一人で部屋に居る時と、誰かと一緒に部屋にいる時。
たったこれだけの些細な違いで、同じ部屋なのにも関わらず充足しているような、まるで異なる感覚を覚えるのはどうしてだろう。
優希は今まで読んでいた小説に栞を挟みながら、ぼんやりと隣で漫画を読んでいる日向へと目を向ける。余程集中しているのか、優希の視線に気づく様子も無い彼は瞬きも少なく、真剣味に満ちたその表情は傍から見れば見栄えがする。
いつもそうしていれば、彼女の一人や二人くらいすぐに出来るだろうに。と、口を開けば二言目に彼女が欲しいなどと嘆いている友人の姿を思い返して、自然と優希の口からため息がこぼれ出た。
「優希」
「…え、何?」
不意に名を呼ばれて、一拍遅れながら優希が応える。
優希が顔を上げると、そこには読んでいた筈の漫画をいつの間にか置いた日向が、じっと彼女の事を見据えていた。
いつものおちゃらけたような雰囲気は鳴りを潜め、心情を見透かせない日向の様子に、優希はあまり見せない彼の側面にギャップを感じると共に、ほんの少しだけの彼の事を怖いと感じた。
「優希」
「うん、聞こえてるけど…。日向、どうかしたの?」
けれど、応えているにも拘らずただ優希の名を繰り返す日向に、さしもの彼女も困惑気味に声を掛ける。何処か様子のおかしい日向、そんな彼に見つめられ続ける優希は、落ち着かないようにその身を揺らして、服の裾を摘まむ。
「優希」
その上で尚、三度目ともなる同じ呼びかけ。
これには優希も少し腹が立った。勿論、理由として彼の煮え切らない態度もあるが、それ以上に彼女の自身の不安定な感情も関与していた。
一体何がしたのかと、焦れったく思いながら、それを表すように優希は顔をムッとさせる。
「もう、だからどうしたの…っ!」
そうして埒が明かないとばかりに真意を問いただそうと優希の声が大きくなるも、しかし彼女の言葉は、おもむろに彼女を抱きしめた日向によって、途中で止められる事となった。
「え…?」
一瞬、自分に何が起こったのか理解しかねてぽかんとする優希であったが、密着させられた日向の身体、そこから伝わって来る熱に、自らを包む固く力強い腕に、ようやく状況を飲み込めて来た優希は、途端にその頬を朱に染めた。
「ひ、日向…!?いきなり何して…!」
反射的に抜け出そうと、優希は混乱しながらも彼との間に挟まれた腕に力を籠める。だが、彼女がいくら力を入れて振りほどこうとしても、優希を包む日向の腕はびくともせず、彼との間には隙間すら生まれない。
寧ろ、日向は更に優希を強く抱き寄せ、二人はより強く密着する。
それ程までに二人の間にある力の差。おもむろに日向が優希の方へと傾けば、優希は簡単に体制を崩して床へと押し倒された。
「…」
されるがままの優希は混乱の余り声を出すことも出来ず、背中に床の感触を感じながら、自らを射抜く日向の双眸から目を離せずにいた。
壊れてしまいそうな程に、優希の鼓動は狂ったように大きく鳴り続ける。
「優希…」
優希の理解が追いつく間も無く、日向はゆっくりとその顔を彼女へと近づける。
混乱の中、彼が何をしようとしているかだけは察しがついた優希は、受け入れる様にゆっくりとその瞳を閉じた。
次に優希が瞼を開けた時、周囲は暗闇に包まれていた。
働かない思考で身体を起こしながらよくよく目を凝らして見てみれば、時計の針は丑三つ時を指し示している。そこまで来て、ようやく彼女はそこが近衛家であてがわれた自分の部屋である事に気が付く。それと同時に、先ほどまで自分の見ていたモノが夢である事を認識した。
「夢…、…っ!」
そう口に出した途端、胸を焦がすような途方もない羞恥心が優希を襲った。体の内側を駆け巡る熱に、肌が泡立つかのような感覚を覚える。
「何で…あんな夢…」
出来る事ならば、優希は今すぐにでも穴の中に埋まってしまいたかった。それも叶わぬ以上、せめてとばかりに布団の中へと潜り込んだ。
未だ明けやらぬ空の下、あれから結局眠る事の出来なかった優希は、昨夜の美鈴との約束の通りに道場へと向かって部屋を出ていた。
ほんのりと赤らんだその頬は、未だ彼女が今朝に見た夢を引きずっている証左だ。
(あんまり考えないようにしないと…)
さもなければ、優希は今すぐに駆け出してこの場から逃げ出してしまいたい衝動に駆られてしまう。頭を振って思考の端へと追いやりつつ、優希は靴を履いて玄関の扉を開ける。
近衛家と道場の間にさほど距離は存在しない。玄関からくるりと家を半周すれば、すぐそこに道場の全貌が見えてきて、優希は道場の入り口の前にある階段に腰かけている美鈴に気が付いた。
美鈴も優希に気が付いたようで、すぐに立ち上がると優希へ向かい手を振って近づいてくる。
「優希さん、おはようございます!」
「お、おはよ、美鈴ちゃん」
快活に挨拶をする美鈴と比べて、優希の返事は何処かぎこちない。それもその筈だ、何せ昨夜に優希は美鈴に告白され、それを断っているのだ。
昨夜の時点で両者共に折り合いをつけていたものの、やはり日を跨いで改めて対面してみると気に放ってしまうし、意識もしてしまう。
そんなぎこちない優希の様子を見た美鈴は、鋭く彼女の心情を察して、その顔を和らげた。
「もしかして、昨日の事気にしてますか?」
「それは…気にするよ」
一瞬取り繕おうとして、しかしすぐに素直に白状した優希に美鈴はくすくすと笑い声を上げた。
「な、何で笑うの…!」
優希が抗議するように言うと、美鈴は尚体を震わせながら何とか口を開く。
「す、すみません。そんなに気にしてくれてるんだって思うと、少し嬉しくって。…でも、あんまり気にし過ぎないで下さい。アタシ、今の優希さんとの関係だって結構好きなんですから」
美鈴自身完全に立ち直ったと言うと嘘になる。けれど、恋が成就しなかったとしても、それで全てが終わるわけでは無い。
それに、恋愛云々以前に、美鈴は優希と接する時間が純粋に好きなのだ。だからこそ、彼女はいつも通りに優希に接しているし、これからもそれを望んでいる。
彼女の想いを受け取った優希は一瞬途方に暮れる様に視線を彷徨わせるも、束の間にぐっと強く目を瞑ると、美鈴に向けて微笑んだ。
「…うん、分かった。俺も美鈴ちゃんとは、これからも仲良く居たいし」
「はい!まぁそんな訳ですので、アタシは優希さんの恋を全面的に応援しますからね」
「…」
恋、その単語が美鈴の口から放たれた途端、優希はぴたりと動きを止めて、若干とはいえ表情を強張らせる。普通であれば気づかない些細な変化、けれどここで美鈴の直感が再び火を噴いた。
「近衛日向」
「っ!」
ぽつりと美鈴が事の中心人物の名を呟けば、今度は分かり易く優希が動揺して身を揺らす。それを見た美鈴は、にんまりとさも楽しそうに顔を歪めた。
「へぇー、どうしたんですか優希さん、たった一晩でそんなに意識するようになっちゃって。べたに兄貴の夢でも見たんですかー?」
「う…」
図星である。完全に的の真ん中を射抜いている。
美鈴も適当にそれらしい事を言ったつもりだったのだが、まさか本当にそうだとは思わなかったようで、黙り込んでしまった優希をまじまじと見つめる。勘が良すぎるのも考え物であった。
「え、優希さん、具体的にどんな夢を見ちゃったんですか?キスですか、キスまでしちゃったんですか!?」
「し、してないから!それより美鈴ちゃん、こんな時間に道場で何をするの?」
「あ、話逸らした。…でも、確かにあんまり時間を掛ける訳にも行かないので、この話はまた後で」
顔を真っ赤にしながら必死に話題を逸らそうとする優希に、美鈴もこれはまだあまり突っ込めないと判断して、あくまで先送りにしつつ本題に入る。
「って言っても、特段する事があると言う訳でも無いんですけどね。ただ、優希さんが兄貴に恋をしたと言うなら、まず知っておいた方が良いと思ったので」
「知っておいた方が良い?」
要領を得ない美鈴の答えに首を傾げる優希。だが、優希の問いに対して美鈴はそれ以上答えることは無く、代わりにゆっくりと、まるで何かから隠れているかのように静かに道場の扉を少しだけ開けて、そこから中の様子を覗けと言わんばかりに隙間を指で指し示す。
疑問に思いながらも、促されるがままに優希は隙間から中を覗いた。
「…え?」
そうして視界に飛び込んできた光景に、優希が思わずと言った風に呆けた様な声を上げる。
彼女の視線の先、道場の中に居たのは一人の男。道着を身に纏って、額に玉の様な汗を浮かべながら竹刀を振るっている彼は、紛れも無い優希の親友であり、想いを向けている筈の人物でもある近衛日向であった。
それを目にした優希の中に生じたのは、ただただ純粋な疑問だ。
「日向が、稽古をしてる…?」
道場主の家系に身を置き、更にその道場の跡取り息子として見れば、優希の目の前の光景は大して不思議な事でも無い。寧ろ自然とさえ言える。
だが、優希は日向がどういう人間かをよく知っている。彼がどれ程稽古が嫌いで、努力に対して熱を向けるような性格ではない事をよく知っている。少なくとも、こんな日も出ていない早朝から稽古をするような人間ではなかった。
なのに、これではまるで真逆だ。故に優希は困惑していた。目の前の現実を受け入れきれずに、未だ自分は夢の中に居るのではないかとすら思った。
けれど、これは紛れも無い現実で、実際に目の前に居る以上疑いようのない真実で。
「美鈴ちゃん、日向っていつもこうして稽古をしてたの…?」
だから優希は問いかけた、多分、自分よりもこの事に詳しいであろう美鈴へと。もしや、自分の知らない日向がそこに居るのではないか、そんな恐怖を抑えつけて。
そんな優希の懸念とは裏腹に、美鈴は案外あっけなく首を横に振った。
「いえ、優希さんも知っての通り、兄貴は稽古が嫌いです。なので基本的にサボっていたり、必要最低限で済ませます」
「じゃあ、何で日向は…」
「必要だったから、ですよ」
優希の疑問に対して、美鈴は端的に答え、続ける。
「兄貴がこうして早朝に稽古をするようになったのは、優希さんがうちに来た日の次の朝からです。あれで慎重な性格してますから、万が一に備えてって思ったんじゃないですか?」
「なら日向は…その、俺をのために?」
「それ以外で、あの兄貴が動くわけ無いですからね。愛されてますよ、優希さんは」
結局そのせいで初日は寝不足になってましたけど、と美鈴が皮肉交じりに言うが、しかしその時点で既に、優希に美鈴の声は届いていなかった。
彼女の意識は、汗を流しながら稽古を続ける日向のみに向けられている。日向の一挙手一投足に連動をするように感情が突き動かされる。もう、優希は彼から目が離せなかった。
一心に見つめ続ける優希を前に、美鈴は優しく見守っている。
「…知らなかった。日向が最初から、そんなに考えてくれてるなんて」
「表に出しませんからね、基本的に格好つけたがりなんです、あの人。…それで、これを踏まえた上で聞くんですけど」
そこで言葉を区切りながら、美鈴はにやりと悪戯な笑みを浮かべた。
「自覚、出来ました?」
「出来た、出来たけど…。心臓、壊れちゃいそう」
今にもはち切れんばかりに強く鳴る鼓動を抑える様に、優希が胸を抑える。
見事、美鈴の思惑は達成されたわけだが、しかしそれは彼女が思っていた以上の効果を上げてしまったようだった。
その顔は熟れた果実のように上気してしまっていて、熱に浮かされているかのように瞳は潤んでいる。
「今の優希さんの顔、兄貴に見せてあげたいくらいです」
「絶対無理、絶対見られたくない…」
扉に手を掛けて、中に居る日向を読んでしまいそうな勢いの美鈴を、優希は必死の形相で引き留める。
今の優希に日向とまともに顔を合わせられる自信は無い。自覚するたびに大きくなっているのではないかと思える程に膨らんだ優希の日向への気持ち。まるでこれこそが恋なのだと、毎度気づかされるようで、これからどうなるのかと、優希は不安に思えた。
そして、同時に感じる僅かな焦燥感、劣等感。ここ数日で、優希は自分と言う存在が大きく変わっている気がした。
「…でも、そう考えると優希さん、女の子になれてラッキーでしたね。多分性別関係なく、優希さんは兄貴に恋をしてたでしょうし」
「うん、日向は基本女好きだし…」
美鈴の言う通り、優希の性別が変わった件はあくまで切っ掛けで、いずれはこうなっていただろう。そして日向の趣向的にも、現在の優希の方が都合の良いのも事実だ。
優希もそう思い、なる程と頷くが、しかし美鈴はそれを手を振って否定した。
「あ、いえそうでは無くて。産めるじゃないですか、子供」
「…へ?子供…?」
未知の言語に遭遇したかのように優希がその単語を繰り返せば、美鈴もまた『はい、子供です』と軽く答える。
「な、何で子供なの?」
「え?だって、産む産まないに関わらず、産めるかどうかの選択肢があるのは重要じゃないですか。その点、アタシと優希さんがくっついてた場合は二人の子供が作れないので、意思に関わらずそこは諦めるしかなかったですし」
優希の質問の意図としては『飛躍し過ぎじゃない?』だったのだが、美鈴はそれにお構いなく優希の予想だにしない言葉を続けるモノだから、優希は嫌でも自分と日向の場合を想像してしまう。
既にオーバーヒート気味な所に更に重たい情報が次から次に放り込まれるため、優希は今にもパンクしてしまいそうであった。
「優希さんは知らなかったでしょうけど、ガールズトークって傍から聞くと結構えぐいらしいですよ」
「知りたくなかったよ!」
涙ながらの優希の切実な叫びを聞くのは、美鈴を除いて、空に浮かぶ白んだ月のみであった。
窓から朝日の差し込む廊下を、日向が湿った髪を乱雑にタオルで拭きながら歩いていた。
ふと彼は一つ大きな欠伸をして、目元に浮かんだ涙を拭う。まだまだ朝日より早く起きるという事に慣れていないようで、若干の眠気を感じているようだが、それでも稽古と朝風呂のおかげでかなりシャンとして見える。
そんな日向が小さく鼻から空気を吸い込めば、鼻腔をくすぐる食欲をくすぐる香りに、ぐぅと大きく彼の腹が鳴った。
香りからして今日は焼き魚だろうかなどと、おかずに当たりをつけながら軽い足取りで彼が向かったのは、親友が朝食を作っているであろうキッチンだ。
「おはよう、優希!今日の朝飯ってさ…!」
「ひゃい!?」
暖簾を潜ってテンション高めに声を掛けようとする日向だったが、帰って来たのはか細い悲鳴とたーんと包丁とまな板が大きく鳴る音であった。
思わず目を丸くする日向が見守る中、錆びたブリキ人形の様な仕草でぎこちなく振り返る優希は紅い顔で、これまたぎこちなく口を開く。
「お、おはよ、日向。どうしたの?」
「え?あー、今日の朝飯って何かなって、あとついでに運ぶの手伝おうと思ってさ。…ってか、お前顔赤くね?熱でもあんの?」
様子のおかしな優希を心配に思った日向がキッチンの中へと足を踏み入れる。すると、途端にびくりと優希は大げさに肩をびくつかせた。
「だ、大丈夫だから!朝ごはんもまだ時間かかるし、後で美鈴ちゃんも戻って来るから、日向は先に言ってて!」
「え、でもさ…」
「良いから、あっち行って!」
まるで懸命に威嚇する子猫の様な優希のあまりの勢いに押されるように、日向はあえなくキッチンの外へと追い出されてしまう。
そして、廊下でポツンと立ち尽くす日向。
優希の様子がおかしい、彼の思考はこの一点に向けられていた。一応彼にもその原因については心当たりがあった。そう、先日日向が優希を押し倒した一幕である。
しかし、あれは昨夜のうちに解決したはずである。ならばなぜ、知らず知らずの内にまたやらかしてしまったのか。
「…あれ?」
考えども考えども答えは出ない。
日向は一人、冷や汗を流しながら疑問の声を上げるのであった。