気づいてしまった。
今の優希の心境を一言で言い表すならば、正しくそれだった。
人生の大半を共にした友人、そんな彼に対して優希は恋心を抱いている。今までがどうであったかまではまだ判断の付かない彼女であったが、今はただそれが事実だ。
まさかの事態ではあるものの、自覚してしまった以上優希も認めざるを得ない。
けれど、彼女は友人として超えてはならない一線を越えてしまったとは感じていなかった。寧ろしっくりとすら来ていた。
しかし、それ以上に、彼女の胸中を覆っているのは胸を刺す罪悪感だ。
「美鈴ちゃん…」
優希は月明かりの下を歩きながら、自らの抱く恋心に気付かせてくれた、そして同時に想いを受け取る事の出来なかった少女の名を呟く。
あんなにも真っ直ぐに伝えてくれた美鈴の笑顔、部屋を出る直前、視界の端に捉えた彼女の頬を伝った涙が優希の脳裏に刻みついている。
優希は今にも立ち止まってしまいそうだった。立ち止まって踵を返してしまいそうだった。
けれど、それは出来ない。だって、彼女に掛ける言葉を持たないから、仲直りをしてくると彼女と約束したから。
だから優希は足を止めない。家を出て、隣にある道場へと向かう。
こんな時間に日向が道場で何をしていたのか疑問に思う優希であったが、しかし道場の入り口が近づくにつれてそんな事を考えている余裕は彼女の中から消えていった。
美鈴との一件で忘れていたが、そもそも日向とはどう顔を合わせれば良いのだろうかと、今更になって優希は自らの心臓が強く脈打つのを感じる。
普段通りに、とは無理な相談だった。なにせ、今の優希は以前までとは明らかに異なる感情を日向に向けてしまっている。こんな状態で何を話せば良いのだろう、どんな顔をすれば良いのだろう。道場に近づくにつれて、優希の足はどんどんと重たくなっていく。
そうして答えの出ぬまま辿り着いてしまった道場の前、立ち尽くす優希の緊張は最高峰へと至っていた。
「…っ」
取っ手へと掛けられた手は震えている。それでも、もう後戻りは出来ない。優希は意を決して道場の扉を開けた。
真っ先に優希の視界に映ったのは、窓から差し込んでいる月明かり。
「え…?ひ、日向!?」
そしてそんな月明かりに照らされた、白目を剥いて道場の床にぶっ倒れている近衛日向の姿であった。
初恋は、多分幼稚園とかそこらだった。
すっげー可愛い子だった。初めて見た時、周囲の奴らとは明らかに違って見えた。その瞬間を、今でも鮮明に覚えている。
その日はあまりに衝撃的過ぎて、結局ただ見ていることしか出来なかった。家に帰ってからようやく何とか仲良くなろうと決心することが出来て、次の日は意気揚々と幼稚園へと向かった。
けれど、幾ら探せどもその子の姿は無く。また、二度と出会うことも無かった。
後頭部に感じる柔らかな感触、頭を撫でられるような感覚に、近衛日向は重い瞼を開けた。
彼の腹部には今尚ジンジンとした痛みが走っていて、あまりの痛みに吐き気を堪える様、日向は口元に手を当てる。
「あ、日向…」
その動きを見て日向が起きた事に気が付いたようで、若干気まずそうな優希の声が日向の頭上から降って来た。頭上に見える優希の顔に、日向は自分が彼女に膝枕をされている事に気が付く。
「…お前、膝枕するのそんなに好きだったっけ」
ここ数日で通算二度目となる膝枕に、笑みを浮かべた日向が問いかけると、それを受けた優希は少し驚いたように目を開いた。けれど直ぐに安堵したように息を吐くと、彼女もまたその顔に微笑を浮かべる。
「日向こそ、いつから寝ちゃうくらい道場が好きになったの?」
「バッカお前、これが意外と冷たくて寝心地良いんだよ。床が固く無けりゃ百点満点が貰えるレベル」
「なにそれ」
日向がおどけた様に言えば、優希がくすくすと笑い声を漏らす。
そうして程よく空気が弛緩した所で、日向は優希の目を真っ直ぐと見つめて本題に移る。
「…で、お前何でここにいんの?まぁ、もしかしなくとも美鈴が話したんだろうけど」
日向の言葉に優希は笑みを控え、一拍置いてから肯定するように頷く。
「…うん、美鈴ちゃんから聞いた。でも、それから話もしてたから結構時間経ってたし、まさかまだ意識飛ばしてるとは思わなくて、道場に入った時は結構驚いた」
「それは俺も予想外だった。久しぶりにまともに受けたけど、あいつの拳かなり重たいのな」
美鈴から拳を受けることは、日向にとってはたいして珍しい事ではない。それこそ稽古の時や、女性になったばかりの優希を連れ帰った時も同様の事があった。
けれど、どれも日向はきちんと当て身を取っていて衝撃を逃していた。
その為に彼は少々美鈴の拳の威力を見誤ってしまったのだ。とはいえ、今の日向にとっては別段不都合という訳でも無かった。
自嘲気味に笑う日向。しかし、それを見た優希はその表情に影を落とした。
「…なんで、ワザと殴られに行ったの?日向は悪い事、何もしてないのに」
沈んだような優希の声に、日向の表情がぎくりと硬直する。
「えー…そこまで聞いてんのかよ。そういえば特に口止めもしてなかったな。…悪い事なら、しただろ」
そう言うと日向はそっと腕を動かして、優希の腕に優しく触れる。服の裾に隠れて見えないが、その下には日向によって付けられた痣があった。
「ごめん、優希。感情的になって、お前のこと傷つけた。俺、お前の事守るって決めたのに、結局蓋を開けてみれば失敗してばっかりだ」
申し訳なさそうに、後悔するように、沈痛に満ちた表情で日向はもどかし気に歯を食いしばる。
あんなに意気込んでおきながら大したことも出来ず、むしろ美鈴の方が優希の助けになっている始末で、終いには守るどころか傷つけて。
合わせる顔が無いとはこの事だ。日向の胸中は、どうしようもない程の自己嫌悪に満ちていた。
「そんなことないっ!」
そんな日向の顔を見て、気づいた時には、優希はそう叫んでいた。否定するように何度も何度も首を横に振る。
「違う、違うよ、日向。日向はずっと俺の事気遣ってくれてた、日向が居てくれたから、きっと俺はこうして普通でいられる。だから、謝るのはこっちの方だよ。ごめん、日向。自分の事大切にしなくて、日向の事怒らせて、本当に…」
「優希…」
涙をにじませる優希を前に、呆気に取られたように日向が呟きを漏らす。しかしそれも束の間、日向は調子を取り戻すかの如く小さく笑って、彼女の眦に浮かぶ雫を指で拭う。
「じゃあ、お互い様な。俺も悪かった、優希も悪かった。そんで謝り合った、だから仲直りしようぜ、優希」
「うん…、うん…っ!」
差し出された日向の手を両手で握って、優希はしきりに何度も頷いた。そうしている間にも、彼女の瞳からはぽろぽろと涙が零れ続けている。
「…お前何でそんなに泣いてんの?」
こんなに泣くような奴では無かったのに、と首を傾げながら日向が問いかける。付き合いは長いが、彼女がこんなに涙を流す姿を始めて見る彼は、驚き半分戸惑い半分で彼女を見つめていた。
「だって…仲直りできるか不安で、他にも色々あって、安心して…!」
そんな日向に、優希は鼻を啜りながら嗚咽交じりに言葉を紡ぐ。
「あぁ、分かったから少し落ち着け…いっ!?」
可愛い顔を歪めて涙を拭い続ける優希を何とか宥めようと体を起こそうとする日向だったが、力を込めた瞬間走った鈍痛に悲鳴を上げた。
思っていた以上に美鈴の拳が効いているようで、これは起き上がれそうも無いと、日向は諦めて優希の膝の上へと戻った。
「日向、大丈夫…?俺のせいで…、本当にごめん、ごめんね、日向…!」
突然上がった悲鳴に優希は目を丸くするが、しかし次の瞬間彼女はぶわりと決壊するようにまた涙を零し始めた。
そして、あまりにもらしくない彼女の姿を見て慌てるのは他でもない日向である。
「いや、これは完全に俺の自業自得だから!優希のせいではないから!」
「でも…!」
「お前何か変わったな!?絶対に何かあったろ!」
鋭く優希にあった変化に気付く日向。けれど、流石の彼もどんな変化かまでは分からない。優希も、事が事だけに変化の理由を口にすることは無く。暫く道場には涙を流す優希とそれを如何にか宥めようとする日向のギャーギャーと騒ぐ声が響き渡った。
優希が泣き止み、日向が起き上がれるようになるまでで数十分程が経過した。無事に仲直りも出来た二人は、連れ立って道場を出ると家の方へと戻る。
そうして、玄関で靴を脱いで部屋を向かおうとする日向であったが、しかし途中で足を止めた優希に日向もまた足を止めて振り返った。
「あれ、優希?」
日向の視線の先、優希は何処か悩む様に俯いていた。不思議に思った日向が声を掛けるも、彼女はすぐに決心したのか顔を上げる。
「…日向、部屋に戻る前にちょっと寄りたいところがあるんだけど、良いかな。美鈴ちゃんに報告に行きたくて、ちゃんと仲直りできたよって」
「あー…そだな、夕飯の時も結構気使わせたし。…まぁ、うん、大丈夫だろ」
快諾する合間でチラリと日向の視線が向いたのは赤くなっている優希の目元。傍から見ても彼女が涙を流したことは一目瞭然であった。
日向の脳裏に烈火のごとく怒り狂う美鈴の姿が浮かぶも、その上で日向は半ば自分に言い聞かせるように呟いてから、優希と共に二階の美鈴の部屋へと向かう。
「って言うか、優希は道場に来る前に美鈴と一緒に居たんだよな。お前ら、本当に何の話をしてたんだよ」
道すがら、日向はずっと気になっていたことを優希に問いかけた。
優希と美鈴との間に何かがあった事には、既に日向も勘付いていた。なにせ、話を聞くに優希が変わった原因はそこにしか有り得ないのだ。
「それは…秘密」
「左様で」
けれど、優希は日向のその問いに対して答えるつもりは無いようで頑なに口を閉ざし、日向もまた何か察してかそれ以上踏み込むことは無かった。
そうしている間にも、二人は美鈴の部屋の前へと到着する。
直ぐに襖をノックするかと思われた優希だったが、しかし彼女は部屋の前で一瞬逡巡するように手を止めた。
「っ…!」
そして一つ大きく息を吸うと、今度こそとんとんと襖をノックした。すると、さして時間も掛からずに『はーい』と中から返事が返ってきて襖が開く。
「あ、優希さん、兄貴も」
「美鈴ちゃん、さっきぶり」
中から顔を出したのは当然ながら美鈴だった。けれど、普段と一つ違うのは優希と同様に彼女の目元もまた赤くなっている事だ。
それに気が付いた優希ははっとして目を丸くするが、それは美鈴も同じで、優希の赤い目元に気が付いた美鈴はキッと鋭い視線を日向へと向ける。
「兄貴、優希さんの事泣かせた?」
「待て誤解だ。いや誤解でも無いかもだけど、とにかく構えたその拳を下ろして下さいお願いします」
腰をずっしりと落として構えを取る美鈴に、最早条件反射の勢いで日向が白旗を上げる。未だ彼の腹部へのダメージは尾を引いているのだ。
「…」
チラリと美鈴が優希へと確認を取るように視線を向け、優希が頷いて大丈夫だと伝えるのを確認してようやく彼女は構えを解いた。
そして、美鈴は優希へと向き直り表情を和らげる。
「優希さん、兄貴と二人で戻って来たって事は…?」
「…うん、ちゃんと仲直り出来たよ、美鈴ちゃん」
話しながら笑みを浮かべようとする優希。けれど美鈴と向き合う中、ジワリとその瞳には涙が滲む。どうやら涙腺が完全に緩んでしまっているようで、何とか堪えようとする優希であったが、それも失敗してぽろぽろとまた泣き出してしまう。
「ちょっと、何で、泣くんですか」
「だって、美鈴ちゃん…!」
そんな優希につられてか、美鈴まで声に嗚咽が混じって来る。やがて、向き合ったまま涙を零し続けていた二人だったが、やがてどちらからともなく駆け寄ると抱き合って、わっと声を上げて二人泣き始めてしまった。
「酷いですよ!優希さんが泣かないで下さいよ!」
「ごめんね、美鈴ちゃん…俺…!」
「謝らないでよ…!」
嗚咽交じりに優希と美鈴は言い合いを続ける。互いに抱き合う力の強さは彼女らの抱く感情の大きさに比例していた。
一人取り残される形となった日向は、唐突な展開に戸惑いからオロオロとしている。
「おい、優希?美鈴?いきなりどうしたんだよ」
「うっさい、兄貴は見ないで!」
「え、は、はい!」
心配から声を掛ける日向であったが、声を荒げた美鈴の気迫に完全に負けてしまい、脱兎の如く部屋を出て行く。この場で最も不憫なのは、紛れもなく彼であった。
「もう…、優希さんのおかげで絶対明日は眼が腫れてますよ」
「あはは…ごめん…」
ぷくりと頬を膨らませて恨みがましそうに言う美鈴に、気まずそうな笑みを浮かべた優希が素直に謝る。
現在二人が居るのは近衛家の浴室だ。思う存分二人で涙を枯らした後、そのままの流れで風呂にまで行った形となる。
浴槽に浸かりながら隣合う二人は、疲れ果てた様に互いに肩を寄せ合っていた。
「ま、別に良いですけどね…。でも、失恋したアタシより先に泣くのはどうなんですか?」
「うぅ…美鈴ちゃん、何だか棘がある」
「冗談ですよ、このくらいは許してください」
体裁の悪そうに優希に、美鈴は悪戯な笑みを浮かべる。もう隠し立てする事も無く、思う存分泣きはらしたためか美鈴の顔は何処かすっきりとしたように見えた。
「…ところでなんですけど、優希さん」
「どうしたの?」
ふと思い出したかのように美鈴が声を掛けて、優希はキョトンとした顔で返事を返す。
「兄貴と直接話してみて、どうでした?」
「…え?」
「え?」
問いに対して何の事だと言わんばかりに疑問の声を上げた優希に、美鈴が目を丸くする。なにせ、それは直近の問題の中でも格別大きなものだ。何なら根幹にすら迫っている。にも拘らず、優希は今の今まで忘れていたかの様で、美鈴は思わず頭を抑えた。
「あの、優希さんは兄貴の事が好きなんですよね?」
「あ、あー、その事。うん、勿論、多分だけど」
恐る恐ると確認された優希が、頬を上気させながらも煮え切らない返事を返す。これにはさしもの美鈴も突っ込まざるを得なかった。
「優希さん?」
「違うよ?日向の事が好きじゃなかったとかそう言うのじゃなくて。ただ、さっきは色んなことで頭が一杯になって、いつも通りに接しちゃったの!」
美鈴に詰め寄られた優希があたふたとしながら弁明する。
無論、優希が日向に恋心を抱いているのは事実である。それに伴って、優希自身日向を意識してしまう事も有る。だが元々の距離が近かっただけに、他に意識を向いていると普段通りに接する事が出来てしまうのだ。
芽吹いたばかりの芽は、まだまだ小さいのである。
「つまり、優希さんは自覚が足りないと…。なる程、よく分かりました」
「美鈴ちゃん、何が分かったの?」
一人納得している美鈴に優希が声を掛けるも、彼女は何やら考え込む様にジッと固まってしまい返事は返ってこない。
やがて、思考が纏まったのか美鈴は顔を上げると優希へと向き直る。
「優希さん、明日早起きは出来ますか?出来れば日が昇る前とかになるんですけど」
「え?うん、朝ごはん作る予定だから全然大丈夫だけど…」
優希の答えを聞いた美鈴がよしよしとしきりに頷く。反対に、優希は何が何がやらと不思議そうに首を傾げていた。
美鈴は決意にみなぎった眼で、そんな優希の手を取る。
「明日の早朝に、少し道場まで付き合ってくれませんか?多分、面白いものが見れますから」
そう言ってにやりと笑う美鈴に、優希はただ呆然と頷くことしか出来なかった。