焼けるような日差しが降り注ぐ中、汗を拭いながら坂道を上るのは近衛日向。ラーメン屋を後にした彼は、その足で真っ直ぐに自宅へと向かっていた。
(やっぱり、朝は強引に行き過ぎた)
そんな彼の思考を占めるのは、主に親友である優希に関して。どうすれば普段のように接することが出来るのか、道中それだけを考えながら日向は歩いている。
ラーメン屋の店主と話をして、ようやく落ち着きを取り戻した日向は幾らか冷静に状況を飲み込めており、それだけに今朝の自分がどれだけ焦っていたかを痛感させられていた。
(俺の事を怖がっているなら尚更、あれは逆効果だったな…。なら、どうするか。当然また俺から話しかけに行くのは論外として、優希が話しかけてくるのを待つべきか。そんで、話しかけてきたら出来るだけ優しく、焦らないように、かつ普段通りに…)
そこまで考えて、日向は思わず頭を抱えたくなった。
なにせ、基本的に日向は引っ張っていく側の人間だ。それを受け身にならざるを得ないこの状況、彼にとって不得意な領域である。
けれど、やらざるを得ないのが今だ。故に、日向は腹をくくる。彼にとって優先順位は自分よりも優希の方が遥かに上であった。とはいえ、変に気負い過ぎるのも逆効果であるとは先ほど店主に寄って気づかされた彼だ、あくまで変に自分から絡まないようにだけしようと、そう考えた彼の表情は幾らか和らいだ。
結論が出た所で、丁度日向は家の前へと到着する。到着して、日向は一旦足を止めて深呼吸を一つ入れた。その面持ちには緊張が滲んでいて、扉に掛けられた手は躊躇う様に震えている。
頭を振って迷いを振り払い、今度こそ日向は玄関の扉を開けた。
「ただいまー」
自分はここに居ると、暗に示すように少し声を張って言ってから家の中へと入る。
これで優希と不意に鉢合わせる事も無いだろう。そう考えつつも、やはり寂しいものは寂しいと若干落ち込みながら日向が靴を脱いでいると、不意に玄関へと近づいて来る足音に彼は気が付いた。
(お袋はいないから…まぁ、美鈴かな。ワンチャンまた腹パンもあるか…、思ってたよりあいつ力強かったんだよなー)
つい昨夜に食らった拳の衝撃を思い出して腹部を摩りつつ、日向はチラリと背後へと振り返り、そして動きを止めた。
彼の視線の先、そこに居たのは紛れも無い松江優希その人だった。
「おかえり、日向。お腹空いてるよね、もうご飯できてるから」
「お、おう…」
少し赤らんだ顔でそれだけ言い残して、たたっと小走りで走り去っていく優希を、呆然としながら日向が見送る。
今何が起こったのか、日向はまるで理解できていなかった。それだけ、優希の行動は日向の予想を軽く超えていて、それに彼は酷く驚いていた。
ただ、それ以上に。
「今日初めて、優希と会話が出来た…」
それ以上に日向が感じていたのは、極寒の中、胸に火が灯ったのではないかと思う程に暖かな安堵であった。
時間は遡って、日向が涙ながらに家を飛び出した後。近衛家のキッチンでは優希と美鈴の二人が並んで料理をしていた。
「いやー…思った以上に重症ですね」
「うぅ、ごめん…」
日向に声を掛けられた際の優希の反応を思い返しながら、しみじみといった風に美鈴が言えば、がくりと優希は肩を落として申し訳なさそうに眉を八の字にする。
日向が好きだからと言って美鈴を振っておいて、この体たらく。優希自身思う所があるが、けれど美鈴は気にしていないとばかりに首を横に振った。
「そう言うのはアタシではなく兄貴に言ってあげてください。優希さんに避けられて、結構効いてると思うので。…まぁ、今はそれよりも現状の解決の方が先ですね」
トンとひときわ大きな音を立てて美鈴の握る包丁が動きを止める。そして彼女が隣の優希へと視線を向けると、優希も手を止めてそのままこくりと頷いた。
「取り合えず兄貴は外に出て頭も冷えるでしょうから、そっちは置いておいて、まずは優希さんです。どうしても恥ずかしいですか?」
「うん…、普通にしようとは思うんだけど、いざ目の前に来られるとやっぱり」
顔を俯かせる優希に、どうしたものかと美鈴が腕を組んで宙を仰ぐ。
こうして相談に乗ってはいるものの、美鈴とて経験が豊富という訳ではない。それこそ5年以上のキャリアはあるが、それらはすべて優希一人に向けられたものであり、長い初恋一つが彼女の持つ経験の全てであった。
「…あ、ならこう考えるとどうですか?」
暫しの熟考の後、ポンと手を打った美鈴が思いついたように口を開く。
「こうって?」
「はい、優希さん、ちょっと目を閉じて兄貴の事を想い浮かべて見て下さい」
言われるがままに瞼を下ろして、日向の顔を思い浮かべる優希。ただそれだけで彼女の頬が軽く紅潮するが、しかしまだ堪えられる範囲と言った様子だ。
それを確認して、美鈴は次のステップへと進む。
「良いですか?では、そのままキスをしてみましょう」
「…キ!?ちょっと、美鈴ちゃん!」
一瞬想像しかけて、違和感に気が付いた優希が驚愕して抗議するように声を上げる。
奇しくも今朝見た夢とニアミスな内容で、頭から煙が出たと錯覚するほどに動揺する優希を見て、美鈴はくすくすと悪戯に成功した子供の様に笑い声を漏らす。
「す、すみません、良い反応が返って来るから、つい。まぁ今のは冗談として、今度こそ次行きましょう次。だからそんなに頬を膨らませないで下さい、可愛いだけですよ」
「かわっ…もう、また揶揄ってる…」
更に頬を膨らませそうになる優希に、こちらもまた更ににんまりと笑みを深めそうになる美鈴であったが、これでは話が進まないと一つ咳ばらいを入れて話題を戻す。
「改めまして、優希さん次に兄貴と仲良くしてる自分を想像して見て下さい。と言っても、普段通りの自分たちで良いですけど。いつもみたいに仲良く遊んでる姿で」
「うん」
再度想像する優希の脳裏に浮かぶのは、共にゲームをしたり漫画を読んだりしている日向と自分の姿。今にしてみれば、それは優希にとって羨ましい事この上ない光景であった。
「で、次に自分から離れて一人でいる兄貴の姿、これが現状ですね。…そこから、自分の知らない女の人とさっきの優希さんみたいに仲良くしている兄貴の姿を想像して下さい」
「…」
美鈴の言葉に従って段階を経るにつれて、どんどんと優希の顔は曇って行き、果てには今にも泣きだしてしまいそうな程に顔が歪み始めた。
チクリと微かな罪悪感が美鈴の胸に刺さるが、必要な事だと割り切って彼女は続ける。
「このまま優希さんが兄貴の事を避け続けると、本当にこうなっちゃいますよ?」
今度は悪戯な笑みではない、真面目な表情で釘を刺してくる美鈴に、優希は何も言葉が返せず、ただその恐ろしい未来にどくりと気持ち悪く心臓が鳴った。
「それは…嫌だ…」
「ですよね。優希さんがそうならない為の方法が一つあるんですけど、聞きますか?」
何とか声に出した本音を反映した優希の言葉を聞いた美鈴は一転して微笑んで、優希はそんな彼女の話に同意を示す様、こくこくと小刻みに頷いた。
居間へと入った日向は、ぽかんと目を丸くして食卓に並んだ料理たちを眺めていた。
魚の煮つけ、ほうれん草のお浸し、具沢山の豚汁。どれもが日向の好物で、特にリクエストをした記憶も無いのに、それらが揃っている。
「日向、外暑かったよね」
固まっている日向に対して、横から優希が声を掛ける。同時に彼の方へ差し出されたのは氷の浮かぶ麦茶の入ったコップ。
「さ、サンキュ、優希…」
「うん。すぐにお米も持って来るから、日向は座って待ってて?」
そう言って、日向を座らせると足早に居間を出て行く優希。その背を見送った日向は、呆然としたまま手に持ったコップをまじまじと見つめる。
避けられている、怖がられている。これが今朝からの優希を見た日向の彼女の行動に対する結論であった。しかし、帰って来てからというものそう言った素振りが一切見えない。
故に、安堵を通り越して、彼は今ただただ困惑していた。
「気のせいだったか…?いや、まだ早いな。美鈴となんか話してたっぽいし、あんまり態度に出さないようにしているだけの可能性もある…。いや、でも本当に…?」
日向が自分の記憶に自信を持てなくなってきた辺りで、美鈴と優希が茶碗を乗せた盆を持って帰って来て、そのまま三人で昼食となる。
食事中、向かい側に座る優希を浮かぶ疑問のままにジッと見つめそうになる日向であったが、しかしそこはぐっと堪えて黙々と料理を食べ進める。
通常であれば日向がしゃべらずとも美鈴が話題を振るが、今日はそれも無く、その場は珍しく沈黙に包まれていた。
「…ん」
黙々と食べていれば箸が進むのも早いもので、すぐに日向の茶碗が空となった。とはいえ、まだ若者の胃袋的には足りないようで、お替りを求めて日向が立ち上がりかけるが、それよりも早く立ち上がる一人の少女。
「あ、日向。俺がご飯よそってくるから、お茶碗貸して?」
「え、良いの?サンキュ…」
日向が目を丸くしながら茶碗を差し出せば優希はそれを受け取って居間を出て行く。
彼女が戻って来るまでの間、一体何が起こっているのかと、日向はつい美鈴を見やるが、彼女は何も話すつもりは無いようでつんとそっぽを向いて目を逸らしてしまう。
そうこうしている内に優希が戻って来て日向に白米の盛られた茶碗を手渡す。
この時点で既に日向の困惑は殆ど頂点に達していたのだが、しかしここで日向の予想外な優希の行動は終わりはしなかった。
「もう氷無くなったね、足してくるから少し待ってて。あと新しい麦茶も持って来るから」
「まだ煮つけもあるから、お替り欲しかったら言って?」
「お米もう無くなりそう?よそって来ようか?」
鋭敏に日向の行動を察知しては世話を焼こうとする優希。これには流石に日向も彼女に何かあったと確信する。
もしや機嫌を取ろうとしているのか、怖がっているから。そう考えるも、もしそうなら美鈴から鉄拳制裁がある筈と、前提を悉く否定する現状に日向は首を傾げる他ない。
そもそも優希の様子からして怖がっている風には見えないのだから、最初から前提は否定されてはいた。
「…あのさ、優希」
二度目、日向の茶碗を持って白米をよそいに行こうとする優希に、咄嗟にという形で日向が声を掛ける。
「えっと、どうしたの?煮つけもお替りする?」
「あ、いや、そうじゃなくて…」
特に何も考えず、反射的に声を掛けたがために続く言葉が出ず、日向は二の足を踏む。
「そう、今日の料理も滅茶苦茶美味いよな!流石優希だぜ、美味すぎて米が止まらないのなんのって…!」
結果、日向の口を突いて出たのはそんな感想だった。咄嗟に出たにしては誤魔化し方として悪くは無い。日向はそう自負するが、けれど優希から返事が返ってこない事に気付いて、ふと彼女に目をやる。
「…」
そして彼の視界に映ったのは無言のまま顔を俯かせる優希の姿だった。彼女はそのまま立ちすくんでいたかと思うと、日向が声を掛ける間も無く、居間を駆け出て行ってしまう。
「…美鈴?」
「アタシは何も答える気は無いから。これは兄貴の問題でしょ」
突き放すように言われて、頼みの綱を失った日向は途方に暮れる。
美鈴が何もアクションを起こさない時点で、彼女が事情を把握しているのは日向も察していた。そんな彼女がこうも頑なに何も答えないと言う以上、それは真実なのだろうと日向も納得せざるを得ない。
結果、日向に残されたのは何も分からないと言う現実のみであった。
「日向、お待たせ…!」
それから少しして、優希がそんな声と共に戻って来る。
「サンキュ…ん?」
礼を言いながら手渡された茶碗を受け取った日向は、しかし左手に感じるずっしりとした重みと、目の前にこんもりと山の様に盛られた白米を目の前に、疑問の声を上げぽかんと口を開く。
「あと、これ煮つけのお替り。それとお浸しももう少しあって、豚汁も今温め直してるから」
「お、おう…ありがと、優希」
何処かテンション高めに目を輝かせながら捲し立ててくる優希を前に、キョトンとした顔で日向は辛うじてそれだけ答える。
(…もう、訳分かんね)
ラーメン屋の店主が言う通り、日向は難しく考える事を放棄した。
「…日向を落とす?」
ぽつりとした優希の呟きがキッチンの中に響き渡る。そんな優希に対し、美鈴は大仰に頷いて見せた。
「そうです、これこそ恋の本懐。意中の相手が他所に行ってしまうのが嫌なら、自分に釘付けにしてしまえば良いんです。ついでに荒療治にもなって一石二鳥ですよ」
「言ってる事は分かるけど…俺に出来るかな…」
その優希の言葉には二重の意味が込められていた。一つは本当に日向を落とせるのか、もう一つはそもそも実行できるのか。
しかし、そこは厳しい美鈴。『何を言っているんですか!』と彼女は弱気な優希に激励の言葉を送る。
「優希さんなら出来ますよ、それはアタシが保証します。あとは一歩踏み出すだけです」
「一歩…」
復唱する優希の瞳に確かな覚悟が浮かぶ。
美鈴と話していて、彼女もまた日向を誰にも取られたくない、そんな自分の想いを自覚していた。だからこそ、自分は進まないといけないのだと彼女は深く理解した。
「うん、やってみる」
優希が力強く頷けば、美鈴もそれを見て満足そうに笑みを浮かべた。
「でも、具体的に何をすればいいんだろ…。それ以前に、まずは普通に話せるようにはならないとだけど」
と言うのも、優希自身誰かに恋をするというのはこれが初めてであるため、勝手が分かる筈も無い。それに対して、美鈴もまた唸り声をあげて考え込む。
「そうですね…、王道で行きますと胃袋を掴むとかはどうですか?丁度料理の最中ですし、まだ献立は変えれそうですけど」
「それ、良いかも!じゃあ、日向の好きな魚の煮つけに、切った野菜は豚汁の具材にして、それから…」
方向性が決まるや否や、料理に関しては得意な優希は、今済ませた下ごしらえを含めてメニューを決めていく。
そんな彼女の姿を見つつ、美鈴は何やら気が付いたようにハッと息を呑む。
(あ、そもそも兄貴はもう優希さんに胃袋掴まれてるかも…)
既に目的が達成されている可能性は、そっと胸の内に仕舞って。まぁ、更に掴むのもいいのではないかと結論付けて、美鈴は優希を手伝うべく腕まくりをするのであった。
かちゃりと音を立てて玄関の鍵が回る。
ドアノブを捻って扉を開ければ、差し込んだ日差しが部屋の中を照らした。久しぶりの光景に何処か懐かしさを感じながら、部屋に入ってきょろきょろと辺りを見渡す。
少し変わったようで、あまり変わってないそこに感じる、わずかな違和感。
開けられた段ボールの箱、外に出された小さめの服。そこに誰も居ない事を確認して、ほっとしたような、焦る様などちらとも言えない感情を抱きながら、腰を下ろして携帯を開く。
昔、それこそ十年以上前、四人で映った写真を表示して、祈る様に、許しを請う様に、頭を下げる。
意味をなさない事は分かっている、けれど、どうしてもそうせずにはいられなかった。