時計の針が11時を指し示す。
近衛日向は今日何度目かとなる覚悟を胸に決め、喉を鳴らしてからゆっくりと居間へと足を踏み入れた。そんな彼の視線の先に居るのは、美鈴と共に何やら話し込んでいる優希の姿。
「ゆ、優希?」
「ひゃっ…!」
恐る恐ると日向が声を掛けた所、優希は悲鳴を上げ、これでもかという程に肩を跳ねさせた。次いで振り返った彼女は急激に顔を赤面させて、ぱくぱくと無言のまま口を開閉している。
「ひ、日向…?」
「あのさ、ちょっと話がしたいだけなんだ。だから、優希…」
辛うじて日向の名前だけを口にする優希に対し、日向は細心の注意を払って言葉を選びながら、そっと一歩優希へと歩み寄る。
「っ…!」
途端、再び優希の肩が跳ねた。
それを目にした日向が咄嗟に足を止めるが、優希は何かを探すようにきょろきょろと視線を彷徨わせて、じりっと後ずさりをする。そんな彼女の身体は震えていて、日向にはそれが怯えている様に見えた。
優希は壁に掛けられた時計を視界に捉えると、はっと目を見開いて、焦り混じりに口を開く。
「お、俺、お昼ご飯の準備しないと!だから、また後で!」
それだけ言い残した彼女は、脱兎の如くその場を後にした。
「…」
そうして居間に残されたのはその場にポツンと立ち尽くす日向と、二人の様子を横から見守っていた美鈴。やがて、優希の足音すらも聞こえなくなった辺りで、彼女に逃げられる形となった日向はがくりと膝から崩れ落ちた。
日向がこうして優希に逃げられたのは、これで五度目である。
「…はぁ」
崩れ落ちた切り動かなくなってしまった兄を横目に、全てを察した美鈴は呆れたように大きく息を付いた。
近衛家のキッチンの中でトントンと包丁とまな板がぶつかる音が鳴り響く。
日向から逃げる様にこの場にやって来た優希は、絶賛自己嫌悪と愛及屋鳥の真っ最中で、それを発散するように黙々と調理を続けていた。
「…また、やっちゃった」
彼女が逃げてしまう理由としては至極単純で、今朝以来日向と話そうとすると羞恥や恋慕が膨れ上がってしまうためだ。いわゆる好き避けである。
完全に恋をしたと自覚できたのは良いものの、ここで優希の恋愛経験の薄さが仇となった。今まで恋を知らなかった彼女にとって、今回の日向が初恋となる。
恋とは往々にして人を狂わせてしまうものだ。それを完全にコントロールするのは至難の業、ましてや初恋ともなればその難易度は想像を絶する。
だが、優希にとっては『日向を避けてしまった』、これが全てである。彼女とて好きで避けている訳ではない。字面にしてはその通りであるのだが兎も角として、自分が避けることによって日向がどう思うかくらいは優希も想像がつく。
だからこその自己嫌悪。自分の感情のせいで日向を振り回してしまっているという自覚が、優希の心を蝕んでいた。
「優希さん、アタシも手伝いますよ」
ふと、後ろから聞こえてきた声に優希が振り返ると、いつの間にかキッチンにやってきていた美鈴が腕まくりをして傍に立っていた。
「美鈴ちゃん…。ごめんね、さっきはいきなり」
日向から距離を取るあまり、相談を持ち掛けていた筈の美鈴すら優希は置いて行ってしまった。其の事について詫びるが、しかし美鈴は首を横に振る。
「いえ、それは兄貴に言ってあげてください。あの勢いだとその内床に沈みかねませんから」
「うん…やっぱり日向、気にしてるよね」
手を止めた優希が若干俯いてその顔に影が落ちる。見るからに落ち込んでいる優希を前に、美鈴は今一度ため息をついた。
「まぁ、あれはタイミングが悪かったですね。まだ碌に話していない状態で乱入してくるんですから。ほんと、空気を読めているのか読めていないのか」
「あ、あはは…」
不服そうな顔で腕を組んで言う美鈴に苦笑を返す優希。つい先ほど、二人が居間で何をしていたかと言えば、優希が美鈴に相談を持ち掛けていたのだ。
日向の事を避けてしまう。それについて優希が話し終わって、美鈴が口を開きかけた所で当の日向がやって来た形となる。
今回の件についての美鈴の率直な感想としては、『惚気てるなー』である。それはそうだ、本人達はさておいて、傍から見れば何てことは無い順調な恋愛の一幕だ。とはいえ、焚きつけた当人である美鈴も少なからず現在の二人の状況については責任は感じている為、こうして真面目に相談に乗っている。
「で、先ほどの事も含めてアタシなりに考えてみたんですけど。優希さんは…」
そうして美鈴が話し始めた辺りで、聞き馴染のある慌ただしい足音が廊下から鳴り響き、間も無く暖簾が宙を舞い、日向がキッチンへと駆けこんできた。余程焦っているのか、美鈴すら見たことが無い程に彼は切羽の詰まった表情をしている。
「優希…!」
「わひゃっ!?」
先ほどの流れをなぞるように、日向が声を掛け優希が肩を跳ねさせる。その様子を見た美鈴は目を見開いて日向を見やった。
さほど時間が経っていないにも拘らずの日向の再アタック。ふと美鈴は日向の不屈の精神力を完全に失念していたことを悟った。しかし、またタイミングの悪い。最早見計らっているのではないかと、美鈴はつい疑ってしまう。
「俺が悪かった!謝るから、少しだけでも話を聞いてくれ…優希!」
「ちょっ…そんなに近づかないで…!」
美鈴がぼうっとしている間にも日向は優希の傍まで来ており、彼女の手を取って何とか話を聞いてもらおうと懇願している。
らしくも無く余裕の無い行動をとる日向であったが、それ以上に余裕が無いのが優希である。
ようやく落ち着いたばかりの優希に追い打ちをかけるようなこの状況。想い人に急に肉薄された彼女はぐるぐると目を回して、今にも倒れてしまいそうな程に混乱していた。
「昨日の事、お前が気にしてるのは分かってる。当然だ、それだけの事をしたんだから怖がられても文句は言えない。けど、俺がお前の事を大切に思ってるのは本当なんだ!どうか、償いをさせて欲しい!」
「そうじゃなくて…、そうじゃなくて…!」
完全にすれ違っている二人。さらに性質が悪いのが両者共にテンパってしまっていて、碌に会話が成立していない点だ。これでは先ほどの二の舞になる事間違い無しで、美鈴もそれを察していた。
「はい、そこでストップ!兄貴は焦り過ぎ。優希さんも、一旦落ち着いてください」
見かねた美鈴が声を掛けながら間に割って入る。優希を背にして日向と向かい合う美鈴。そんな彼女に、尚も日向は食って掛かる。
「美鈴、退いてくれ。俺は優希と話をしないと…!」
「ねぇ、兄貴さ」
美鈴を押しのけよとする日向であったが、しかし彼女から醸し出されるただならぬ雰囲気を感じ取り、思わずと言った形で口を噤む。
「昼過ぎくらいまで、外に出てって」
そう言ってにこりと浮かべられた美鈴の笑顔は、有無を言わさぬ気迫に満ちていた。
「…って、事があってさ。家から追い出された」
「そりゃ災難だったな、ひな坊!ほれ、コーラサービスしてやる」
快活な声と共に日向の座るカウンター席へと冷えた瓶とガラスのコップが置かれる。
日向と優希の行きつけのラーメン屋。家を追われて暑さから逃げるようにここへと避難してきていた日向は、まだ昼前で客が少ない事も有り、気を紛らわすように店主へと事の顛末を話していた。
「しっかしまぁ、ひな坊がそんだけ避けられるとはなぁ。ひな坊あの嬢ちゃんに何した?どうせセクハラでもしたんだろ」
「どうせってどういう意味だよおっちゃん。…それもあるだろうけど」
「あるんじゃねぇか。で、けどってのは?」
くっくっと喉を鳴らして笑う店主は洗い終わったラーメン皿を拭きながら、ずんと沈んでいる日向へと問いかける。
「…倒した」
「ん?悪いなひな坊、もう一度言ってくれるか?」
ぽつりと零された日向の言葉を上手く聞き取れず、今一度店主が問いかければ、日向は苦虫をかみつぶしたかの様な顔で言いなおす。
「だから…押し倒した」
それを聞いた店主の手からラーメン皿がつるりと滑り落ちた。
あわや地面に激突するかという所で、咄嗟にキャッチする事に成功する店主であったが、しかし上げられたその顔は驚愕に染まっていた。
「押し倒したってひな坊がか…!?いつの間にそんな肉食系になっちまったんだ」
「あれは仕方なかったんだって!…いや、仕方なくはないか…。何で俺はあんな事を…間違いなく怯えてんじゃねぇか…」
最早カウンターに潜り込んでしまいそうな程に日向が頭を落とす。
店主もここまで落ち込んでいる日向を見るのは久方ぶりである。そして、偶に日向がこうして落ち込んでいる時は、大抵優希がらみだった。
「ゆう坊以外でひな坊がそうなるのは珍しいな…。嬢ちゃん、名前はユキちゃんだったか。ひな坊にとって、ユキちゃんもゆう坊と同じくらい大切な存在なんだな」
「…まぁ、掛け替えのない存在って言えるくらいには、大切だよ。なのに、何でこうなるんだろうな…」
そして再び日向は額をカウンターに押し付けて、そのあまりの落ち込み様にさしもの店主も些か心配になって来る。
日向は大抵の事は上手くこなせる程度には器用である。勉強も、運動も、料理の様な家事だって大して苦労はしない。けれど、唯一優希に関する事となると如何にも上手くいかない事がある。特に優希が女性になってからはその傾向が強く出ていた。
日向に弱点があるとするならば、それは間違いなく優希だろう。故にそこを突かれる形の現在、日向は完全に参ってしまっていた。
「大切だからこそって奴か。今のひな坊を見てると昔を思い出すな…」
そう言って遠くを見つめる店主に、思わず日向も顔を上げて問いかける。
「…昔って?」
「あぁ、昔のな、常連に似たような事でよく悩んでるのが居たんだ。ちょっと恋人と口論になったくらいで、『どうしようどうしよう』って狼狽するような奴でな。丁度今のひな坊みたいだ」
昔を懐かしむ様な声音で話しながら日向を見る店主は、彼に誰かの面影を重ねていた。まるで心情が筒抜けになっているようで、日向は気恥ずかしさを感じながら、それを誤魔化すように頬杖を突いてふーんと鼻を鳴らす。
「こっちは恋人でも何でも無いけどな」
「似たようなもんだ、大切な相手に代わりねぇ。それとも、ひな坊はユキちゃんをそういう目で見てないってか?」
「…」
そういう目、とは恋愛対象として見ているかという意味だ。
仮に今ここに優希が居れば、間違いなく聞き耳を立てているであろう内容。暫しの間沈黙した後、日向はゆっくりと息を吐きだして口を開く。
「別に、どっちでも良いだろ」
目を閉じぶっきらぼうに答えると、日向はぐいと一気に冷えたコーラを煽った。
「かーっ!甘酸っぱいねぇ!こう見えてな、この店は何人ものカップルを生み出してきたんだ。勝機はあるぞひな坊!」
「古びたラーメン屋にそのジンクスは似合わなすぎじゃね?それに、俺はどっちだとも言って無いっての」
言いながら日向は小奇麗ながらも所々に年代を感じさせる店内へと目を向ける。
確かに青春の思い出に刻まれそうな場所ではあるが、それは確実に恋の様な甘酸っぱいものでは無く、どちらかと言えば汗臭いスポーツものの方の青春を想起させる。
「おうおう、言ってくれるねぇ。因みに、りゅう坊と楓嬢ちゃんもその中に含まれてるんだぞ?知らなかっただろ」
「うへー…両親のそっち系の話を子供にしないでくれよ。聞きたくないランキング断トツのトップだから」
「そう言えば告白もここで…」
「やめろ!?そんで親父もこんな所で告白すんなよ!?」
まさか過ぎる両親の秘話に日向が音を立てて椅子から立ち上がると、さも面白そうに店主が豪快な笑い声を上げた。
勘弁してほしいと苦々しい顔を歪める日向。そんな彼を見て、店主は思惑通りと言った風ににやりとした笑みを浮かべる。
「どうだ、少しは元気出たか?ひな坊」
店主の言葉を受けて、日向は思わず目を丸くした。
どうやら一杯食わされたようだと察すると共に、確かに少しは気が紛れたと自覚して、ようやく日向の顔が和らいだ。
「おいおいおっちゃん、何時からこんな器用な事出来るようになったんだよ」
「歳の功って奴だな、伊達に五十年生きてないってこった」
得意げに鳴らされた店主の鼻が伸びるのを日向は幻視した。なんだかんだと言いながら、この店主は昔から面倒見が良い。
日向の両親が学生の時には既にこの店の店主であった彼は、この地で世代の変化を見守って来た一人なのだ。
「ひな坊は元気な方が良い。変に考えすぎるから空回りするんだ、気楽に行っちまえ気楽に」
「軽く言ってくれるなー…。まぁでも、ありがとな、おっちゃん」
「良いってことよ。この年になると若者と話すのが生き甲斐になるからな、いつもの御礼代わりだ」
日向の周囲の空気が和らいだところで、入り口の扉が開いてぽつぽつと他の常連客が姿を見せだす。ふと時計を見てみればそろそろ短針と長針交差する時間帯で、日向の腹も空腹を訴えかけて来ていた。
「よし…俺そろそろ帰るわ。愚痴聞いて貰ってありがとな」
「ん、今日はラーメン食って行かねぇのか、替え玉サービスするぞ?」
席を立つ日向に店主はキョトンとした顔で手に持った湯切りザルを掲げて見せる。普段であれば日向も喜んで飛びつくが、しかし今はそうもいかない為に彼は首を横に振った。
「あぁ、家でゆう…ユキが飯作って待ってるからな」
それを聞いた途端、店主は吹き出し再び豪快に笑い声を上げる。
「なんでぇそのおしどり夫婦みたいな断り文句は!じゃああれだ、今度はユキちゃんも連れて一緒に来な、そしたら仲直り記念に炒飯と餃子をサービスだ」
「マジかよおっちゃん。分かった、近いうちにまた来るから、よろしく!」
羽振りの良すぎる店主に若干戦慄を覚えつつ、手を振って日向は店を出て行く。
まだ日向にとっては何も解決していないに等しい。けれど、彼の心はここに来た時と比べ、遥かに軽くなっていた。
日向の出て行った入り口の方を見ながら、店主は眩しそうにその目を細めていた。
彼はこれまで様々な世代、様々な人々がこの店に訪れて、それを見て来た。中には喜劇だけでなく、勿論悲劇だって少なからず存在したが、それでも若者たちの紡ぐ時間は彼に得難い感動を与えてくれている。
そして、関わって来た若者が子を為し、その子がまたこうして店に来てくれることは、何よりも喜ばしい事であった。
「おうおやっさん、なんかいい事でもあったのかい!」
「お、まぁそんなとこだ。少し懐かしい気持ちになってな。ほれ、りゅう坊と楓嬢ちゃん、そんで…」
常連の一人に声を掛けられた店主が応えていると、不意に入り口の扉が開いて一人の男が店に入って来る。
すると、彼の姿を目にした店主は途端に言葉を途切れさせて、目を大きく見開いた。店主だけではない。つい先ほどまで店内で話し込んでいた年配の常連客もまた、その男を見て言葉を止め、呆然としている。
「…ひっさしぶりだなー!!」
だが、それも束の間。誰かがそう男に声を掛けた瞬間、店内の常連客はわらわらと立ち寄って、口々に声を掛ける。
「元気だったかい!」
「ははっ、いつぶりだこの野郎!!」
「歳を取ったのう…!」
背中を叩かれたり群がられたりで、男は少し困ったように笑う。
そして、声を掛けようにも完全に囲まれてしまった彼の姿を見ながら、店主は『あぁ、そうだ!』と何やら突発的に思い出したように声を上げる。
ユキの顔を見た時からずっと感じていた違和感。前にあったことがある様な気がしていた、その疑問がようやく店主の中で瓦解する。
「ユキちゃんは、希嬢ちゃんにそっくりなんだ!」