。その顔には『何を言っているんだ』という文字がありありと書かれている様であった。
「どちらかと言うと、お前がされてる側じゃね?俺が見ただけでも相当心当たりがあるぞ」
「あ、いや、うん。それはそうなんだけど、実際俺も助かってはいたし。…じゃなくて」
順当な日向の切り返しに優希自身納得しそうになるが、しかし彼女が聞きたいのはそう言う事ではない。
だが、経緯を説明しようにも先ほどの話を日向にするのは憚られる。煮え切らない優希の様子に、日向は困ったように後ろ手に頭をかいた。
「んー、まぁ気にすんなって。仮に何かしててもお前相手なら問題ないだろ。因みに俺が何かしてたら二、三発は正拳突きが飛んでくるから、その辺はお前が特別」
幾つか覚えがあるのか、そう話す日向の顔は若干青い。しかし、優希が気になったのはそこでは無かった。
『優希さんにとって、兄貴が特別だからじゃないですか?』
優希の脳裏に、先ほどの美鈴の言葉が蘇る。
「特別…」
日向に聞こえない程小さく呟いてみれば、優希は自身の体がかっと熱くなるのを感じた。
「それよりこの漫画結構面白くてさ、このシーンなんだけど」
彼女の胸の内を占めるのは不安に緊張感と、一握りの好奇心。どくりと一際大きく彼女の心臓が鳴る。
本当かどうか、優希は試してみたくなった。
少し前に買っておいた漫画。
思い立って読み返してみたそれは思いの他面白く、日向は優希にも教えてやろうと声を掛けた。
「…へぇ、どのシーン?」
「このセリフが傑作で…」
指で指示しながら彼女の反応を想像する日向。だが、次の瞬間にはそれらは全て彼の頭から消し飛んでしまっていた。
とさりと、軽い音を立てて優希が日向の隣に横たわる。
花の様な甘い香りが日向の鼻腔をくすぐり、薄い服越しに彼女の体温が伝わって、日向はあまりに唐突の事にその思考をフリーズさせた。
「ねぇ、日向。聞こえてる?」
肩が当たる程の距離で、普段からは考えられない近さから聞こえてくる優希の声に、ようやく日向は意識を取り戻した。
「聞こえてる…、と言うか優希、近くね?」
「そう?それより漫画、早く教えてよ」
優希の意図を図りかねて困惑混じりに問いかける日向。だがとんとんと頭で肩叩いて催促してくる優希に、彼は更に困惑を深めながら何とか平静を装う。
「まぁ、良いけど。この部分の心情と表情とかギャップ凄くね?」
「あ、ほんとだ。えー、ちょっと読みたくなってきたかも。日向、俺も一緒に読んで良い?」
「マジ?なら少し待ってろ、一巻は確かあっちの本棚に…」
日向はこれ幸いとベットを離れようとするが、しかしそんな彼を優希は袖を引っ張って引き留めた。
「そうじゃなくて、このまま一緒に読みたい。気にするタイプだったっけ」
「…別に、良いけど」
言葉とは裏腹に日向の心の内は混乱で一杯になっていたが、それでも彼は受け入れて優希と隣り合って一冊の漫画を読むことになる。
「日向、ちょっとそっちに寄ってよ。流石に落ちそう」
「…おっけ」
ここまで来て優希は普段通りに日向に接する。日向が意識し過ぎなのか、それとも優希が無防備すぎるのか。どちらにせよ、日向の取る道は普段通りに接するのみであった。
位置を調整してベットの上に上手く収まった所で、ようやく二人は漫画へと目を落とした。
「日向、次のページまだ?」
「今読んでるから、もう少し待てって」
優希の現在着ている服は少々胸元が緩い。普通に座ったり立っている分には問題ないが、現在の様に横になったりしていると重力に引かれるまま微かに胸元が露わになってしまう。
横にいる日向からも当然それは見えており、彼は必死に引かれそうになる視線を漫画へと移しているため、最早内容どころではない。
そして、それは無論優希も気づいていた。
服の知識がなくとも、こうすればこうなる程度は想像がつく。その為日向から見えているという事は承知の上で、尚優希は離れようとも隠そうともしない。
彼女に羞恥心が無いと言えば嘘になる。現在進行形で耐えがたい程羞恥に焼かれているが、それをおくびにも出さずに、優希は日向の様子を伺っていた。
ただそれでも、優希は確かめたかった。日向に見られても本当に何も思わないのか、自分にとって彼が特別であるのか。その為ならば、この程度の羞恥など彼女にとっては安いものであった。しかし、完全に押し殺せるかと言われれば否で、ほんのりと彼女の耳は赤く染まっている。
ぱらりぱらりと最早二人共内容が頭に入っているのか定かではない漫画のページが捲られていく。
「面白いね、この漫画」
「…だろ?どうせなら優希も一巻から読めばいいのに。途中からじゃ分からないんじゃね?」
「ううん、結構楽しめる」
沈黙に耐えかねて、上辺だけ取り繕って会話をする二人。
日向は如何にかしてこの状況を脱しようとするが、こんな時に限って妙に強情な優希によって阻まれていた。二度三度と繰り返すうち、精神的疲労も相まってさしもの日向も判断力が低下していく。
これでは埒が明かない。そう考えた日向は、変に隠さない事にする。
「…優希、お前胸元見えてるけど、隠さねぇの?」
一旦距離を置くように体を起こした日向があくまでそっぽを向きながら指摘した。流石にこれで優希も離れようとするだろう、そんな日向の考えは、しかし簡単に裏切られた。
「うん、隠さない」
「…は?何で…」
ハッキリと言ってのける優希に、日向は呆けた声を上げ、浮かんだ疑問がそのまま口を突いて出る。
そして優希はゆっくりと日向の方へ視線を向けると、じっと目を合わせたまま言葉を紡いだ。
「言ったでしょ?日向なら好きに見ても良いし、触っても良いよ」
「っ、優希!!」
その瞬間、カッと頭に血が昇った日向は思わず声を荒げて、折れてしまいそうな程に細い優希の肩を強く掴み、ベットに押し付けた。
ここまで来ればさしもの日向も理解できた。優希がわざとこうしているのだと、わざと挑発するような仕草を取っているのだと。
揶揄うのは良い、無防備なのも良い。多少の冗談として流せるものであれば何だって良かった。
だが、これは駄目だ。
これは優希と日向の間にある友情を壊しかねない、超えてはならない一線を越えさせかねない。そして何よりも自分を鑑みない優希の態度が、日向には許すことが出来なかった。
「ひな…た…?」
呆然としたような優希の声に、日向はハッとして自分が何をしてしまったのか自覚した。
そして真っ先に彼の視界に入ったのは優希の顔だった。そこには恐怖など微塵も無く。ただただ彼女は驚いたようにその目を丸くしていた。
「あ…悪い、優希。痛かったよな」
「…ちょっとだけ」
慌てて日向が手を放すと、優希は片手で先ほどまで日向が掴んでいた部分をさする。
日向の力と優希の身体を考えれば、間違いなくあざにはなっている。日向にはそれが簡単に分かってしまう。それだけに彼の抱いた罪悪感の大きさは計り知れない。
「ほんと、ごめん。少し頭冷やしてくる」
よろよろと立ち上がった日向はそれだけ言い残すと、足早に部屋を出て行った。
驚いた、現在の優希の心中を占めているモノを言い表すならば、この一言に尽きた。
日向が出て行ったあと、部屋に残された優希は呆然とベットに横たわったまま天井を見つめていた。
(少し確かめるだけのつもりだった。日向が自分の事を性的に見た時、何も思わないか)
まさかこんなことになるだなんて、優希は思いもしなかった。日向があそこまで声を荒げて、感情的になった所優希は今まで見たことが無かった。
だからこそ、驚いた。
それと同時に日向がどうして怒ったのかも、優希は理解できた。
(俺が、自分を大切にしなかったから)
優希がどうとも思わなくても、日向にとっては重要な事だった。なにせこの場合、手を出す側に当たるのは優希ではなく日向だ。ずっと自重してくれている彼に対して、優希は自分からそれを無に帰すような事をした。
だから、日向はそれを止めた。優希との関係を続けていく為に、優希を傷つけない為に。
「俺の為に、怒ってくれたんだ…」
言葉として発した途端、確かに優希は自分の世界が変わった事を自覚した。其の事について考えるだけで、微かにきゅうと胸を締め付けられるような痛みを感じた。
(何とも、思わない筈だったのに)
初めて誰かに叱られた。その体験が優希にもたらした変化は、彼女が思っているよりも大きく、彼女の感じたことの無い感情を芽生えさせていた。