ようやく日が暮れて山の蝉たちが鳴き止む頃、近衛家の食卓には沈黙が流れていた。
カチャカチャと食器の鳴る音以外会話すらも無い。普段であれば美鈴や楓が何かしら話題を振って盛り上がっている所だが、今は揃って何処か気まずそうにして黙々と箸を進めていた。
そんな彼女らの視線の向かう先に座るのは、気まずさの原因となっている二人。
「…優希、ソースとって」
「…うん」
あからさまにぎこちない仕草で接する優希と日向。彼らの間に何かあったことは一目瞭然で、二人の様子を見た美鈴は顔をしかめて大きく息を吐いた。
「おいクソ兄貴、優希さんに何した」
夕食後、一人居間を出て道場へと向かった日向を、美鈴が追いかけ問い詰める。
捕まった日向はこの状況を予想していたようで、大して驚いた様子も無く力ない笑みを浮かべた。
「あー…そうだよな。流石に気づくよな」
「良いから答えて。お昼までは普通だったのに、夕方になってあんなになるなんて兄貴が何かしたとしか考えられない」
ご明察だ。そんな日向の思考とは裏腹に、美鈴の顔は真剣味に満ちている。
それだけ彼女にとって優希と日向の関係性は、個人的な感情抜きに重要という事で、日向もその辺りはよく理解している。
日向はじっと力強く見つめてくる美鈴の視線を真っ直ぐ受け止めて、少しの間の後、ゆっくりとその口を開いた。
「押し倒した」
瞬間、ピシリと空気が凍りつく。
「…誰を?」
「優希を」
「どうして?」
「衝動的に」
美鈴の淡々とした問いに、日向もまた淡々と答える。そんなやり取りと続けていく内に、段々と美鈴は目を座らせていく。
「…ふーん」
やがて、美鈴が納得した風に鼻を鳴らすや否や、彼女の固く握られた拳が日向の鳩尾へと勢いよく突き刺さった。
所変わって近衛家にある優希の部屋。
先日の買い物のおかげでそれなりに物も増えた部屋の中で、優希は膝を抱えて、カーテンの開けられた窓に反射する自分の顔をぼうっと眺めている。その顔は熱に浮かされているかのようにほんのりと赤らんでいた。
そんな彼女の脳裏に浮かぶのは昼間の出来事。
「力、強かったな…」
自分を抑えつけた日向の腕を思い浮かべながら、優希は彼の手が触れていた自らの二の腕の辺りを摩る。
するとチクリと走る痛み、優希が袖を上げてみれば白い肌が一部青くなって、軽い内出血のようになっていた。
全く抵抗できなかった。勿論唐突の事で驚いていたのもあるが、それでも優希はあの時、日向との間にある筋力の差を思い知らされた。
その事に今の今まで優希が思い至らなかったのは、それだけ日向が気を遣ってくれていた証であり、彼女の腕に出来た痣は、それだけ日向が必死に優希の事を想ってくれているという証になる。
「…っ!」
それを意識した途端、優希はかっと体が熱くなるのを感じると共に、腕に出来た痣が無性に愛おしく思えた。
すると思ったところで、今度はその思考に対して更に彼女の顔に熱が籠る。
「やっぱり、変だ…」
今までとは明らかに異なる自分に、優希はぽつりと零すように呟いた。
部屋に帰ってから優希はずっとこの調子で、過去の出来事を思い返しては顔を赤くして、その様はまるで恋に浮かれた少女の様であった。
こうなったのは性別が変わったせいなのか、それとも元々だったのか。答えの出ない自らへの問いかけに、優希はただ唸り声を上げた。
それから間も無くして、トントンと優希の部屋の襖がノックされる。
「わ…ひ、日向?」
真っ先に思い浮かんだ名前を口にして、心臓を高鳴らせながら優希は立ち上がると襖の前へと移動する。震える手を取っ手へと掛けた彼女は、一瞬躊躇う様に制止して、やがて意を決したように襖を開けた。
「優希さん、遊びに来ました!」
響いてきた元気な声。襖の向こう側にいたのは日向ではなく、彼とよく似た笑顔を浮かべている美鈴であった。
それを認識すると、優希はほっと安堵すると共に微かな落胆を胸に抱いた。抱いた途端、そんな事を考えた自分自身に優希は驚き、今度は自身へと落胆する。
また考え込みそうになる優希であったが、しかし今はそれよりもと頭を振って目の前の美鈴へと向き直った。
「いらっしゃい、美鈴ちゃん。…って言っても、ここは美鈴ちゃんの家なんだけどね」
「細かいことは良いじゃないですか。あ、ココアも持ってきたので、一緒に飲みましょ!」
視線を下げた美鈴が手に持っている盆の上には、ココアの入った氷の浮かぶカップが二つ。優希も即座に了承して、部屋の中央にある小机に盆を置いて二人は向かい合う形で座り込んだ。
しばしの間、二人は冷たくて甘いココアを堪能する。
「本当は生クリームとチョコチップも入れたかったんですけどね、この時間帯にそれは不摂生が過ぎるので泣く泣く断念したんですよ」
「ふふっ、確かに。もうそろそろお風呂にも入らないと」
チラリと優希が時計へと目を向けて見ると、丁度針は午後の七時半を指し示している。そして、視線を戻した先では美鈴がニコニコと機嫌良さそうに笑っていた。
「優希さん、昨日はお母さんと一緒にお風呂に入ったんですよね。なら、今日はアタシと一緒にお風呂、入りましょうね」
美鈴がにこやかに言い放ったその言葉に、優希はぴたりと身を硬直させた。
「え…でも、あれは楓さんがいつの間にか入って来ただけで…」
「あ、優希さんお母さんは良くてアタシは駄目って言うんだ。うわー、傷つくなー、悲しいなー」
流石に親友の妹とまた風呂に入るのは、と優希がやんわりと断ろうとすれば、美鈴は棒読みで如何にもわざとらしく泣き真似をする。
だがワザとと分かっていても、美鈴に対してはめっぽう弱い優希がそれを受けては、彼女がそれ以上断ることなど出来よう筈も無かった。
「も、もう…分かったから、その泣き真似やめてよ美鈴ちゃん」
「本当ですか?やったー!」
眉を八の字にした優希が不承不承に頷けば、美鈴は打って変わって顔を輝かせながらはしゃいで見せた。
調子の良い美鈴に、優希も次第に表情が笑みへと変わる。
「じゃあ、これ飲み終わったら入りに行こうね」
そう言う優希の手元にはまだまだたっぷりとココアの入っているカップ。これでは彼女も数分では飲み切れないだろう。
とはいえ、美鈴もそれについてはきちんと把握していた。
「はい。ならその間に優希さんに聞きたいことがあるんですけど、良いですか?」
「聞きたいこと?なぁに?」
カップを傾けてご満悦な笑みを浮かべる優希に、美鈴はとんとカップを机に置いて口を開く。
「昼間、兄貴と何があったんですか?」
「っ…!」
美鈴が問いかけた途端、分かり易く動揺した優希はむせ返って眼のふちに涙を浮かべた。やがて、落ち着いた優希は目元を拭いつつ、澄ました顔の美鈴に目を向ける。
「そ、それ、日向から?」
「いえ、ここに来る前に問い詰めたんですけど、要領を得なかったのでもう優希さんに直接聞こうかと」
「…日向は?」
言いながら優希はチラリと襖の方を見る。
無意識的に日向がやって来ないか警戒しての行動であったが、美鈴はそれを察して、優希の問いかけに対しては首を横に振って答える。
「兄貴なら殴られたそうにしてたので殴っておきました。今頃は道場で伸びてると思いますよ」
美鈴の口から告げられた予想外の事態に、優希は目を白黒させた。
「殴られたそうなって…、どうして」
「さぁ、大方自分を罰するためじゃないですか?罪悪感に耐えかねて」
「罪悪感…」
繰り返しながら、優希は部屋を出て行った際に見た日向の申し訳なさそうな顔を思い出し、そっと痣になっている自らの二の腕へと手を当てた。
優希の仕草に目ざとく気づく美鈴であったが、しかしまずは優希の話を聞くと決めているようで、おとなしく耳を傾けている。
「その…、日向は悪くないよ。俺が日向の事を怒らせちゃって…」
そして優希は話しにくそうにしながらも、昼間の出来事を美鈴に話して聞かせる。優希が自分を顧みずに興味本位で身体を使って。日向がそれに激昂して優希を抑えつけたあの一幕。
聞き終えた美鈴はようやく合点がいったようにため息をついた。
「はぁ…優希さん、アタシ言いましたよね、ちゃんと自衛しないとって。なのに自衛どころか自分から誘ってどうするんですか!」
「すみません…」
ジトリとした目で何処か叱るような声音で言ってくる美鈴に、返す言葉も無い優希はただそれを受けてしゅんとするのみ。
今の優希相手に日向が多少の事で動じることは無い。だがただ一点、彼にも弱点は存在していて、今回優希はそれを的確に刺した形になる。
「ま、あの兄貴ですから手は出さないとは思いますし、優希さんも分かった上での行動だとは思いますけど…それでも迂闊すぎます!」
「はい…ごめんなさい…」
正座をした優希に、がみがみと小言を送る美鈴。傍から見れば妹を叱る姉の構図に見えるが、実際には年齢は逆であり、そもそも姉妹ですらなかった。
「全くもう、気を付けて下さいね。…次に、優希さんその腕見せて下さい。」
一通り注意を終えたあたりで、美鈴はつい先ほど優希の抑えていた腕を見せる様に要求する。
美鈴は優希の腕に何かあるとは既に気がついていたが、話を聞いて痣になっているのだろうとは軽く予想が出来ていた。
「え、でも…」
「さっきの仕草をみたら分かりますよ。大方兄貴が力加減を間違えたんでしょ、一応患部だけ確認するだけです」
渋る優希であったが、美鈴がそう言えば素直に袖を捲って腕を見せる。
時間が経っている事もあり炎症なども収まっている様だが、それでも白い肌に目立つ青色は痛々しさを感じさせた。
「…やっぱり、止めを刺した方が…」
「み、美鈴ちゃん!?」
座った眼で不穏な事を呟く美鈴に思わすと言った風に優希が声を上げた。一応の確認の筈が、まさかの引き金になろうとして、これには優希も焦りを見せる。
昼間のように日向の下へ赴こうとするかと、引き留めるために身構える優希。しかし、言葉とは裏腹に美鈴はその場から動こうとはせず、優しい手つきで患部を撫でる。
「はぁ…いくら余裕が無かったからって、これはやり過ぎですよ。ただでさえ優希さんの身体は弱いのに…痛かったですよね。今度、兄貴にはまた駅前のクレープでも奢らせましょう」
柔らかな口調で言う美鈴。けれど、優希はそんな彼女の言葉に首を横に振る。
「ううん。確かに痛いけど…、でもそれ以上に嬉しかったから」
「嬉しい…ですか?」
目を丸くしてどういう事かと首を傾げる美鈴に、優希は続けて口を開く。
「うん、だって、それだけ日向が俺の事を真剣に考えてくれたって事でしょ?だから痛みが、その証明みたいに思えて…嬉しい」
そう言って微笑みながら愛おしそうに腕を撫でる優希を見て、美鈴はキョトンとしてその後複雑そうな表情を浮かべた。
「優希さんの境遇を考えると分からない事も無いですけど…、その言い方だとどう聞いてもマゾッ気が出てるようにしか聞こえませんよ?」
「へ?あ、いやそういう意味じゃなくて…!」
不本意な言われように慌てて訂正しようとする優希。美鈴はそんな彼女にくすくすと笑いながら目を細める。
「分かってますよ。…ほんと、優希さんは兄貴の事が好きなんですね」
揶揄い混じりではあるが、大部分は美鈴の本心から出た言葉だ。
とはいえ、こんな事を言っても以前と同様の反応が返って来るとばかり考えていた美鈴だったが、しかしそれは思わぬ形で裏切られる事となる。
「な、何でそうなるの」
確かに照れてはいるが、しかし図星を突かれて拗ねる様に聞き返してくる優希の反応は、明らかに以前のモノとは異なっていた。
「え?だって、好きな人に大切にされて嬉しいって話ですよね。傍から見るとそうとしか…」
「ち、ちが…わない、のかな…」
いくら美鈴が突っ込んだことを言っても、優希は否定しようとはするもののそこには至らず、その姿は何処か戸惑っている様にも見えた。
まるで自分の感情を持て余しているかのような様子。それを見た美鈴は、嫌でも理解できてしまった。優希の心に、日向への恋心が芽生え始めている事に。そして、自身の初恋が終わりへと向かっている事に。
「きっとそうですよ、だって優希さん、今凄く魅力的ですもん」
けれど、美鈴はそれでも進んだ。このまま進めば終わると気が付いた上で。
「魅力的って…揶揄わないでよ…」
「揶揄ってなんかないです、恋は人に魅力を与えるものですから」
ムッとした顔で抗議する優希だったが、真剣な目つきをした美鈴からの返しに目を丸くすると、しかしその顔を曇らせてしまう。
「でも、絶対に何かの間違い。おかしいよ。だって、今は女でも俺は元々男だったし。なのに、俺が日向に恋をしてるって…そんな事…」
自分でもまだ整理がついていない為か、優希の声は尻すぼみに小さくなっていく。完全に否定しきれないのは彼女が微かではあれ、自身の感情の正体に見当が付いているからだ。だが、同時に肯定もしきれないのは、友人として歩んできた今までが妨げとなっているためであった。
「間違いでも、おかしくも無いですよ」
「何で、そう言えるの?」
しかし美鈴はそれを一蹴して、優希の恋を肯定する。
理由が無いなんて言わせない、根拠が無いだなんて言わせない。
「だって、アタシが優希さんに恋をしてるから」
何故なら彼女は恋とは何か、知っているから。何年も育まれた彼女の恋心は、今も尚褪せることなく鮮やかに燃えている
「…美鈴ちゃん、今、何て…」
驚きに目を見開いた優希が、呆気にとられながら何とか言葉を紡ぐ。美鈴が自分に恋をしているなど想像もしていなかった彼女のこの反応は妥当と言えるだろう。
そんな優希の様子に美鈴は、『やっぱり気付いてなかった』、と苦笑交じりに呟く。
「アタシ、優希さんの事好きですよ。男の子だった時も、女の子になってからもずっとずっと、変わることなく、優希さんの事が好きでした」
長年の想いを告白する美鈴の頬には赤みがさして、その瞳は軽く涙に潤んでいる。それを前にして彼女の言葉が嘘だと、冗談だと疑える者はいなかった。
「ねぇ、優希さん。アタシはおかしく見えますか?異性だった優希さんも、同性になった優希さんも、総じて好きでいるアタシは…変ですか?」
そう話す美鈴に悲嘆の色は無い。寧ろ、これは誇りだ。自らの恋心が確かなものであると言う、確かな自信が彼女にはあった。
それを受けた優希は魅せらた様に呆然として、顔を俯かせると自らに対する様に答えを口にする。
「おかしくなんて、無い」
途端に、優希は自らの心にかかっていた霧が晴れていくかのような感覚を覚えた。
優希が顔を上げると、視界に入るのは優しく微笑む美鈴の姿。
「そうですよ。…それで、アタシの告白に対する答えは無いんですか?」
この時の二人の表情は対照的であった。
片や今にも泣きだしてしまいそうな程に歪められていて、片や清々しい笑みが浮かべられている。
「ごめん…。俺は、日向の事が…好きだから」
「はい、知ってます。ずっとずっと前から、知ってました」
美鈴に悲しさは無かった。知っていた結末、けれど一つ予想していなかったのは、最後に想い人の背中を押せたこと、それだけで虚しいく苦しかった彼女の恋心に意味が生まれた。美鈴は、ただそれが嬉しかった
「優希さん、兄貴ならまだ道場で寝転がってると思いますよ。告白してきますか?」
「今は…無理。まだ自分でも持て余してるし、こんな状態で伝えるのは美鈴ちゃんに対しても失礼だと思うから」
恋となった自身の感情を自覚したとはいえ、まだまだ優希はスタートラインに立ったに過ぎない。美鈴のおかげでここまで来れたのに地に足付かぬまま想いを伝えることは、優希には出来なかった。
美鈴はそんな優希の答えに満足そうに頷く。
「そうですか…なら、まずは話しに行って仲直りをして来てください。アタシを振ったんですから、出来ないなんて言わせませんからね?」
「うん、勿論。ありがとう、美鈴ちゃん」
悪戯に微笑んだ美鈴に後押しされて、優希は礼を言うと部屋を出て道場へと向かっていった。
しんと静まり返った部屋の中、優希の背が見えなくなると、美鈴はぺたりとその場にへたり込み、大きく息を吐いた。
「はぁー…」
終わってしまった。
そんな虚脱感にも似た感情を抱きながら、けれど美鈴の心は今正に失恋したとは思えない程に晴れ渡っていた。
まさかこんな形で初恋を終えるとは思わなかったが、予想していたよりもずっと良い終わり方だった。
「…あれ?」
不意にぽたりと手の甲に落ちた雫。一粒、また一粒と絶え間なく落ちて来るそれに目元に触れてみた美鈴は、それが涙であると気付く。
良い終わり方だった。そこに間違いは無い、本心から美鈴はそう思える。だがそれは理屈だ。こうだからこうだったと言う、理屈に他ならない。
「優希…さん…」
恋に理屈は通じない。
手で顔を覆い隠す美鈴は、暫しの間静かに嗚咽を漏らし、その身を震わせた。